◇DAYS OF NIGHTMARE 8
柳井桐竹さま作



――“てめえ”の強さに何の意味があるってんだ!?

――うるせえ・・・

――結局大事な女一人さえ守れなかったじゃねえか!

――だまれ・・・

――あいつの言うとおりじゃねえか?優柔不断で、最低で・・・はんっ!嫌われて当然じゃねえか!!

――“てめえ”に何が分かるってんだよ・・・

――分かるさ。“俺”は“お前”なんだからな


――なんだったらもう一度見てみるか?“てめえ”が、“俺”が“守りきれなかった瞬間”を!―――





DAYS OF NIGHTMARE
     第8章 悪夢〜夢に廻る現実





早朝の練馬区のとある公園で。
1人の男が、ふてくされた様子でベンチに腰掛けていた。
「けっ!俺が何したってんでい!?」
朝の爽やかな空気からは明らかにかけ離れた、じめじめした気を発しながら、その男・早乙女乱馬は何事か悪態をついていた。
その様子は明らかに不審なものではあったが、いくら都内とはいえ朝も早くから公園をうろつく人間などそうは存在しなかったため、乱馬にとっては幸運なことにも、その姿を誰かに目撃されるということはなかった。


そもそも、なぜ乱馬がこんな朝早くから公園のベンチで、悪態をたれることになったのかというと。
先日夜半のあかねとのケンカが原因だった。
許婚の解消を口にしてしまった大ゲンカの後、乱馬は結局一睡もせぬまま朝を迎える羽目になっていた。
早乙女一家の寝室に戻る気にもなれず、道場でぼんやりしていたら朝になっていたとも言える。
とにかく、ふと乱馬が我に返ると、もうスズメもさえずる時刻になっていた。
許婚が解消されるほどのケンカをした朝からあかねに出くわすのも、どうにも居心地が悪く感じた乱馬は、あかねの傍から離れたい一心で天道家から離れたのだった。
乱馬にしては、非常に珍しい心情だった。
それくらい昨日の許婚解消と、あかねの「だいっ嫌い」の一言が堪えていた。
家を出る際、のどかと鉢合わせしてしまい、朝早くから乱馬が起きていることを不審がられはしたが、助っ人をしている部活の朝練だとか何とか言って、どうにか誤魔化していた。


そんなこんなで、朝から公園のベンチでぶつぶつ文句を垂れていた乱馬だったが、背後から近づいてくる気に振り返った。
途端、気の正体が乱馬の眼に飛び込んできた。
「良牙・・・」
ベンチから飛び離れ、身構えにかかった乱馬に、良牙が口を開いた。
「貴様、こんなところで何してるんだ?」
その口調は、幾分覇気が抜けているように感じられた。
「てめえこそ、なんでここに居るんだよ!?」
「・・・あかねさんに謝れ」
「・・・は?」
唐突な良牙の言葉に、思わず乱馬は返す言葉を見つけられなかった。
「あかねさんに謝れっつったんだよ!」
「なんで俺が謝んなくちゃいけねーんだよ!!」
「ふざけるな!あかねさんを泣かせておいて!?」
「んな!」
黙り込んだ乱馬に、良牙は容赦なく追い討ちをかけてきた。
「てめえのくだらねえ嫉妬で、あかねさんを傷つけてんじゃねえよ!
 許婚の解消まで言い出しやがって!!
 どれだけあかねさんが悲しんでると思ってやがるんだ!?」
良牙の話を黙って聞いていた乱馬だったが、次第にその顔を引きつらせていった。
「おとなしく話を聞いてりゃ、好き勝手なコト言いやがって!そもそも諸悪の根源はてめえじゃねえか!?」
乱馬の発言が、良牙を更に激昂させた。
「ふざけるな!よしんば貴様の言うとおりだとしても、あかねさんを泣かしたのは、乱馬、貴様だろうが!!」
「うるせえ!てめえにそんなこと言われる筋合いはねえよ!」
分かってはいた。
くだらない嫉妬を抱いていたことも、自分があかねを泣かせたことも。
良牙に言われるまでも無く、全部分かっていた。
本当の、諸悪の根源が誰なのかを。
それでも、この男にだけはそれを認めたくなかった。
数少ない自分のライバルの一人である、この男にだけは認めたくなかった。
「許婚の解消まで言いだしやがって・・・あかねさんがどれ程苦しんでいるのか貴様、分かっているのか!?」
「るせえ!許婚の解消を言いだしたのはあかねの方じゃねえか!?
それ以前に、なんでてめえに俺とあかねの問題を口出しされなきゃならねえんだよ!?」
乱馬とあかねの許婚解消は、少なくともあかねに横恋慕する良牙にとって、好都合の筈だった。
それなのに、まるで許婚解消が自分にとっても不幸なことであるかのように怒り狂っている良牙の態度は、逆上した乱馬の頭でも幾分かの違和感を感じさせた。
良牙は震える声で言葉を紡ぎはじめた。
「貴様に俺のこの切ない気持ちが分かるとは思っとらんが、その言い草は許せん・・・ましてや許婚の解消をあかねさんのせいにするとは・・・」
許すまじ!と言い切った良牙の眼に涙がたまっていた理由は、乱馬の理解の範疇を完全に越えていた。
それでも、そう言うや否や殴りかかってきた良牙に、素直に殴られる理由は、乱馬にとって一切なかった。
むしろ、良牙の言い掛かりとしか思えなかった。
「ふざけやがって!覚悟は出来てるんだろーな!?」
「それはこっちのセリフだ!乱馬、覚悟しやがれ!!」
こうして、昨夜に続いて、早朝から乱闘の第二ラウンドが開始された。
乱闘が乱馬の辛勝という形で終結し、とりあえずの応急手当を済ました後、乱馬が慌てて学校に飛び込んだ頃には、既に遅刻寸前の時間になってしまっていた。



