「乱馬のばかーっ!!」
あかねの罵声と共に飛んできたビンタは乱馬の頬を打った。
きっと睨み返すと、目に溜め込んだ涙が飛んだ。
一瞬止まった二人の時間。
いたたまれなくなったのか、あかねは背を向けるとぱらぱらと降り出した雨の中を飛び出した。
「あかね…。」
怒鳴り返す言葉も咽喉元で止まり、乱馬は打たれた左頬に手をやった。
振り出した雨はいきなり雨脚を強めた。バラバラと叩きつけるように激しさを増す。遠雷の音がする。この季節には珍しい夕立であった。
乱馬はただ呆然とあかねの去った方へ目を向けていた。
「俺が何したっていうんだよ…。」
言葉とは裏腹に強烈に胸が痛んだ。泣きながら駆けて行ったあかねをぼんやりと見送りながら、自分もまた雨の中へと足を踏み出した。
勿論、傘など持ち合わせていない。よしんば持っていたとしても広げなかったであろうが。
乱馬の身体はみるみる縮んで少女の身体へと変化を遂げる。髪も服も靴も全てびしょ濡れになってゆく。傍らを物凄い勢いで飛ばしてゆく乗用車の跳ねた水が身体にかかる。そんなことも気にならないほど、乱馬は雨に打たれて当てもなく歩き出した。
秋の夕暮れは早い。こんな天気の日は尚更だ。まだ五時前だというのに、辺りは暗闇が支配し始めていた。アスファルトの路面が、点きはじめた電灯の光を跳ね返して虚ろに光っている。
ぼんやりと、あかねのことに思いを巡らせて行く。
いつものように一緒に肩を並べて校門を出たのはつい半時ほど前。別に申し合わせた訳ではないが、大抵一緒に帰宅に就いている。今日もそう。
学園祭が近いこともあって、クラスメイトたちとその作業に余念がない、そんな放課後を過ごした後だった。
「そんな泣くようなことなのかよ…。」
乱馬は雨の中、手に握り締めた小さなマスコットを取り出してみた。すっかりくたびれたその小さな人形は哀しげにこちらを見ているような気がした。かなりの年代ものらしく、そこここすすけて顔も黒くなっていた。
この前からあかねはその人形を嬉しそうに鞄の横につけていた。あかねが作った不器用な作品かと彼は思っていたのだが。
さっき、この人形を繋ぎとめていた糸がぷっつんと切れて道へ転がった。糸も擦り切れて限界だったのだろう。あかねは慌ててそれを拾いに入る。その時、無用心にも乱馬は人形を踏みそうになってしまった。決してわざとではない。下に注意など払っていなかった彼は、人形が転がったことに気がつかなかっただけである。
『あん、待ってっ!踏まないでっ!!』
あかねは身を乗り出して乱馬の行く手を制した。
『っと…。何だよ、急に…。』
『人形が落っこちちゃったのよ。拾うから待ってて。』
そう言いながらあかねは屈み込んだ。
『人形ねえ…。そんな古びた人形持つなんて…。おめえも変わってんな…。』
乱馬にしてみればいつもの喧嘩の乗りだった。
だが、意外にもあかねはいつもよりムキになっていた。
きっと乱馬を睨み返してくる。乱馬にしたら、挑発されたらもっと面白がるといういじめっ子の典型的な心理が働いてしまった。こいつがいけなかた。
『それってもしかしておめえが作ったもんだとか?相変わらず不器用だな…。そんなもの後生大事に持ち歩いていたって…。』
面白おかしそうにあかねが拾い上げる前にひょいっと自分で持ち上げた。
見れば見るほど古びていてしかも拙い。
『ホントにおめえは不器用だな…』
言い終わらないうちに飛んできた猛烈ビンタであった。
何がそんなに機嫌を損ねてしまったのか。乱馬には理解できなかった。が、確かにわかることは、あかねを相当に傷つけてしまったということだ。
釈然としないまま乱馬は雨に打たれながら家路に就いた。
「あらあら、乱馬くんまでずぶ濡れになって…。」
奥からかすみがタオルを持って現れた。
「乱馬くんの場合は厄介よね…。濡れると女に変身しちゃうんだもの…。」
先に帰宅していたなびきが後ろからひょいっと覗き込む。顔つきがニヤニヤしている。
「あかねと喧嘩したんでしょう?あの子、濡れたまま二階へ上がって行ったわよ。あとでちゃんとフォローしておかないと…。また二、三日気まずい雰囲気で過ごさなきゃならないから私たちも困るのよ…だから、しっかりね…。」
「そんなんじゃねーやっ!!」
乱馬はなびきの言い方にカチンときたのか無愛想に吐き出した。
「とにかく、シャワーを浴びてらっしゃいな…。男に戻ってからの方がいいんじゃないかしら…ね?」
