◆母の樹の下で
砂くじらさま作


その樹は、まさしく母親だった。
勿論、樹が人間の子供を産める筈は無い。しかし、二者の間に流れる愛情は、まさしく母と子のそれ。
樹が生きた二百年。そのうちの、瞬きするほどの間にも満たない、たった一日。しかし、その二者にとっては、かけがえのない時間だった。



 「…あ。」
葉はすっかり色づき、季節はもう秋。
乱馬は、おなかの大きくなったあかねを連れて、近くの公園へ散歩に来ていた。
 「どうしたの?乱馬。」
傍らの愛しい妻が、乱馬の顔を覗き込む。乱馬の見つめる先には、立派なイチョウの樹が聳え立っていた。
 「わぁ…黄金色の葉っぱね。」
はらはらと葉が舞い落ちるその樹の下で、あかねはくるくると舞うようなステップを踏んだ。
そんなあかねの姿を見て、乱馬は口元にふっと優しい笑みを浮かべた。
 「なぁ…あかね。おれには昔、もう一人のおふくろが居たんだぜ―――」



 「なんでい!おやじの、ばっきゃろおぉおっ!」
五歳の頃の乱馬は、深い深い森の中にいた。泣きべそをかきながら、森の中を一心に走っている。
 「もうちっと…もうちっと真面目に答えてくれても、いいじゃねーかよっ!」
山篭り中に出会った、大人の男女と同い年くらいの男の子。男の子は、大人の女性を「おかあさん」と呼んでいた。
“おかあさん”。乱馬が生まれてはじめて聞く単語。その意味がどうしても知りたくて、乱馬はその三人に尋ねてみた。
 「なぁ、おかあさんって、何だ?」
男の子は答えた。
 「バカじゃねえの、お前。おかあさんはおかあさんだろ?」
男の人は答えた。
 「うーん。おとうさんと子供たちのごはんを作ってくれて、いつも一緒にいてくれる女の人、かな」
女の人は答えた。
 「そうねぇ。私にもあなたにもいる、【産んでくれた人】のことよ。私もおかあさん、だしね」
 「お前にも、おかあさんとおとうさん…いるんだろっ?」
男の子が逆に聞いてきた。
 「…おやじはいる。かーさんは…知らねぇっ」
乱馬はくる、と背を向け、父親のもとへと走り出した。そして、父親を見つけるや否や、開口一番に尋ねた。
 「なぁおやじ。おれにもかーさんっているのか?おれ、かーさん欲しい。」
しかし玄馬の返答は、不真面目だったりのらりくらりとはぐらかすものばかり。それに業を煮やした乱馬は、「おやじのバカやろうっ!」と一声叫んで、こうしてこの森の中へ走ってきたのだ。
 「…はぁ、はぁ…ちくしょう…」
息が切れてきて、足がもつれる。顔は、涙と汗と鼻水とでぐちゃぐちゃになっていた。
ごはんを作ってくれて。
いつも一緒にいる。
おれを、産んでくれた女の人。
乱馬は、さっき会った女の人の顔を思い出した。
きれいで。やさしそうで。いい匂いがして。あったかそうで。
 ―――私もおかあさん、だしね―――
 「…っちくしょう、ちくしょう…っ!」
乱馬は何時の間にかうずくまり、わあわあと大声で泣いていた。未だ見たことの無い、「おかあさん」に思いを馳せて。