放課後。
乱馬は一人、天道家への道を歩いていた。
いつもならばケンカをしていても一緒に帰っているあかねを、今日は無視して学校に放ってきていた。
あかねが、一日中乱馬のことを無視してきたからだ。
最も、乱馬は乱馬で一日中あかねのことをシカトしていたのだから、人のことを言えた義理ではなかったのだが。

そもそも、遅刻寸前に登校してきたときには、あかねの視線を感じていたのだ。
が、良牙と派手にケンカした直後の苛立った精神状態のままあかねに話しかけたとしても、話がこじれるのが目に見えていた。
だから、あえて無視したのだった。
ようやく気が静まった頃に、あかねに話しかけようと眼を向けたところ、あかねのほうから目を逸らされたのだ。
乱馬曰くの「かわいくない」その態度に、衝撃と共に、乱馬の中で静まったはずの怒りが再燃した。
それ以後は、意固地になってしまい、思わずといった感じで、無視を続けてしまった。
あかねはあかねで、乱馬の視線を極力避けている感じだった。
そんなあかねの態度が、乱馬をますます苛立たせた。
(誰が謝るかってんだ!)
昼休みが始まるころには、完全に意地を張ってしまっていた。

それでも。
(俺が言いすぎた・・・んだよな)
乱馬は乱馬であかねを傷つけたことが分かっていたから。
(やっぱ・・・まだ怒ってるよな)
一人で歩く帰り道で、乱馬はそんなことを考えていた。
帰り道を歩きながら色々考えていた乱馬だったが、どうにも考えが煮詰まってしまったらしい。
途中で立ち止まると、うなり声をあげた。
「あ〜!くそっ!」
考え事をいったん中断した途端、乱馬は、自分の隣をあかねが歩いていないことに強烈な違和感を覚えた。
一抹の寂しさという感情も頭をもたげたが、それは完全にシカトした上で、心の奥底に封印した。
とにかく、あかねが横にいないことが限界だった。
「まずはあかねに謝らせねーとな」
乱馬はそう言うと、来た道を引き返しはじめた。



