◇海の守人 3
夏海さま作
「いそがねぇと!」
何故だか焦りに焦っている。漁が終わると同時に走り出した乱馬は今、自分なりの最高速度で走っていた。
乱馬は漁が終わると東風先生の所に直行―――したかと思えばそうでもない。
乱馬は岩場に向かっていた。あかねの事が気になってしまったのだ。
念のため気配を絶ちおそるおそる、しかし素早く岩場のあかねの所へ来た。
あかねは眠っていた。ぐっすりと眠っていて乱馬が来た事に全く気が付いていない。
あかねは今両親が殺された時の記憶を夢で断片的に見ていた。あかねの頬に涙が幾筋ものすじを残し、伝って膝に落ちる。
(な、泣いてる!?)
乱馬はあかねの涙に動揺してしまった。
「お母さん、お父さん・・・・・・、やめて・・・・・・。」
寝言を呟くあかね。あまりに切なそうな寝顔だ。
ドキッとした乱馬。
(可愛い・・・・・・。)
目が離せない。
乱馬はすぐ側にしゃがみ込んで、思わずあかねの涙は拭った。
(らしくねぇじゃん、俺。)
乱馬は自分の指に乗ったあかねの涙の雫を見つめた。キラキラと輝く真珠みたいだった。
「風邪、引くぞ。」
ポツリと言った。
あかねはまだ夢の中で乱馬の言葉は届かない。
「ここでこのままにしておめぇが風邪引いたら、俺のせいみたいになるから。だからかけてやるんだからな。」
自分自身に言い訳して乱馬は自分の着ていた上着をあかねにそっと掛けた。
「う、ん・・・・・・。」
小さく身じろぎするあかね。乱馬は身体の動きを止めた。しかしあかねはそれだけで寝たままだ。
(起きてない。良かった。)
ふーっと息をついてから、乱馬はあかねを起こさぬように細心の注意を払ってそこから離れた。
(ほんと、らしくねぇな。俺。でも、そうせずにはいられなかった。あいつ、普通にしてれば結構・・・・・・可愛かったな。)
乱馬はあかねの寝顔を思い出した。
胸がざわめく。さざ波立って、落ち着かない。
乱馬は首を振った。
(俺、まだまだ未熟だな。たったあれだけの事でおちつかねぇなんて。きっと慣れねぇもん見たせいだ。)
乱馬はそうやって自分を納得させた。
村に戻るとみんなが乱馬を見た。当然だ、上着を着ていないのだから。
「乱馬、お前今季節がなんなのか知ってるか?」
「これから春になるトコだ。当然冬。当たり前だろ、良牙。」
「そうだ。当たり前のように今は冬だよな。そこでお前に聞くけど、お前上着はどうしたんだよ。タンクトップ一枚でうろつくような時期じゃねぇぞ。」
「そんな事知ってらぁっ!」
「知ってる奴のする事か!?寒くないのかよ、お前!大体上着はどこいったんだ?」
乱馬はしばし黙り込んだが、やがてゆっくりとこう言った。
「上着はどっかいった。海に落ちて、濡れたから乾かそうと思って、んで脱いだら風で飛ばされた。」
(嘘だ。)
良牙はすぐにそう思った。濡れたんならすぐに村に帰ってここで乾かせばいい。大体身体はちっとも濡れていないのだ。
みえみえの嘘なのは本人も承知の上だろう。
乱馬は良牙とあまり視線を合わせない。
「それは災難だったな。」
「お、おう。参ったぜ。」
良牙は乱馬がそこまでして隠したいなら、問いつめてもきっと無駄だと思い追及しなかった。
だが、なにか乱馬に起こっている事だけはハッキリと分かった。
一方乱馬は、あかねの寝顔が離れなくなっている事に気が付いて困った。
あかねは昼頃に起きた。
眠たげに目をこするあかね。
その時、バサリと何かが落ちた。
「え?」
あかねは落ちた物を拾い上げて絶句する。
(あいつの、上着?)