 『どうしたの、人間の坊や…?』
きれいで優しい、そして何処か懐かしさを感じる声がした。乱馬はぱっ、と顔を上げる。
 「誰だ!」
 『恐がらなくてもいいわ…私は、イチョウの樹。何を、あなたはそんなに泣いているの…?』
 「…」
ぐし、と鼻をすすった。
 『…こっちへいらっしゃい。そこは、暗くて寒いわ…さ、こっちへ…』
自らをイチョウの樹だと名乗る不思議な声に導かれるまま、乱馬はさらに森の奥へと足を進める。
辿り付いたのは、少し開けた陽の当たる広場。そこにあったのは、一抱えもふた抱えもありそうな、巨大なイチョウの樹。
ちょうど季節は秋まっさかりで、黄金色の葉っぱとたわわに実った実をたくさんつけていた。
 『…あなたの名前は、何て言うの?可愛い坊や…』
 「…早乙女、乱馬っ」
 『乱馬…そう、良い名前ね。乱馬は何故…あの暗い森の中、ひとりで泣いていたの…?』
乱馬は、べそをかきながらこれまでの経緯を話した。イチョウは時々葉をざわざわとさせながら、乱馬の話にじっと耳を傾けているようだった。
 『そう…困った、お父さんね…でもね乱馬、おかあさんという人はね、あなたにとって大切な人であるように、お父さんにとっても…すごく、大切なひとなのよ…』
 「でも…!」
 『大丈夫。今は教えてくれなくても…乱馬が大きくなった頃にはきっと、教えてくれると思うわ…。時が、来るのを待ちなさい…乱馬』
 「…うん…」
乱馬がそう答えた途端、乱馬の腹の虫が盛大にぐぅ、と鳴った。
イチョウはまるで笑うように枝をゆすった。
 『あらあら…元気の良いこと。乱馬は、火を起こせるかしら…?』
 「…うん。この前おやじに習った。木ぃ、こすり合わせて起こすんだろ?」
 『良かった…なら、これを焼いてお食べなさい…』
イチョウの樹が枝をゆさゆさと揺さぶると、乱馬の目の前に銀杏の実がバラバラと降って来た。
 「うわぁ…すっげぇ!」
乱馬は目を輝かせ、早速良く乾いた木を探し始めた。
 『私の幹に確か、人間が食べても大丈夫な茸が生えていた筈…良ければ、それもお食べなさい…』
 「うんっ!ありがとな!」




はじめて一人で食べる食事。しかし、絶えずイチョウの樹が話し掛けてくれていたので、乱馬はさびしさを感じることはなかった。
 「…なぁ…」
 『なぁに?乱馬…?』
そわそわと動き回り、地面に「の」の字を書きまくり、顔を真っ赤にしてから、乱馬は意を決してイチョウの樹に話し掛けた。
 「お、おれの…“おかあさん”に、なってくれねぇか?」
沈黙。
 「いっいやあのっ!おれ、どうせまたおやじと修行の旅に出ちゃうから!そ、それに行くまででいいから…その…」
樹に表情は無い。しかし、その時乱馬はそのイチョウの樹が優しく微笑んだのを、確かに見た。
 『いいわ…私の可愛い、乱馬』
 「…〜〜っ、あ、ありがとなっ、お…おかーさんっ!」
ばふん、と樹の幹に抱きつく乱馬。そのざらざらの樹皮は、とてもあたたかく感じた。




 『そう…次はそこの窪みに、右足をひっかけて…』
 「これでいいか?かーさんっ!」
 『そう…上手よ、乱馬…そろそろ、ひとりでも大丈夫でしょう…?』
 「うん!平気でいっ」
乱馬は、“おかあさん”に教わりながら、“おかあさん”に登っていた。でっぱりや窪みを見つけ、そこに手や足をかけながら、するすると登っていく。“おかあさん”がこうして見守っていてくれていると思うと、乱馬はいつも以上に何でも出来るような気がした。
 「とうちゃーーく!!」
 『ご苦労様…良く頑張ったわね、乱馬…』
 「うわぁ…街が見えるよ、かーさん!ここからだったら、すっげージャンプすれば、空にさわれるかなぁ?」
太くしっかりした枝に腰掛け、楽しげに“おかあさん”に話し掛ける乱馬。“おかあさん”はまた、笑っているかのように枝葉をざわつかせた。
 『そうね…乱馬がもっともっと大きく強くなったら…空に、さわれるかもしれないわね』
 「大きく強くなったら、かぁ。よし!おれもっと、修行がんばる!」
 『乱馬…疲れたでしょう?そこの枝には確か、アケビの蔓が絡まっていた筈…お食べなさいな…』
 「うんっ!ありがとな、かーさん!」
乱馬はアケビの実を見つけると、それを二つ三つもいで食べ始めた。すると、枝の陰からリスが顔を出し、アケビを食べる乱馬の口元をじーっと眺めている。
 『乱馬…そのリスにも、アケビを一つ渡してやってくれないかしら…?その子も、私の子供、のようなものだから…』
 「うんっ。じゃあ、このリスはおれの弟だなっ。」
そう言って、リスの目の前に一つアケビの実を置く。リスはアケビの匂いをひくひくと嗅いで、がつがつとアケビを食べ始めた。
 「どうだ?にーちゃんが取ってきたアケビ、うまいだろ?」
リスはその問いには答えずに、一心不乱にアケビを抱き、食べていた。