「あのバカ、どこ行きやがったんだ?」
乱馬は、イラついた口調で呟いた。
来た道を引き返してみた乱馬だったが、結局あかねに出会うことなく、高校へ着いてしまった。
どこかですれ違ったのかと、通学路近辺をうろついてみたが、あかねの姿は杳として見当たらない。
天道家に帰ってみても、家族はまだ帰ってきていないと言う。
その後しばらく(=5分)、家であかねの帰りを待っていた乱馬だったが、全く帰ってくる気配を見せないあかねに居ても立ってもいられなくなり、あかねを探しに家を飛び出していた。
(なにかあったんじゃねーだろうな・・・?)
時が経つにつれ、乱馬の不安は次第に増大されていく。
眠気も相俟って、乱馬のイライラは最高潮に達しようとしていた。
その時。
ふと乱馬が周りを見渡してみると、交差点の向かいに、あかねの友達のさゆりとゆかが連れ立って歩いていた。
「おーい」
乱馬の声が交差点の向こうにいる2人にも届いたらしい。
「乱馬クン?」
さゆりとゆかは、乱馬のほうに顔を向けた。
「おめーら、あかね見なかったか?」
交差点を一足飛びに飛び越えた乱馬が、2人に声をかけた。
青信号で走行する車の上を飛び越える脅威の跳躍力に、周りの視線が集中していたのだが、本人はもちろん2人も全く当たり前のように会話を始めた。
「あかね?ついさっき、小乃接骨院の若先生と歩いてたわよ」
「東風先生と?どっちに行ってた?」
「あっち」
そう言ってさゆりが指差したのは、接骨院の方角だった。
(あいつ、何してんだ?)
怪訝な表情をしていた乱馬に、さゆりが話しかけてきた。
「なんであかねのこと探してるの?」
「いや、なかなか帰ってこねーからさ」
「ふーん・・・心配になったんだ」
「な!?そんなワケねーだろ!」
ゆかのつっこみに対する乱馬の反応は素早かった。
慌てて否定はしたものの、紅潮した顔では大した説得力は持ち得なかったらしい。
「いやーん!ラブラブじゃない」
「帰ってこない許婚を心配して、わざわざ探しに出歩くなんて」
「な、な、な、何言ってんだよ!?何が悲しゅうて、あんなかわいくねー女を!!」
乱馬は、それ以上の反論を続けることができなかった。
下手に口を開くと墓穴を掘ることが、乱馬にでも容易に想像がついた。
認めたくはないが、言われていることの大半が事実なのだから。
「あ、あっち行ったんだな?じゃあ俺、様子見に行ってくるから」
放っておくとエンドレスに続きそうな乙女達の会話に堪えられなくなった乱馬は、逃げ出すかのように接骨院へと向かっていった。

「学校じゃ、あんだけピリピリした空気放ってたくせにねえ」
「あかねが居ないと居ないで、不安になるんだ」
「あかね、愛されてるう」
「単に、乱馬クンがわがままなだけだったりして」
「それ、言えてるかも」
とにかく、明日学校であかねのことをからかうネタができたと、ダッシュで去っていく乱馬の後姿を見ながら、2人は取り留めのない会話に華を咲かせていた。



(さて、どうするか・・・)
小乃接骨院の玄関口で、乱馬は立ちすくんでいた。
来るまでの道すがら、乱馬が考えた計画では、マッサージとか適当な言い訳を口実に、東風先生から「さりげなく」あかねの居場所を聞きだす予定だった。
実際、朝の良牙との格闘で、足首に痛めたといえばいえるほどの軽い怪我は負っていた。
格闘が日常の生活をしていれば、この程度の怪我は日常茶飯事の話であり、放っておいても明日には確実に完治しているであろうが、口実には使える。そう計算していた。
そのはずだったのだが。
「午後休診」
無情にも、入り口に貼り出されている一枚の紙切れにより、乱馬の「完璧」な計画は水泡に帰していた。
あかねを探しに来たと正直に口にできるほど素直な性格を持ち合わせていない乱馬は、どうやって東風先生にあかねの居場所を聞くか、完全に手詰まりの状態に陥っていた。
ふと、乱馬はどこからともなくあかねの声が聞こえたような気がした。
「へ?」
あわてて周りを見渡してみたが、あかねと思しき人物の影は見当たらない。
(まさか、先生の家の中か?)
そう考えて耳を澄ましてみると、風に乗って東風先生とあかねの話し声が聞こえてきたような気がした。
(2人きりで、何してやがる!?)
別に東風先生とあかねが2人で会話することくらい、なんら珍しいことではなかった。
ケンカの末に、許婚解消中。
おまけに朝から会話していない。
そのたった2つの事実だけでも、乱馬は平常心ではいられなかった。
そのうえ、自分はあかねに嫌われているかもしれない。
そう考えると、当たり前なことを当たり前として認識することなど、到底できなかった。
(ちょっと様子見るくらいなら・・・いいよな?)
気になった乱馬は、少し躊躇いはしたが、結局先生の家の庭先に入り込んでしまった。


