◇Blood Syndrome part1
マルボロシガーさま作


「あーっ! 久しぶりだぜ、こんないい気分は」
春の青空の下、乱馬が大きく伸びをしながら言った。
空と同調するようなスカイブルーの衿付きチャイナ服、そしてやたら大きなサングラスを着用している。
どちらも彼が望んで身に付けたわけではない。あかねがどうしても、と言って聞かなかった。
「ったくよう、よくもまあ人を何日も家の中に閉じ込めてくれたもんだぜ」
そう言って乱馬が憎憎しげにあかねのほうを向いた。
あかねはさっきからそわそわと辺りを見回している。乱馬は、あかねが人目を気にしているのかと思ったがそうでもなさそうだ。彼らが付き合っているのはもはや周知の事実なのだから。
「なあ、何か言えよ」
「あ、えっ?」
あかねが素っ頓狂な声を上げて、視線をパチンコ店の目が痛くなるような看板から乱馬に移した。
「どうかした?」
「どうかしたって・・・お前、今日どっか変だぞ? 具合でも悪いのか?」
あかねはかぶりを振った。絶対にそんなことはない、乱馬が心配をすることなど一つもない、とわからせるように力一杯首を振った。
「あたしは大丈夫よ。それより・・・約束覚えてる? 絶対にそのサングラスは外さないでね」
「ふーん。どうしたもんかねえ」
あかねがそう言った舌の根も乾かないうちに、乱馬はそれを外し、じろじろと眺め出した。
「だめっ! やめてって言ったじゃない!」
あかねが飛び掛って取り上げると、サングラスは再び乱馬のおでこと鼻の間へと収まった。
「な、なんなんだよ!」
「お願いだから・・・やめて」
あかねは目を真っ赤にしている。いまの乱馬にそんなことはわからないが、その声色からしてあかねが泣いていることに気づいた。
「あかね?」
「・・・」
「・・・ごめん。なんだか知らねえけどお前を困らせたんなら謝るよ」
「ううん。乱馬が謝ることないよ。せっかく久しぶりのデートなのに、気を使わせてごめんね。ただ――」
「ただ?」
「約束は守ってほしいの」
あかねの懇願する表情に乱馬は頭がくらっとした。闇をかきわけて一条の光が差し込んでくるようだ。
「あ、ああ」
乱馬の心にあかねへの愛しさが溢れる。何事にも換えがたいあかねと二人だけの時間。これを離さないためにはどんな約束だって、いくらでも守ってやる。乱馬はそう思った。
一方で、あかねと自分との間を薄暗く隔てるこのサングラスに疑念を抱かないわけにはいかなかった。
(別に変わったところはなさそうだけどな)
フレームに手を触れる。ひんやりと冷たい。レンズは小指の長さほどの縦幅があり、視界を完全に覆っている。
だが、乱馬はこれ以上サングラスを気にするのはやめた。あかねに注ぐべき注意をこんなものに引かれているのは不本意だと言わんばかりに。

「そろそろメシでも食わねえか?」
乱馬の問いに、あかねは少しの思慮をしてから頷いた。
二人の足がポプラの木のそばのレストランへと向かった。
中へ入ると、かぐわしい木材の香りが漂っていた。店員に誘導されて禁煙席の奥のボックスに座る乱馬とあかね。
乱馬が席につくなりメニューを眺め出した。緊張した面持ちであかねがその様子を観察している。
「乱馬、メニューが決まったらあたしに教えてね」
ふと、乱馬はあかねを見上げると、黙ってその薄いプラスチックを指差した。
とんかつセットと、乱馬の好物チョコレートパフェ。
あかねがメニューを受け取ると、その写真を凝視し始めた。
(ごはん、汁物、とんかつ、キャベツの千切り、目玉焼き、パフェ・・・大丈夫よね。食器も・・・セーフ)
確認を済ませると、あかねはウエイトレスを呼び、注文した。彼女自身はカルボナーラスパゲッティを頼んだ。真っ白なクリームソースにベーコンとパセリがトッピングされている。
「なあ、もう取ってもいいか? これ」
乱馬の言葉に、あかねが過剰なほどの反応を見せる。あわてて止めようとしたので手に持ったグラスをこぼしてしまった。
「何やってんだよ。これだから不器用女は困るぜ」
すると、ただならぬ殺気が立ち昇るのを乱馬は感じた。しまった、と思ったがもう遅い。まもなくあかねの平手の餌食になってしまうだろう。
ところが、あかねの口からは乱馬の予想だにしなかった言葉が発せられた。
「いくらでもあたしの悪口は言ってもいいわ。今日だけは許してあげる。ただし、サングラスだけは外しちゃだめよ。そんなことしたらさっきのセリフを倍にして返してやるんだから!」
その剣幕は、さすがの乱馬をも怯ませた。否応なく首を縦に振らされる。
そのとき、あかねの携帯電話が鳴った。ジョン・レノンは今もこうやって己の存在を世に示し続けている。
「あの、ちょっと待っててね」
あかねがそう言って席を立った。
「ここで話せばいいのに」
「ううん、いいの」