凡そどんな争いごとからも一番遠い存在のかすみがのほほんと言った。
乱馬はかすみに促されるままにシャワーを浴びに風呂場へ直通した。
濡れた上着とズボンを乱暴に脱ぎ捨てて浴室へ入る。少し肌寒いような気がした。季節はもうシャワーだけですむような暖かい時期を過ぎかけているのだろうか。鳥肌がざっと立つような有様だった。誰も使った気配がない浴室。
「あかねの奴、シャワー浴びてねえのか…。」
乱馬は蛇口を回しながら思った。
「ぶわっ!冷てえっ!!」
温度調節を失敗して、最初に浴びたのは真水だった。慌てて湯に設定しなおす。湯気がもこもこと湧きあがりながらお湯が蛇口から流れてきた。彼の身体はみるみる本来の姿へと転じはじめる。
一息ついたところで、かすみが扉の向こうから声をかけてきた。
「着替えここに置いておきますからね…・。」
「あ、ありがとうございます。」
窓越しに礼を言う。
「あら…。このお人形さん…。」
かすみは傍らに置かれていた件の人形を見つけたらしく、ぽそっと言葉を発した。
「懐かしいわ…。」
意外な声が響いた。
「懐かしいって…?」
乱馬は流れていたシャワーの湯を止めて、反射的にかすみに言葉を返していた。かすみは件(くだん)の人形の存在を知っているようだ。
「これね、確か、お母さんがまだ元気だったころに、一緒に針仕事しながら、作ったものなのよ…。これはあかねの人形ね。あらあら…。まだ残っていたのね…。」
乱馬は心臓がズキンと唸るのを感じた。あかねの母はもう他界してこの家には居ない。
「じゃあ、湯冷めしないようにね…。乱馬くん…。」
かすみはそう告げると脱衣所から出て行った。
「母さんとの思い出の人形だったのか…。」
乱馬の胸には複雑な思いが去来し始めていた。あかねがあんなに怒ったのも当然かもしれない。知らなかったこととはいえ、不用意な己の言葉はかなり彼女を傷つけてしまったはずだ。
そう思うと居ても立っても居られなかった。
乱暴に身体を洗うと、ざっと流した。
大急ぎで着替えると、脱衣所を出た。そこで、母親ののどかと顔を合わせた。
「乱馬…。あかねちゃんなら、今はダメよ…。」
にこっと笑いながら呼び止める。
「え?」
乱馬は呼び止められて不思議そうに母を見た。
「どうも、風邪をひいちゃったみたいで…。さっき熱を測りに行ったら八度あったの。安静にしなさいって寝かしてきたところだから・・。いろいろ話したいことはあるのでしょうけど…。ね。」
母親はさすがというか。二人の間に何か衝突があったことを薄々察していたようだ。
乱馬は仕方なく、のどかの言うとおりに従った。
(そういえば、あいつ、今朝方からくしゅんとやっていたっけ。そんな中、さっき雨に打たれたのが駄目押しにだろうな…。)
重い時間が流れていった。
乱馬は己の軽薄さを罵った。
夕食の時も団欒の時も、あかねのいない茶の間は色のない無味乾燥な空間に見えた。
夕方から振り出した雨は止む気配もなく本降りになってしまったようだ。雨脚は激しく、ばらばらと屋根を打ち付けてゆく。長袖一枚でもなんとなく肌寒い秋の雨だった。
砂を食むように夕食を平らげると、乱馬は逃げるように自分の部屋へと上がって行った。
どさっと床に身を投げ出しぼんやりと考えを巡らす。人形を蛍光灯に透かして見てみる。
きっとこの人形は幼い日のあかねが一所懸命に母と作り上げた至上の宝物なのだろう。人形は哀しげに乱馬を見ていた。
やがて彼は何を思ったのか、ごそごそと押入れを物色し始めた。
(確か、この辺にあったと思ったんだけど…。)
天道家にきてかれこれ年月が随分流れた。でも、左程自分の持ち物を持っているわけではない。なので目的のものを探し出すのにそんなに時間はかからなかった。
「あった…。」
彼が手にしたのは、子供の頃、修行に入った山で見つけた石ころだった。ただの石ではない。小ぶりだが良く見ると小さな貝が入っている。そう、化石だった。
見つけたときは不思議だった。山の中に何故海の生物の痕跡があるのか。幼い彼には理解できなかった。でも、なんだかとても嬉しくなった。それからは巾着袋に入れて持ち歩いた。父との辛い修行でくじけかけたとき、取り出して見ては涙を堪えた。そんな思い出もある。
そう、それは幼き日の乱馬のちょっとした宝物だったのだ。