開け放たれた窓から、東風先生の姿が乱馬の目に飛び込んできた。
その東風先生と向かい合って座っているのは。
乱馬の立ち位置からは後姿しか確認できなかったが、間違いなくあかねだった。
(東風先生と2人きりで何話してやがるんでい!?)
ムクムクと湧き上がってきたヤキモチに、乱馬の顔は赤らんできた。
なぜか、幾分かの不安も心の中に湧いて出ていた。
さて、どうしてやろうと乱馬が考え始めたその瞬間。
(やべっ!)
あかねのほうを向いていた東風先生が、ふと顔をあげてこちらのほうへ目を向けてきたのだ。
乱馬は、あわてて近くの茂みに飛び込んだ。
(気づかれた!?)
茂みの影から息を殺して東風先生の様子を覗っていた乱馬だったが、先生に、乱馬の存在に気づいた素振りは感じられない。
先生がそのままあかねのほうに顔を戻したのを確認すると、乱馬は滲み出た冷や汗をぬぐった。
(ヤバかった・・・)
一息ついた乱馬の眼に、東風先生があかねに何事か呟く光景が映った。
声が聞き取りにくかったため、じりじり窓へとにじり寄ってみたところ。
「な、何言ってるんですか先生!」
東風先生の言葉を否定するあかねの声が、乱馬の耳に飛び込んできた。
声色から判断するに、顔を赤らめているのが、乱馬には容易に想像できた。
(な、何言いやがったんでい!?)
思わず茂みの中を移動して、何とかあかねの顔が見える位置に移動した乱馬。
目に入ったあかねの顔は、案の定赤らんでいた。
そんなあかねに優しげに微笑んだ東風先生が、あかねに何か話しかけた。
それを受けて、あかねが先生に微笑んだ。
隠しきれない切なさを必死で覆い隠そうとするような、その微笑は。


乱馬とあかねが出逢った当初、東風先生に向けられていた微笑そのものだった・・・

(あいつ、まさか・・・)
先生の前では、依然女らしいのも。
ふとしたことで、先生の前で顔を赤らめているのも。
あんな微笑を、先生の前で浮かべているのも。

・・・マダ、先生ノコトガ、スキダッタノカヨ・・・?


依然、2人の会話は続いているようだった。
それでも、これ以上、2人の話を聞くに堪えなかった。
いたたまれなくなった乱馬は、塀を飛び越えて、接骨院から逃げ出した。



あかねが接骨院から出てくるのを、乱馬は接骨院の外の影で待っていた。
あかねの表情は、乱馬が思っていた通り、学校で見たときとは比べ物にならないくらいすっきりしたものだった。
(東風先生と話ができたからかよ・・・)
あかねは、自分との許婚の解消などなんとも思ってはいない。
その事実以上に、あかねは東風先生が未だ好きかもしれないという疑いは、乱馬の心に衝撃を与えていた。
心に東風先生へのどす黒いが渦巻いていた。
その感情は、最早ヤキモチを通り越して、嫉妬の感情にすら近しいことに、乱馬は気づいていなかった。
そんな感情で見つめられていることにも気づいていないらしいあかねの足取りは、やけに軽いように、乱馬には感じられた。
「よしっ!」
何か気合を入れなおすかのように、幾分楽しそうに、あかねがそう言った。
もう、我慢できなかった。
乱馬は、あかねのほうに音もなく駆け寄ると、やおら口を開いた。
「ずいぶん楽しそうじゃねえかよ」
そう言う自分の顔が明らかに不貞腐れていることを、乱馬は自覚していた。
「な、なんであんたがここにいるのよ?」
動揺した声を出したあかね。
(なんだよ?俺が話しかけたら__ )
「わりーのかよ?」
その言葉を皮切りに、2人の間に気まずい沈黙が訪れた。