ここに自分に気が付かれずに来れそうなのは、あかねの中では乱馬ぐらいだった。
胸の奥が熱くなって、上着を抱きしめた。
(あたし、あんな酷い事言ったのに、かけてくれたんだ。)
あかねは乱馬の物と思われる上着を持って洞窟に戻った。
「来たぞ。」
乱馬は人魚の後ろ姿に向かって声を掛けた。
感じていた歌がやむ。
「今日はなー、朝から大変だったんだぜ。朝から小太刀って女に追いかけられてさー。そんでやべぇって思ったら今度はうっちゃんが来て、んで次にはシャンプーってのが来て、俺はもう全身ボロボロになっちまってな。それから・・・・・・。」
乱馬は今日の出来事を話すが、何故だかあかねの話だけはしなかった。
あかねは『どうして上着をかけてあげた事は話さないの?』と言いそうになった。しかし寸でのところで留まる。こんな事を言ったらあかねの事を知っている事になるし、全てを見ていた事になる。怪しい事この上ない。
もう一度乱馬は、あかねと人魚の関係を疑い出すだろう。
あかねは口を押さえながら、乱馬の面白い日常の話を聞いた。
全て話し終わってから乱馬は不思議そうにあかねに聞いた。
「そう言えばお前ってなんではなさねぇんだ?」
あかねは返答に困った。
乱馬は一度あかねと話しているのだ。声を聞けば分かってしまうだろう。
どう返事していいのか困るあかね。
「お前、もしかして人間の言葉って分かるけど話せないのか?」
(そういう事にしておこう!)
あかねは即座に思い立って、頷いた。
「そっか、それで話さないのか。」
(名前も聞けないな、こいつに。聞いたってなんて答えればいいのかまでは分からないんだから。)
あかねは後ろめたくなって顔を下に向けた。
(騙してごめんね・・・・・・。)
乱馬はそんなあかねを見て、慌てた。
「ま、まぁ俺が話して、お前が『はい』か『いいえ』で答えてりゃ話しは通るし、いいけどさ。」
乱馬の精一杯の励ましだった。
(あいつの話も聞いてみたいけど、今はこれでいい。あいつが楽しそうに俺の話を聞いてくれるんなら、明日もまた来よう。)
乱馬は密かにそう思った。
あかねは自分を励まそうとした乱馬の優しさに更に心を許した。
(少しずつ、少しずつ、人間と向き合ってみよう。そしたらいつかお姉ちゃん達みたいに、村でみんなと暮らせる日が来る。)
漁に出た乱馬は昨日の事をボーっと考えた。
(なんで昨日、あの女の話をしなかったんだろう。あの人魚に話したくなかった・・・・・・?なんで話したくないんだ?知られたくないから?なんでだろう・・・・・・。)
ぼけらっとする乱馬を、良牙を始めとする村の者達は黙って見ていた。
((((ありゃあ完璧に恋煩いだな。))))
そんな事を思われているなんてちっとも思わない乱馬は、岩場に視線を転じた。
(またあいつか?)
岩場には人がいた。手に何か持っている。
あかねはしきりにキョロキョロと、まるで何かを探すようにしている。
(俺を捜してるのか?でも、まさかあいつが俺を捜すなんてあるわけねぇよな。)
乱馬はそう思いながらも、自分を捜してくれているのではないかと淡い期待を抱く。あかねの動きが止まった。
真っ直ぐに乱馬の乗った船を見ている。
何かを訴えるような視線を感じた。
(な、なんだ?)
乱馬はしばらくあかねの方を見たままだった。あかねの方も乱馬から視線を外さない。
(そんな風にしてたら俺が気になるだろうが。)
乱馬は漁が終わったら、すぐにあそこに行こうと決めた。
あかねは岩場から乱馬の乗った船を探した。だが船に乗った人の顔が見える訳がない。
そこで目印の代わりにしたのは、乱馬のおさげだった。
(こんな風に役に立つ事もあるんだ。あいつのおさげは。)
あかねの手には洗濯した乱馬の上着がある。
あかねはこの上着を返すつもりだったのだ。
目を皿のようにして、沢山の船の中からおさげのある男を捜した。
そして見つけたのだ。乱馬を。
ジッと見つめて視線で訴える。
それを感じてくれたかどうかは分からないが、あかねは乱馬が来てくれるのを願うばかりだった。
それから二時間ぐらい後。
乱馬は息を切らせて走ってやって来た。
あかねが行ってしまうかもしれないと思ったからだ。
あかねは乱馬の気配に身体を強ばらせる。今すぐにでも逃げ出しそうなのを必死で堪え、恐怖と戦う。
乱馬は気配も絶たずに来た自分から逃げないあかねに戸惑った。
(どうして今日は逃げないんだ?)