夕方になるまでめいっぱい遊んだ乱馬は、イチョウの樹のうろの中で眠りについた。夕方にはもう冷たい風が吹き始めていたが、そのうろの中はひどく暖かい。
“おかあさん”に抱かれながら、乱馬は今までに無い程のやすらかな気持ちで眠りについた。




雨粒が顔に当たり、乱馬は夜中に目を覚ました。
 『乱馬…そのうろの中では、びしょ濡れになってしまうわ。外に、お出でなさいな…』
 「う、うん…」

ゴロゴロゴロ…
カッ。
ドォン。

 「うひゃあッ!か、雷?!」
 『…近いわ…いけない、乱馬。私から…離れなさい…』
 「やだ!おれ、かーさんと一緒にいる!」
 『…(いけない、このままでは、乱馬が……あの人は?!)』



 「乱馬ぁーっ!このばか息子っ、何処におるんじゃーっ!!」
玄馬は、昼近くから姿の見えなくなってしまった自分の息子を探しつづけていた。
 「く…まずいな、雷が鳴り出してきよったわい…」
 『…貴方は、乱馬の父親ね…?』
頭の中に響いてくるような声。その声は、かつて修行の道に進むと言って残してきた、最愛の妻のものとそっくりだった。
 「…のどか…?!」




 『乱馬…いい子だから、私から…離れなさい…』
 「やだ!」
ガサガサガサッ。
 「…乱馬ッ!この、ばか息子ぉっ!!」
聞きなれた声が乱馬の耳に届いた。
 「…おやじ?!」
玄馬は容赦無く乱馬を抱え、その樹から乱馬を引き離した。
 「っ何すんだよおやじっ!おれは、おれはかあさんと一緒に―――」

カッ。
ドォン。

乱馬の目の前で、イチョウの樹は雷に打たれ、真っ二つに裂けた。
めらめらと燃え上がる炎が、乱馬の瞳にうつる。
 「…あ、…あぁあ…」
玄馬は乱馬の手をそっと離した。フラフラと、燃え上がる樹に近づく乱馬。
 「うわあああああああああ!!!」
乱馬は、“おかあさん”の根元に取りすがって、大声をあげて泣いた。




(…それにしても、全く…母の愛は強し、というところか…)
泣き疲れて眠る乱馬を背負い、テントへと戻る道すがら、玄馬は考えていた。
あのイチョウの樹。のどかのお腹の中に乱馬がいる時に、のどかと二人眺め、二人の名を刻みつけたことのある樹、だった。
(…いくら離されようとも、母と子の絆というものは…これほどまでに強い結びつきを持つもの、なのだな…)
 「…かー、さん…」
背負うた乱馬が呟く。
 「…乱馬よ、強くなれ…強く、男らしく成長して…かあさんに、立派な姿を見せてやれ…」
玄馬の呟きは、深く暗い森の中、白い息となって残った。




 「…ホントは、あかねも連れてきたかったんだけど…あいつ今、大事な時期だから。また、今度な。」
あの日から何年の歳月が流れただろうか。乱馬は今、真っ二つに裂けたままの樹の下に、再び立っていた。
そのざらざらした樹皮に触れ、そっと呟く。
 「かあさん。おれ…父親になるんだ。」








作者さまより

作者戯言
私に言わせれば、乱馬はマザコンです。(きっぱり)
まぁ男というものはマザコンかロリコンのどちらかだと某牛のおねいさんが言っていましたし。ロリコンでないのが救いでしょう(笑)
ラストシーンの情景が描きたいが為に書いた小説。それにしても…私は、乱あモノでない小説を書くときは、何故か執筆スピードが落ちることが発覚しました。なんでだろ〜なんでだろ〜。

砂くじら 拝。


 銀杏には雄木と雌木があるそうです。勿論、この母の木は女性でしょうね。秋になるとたわわに銀杏をつけてゆらゆらと。
 子供らの通っていた小学校には銀杏の木がたくさんあって、そこで落ちる銀杏をバザーになるといつも売り物として並びます。毎年秋になると買って来て、ペンチで殻に切り込みを入れ、粗しおをまぶしてそのまま蓋つきの耐熱容器で3分ほどチンして殻を剥きながら食べます。旦那と娘の奪い合いは熾烈です(笑・・・これが毎年の秋の醍醐味です。
 天道家も銀杏を争いつつ食べていそうですものね。でも、銀杏は高いから…。

頂いたときには題名がなかったのですが、一之瀬が勝手につけて掲載させていただきました。(すいません。センスなくって)
母の想いは深く、暖かです。多分・・・。
(一之瀬けいこ)


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