「・・・で?」
気まずい沈黙を破ったのは、あかねのほうからだった。
「・・・んだよ?」
「なにをそんなに怒ってるわけ?」
別に、怒っているわけではない。
しかし。
まさか正直に、あかねが東風先生のことが好きなのか不安だなんて口が裂けても言える筈がなかった。
「べーつーに」
そう言う以外の選択肢を、乱馬は持ち合わせていなかった。
「あんたがPちゃんいじめてたのが、いけないんでしょうが」
「・・・」
(そーいや、あかねとケンカしてたんだっけ)
今の乱馬にとって、許婚の解消すら大した問題ではないような気がしていた。
許婚であろうがなかろうが、自分のほうにあかねの気持ちが向いていない。
あまつさえ、東風先生のことがまだ好きなのかもしれない。
そのことが、乱馬にとっての一番の問題だった。
たとえ、どれほどの大ケンカしようとも、あかねは自分のことを本気で嫌いはしない。
ましてや、自分のことを好いていてくれているのかはともかく、自分以外の誰かを好きになるはずがない。
いつの間にか、それが乱馬にとっての大前提となっていた。
その大前提が、音を立てて崩れようとしていた。
しかも、あかねが過去の恋を未だに引きずったままかもしれないという、とんでもないおまけつきで。
そんなことを考えて黙りこんだ乱馬に、あかねが更に質問を続けた。
「なんでそんなことしてたわけ?」
「・・・おめーには関係ねえ」
物思いに沈んでいた乱馬は、半分無意識にそう答えていた。
「関係ないことないでしょ。Pちゃんは、あたしのペットなんだから」
乱馬の言い草にムカッときたらしい口調で、あかねは話を続けてきた。
「・・・」
(東風先生と話ができたから、機嫌を直して、俺にも話しかけてんのかよ)
自分で自分の考えに落ち込んだ末、乱馬は完全に疑心暗鬼に陥っていた。
いつのまにか、乱馬の中で、疑惑は確信に変わりつつあった。
「なんか言ったらどうなのよ?」
あかねの執拗な物言いに、乱馬は次第に自分がいらだっていくのを感じていた。
「・・・うるせえ」
「うるせえってなによ!」
乱馬の中で、なにかが切れた。
「うるせえもんはうるせえんだよ!このおせっかい!!」
(東風先生が好きなくせに、なんでいちいち俺に関わってくるんだよ!?)
乱馬の感情が、爆発した。
「なによその態度!?」
「だいたい俺とお前はもう何の関係もないはずだろ!」
(許婚でもねーのに、なんで好きでもない男に話しかけようとするんだ!)
そう思う反面、あかねが仲直りしようとしてくれていることをどこかで嬉しく感じてしまっている自分が、乱馬は限りなく嫌で、悔しかった。
「!」
驚いたあかねの顔を見た途端、乱馬の中の加虐心に火がついた。
自分のことをあかねが好いていないという疑心が、乱馬の思いを更に煽り立てていた。
《どうせなら、徹底的に嫌われるのも悪くねえ・・・》
心のどこかから、そんな《声》が聞こえたような気がした。
「なんだよ?そもそも、許婚の解消を言い出したのはそっちじゃねーか!?」
無意識のうちに、乱馬はその《声》に耳を傾けていた。
「なに言ってんのよ!?あんたが言い出したんじゃない!!」
あかねの口から零れ出た言葉に、乱馬の怒りが爆発した。
許婚の解消はあかねのほうから、言い出したはずだった。