まるで逃げて欲しいみたいな考えに笑った。
あかねは乱馬がすぐ後ろまで来たのを感じて、乱馬の方に向き直った。乱馬はあかねを不思議そうに見ている。
「これ、あんたのでしょ。」
「・・・・・・そう、だけど。」
「だから、これ!」
あかねはそう言って乱馬の上着を突き返した。
乱馬は面食らってポカンとあかねの突き出した自分の上着を見る。そのまま二分ほど過ぎた。
乱馬は上着を受け取る気配を見せない。
ただ上着とあかねを見比べるだけ。
あかねはいつまで経っても受け取ろうとしない乱馬の胸に上着を押しつけた。
「あ、ありがとう・・・・・・。」
「へっ!?」
「ありがとうっつったのよ!」
あかねの顔は赤くなっていた。
あかねはそのままスタスタと歩き出す。
走らなかった。急いで逃げるような事はしなかった。
(大丈夫。ちゃんと出来たじゃない。この調子で少しずつ、少しずつ・・・・・・。)
あかねは緊張と不安のせいでまだドキドキしている胸を押さえる。
「おい、お前これ・・・・・・。」
上着が洗濯してあったのに驚く。
(わざわざ洗濯してくれたのか。)
乱馬に声を掛けられて、あかねはピタッと立ち止まる。
「お前じゃないわ。」
「は?」
クルッと振り返った。
「あたしはあかねよ!」
ニコッと笑った。
そのままあかねは入り江に戻って行く。
クラッとした。よろけて、後ろにあった岩に両手をついて身体を支える。ドクン、ドクンと激しく脈打つ心臓がうるさい。
あかねにこの音が聞こえてしまうんじゃないかと思った程だ。
(可愛い・・・・・・。あいつ、あかねって言うんだ。)
乱馬はしばしそこで硬直していた。
あかねは喜んでいた。
逃げ出さずに人とちゃんと向き合えたから。
(あいつのお陰。あいつがきっかけをくれなければ、あたしはこんな事出来なかった。)
乱馬に感謝する。と、同時に乱馬ともっと仲良くなりたい、村に行きたいという想いが増す。
(今度会った時はもうちょっと愛想良く、素直にありがとって言えるようになろう。)
あかねはそう決心した。
乱馬は村に戻ってからもボーっとしたままだった。
良牙は見かねて乱馬の前で手を振る。乱馬の反応は返ってこなかった。
(ダメだ、魂がどこかに行ってる・・・・・・。)
心ここにあらず状態の乱馬の前に陣取った良牙は、幼なじみの顔を窺った。
なんだか幸せそうなふにゃっとした笑顔を浮かべている。乱馬がこんな顔するのは珍しい。
良牙は結婚前の自分と今の乱馬の姿を重ね合わせた。
そう考えると、乱馬が今どういう事になっているのかは容易に想像がついた。
だが良牙は下手に口出ししない方が懸命だと思った。乱馬の素直じゃない性格では、こちらが余計な事を言えば頑なにそれを否定するだろう。
黙って見守る事にした良牙は一人、乱馬の結婚式はいつだろうなんて考えてしまった。
乱馬はそんな自分の変化にあまり気が付いていなかった。気が付くような余裕がなかった、の方があっているかもしれない。
(あいつ、笑ったら可愛い。めちゃくちゃ可愛かった。いつもああやってればいいのに。あいつの笑顔見たらなんだって出来る気がしてくる。スゲーや、あいつの笑顔って。)
乱馬はあかねの笑顔を思い浮かべては自然と笑顔を見せた。
その夜。
乱馬は初めて人魚にあかねの話をした。
「今日は漁が終わった後にあかねって女にあったんだ。あいつ、俺の上着わざわざ洗濯して俺に返したんだぜ。俺の事嫌ってんのかと思ったら、そういう事してさ。わ、訳わかんねぇよな。ほんと、お、驚いちまった。」
乱馬の声はうわずって掠れていた。目の前の人魚が、どうしてもあかねと混同しそうになって緊張してしまったのだ。
あかねはその話を黙って聞いた。
乱馬はあかねの話を早々に終えた。いつまでも話しているのは恥ずかしかったし、人魚にあまり知られたくないと言う心理が働いたのだ。
それとは反対に、あかねにだけはこうして人魚と会って話しているのは知られたくないと少々ビクビクものだった。
(なんだか俺、二股男みてぇじゃねぇか。)
乱馬はそう思って赤面した。
(お、俺は別にこいつもあかねも好きなんかじゃ・・・・・・。)
『好きなんかじゃねぇッ!』と言う言葉は続かなかった。続けられなかったのだ。
心が叫んでいた。
『言い切れないクセに!』と。
乱馬は困惑した。
