◇恋模様帳簿  其の四
マルボロシガーさま作


『娘を、ですか?』
『左様。沖田総司に預けていただけぬかと存じております』

なんだ・・・・・?

『悪いことはいわん。あの男のことはあきらめや』
『いやや!』

どうしておれがこんなところに?

『あかん。もう沖田さんはあの世から手招きされとる』
『一生のお願いどす!うち、沖田はんと離れとうない!』

沖田さん、大丈夫なのか?

『総司、あきらめろ』
『そうじゃないんです』
『何が』
『私は、あの娘とはたまに顔を合わせるだけで幸せなんです。なのに――』

もう、何がなんだか・・・。

『かわいくなくて悪かったわね!』

あかね?

『乱馬のばかぁ・・・』

泣いてる・・・。
どうせおれがひどいこと言ったんだろうな。
ごめんな、あかね。
きっと謝るから。
ごめんな・・・。




「夢・・・か」
乱馬が半井家の一室で目を覚ました。
沖田をこの家に運び終えると、疲労困憊で泥のように眠りついたのだ。
「さて、どうするかな」
沖田の容態を知りたかったが、乱馬は一人このまま帰ることにした。
いつまでもこんな得体の知れない男に居着かれては困るだろう。
そう思って立ち上がると、おゆきの声が襖越しに響いた。
玄関に向かう乱馬の足が止まった。


「沖田はん、わかりますか?おゆきどす!」
「おゆき・・・さん?」
沖田の両眼に泣き出しそうなおゆき、そして仲庵と土方の姿も見えた。
「良かったあ・・・」
おゆきは人目さえなければ抱きつかんばかりである。
「土方さん、近藤さんは?」
沖田が思わずそう聞いた。
「あの人は大坂だ」
「そうでしたね」
「お前のことは伝えておいた」
沖田は昨夜のことを思い返しながらぼそぼそと喋った。
「私が確か、浪士連中と――」
と言いかけたとき、しまった、と沖田はあわてて口を塞いだ。
「総司、隠すな。そのことは聞いている」
「そう、ですか・・・」
すると、土方は仲庵に頭を下げた。
その医者は、沖田が意識を取り戻したにもかかわらず、なぜか表情はこわばったままである。
「半井先生、今回の件は私の責任です。沖田に無理をさせたのは私です」
「そんな、土方さんは悪くないですよ」
「うるさい」
仲庵の視線はゆらゆらと所在なく宙をさまよっている。
「お父はん?」
おゆきに脇をつつかれて、ようやく我に返った。
「あ、いえ。こうなってしまったものは仕方ありません。当分の間沖田君には安静にしてもらいます」
「もう平気ですよ」
沖田が空元気を張り上げて言った。
「何言ってやがる。いいからおとなしくしてろ」
「そうどす沖田はん、無理言わんといて下さい」
だが、沖田としては虚勢を張らないことにはやってられない。
これでは自分が弱者になったようだ。
(あながち間違いじゃないかな・・・)
ふと、沖田は自嘲的に微笑んだ。
「沖田君、食欲はあるかね?」
と仲庵が聞くと、沖田はおゆきの目をちらっとのぞいて言った。
「いえ。それよりおゆきさんと二人にさせてもらえませんか?」
その言葉に、おゆきの心臓は飛び出しそうになった。
土方は、ほう、といった目で沖田を眺めた。
「あ、ああ。もちろんかまわないよ」
仲庵が言った。
彼の体には紛れのない冷や汗が流れていた。
「どうだ?おゆき」
「は、はい」
それと同時に土方は立ち上がり、足早に部屋を出た。
「じゃあ沖田君のことはよろしく頼むぞ」
そう言って仲庵も土方を追った。


「土方殿」
廊下に出た仲庵が後ろから呼びかけた。
「どうしました」
背を向けたまま土方は言った。
「・・・いや、何でもございませぬ」
「そうですか」
その後、沖田をよろしく、と告げて土方は帰った。
それが竹馬の友との別れのように仲庵には思えた。
身震いがした。
太陽はそんな彼に間断なく夏の日差しを浴びせ掛ける。
叱りつけるわけではなく、慰めるわけでもなく。