《もぉ〜我慢できない!許婚解消してやるっ!!》

その《声》は、間違いなくあかねの口から発せられたはずだった。
それを無いが如く怒り出したあかねの理不尽さに、乱馬の怒りは一層掻き立てられた。
「今更とぼけるつもりか!?昨日だってそうだ!人のことカッコ悪いなんて言って、とぼけやがって!!」
半無意識のまま、乱馬の口から怒りの言葉が飛び出していく。
それが一層あかねとの仲を険悪なものにすると理性では分かっていても、感情が完全に暴走していた。
度重なる睡眠不足やあかねとのケンカで、理性のタガが緩んでいたのも、感情の暴走に拍車をかけていた。
(それ以上言うな、俺!)
微かに残る理性の囁きに、乱馬は耳を貸すことができなかった。
「なにワケのわかんないこと言ってんのよ!?いいがかりもいい加減にしてよね!!」
その直後に耳に飛び込んできたあかねの《声》が、かすかに抵抗していた乱馬の理性を完全に消し飛ばした。

《東風先生なら、そんなコト間違っても言わないわよ!!》

「ふざけんじゃねえ・・・」
濁流のように渦巻く感情のなか、かろうじて搾り出した乱馬の声は、怒りと悲しみで震えていた。
「そんなに東風先生がいいなら、さっさと告白しやがれってんだ!!!」
「なんでそこで東風先生が出てくるのよ!?」
(今更とぼけやがってえ〜!)
もう完全に限界だった。
あかねを傷つけるのは分かっていた。
それでも、我慢できなかった。
「けっ!それで隠してるつもりか!?かすみさんには勝てないからって、告白しないなんて、単なる逃げじゃねえか!!」
乱馬が口走った悪態に返すあかねの言葉は、勝気な彼女らしい言葉だった。
「自分のこと大棚の上に放り投げて、よく言うわね!!この優柔不断男!!!」
そのテの発言を受けると、乱馬の脳から条件反射的に次の言葉が選び出されていく。
「だれが優柔不断だ!このずん胴凶暴女!!てめーみてーな女、東風先生どころかまともな嫁の貰い手すらできるわけねーよ!!!」
あかねの顔が一瞬引きつったように見えた。
次の瞬間。

「乱馬の、ばかあ〜〜〜!!!」
どばっち〜〜〜ん

(やっぱり、東風先生に嫌われるのはイヤなんだな・・・)
強烈な一撃に、どこか冷静になった乱馬は、そんなことを考えていた。
あかねは乱馬を無視して、ずんずん先へと進んでいく。
その後姿からは、紛れも無い怒りの波動が迸り出ていた。
(これで、完璧に嫌われたな)
柄でもない自嘲的な笑みが、乱馬の顔に浮かび上がった。
そんな乱馬を無視して家路を進むあかねが、交差点にさしかかろうとしたその瞬間。


乱馬の身体を強烈な悪寒が突き抜けた。
それが何かを判断する前に、乱馬はあかねに向かって走り出していた。
怒りも、悲しみも、自虐心も、疑心ですらも、乱馬の心から消し飛んでいた。
乱馬の中から、あらゆる感情が消え去っていた。
ただ、危険を知らせる第六感のみが、乱馬の体を突き動かした。
完全に無意識のまま、乱馬の口から言葉が飛び出してきた。

「危ねえっ!!!」

その言葉とブレーキの音が交差点に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
抱きしめるようにあかねに飛びついた乱馬の身体に、左側から強烈な衝撃が襲いかかった。
あかねを抱きとめたまま、中空に飛ばされた乱馬の視界に、鈍色のアスファルトが飛び込んできた。
(ぶつかる!!)
乱馬がそう思ったのと、空中でその身を翻し、自身の肉体をクッションとして、あかねの身体が硬い地面と激突するのを回避させる動きをとったのは、同時だった――



乱馬が我に返ったとき、あかねの額から、紅い鮮血が流れ出ていた。
(嘘だろ?)
「あかね?」
あかねの瞳は、完全に閉じられていた。
(まさか・・・)
「あかね!」
乱馬の腕の中のあかねは、何の反応も示さなかった。
血の気の引いたその顔は、呪泉洞でのあかねの表情、そのものだった。
(嘘だ!)
乱馬の中で、意識を失ったあかねと、あの悪夢の映像が一致していく。
「あかねぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
(また、守れなかったのか・・・?)
その思いを最後に、乱馬の意識は急速に薄れていった。



薄れゆく意識の中で、喧騒とは別に、誰かの忍び笑いが聞こえてくる。


そんな気がした―――――



つづく




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