何故言い切れないのか、どうしても分からない。
その夜、乱馬は自分がなんの話をしたのか分からなかった。
以来乱馬は朝には人間のあかねと、夜には人魚のあかねに毎日会うようになった。
乱馬とあかねが打ち解け始め、朝会うのが当たり前になってきたある朝。
乱馬が漁から帰ってくるといつもいるはずのあかねがいなかった。
(なんでぃ、あいつ。なんで今日は限っていねぇんだよ。)
乱馬はムスッとしたままあかねが来ると思い、待つ。
それから五分とせずにあかねはやって来た。最近あかねは夜も昼も乱馬と会っていて眠る時間が極端に減ったのだ。
乱馬はその生活にすぐ慣れたが、元々昼は大体眠り夜に活動していたあかねには少々キツイものがあった。
それで今日は寝坊してしまったのだ。
「乱馬!」
「おめぇ、なにやってたんだよ。」
キゲンの悪い乱馬に、あかねは戸惑う。今までの会っていた中で、訳もなくこんな風にキゲンの悪い乱馬は見た事がなかったからだ。
「どうしたの、乱馬?」
「なにやってたんだって聞いてんだよ。」
「なにって・・・・・・寝てたの。」
「寝てたぁ?こんな時間まで寝てんなよ!ったく、もちっと早く起きろよな!村のガキ共だってもう少し早く起きるぜ!?」
棘のある乱馬の言葉にあかねは言い返す。
「なによ!今日はたまたま寝坊しただけでしょ!」
「ちょっと寝坊だぁ!?ちょっとじゃねぇだろ!」
きつく突っぱねる乱馬に、あかねは表情を曇らせた。しかし乱馬は更に続ける。
「その年になって寝坊なんてすんなよな!」
あかねは下を向いた。思わず泣きそうになって、唇を噛みしめて堪える。
乱馬の言葉はあかねに深く突き刺さった。
「そんな風に言う事無いじゃない!!」
あかねが大声で怒鳴ったので、乱馬はあかねを睨んだがすぐに目を丸くした。
(泣いてる!?)
あかねが泣いているのを見た。
「あ、あかね・・・・・・。」
「いいよ!もう!」
あかねはその場から何処かへ走り去ってしまう。
乱馬はうなだれる。
(どうして俺、あんなに怒ったんだよ。寝坊しただけじゃねぇか。あかねだってたまにはそういう事あるに決まってるのに、どうして・・・・・・?)
乱馬は不意に思い当たった。
(ここに来た時あかねがいなくってなんか、凄く嫌だったっけ。・・・・・・俺は、あかねに待っていて欲しかったんだ。あかねに『お帰り』って言って欲しかったんだ。あかねだから言って欲しかったんだ。あかねが・・・・・・。)
「あかねが、好きだから・・・・・・?」
自然にポロッと言った一言だったが、あるべき物があるべき所に収まったようなスッキリした気分になった。
乱馬は自分の気持ちに始めて気が付いたのだ。本当はもっと前からあったのに、乱馬はその気持ちを全く知らずにいた。
(あかねにあやまんねぇと・・・・・・。)
あかねは海に入った。腰までの所で歩みを止めたあかねは、水に映った悲壮な自分の顔を見た。
「乱馬の、馬鹿。あんな言い方しなくたって、いいじゃない。」
あかねの涙が海に落ちた。
あかねは静かに泣き出す。
(乱馬はあたしの事嫌いになったの?だからいきなりあんな事言ったの?どうして?全然分かんない・・・・・・。言ってくれなかったら、あたし分かんないよ・・・・・・。)
あかねは乱馬に嫌われてしまったと思った。
始めて優しくしてくれた人間の乱馬。喧嘩した事はあってもそれはちゃんと理由が分かっていた。なのに今回は突然だった。
あかねには乱馬に嫌われたとしか思えなかったのだ。
その夜、あかねは洞窟で歌いはしたものの外には出なかった。
乱馬は浜辺で肩を落とした。いつもの岩の上に人魚はいない。
(あいつどうしたんだろ。どうして今日はいないんだ?あいつがいてくれたら、暗い気分も少しはマシになるのに・・・・・・。あいつにいて欲しかったな。)
あれっと乱馬は首を傾げた。
(これってあかねの時も同じ事思ってたよな、俺。)
あかねの時と同じように気落ちした自分。
あかねの時と同じように思った自分。
「俺、あいつの事も・・・・・・?」
乱馬は頭を抱えた。
(俺、そうだ・・・・・・。あかねもあいつも好きなんだ。だからいっつもあいつらの事考えて、変な風になるんだ。あいつらが笑えば俺も気分が良くなるし、あいつらがいないとこんな風に・・・・・・!)