「宝物の思い出、壊しちまったからな…。」
宝物を傷つけたのだったら宝物で。短絡的な発送だったが、この小さな化石で贖罪したいと思ったのである。
皆が寝静まった後、乱馬はこっそりとあかねの部屋の前に佇んでいた。前と言ってもドアではない。外側のガラス窓の方だ。
あんなに降っていた雨は上がり、瓦が濡れて光っていた。女に変身しないようにスリッパを引っかけて出てきた。月が遥か天井から乱馬の姿を面白おかしく照らしている。
半月に近い半端な月。
正面切ってあかねの部屋へ入るのは躊躇いがあった。乱馬は瓦屋根を伝って窓からあかねの部屋を覗いた。
とっくに部屋の明かりは消えている。あかねはどんな夢を見ているのだろう。
乱馬は意を決したように、窓ガラスに手を掛けた。
そっと音をたてないように引き戸を開ける。レースのカーテンが風に靡いて揺れた。
秋の夜の冷気と共に乱馬はこっそりとあかねの部屋へ侵入を果たした。見つかったら夜這い呼ばわりされて顰蹙ものだろう。あかねが起きないように気配を消した。
あかねは熱っぽい身体を持て余しているのだろうか。頭から蒲団をすっぽりとかぶり眠っていた。飲んだ頓服が利いているのか起きる素振りもなかった。
乱馬はゆっくりと息を吐き出すと、枕元に人形をそっと置いた。
そして、その横に握ってきた化石も一緒に並べた。
それからあかねの寝顔をそっと覗き込む。涙の後が頬にある。それをつけたのは自分だと思うと乱馬の心はズキンと痛んだ。
「ごめんな…。あかね…。」
凡そ起きている時は正面切って言えない言葉。乱馬はそっとあかねに言った。そして涙の後に触れる唇。月明かりに照らされた彼女の顔がくすぐったそうに一瞬だけ微笑んだように見えた。
乱馬はそっと彼女から離れると、元来た道を通って己の部屋へ帰った。
翌朝。
あかねは元気良く茶の間に現れた。
「もうすっかり気分はいいの?あかねちゃん。」
のどかがにっこり笑いながら迎えた。
「ご心配おかけしましたっ!もう大丈夫です。」
あかねは清々しい笑顔を手向けた。
「ねえ、乱馬くんは?」
なびきが問うと
「今日は朝稽古してなかったなあ…。まだ眠っとるかな…。」
と早雲が答える。
「しょうがない奴じゃっ!どら、ちょっくら行って起こして来るかの…。」
玄馬が起き上がろうとしたのを制して、
「いいわ。あたしが起こしてくるっ。」
あかねがそう言って二階へ駆け上がっていった。
「あらあら…。昨日はあんなに落ち込んでいたのに…。何かいいことあったのかな…」
となびき。
「ご機嫌ね、あかねちゃん。」
かすみが朝御飯を運びながらにこやかにあかねの後姿を追った。
案の定乱馬はまだ夢の中にいた。蒲団をかぶって高いびき。夜中からずっと起きていたのだから当然ではあったが。
あかねは乱馬の前にすっくと立つと、にっこりと笑った。
「ホント、しょうがないんだから…。でも、ありがと…。気を遣ってくれたのよね…。」
枕元にひっそりと置かれていた人形と化石。そして「ごめん」と一言乱雑に書かれた乱馬の走り書き。昨日傷ついた分以上に癒されている自分がいた。
あかねはすっと息を吸い込むと一気にまくしたてた。
「乱馬っ!!朝よっ!起きなさいっ!!」
「うん…。もうちょっと…。」
甘えるような声が響く。まだ寝とぼけている様子。
「もう…。早く起きなさいって。」
乱馬の蒲団をはぎにかかる。
「あと一分で良いから…。」
それでも乱馬は抵抗する。
「いいわよ…。起きないんだったら…。」
そう言うとあかねはにっこりと微笑んだ。
そして乱馬の唇に自分の唇を当ててくちづけた。
「!!」
ふわっとした柔らかい感触に、途端、乱馬は跳ね起きた…。
「あ、あかね…?」
みるみる真っ赤になる乱馬。
「昨日の晩のお礼よ…。これでおあいこね…。」
目の前には悪戯っぽく笑う彼女がいた。ひょっとして昨日の夜のキスのことがばれているのだろうか。
「さ、早く朝ご飯食べないと…遅刻しちゃうわよっ!!」
あかねは愉快そうに声をあげると、さっさと部屋から出て行った。
取り残された彼は全身が硬直して、暫く動くことが出来なかった。彼自身が大きな化石になったように。
窓から差し込む太陽は、そんな彼を笑いながら照らし出した。
雨上がりの朝露は、眩しいくらい光り輝いていた。
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