一人、沖田とともにおゆきは部屋に残されていた。
彼女がしたことといえば水につけた手拭いで沖田の体を拭っただけである。
お互い、一言も口を開かない。
おゆきはもじもじと床を人差し指で叩いたり、畳のふちをなでたりしている。
そうしていると、柔らかい視線を感じた。
おゆきが沖田のほうを見やると彼がにこっと笑った。彼女も微笑み返した。
沖田は肘をついた手に頭をのせ、ずっとおゆきを見つめている。
袖からのぞいている腕がひどく弱々しい。
(沖田はん・・・)
おゆきは、沖田に体中を愛撫されている感覚に陥っていた。
指一本触れられていないのだが、衣を一枚一枚剥ぎ取られていく気がする。
体が、火照った。
(好き・・・)
「おゆきさん」
心を見透かされたかのような沖田の呼びかけに、おゆきは大慌てではだけかかっていた着物を直した。
「ひゃ、ひゃい!何でおますか?」
しかし、着物の帯がゆるんでいるのかおゆきの声は見事にひっくり返ってしまった。
それがおかしくて、沖田は腹をかかえて笑った。
「これじゃ私は幽霊か妖怪みたいだな」
「幽霊は沖田はんみたいに能天気じゃありまへん」
「それもそうだ。あはは、こんなに笑ってもいいのかなあ」
「笑うことは体に良ろしゅうおます」
「いやあ、やっぱりおゆきさんは面白いや」
ふん、とばかりにおゆきが赤い顔を沖田から背けた。

「一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
一転して真剣になった沖田の口調を聞き、おゆきは彼のほうに向きなおした。
「私は死ぬのでしょうか」
おゆきの体に電流が走った。
刀を突きつけられた圧迫感。
できることならすぐにでも逃げ出したい。
この場から。そして、現実から。
「そんなこと・・・」
「先生は何とおっしゃってました」
「お父はんは・・・きっと過労だろうって・・・」
「それで?」
「しばらく休めば治るだろうと―――」
「嘘だ」
おゆきが怯えた表情をした。
「はっきり言って下さい。私は死ぬ、もう手遅れだと」
「・・・・・」
「自分でもそのくらいのことはわかっているつもりです」
おゆきは大粒の涙を流した。
それが、あっというまに凹凸の少ない顔を滑り、あごから畳に落ちた。
沖田はしばらくおゆきの泣き顔をも目に焼き付けたあと、懐紙を取り出し彼女に手渡した。
おゆきが自分の顔についた液体を拭ったのを見ると、出し抜けに沖田が言った。
「帰ります」
「え?」
沖田が起き上がろうとしている。
それをあわてておゆきが抑えた。
「放して下さい」
「あきまへん!」
「時間がない。私にはすべきことがあるんだ」
「そんな、沖田はんは今は横になっておくことが一番どす」
「新選組さ」
(あ・・・・・)
そのとき、おゆきは沖田の心が離れていったことを確かに感じた。
むしろ、これが本来の形なのかもしれない。この人が自分のことを見てくれたのは気まぐれだったのかもしれない。
「だから、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。わかってください」
その言葉もおゆきの耳には入らない。ただ虚ろな顔をして座っている。
「おゆきさん・・・」
沖田がおゆきの手をかたく握り締めた。
だが、その想いが伝わったかどうかは定かではない。
隣室で何やら物音がした。