もう一つの自分の気持ちに対面した乱馬は、苦悩する。
(一度に二人の女に惚れるなんて、俺って奴は!)
乱馬は頭を抱えたまま、その場にしゃがみ込んだ。
(乱馬、今日も来たのかな。)
あかねは洞窟の中で乱馬の事を考えた。
(乱馬はあたしに愛想尽かしたのかな。何が悪かったんだろう。どうしてあんなに怒ったの?)
考えても、乱馬の気持ちは分からない。
あかねは今すぐにいつもの岩の上に行きたかった。
だが乱馬の口からあかねの話を聞き、そして乱馬があかねを嫌いだと言ったらと考えるとどうしても行く事は出来なかった。
「乱馬。」
名前を呼んでみる。洞窟内でその声が反響し、響き渡った。
しかし当然ながら乱馬からの返事はない。
ジワッと涙が滲み始めた。
乱馬は漁が終わるとすぐに岩場に走った。
(あいつに謝りたい!)
その一心で、漁の片づけを良牙に押しつけてまで急いでここに来たのだ。
岩場には誰もいない。
(あかねは?来てくれてないのか?やっぱりあんな事言ったんじゃ、会いに来る気もなくなるか。)
そうは思っても、どこかであかねは来てくれるんじゃないかと思ってしまう。ひょっこり岩陰から出てきやしないかと、キョロキョロしながらそこであかねを待った。
しかし、あかねはいつになっても出てこない。
諦められない乱馬はジリジリしながら待ったが、結局あかねは正午になっても岩場には現れはしなかった。
乱馬はあかねが来なくても、毎日岩場に通った。
今日は来るかもしれない。そう思っていって昼までそこで待つ。
あかねが来なくても、明日が来るかもしれないと期待する。
そして次の日も岩場に来るのだ。
乱馬は岩場で待ちながら、あかねの気配を感じないかと気を探るが全く感じられなかった。
あかねは岩場に近寄りさえしなかったのだ。
(あかね・・・・・・。頼むから、顔見せてくれよ。)
乱馬は以前あかねが寝ていた岩に寄りかかって、同じように膝を抱えて顔を伏せる。
あかねと喧嘩した日の夜から、人魚とも会っていない。
乱馬の気は沈むばかりだった。
それから十二日ぶりに、あかねは岩場に行った。
食料を受け取りに行くためだ。今までは食料があったために、運んでくれるかすみやなびきに悪いと思いつつも岩場に顔を出す事はしなかったのだ。
しかし、昨日。遂に食料が底をついてしまった。
仕方なくあかねは岩場に赴いた。
乱馬がいないかと様子をうかがいながら岩場に来たあかねは、乱馬の姿がないことにホッとした。その反面、乱馬がいない事に落胆もしたが。
「あかねちゃん。」
「かすみお姉ちゃん。」
かすみは沢山の食料を持ってやって来た。
「あかねちゃん、大変だったわね。」
「え?」
「最近乱馬君がここに通い詰めていたでしょう?」
「どうしてそれを知ってるの!?」
「もう公然の秘密なのよ。この前なびきちゃんがあかねちゃんにこれを持って来た時に乱馬君の姿を見かけてから、ここに何日か様子を見に来て乱馬君がここに来ているのを見たって言うのよ。今じゃ村中の噂よ。」
「そうなの。」
(あたしがいないのに乱馬が毎日ここに来ていた?)