乱馬の前で話すことはできないものの、彼から目を離すわけにはいかないあかねは、乱馬の動きが見えるトイレの入り口に立った。
「もしもし、お姉ちゃん?」
『あかね、乱馬君大丈夫? 何ともない?』
電話をかけてきたのはなびきだった。心なしか声が上ずっている。
「うん。今のところ」
『あんた口紅つけてないでしょうね?』
「つけてないわよ。ちゃんと細心の注意は払ってるわ」
あかねの視界の先では、自分たちのテーブルにメニューが運ばれていた。
『それでね、東風先生に相談したんだけど、これからもっとひどくなるかもしれないって』
「え?」
『だから、暴れたり家を壊すくらいじゃ済まないってこと』
「そんな・・・」
見ると、乱馬はがつがつと与えられたエサを平らげていた。
『乱馬君があんまりわがまま言うから今日は許してあげたけど、これから治るまでは外出禁止よ。野生の虎を放し飼いにするようなもんだわ。』
「・・・」
『だから、今日はなんとしても無事に帰らせるのよ。万が一のときは思いっきり殴って気を失わせて引っ張ってきてもいいから』
「・・・うん、わかった」
『それじゃあ――』
あかねの目に最も恐れていた光景が映った。乱馬が邪魔くさそうにサングラスを外したのだ。もはや「気をつけてね」というなびきの言葉は耳に入らなかった。
(あいつ、あんなに言っといたのに!)
「乱馬! 駄目!」
あかねの絶叫に店内がにわかにざわめき立つ。

乱馬は窓から外を眺めていた。わきの歩道を女の子が歩いている。
真っ赤な、まっかなカーディガンを羽織って。

突然、窓ガラスが割れた。いや、粉々に砕け散った。
すぐそばにいた女が金切り声を上げた。ガラスの破片が彼女の皮膚を切り裂いていた。
破壊の徒と化した男が吹き抜けとなった窓から外に出ようとしている。
あかねが必死の思いで彼を追った。自分が彼を止められるかどうかは問題ではない。迷っていたらあの女の子を見殺しにしかねない。そう、乱馬に殺されてしまう。
乱馬がふらふらと赤いカーディガンに近づく。口もとについたソースを舌でぺろっと舐め取った。
狂気に満ちた拳をか弱い子どもに繰り出そうとした乱馬を、間一髪あかねが体ごと止めた。
「放せ! 放せえええ!」
野獣のような乱馬の咆哮に立ちすくんでいる女の子に向かってあかねが叫んだ。
「逃げて! 早く逃げて!」
一瞬の隙をついて、あかねが乱馬にサングラスをかける。一縷の望みに賭けた。
だが、獲物を取り逃してたまるかとばかりに血走らせた乱馬の目には真紅の残像がいっぱいに広がっている。ちっぽけな闇など受け入れはしない。
それは、現世に現れた無間地獄さながらだった。

すでにその存在意義を失ったサングラスを投げ捨てると、乱馬があかねの腕に噛み付いた。
「いたっ! や、やめてよ・・・」
ギリギリと色白な肉が音を立てる。あかねに激痛が走った。本気で乱馬は喰いちぎろうとしているのだ。
(この味・・・血だ、こいつに流れる血の味だ。名前は、あかね。あかねの血だ。あかねの・・・)
瞬間、乱馬が怯えた目をしてその腕に食い込む凶器を離した。熱湯に触れて反射的に手を引っ込めるときのような動きだった。
あかねが辛そうに傷ついた腕を押さえている。それでも二の腕から流れる血は押さえた手を伝って地面へと落ちた。
「お、俺・・・あかねを・・・」
それまで熱しきっていた乱馬の表情がみるみる血の気を引くのがわかった。
これを見ていた一人の男が乱馬の動揺に乗じて飛びかかろうとした。
「やめて!」
あかねが声を振り絞ってそう言った。
「何を言ってるんだ! この男は君に危害を加えようとしたんだぞ!」
「ただのケンカです。それに、悪いのは私のほうです」
「そんなことは関係ない。彼が君に怪我をさせたことは間違いないんだ」
なんとも居心地の悪い、吐き気をもよおすような周囲の視線から逃れようとあかねは乱馬の手を掴んで走り出した。
乱馬を蔑む目、許婚を悪者扱いする目にあかねは耐えられなかった。
悲しさと悔しさで涙が溢れた。走って、走って、その涙は風に流された。
乱馬は、ただ呆然とその後をついていくしかなかった。 



  to be continued・・・




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