沖田がおぼつかない足取りで半井家の門を出てきた。
「よう」
聞きなれた声がした。
乱馬だった。
「何だかよくここで会いますね」
「まーな。それよりそんなフラフラで無理したもんだ。送ってくぜ」
「はは、ちょっと酔っぱらっちゃって」
そう言って沖田はおどけたふりをして見せた。
「あんたをこの家に連れてきたのはおれだ」
「・・・・・」
「もうちょっとマシな嘘つけよな。そんな青い顔で酒に酔ってるやつなんか見たことねえよ」
乱馬がその意地っ張りの肩を支えた。
「そうですか、早乙女君が」
一歩一歩進むにつれ、赤子のようだった沖田の二足歩行はだいぶ安定した。
「なあ、本当にいいのか?」
「え?」
「あの娘のこと」
沖田が呆けたように乱馬を見た。
「あんたも相当不器用だよな。他にも言い方はあっただろうに」
「・・・どうして知ってるんですか?」
「あ・・・。そ、その、隣の部屋で寝てたら声が聞こえてきて・・・」
「へえ」
不思議にも嫌悪感はなかった。
「好きなんだろ?彼女のこと」
「そりゃあ好きですよ。大好きです。早乙女君の言ったことは間違いですよ。あんなに素直でかわいらしい人はいません」
「沖田さんもずいぶん素直になったな。前に同じことを聞いたときはごまかしてたじゃねえか」
「そうでしたか?」
沖田がぽりぽりと頭を掻いた。
「彼女が聞いたら喜んだだろうよ」
「いや、これで良かったんですよ。もし言ったら――」
沖田は口をつぐんだ。
(もし好きだと言ったらおゆきさんを離せなかった)
結果、彼は新選組を、時代の激流に身を預けることを選んだ。
これ以上選択の余地はない。采は投げられたのだ。
「そう、か」
「ええ。それにおゆきさんのことはあきらめろと言われていたんですよ」
その言葉を聞き、乱馬はこの日見た夢を思い出した。
(そういうことかよ・・・)
沖田は憑き物が落ちた、というよりは何かに取り憑かれたように晴れ晴れとした笑顔をしていた。
(たいしたもんだ)
その突き抜けた表情には乱馬も兜を脱いだ。
(でも、もしおれが同じ立場だったら・・・)


ようやく二人が屯所に着いた。
「じゃあな」
「ありがとうございました」
沖田の姿を見た隊士があわてて飛んできた。
「沖田先生!ご無事でしたか!」
「ええ。それと、深町君」
「はっ」
「今日は私の部屋には人を入れないでほしい」
「といいますと、やはりお体が・・・」
「いやいや、今日は一人で歌でも詠んでみようかと思ってね」
「歌を、ですか?」
「おかしいかな。こんな、剣しか能のない男が」
「いえ・・・」
「それじゃ、よろしく頼む」
そう言ったきり沖田は自室に閉じこもると、浴衣に着替え、床につき、掛け布団を頭までかぶり、枕を濡らした。
この日、沖田総司がその歌心を発することはついぞなかった。


(もしおれだったら、あかねをあきらめないと言い切れるか・・・?)
乱馬はずっとそのことを考えていた。
一緒にいることが当たり前だと思っていたあかね。
それが、離れ離れになることを想像したとたん、彼女がそばにいないことに居ても立ってもいられなくなる。
(あかね。おれはお前を・・・)


「乱馬!」


そのとき、確かに彼女の声がした。
乱馬が欲してやまなかった心地よい響き。
「あかね?」
乱馬が振り向くと、あかねは山陰に沈みかかろうとしている太陽を背に立っていた。
夕陽が眩しかった。
だが、その存在はあかねに付き従っているだけにすぎなかった。
乱馬を盲目にさせるのはあかねただ一人なのだ。
「お前、どうしてここに・・・」
「何言ってんのよ。晩ご飯が食べられなくてもいいの?」
乱馬は周囲を見渡した。
川が流れ、その川沿いにフェンスが立っていて、側面がへこんだポストなど二人の抗争の歴史を残すものもそこかしこにあった。
「言っとくけどね、あたしはあんたが食いっぱぐれようが知らないから。かすみお姉ちゃんに頼まれたから言いにきただけよ」
あかねがそう言って踵を返した。
「待てよ!」
乱馬はあかねを追った。追わなければならない。
「なによ」
あかねは顔だけ乱馬のほうを向いた。
すると、乱馬が慣らすように口を動かしてから言った。
「その・・・今までお前にいろいろ悪いことしたから・・・ごめんな」
あかねはあっけにとられた顔をしたが、その手に乗るものか、という確固たる意志をもって言い返した。
「なるほど。面倒臭いからそうやってまとめて謝ろうって魂胆ね」
乱馬が何事か喋ろうとするのをやめて、その代わりにあかねを抱きすくめた。
乱馬は訴えかけた。
聴覚よりも触覚、言葉よりも―――心に。
「ら、乱馬?」
「そうじゃねえんだ・・・・・」
乱馬が低い声で言ったとき、いい香りが鼻をくすぐった。あかねの匂いだ。
「お前がいなくなったら、おれは・・・」
あかねは胸を打たれた。
なんとも手垢の付いた表現だが紛れもなく真実を言い表している。
「乱馬・・・」
「離さねえ。お前がおれのことをどう思っていようと」
乱馬があかねを正面から見据えて言った。
潤んだ漆黒の瞳。
ゆるやかに流れる髪。
白く透き通る肌。
艶やかに色づいたくちびる。
その全てを乱馬が捉えた。
「あたしこそ・・・ごめんなさい」
「許してくれるか?」
「うん!そのかわり・・・」
「何だ?」
「今度の日曜日、一緒にどこか行こうね」
あかねがぽっと頬を薔薇色に染めた。
(可愛い・・・・・)
乱馬はすでにそのどこかに飛んでいきそうな頭を必死に引き止めた。
「あ、ああ。約束だ」
「嬉しい・・・」
そして、あかねがあわてたように
「じゃ、じゃあ早く帰りましょ。遅くなっちゃうよ」
と言った。
ところが乱馬は横を向いて動こうとしない。
「どうしたの?」
「何でもねえ」
「でも・・・」
「うるせえ!いいから先に行ってろ!」
あかねが名残惜しそうに家へと向かった。
乱馬は笑った。
目頭をおさえ、体を震わせて笑っていた。