あかねは無性に嬉しくなった。それは乱馬が自分を気にしているという事だからだ。
「あかねちゃん、もしかして乱馬君と会っていたんじゃないの?ここにいるのはあかねちゃんぐらいだからきっとそうだってなびきちゃんが言ってるのよ。」
「実は、そうなの。なびきお姉ちゃんにはかなわないな。なんでもすぐに分かっちゃうんだもん。」
苦笑するあかね。
かすみは穏やかに微笑んだ。
「良かったわ、あかねちゃんが少し人に慣れてきて。気が向いたら村にもいらっしゃいな。」
「それはもうちょっと先になりそうだよ、かすみお姉ちゃん。まだ、少し怖くなったりする時とかあるの。乱馬が相手でも。だから乱馬の事、全然怖くなくなった時は頑張って村に行ってみる。」
「そう、頑張りなさい。いつでも良いんだからね。好きな時にいらっしゃい。」
「かすみお姉ちゃん、ありがとう。」
あかねは本当に嬉しそうに言った。
その時、実は乱馬が漁から戻りこの岩場に来たのだが、かすみはもちろんあかねも乱馬に気が付かなかった。
(あれはあかねと、東風先生の奥さん?あの二人、知り合いだったのか。)
乱馬は急いで岩陰に隠れながら二人の様子を窺った。
「いいのよ、なびきちゃんとあかねちゃん、私の三人だけの家族ですもの。それより、あかねちゃん。まだ、お母さん達の事気にしている?」
かすみはそれとなく聞いた。
(家族ッ!?あかねは、久能の奥さんと東風先生の奥さんと姉妹だったのか!?なんで二人はあかねの事を誰にも言わなかったんだ?それより、あかねもなんで黙ってたんだ。)
物陰に隠れた乱馬は思わず叫びそうになり、口を塞いだ。
あかねはそれを聞いて体を硬くしたが、以前のように異常に怯える事はなかった。これはあかね自身にとっても驚きだった。
(あたし、平気だ。今まではお父さん達の話したら思い出しちゃってダメだったのに。)
「あたし少しだけ、大丈夫になったみたい。」
「なびきちゃんに言ったら喜ぶわね。あかねちゃん、もしかして乱馬君と会うようになってから?」
「そうかも。乱馬がいなかったらきっとあたし、まだ人間を怖がってた。」
「そういえばあかねちゃん。夜も乱馬君に見られたって言うけど、本当なの?」
「うん・・・・・・。夜も乱馬と会ってるの。」
(夜?夜なんて会ってねぇのに。)
乱馬は一言も聞き漏らすまいと聞き耳を立てる。
「あかねちゃんだって知ってるの?」
「まだ、知らない。」
「なら良かった。くれぐれもあれだけはばれないようにね。」
「うん、でも乱馬に嘘つくのが最近辛いの。乱馬と仲良くなってから余計に・・・・・・。」
「あかねちゃん・・・・・・。」
「かすみお姉ちゃん、あたし乱馬に言ってしまうかもしれない。」
「その時はちゃんと時期を見てね。あかねちゃんが本当に乱馬君なら大丈夫って思えたら、その時に話しなさい。」
「うん、分かった・・・・・・。」
(夜、俺が会ってるのはあの人魚だけだ・・・・・・。まさか、あかねの奴本当に人魚なのか?そんな馬鹿な。だってあいつは人間じゃねぇか。目の前にいるあいつは二本足でちゃんと立ってんだぞ。)
「それじゃ、あかねちゃん。またね。」
「なびきお姉ちゃんによろしくね、かすみお姉ちゃん。」
「ええ。」
かすみが乱馬の方に歩いてきたので、乱馬は身を縮めた。
かすみが行ってしまうとあかねも岩場から足早に帰ろうとする。
「あかねッ!」
乱馬は今走ってやって来たように見せかけて、あかねの前に飛び出した。
「乱馬!!」
「あかね、この前は、わ、悪かった。」
素直じゃない乱馬は謝るのにどもってしまった。
あかねは目を丸くして乱馬を見つめた。
あかねにジッと見つめられた乱馬は顔が火照るのを感じた。
顔を真っ赤にする乱馬を見て、あかねは微笑んだ。
「もういいの。でも、良かった。あたしなにか乱馬を怒らせる事したかなって思っててここに来づらかったんだ。」