「乱馬君、そんなに嬉しかったの〜?」
ひょいっと乱馬の頭の上から女の子が顔を出した。
「て、てめーは、おどかすな!」
どこから湧いてきたのか、弁財天女がいた。
「どうやらうまくいったみたいね」
「・・・」
「わかったでしょ?あなたにとってあかねちゃんがどれほど大事か」
「・・・・・まあな」
弁財天女が笑顔になって言った。
「覚えてる?乱馬君」
「何を」
「私がお願いしたこと」
「ああ、あれか」
「そう、あれよ」
彼女はウインクをして見せた。
「それじゃあよろしくね。バイバイ」
用を告げると、またも弁財天女はさっさと飛び去っていった。


日曜日。生憎の雨だったが約束通り乱馬とあかねはデートに出かけた。
「神社にお参りなんてどういう風の吹き回しなの?」
などと言いつつも、あかねは楽しそうだ。
傘のせいで手が繋げないのは残念だが。
二人は弁財天女とおぼしき像を尻目に、御神木の前まで歩いた。
立派なしめ縄が巻かれた木の前に、ずらりと絵馬のかかった板が立っていた。
乱馬がごそごそとポケットをまさぐっている。
「ほら、お前も書けよ」
そう言ってすでに「早乙女乱馬」と書かれた絵馬とペンを取り出した。
「これって・・・」
「か、勘違いすんなよ。人に頼まれただけでいっ」
「どうせお父さんたちでしょ」
「とにかく、名前書いたらちゃっちゃとかけてくれよ」
「だめ。一緒に結ぼうよ」
あかねが紐の片方を乱馬に渡した。
「ったく、一人で紐も結べねえほど不器用なのか?」
「バカ!そうじゃないわよ!」
「へへ、冗談だって」
そして、二人が絵馬をくくりつけた。
「あかね」
「なに?」
「ずっと仲良くしような」
「うん!」
同時に、雨が上がった。
雲が流れ、お日さまが顔を出し、空高い日本晴れとなった。
「きれい・・・」
あかねがつぶやいた。
(はは、何だかあの人みてえだ・・・)
抜けるような青空に、乱馬は沖田総司の面影を見た思いがした。
涙をこらえて笑っていたあの日の姿を。


その様子を見た弁財天女は『恋模様帳簿』を取り出し、早乙女乱馬、天道あかねを大きく丸で囲った。
「さてさて、次の仕事は、と・・・」
彼女に休む暇はない。
「天道なびき・・・この子のエントリーは財福のほうね」









作者さまより

果たして続きはあるのでしょうか?
ただいま逃走準備中(笑)


大好きな設定なので「続きがない」と言われたら暴れるかも?
(一之瀬けいこ)





Copyright c Jyusendo 2000-2005. All rights reserved.