「お、おめぇは別になんも悪かねぇよ。明日もまたこ、ここで会おうな。」
照れて明後日の方を向き、頬を掻きながら言う乱馬にあかねは笑顔で頷いた。
その日は話もそこそこに二人は別れる。
乱馬は複雑な心境だった。
(夜ってなんなんだ?なにをあかねは隠してるんだよ。・・・・・・よくよく考えてみれば、俺あかねの事なんにもしらねぇ。あいつは何者で、一体俺に何を隠してるんだ?俺に嘘ついてるって、なにを?もう、訳わかんねぇよ。)
乱馬が村に戻るとかすみは既に家に帰り、なびきとなにやら談笑していた。だが乱馬は聞く気は起きなかった。
あの二人の会話を聞いたら更なる疑惑が浮上するばかりだろう。
乱馬は良牙の家にフラッと立ち寄った。
「乱馬、勝手に人の家に入って堂々と寝るな!」
いきなり寝ころぶ乱馬を前に良牙が怒鳴る。しかし乱馬は上の空で、難しい顔をして天井を見つめていた。
(やっぱり例のあれか?乱馬が岩場で待っているらしいっていう女の人の事・・・・・・だろうな。)
良牙は乱馬に構うのをやめて、そのままにしておく事にした。
こういう時は一人にした方がいいと気をきかせ、あかりちゃんと共に散歩すると言って家を出る。
多分乱馬は玄馬に絡まれるのが嫌で自分の家に来たのだと考えた良牙の優しさだった。
良牙の考えは当たっていた。
乱馬はシーンと静まり返る良牙の家で、あかねと人魚の事を考える。なにがなんだか分からなかったが、乱馬はそれ故にある事を実行する事にした。
(あいつが来る岩であいつを待っていよう。)
いつも後ろを向いて自分に顔を見せない人魚。乱馬は人魚の顔を見るのが一番手っ取り早いと考えたのだ。
(あいつを怖がらせる事になるかもしれねぇ。けど、あいつの事は知っておきたいんだ。あいつの事も、あかねの事も。ちゃんと全部知りたい。)
乱馬がその考えに行き着いた時には日が沈みかけていた。
あかねはその日上機嫌だった。
(今日は久々に乱馬と話せたな♪今日の夜からはまたあの岩に堂々と行って、乱馬の話を聞けるんだ。今日はどんな話をしてくれるのかな♪)
理由は乱馬に会えたかららしい。一人で始終ニコニコしっぱなしのあかね。
あかねは夕日が沈むのを眺める。
少しずつ足に鱗が見え始めた。
(こんな風に人魚になるのを喜んでいた事あったかな。・・・多分、覚えてる限りでは絶対無かった。でも今は乱馬に会えるんだもの。夜でも昼でも乱馬にあって声を聞けるんだもん。)
あかねはそこまで思ってから、ハッとした。
「乱馬に会えて嬉しい?」
自分自身に問い返す。姉達と会えて嬉しい。
そういうのとは全く別の物だとあかねは気が付いた。いや、たった今。それを知ったのだ。
友達と言うにはあまりにも強すぎる気持ち。かと言ってかすみやなびきの様に見ているわけでもない。
乱馬は好きだ。
でもかすみやなびきよりももっともっと強い、好きの気持ち。
なんとなく知っていた。昔から知っていた。
強すぎる好きをなんて言ったらいいのか、あかねは当てはまりそうな言葉を見つけていた。
(乱馬を、愛してる?)
疑問形だった。
いまいち自信がない。
まだよく分からない、初めて出会った気持ちにあかねは自信を持ってそうだと言う事が出来なかった。
それでも、あかねは何となく分かっていた。
(多分、あたしは乱馬を愛してる。)
直感としか言い様がなく、理由も根拠もなかった。しかし、だからこそ。あかねはあっていると思った。
あかねは初めて、自分の気持ちと対面した。
夜。
日が暮れて、みんなが就寝し始めた頃。
「俺、ちょっと行ってくるから先に寝てろよ。」
乱馬はそう言い残して家を出た。
そんな息子の後ろ姿を見ながら早乙女夫妻は。
「乱馬、上手くやるのだぞ。」
「新しい家族はいつ来るんでしょうね。」
なびきによって広められた噂を信じ、見当違いの応援をしていた。
乱馬は浜辺に行くまでの道のりで、何故か多くの視線を感じた。
(なんでみんな俺を見てるんだ?)
自分に集中する視線に居心地の悪さを感じつつも、足を早めたその時だった。
「乱馬!」
「シャンプー!?」
目の前に一人の少女が飛び出した。
言わずと知れた、乱馬に惚れ込む少女三人の内の一人。しきりに結婚をしようと言い寄るが相手にしていなかった内の一人、とも言える。
乱馬は密かに舌打ちをした。こんな時は決まって後の二人もやって来るからだ。
「乱ちゃん!」
「乱馬様!」
「うっちゃん、小太刀・・・・・・。」
乱馬はやっぱりと思い、これから起こるであろう事を思うと肩が重くなった。
「乱馬!どこ行くか!」
「浜辺に散歩だ。」
「乱ちゃん、嘘言ったらあかん!」
「嘘じゃねぇ、ほんとだって。」
「ならば、わたくしも一緒に行かせていただきますわ!」
さすがにこの発言には乱馬も顔をしかめてしまった。
一緒に来られては百パーセントやっかいな事になるだろう。
「いや、俺一人で行きたいから。」
穏やかに終わらせようとなるべく申し訳なさそうに言い、乱馬は付き添いを丁重に断ろうとした。
が、既に村中に広がったなびきの噂を知っている三人はしつこく食い下がる。
「何故散歩に一緒に行ったらいけませんの!?」
「乱馬が行くところ、私も行くね!」
「乱ちゃん、うちかて乱ちゃんが行くんなら行く!それとも、一緒に行ったらなにか都合でも悪いんか?」
乱馬は冷や汗を掻いて押し黙った。
三人の異様な気に珍しく気圧されてしまったのだ。
三人は乱馬から岩場で待っている相手を聞き出そうとし始める。
乱馬が必死になって毎日通い詰めた岩場には一体誰がいるのか、三人にしたら重大問題だ。なびきの噂では相手は女だという。そんな事を聞いて三人が穏やかでいられるはずもない。
遂に乱馬自身に聞き出すという手段に出たのだ。
乱馬としてはこんな足止めを喰らうとは思っても見なかった。
今日は早く行って人魚が来る前に、なんとしても岩にいなければならないのだ。真相を突き止めるためにも。
「今日だけはダメなんだ。都合とかそういうのは別に特になにもないような気がするって言えばするんだけど、今日ばかりはなんとなく一人になってみたいななんて思ったり思わなかったりするわけで、ええと・・・・・・。」
巧い言い訳を考えられずに結局乱馬自身でさえ訳が分からなくなってしまう。
しかし混乱する乱馬の言い訳を三人が大人しく聞くはずもなく、乱馬の言葉は途中であえなくかき消された。
「乱馬様!はっきり言って下さいませ!」
「何故そこまで大事あるか!」
「理由を聞くまではとおさへん!」
立ちふさがる三人を前に更に困る乱馬。
どうやって切り抜けようかと、下手な言い訳をやめて思案し始めた時。
「シャンプー!」
乱馬の後ろから分厚い眼鏡の男が走って来る。
「ムース!」
「乱馬ッ!」
「早乙女乱馬ッ!」
続いてやって来たのは良牙と木刀を持った男。
「良牙に久能!?どうしてここに!」
「どうせ、この三人が邪魔しに来るだろうと思ってムースときたんだよ。」
「何故だか知らぬがなびきに頼まれたから来てやったぞ!」
なにやらふんぞり返って言う久能。
ポカンと突っ立っている乱馬に、良牙は言う。
「早く行け!ここはなんとかしてやるから!」
「でも・・・・・・。」
「急いでるんだろ!この三人は俺達に任せろ!」
「すまねぇ!良牙!久能!ムース!」
乱馬は駆け出した。
「乱ちゃん!」
「待つね、乱馬!」
「乱馬様!」
「シャンプー!何故乱馬でなければならないだ!」
「小太刀!ここは退け!」
「こら、お前ら!少しは乱馬の事も考えてやれよ!」
六人の飛び交う会話に背を向けて。
息を切らせて乱馬が浜辺に来た時にはまだ人魚はいなかった。
さして人魚の座る岩は浜から離れていない。この間は不覚にも溺れたが、元々泳ぎの達者な乱馬はそこまで難なく泳ぎ着いた。
岩に窪みを見つけると、狭い足場に立ちそこに身を潜める。いつも人魚が座る岩の上からは死角だ。
(人魚はあかねか?それとも?)
あかねが人魚であるというのは単なる推測だ。しかしそうなると今日のあかねとかすみの会話も合点がいく。
半信半疑の乱馬は緊張した面持ちでそこで待つ。
あかねが人魚でも、乱馬は良かった。
あかねがなんであれ、好きなのだから気にしないつもりだった。それならそれで、どうして自分が人魚にもあかねにも好意を示したか納得がいく。
ただどうして黙っていたのだろう。そんなに自分を信用していないのだろうかと乱馬は不安になる。
また、人魚とあかねが別人だったらだったでそれまでの事。自分でどっちかハッキリさせるつもりだった。
しかし人魚をこの事で再び怯えさせてしまったらどうしようとやっぱり乱馬は不安になった。
際限なく沸き出す不安を抱えながら、乱馬はその時を待った。
つづく
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