◇嗚呼、麗しの君の髪
  第一話 プロローグ
かさねさま作


  野原一面の秋桜と少しずつ色を染め始めた葉が新しい季節の到来を告げる。
  光を受けて明るい色に輝く木々の葉から日の暖かさを感じ、まだ冷たくなる前の長月の風が優しく肌に触れる。
  読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋…うまいことを言った人がいるものだと感心せざるを得ない。

  ここ天道家の庭先でも、心地よい秋の陽気を身体いっぱいに感じている二人の姿があった。

 「な?俺が言った通りだろ?10月でも晴れた日の日中はまだまだ暖かいんだぜ」
  慣れた手付きで妻の髪を洗う乱馬。
  大きな手が螺旋を描くように妻の髪を洗い、シャンプーを泡立てていく。
 「うん、本当ね。気持ちいい…」
  椅子に腰掛け、夫に頭を預けるあかね。
  瞳を閉じ、夫の節くれ立った指の動きを楽しんでいる。
 「それって、外の空気が?俺の洗髪が?」
  少年のような瞳があかねを覗き込む。
  彼はいくつになっても出逢った頃の瞳と心を失わずにいるんだろうな、とあかねは思った。
 「どっちもよ」
 「ちぇ、体裁のいい答え方しやがって」
  『勿論、乱馬の方よ』とでも言ってほしかったのだろうか。拗ねた様子を見せる。
 「ふふ。冗談よ。秋の日向もいいけど、やっぱりダンナ様の洗髪が一番ね」
 「ったく、今更担いだっておせーよ。…ほら、頭少し下げな」
  そう言うと、乱馬は側に置いておいたやかんを取り、丁寧に洗い上げたあかねの髪へ注いでいく。
  熱過ぎもせずぬる過ぎもしない、ちょうどいい温度のお湯が白い泡を静かに流していく。

 (気持ちいい…)
  あかねは、この瞬間が堪らなく好きだった。
  彼の大きな手が自分の髪に触れ、洗い上げていく間のときめきは昔も今も変わらない。
  でもそれ以上に、彼の優しく注いだお湯が髪の間を流れていき、手櫛で髪に付いたシャンプーを洗い落としていくこの時間(とき)をあかねはこの上なく愛していた。

 (あかねのやつ、妙に色っぽいよな…)
  乱馬も乱馬で、あかねの髪を洗い流すこの瞬間にいつも眩暈を覚えていた。
  軽く上を向き、目を閉じるあかね。お湯が注がれている間、気持ちがいいのかうっすらと唇を開ける。本人にはそのつもりがないようだが漏れる吐息が妙に艶めかしい。男としてはどきっとさせられる。

 「さ、これでいいぞ」
 「うん。ありがとう」
  肩に掛けてあったタオルを取ると、縁側に腰掛け、髪の水気を吸い取り始めた。
 「今日、5時だったっけ?」
  乱馬はシャンプー道具一式を縁側に運び終えると、あかねと交代するかのようにタオルに手を伸ばし、髪を拭き始めた。
 「うん、そう」
  再び愛しい人の手が自分の頭を包み込み、胸の奥がキュンとする。
 「おっ、いい香りだ」
  あかねの後ろから腕を伸ばしていた乱馬は、そっとあかねの髪に鼻を近付ける。
 「自分で洗っておいて誉めないでよ。待ち合わせ、…遅刻しないでよね」
  乱馬の声がすぐ側まで近づき、胸の鼓動が速くなる。
  恥ずかしさも手伝って、ついついぶっきらぼうになってしまう。
 「へいへい。ホント、口うるさいのも昔のまんまだよなぁ」
 「もう、うるさいっ。いいわよ、自分でやるから」
  すぐ口喧嘩になるのも昔のまま。
  乱馬の手から逃れようとすると、大きな手がさっと制した。

 「いいよ、やってやるよ」

  少年のままかと思っていると、急に大人びた顔を見せる。
  その静かで優しい声に、あかねは何も言えなくなってしまう。
 「お前こそ、遅刻すんなよ」
 「しないわよ」
  あかねは乱馬から顔が見えないことに少しホッとしていた。乱馬の手の感触と優しさに胸が高鳴り、顔が赤くなっていく。
 「ほら、だいたい乾いたぞ。後は自分でやれよな」
 「分かってるわよ。…ありがとう」
  言葉はつっけんどんになっても、感謝と笑顔は忘れない。
  今度は乱馬がどぎまぎする番だった。
 「ちゃ、ちゃんと綺麗にしてもらってこいよ」
  あかねの笑顔に不意打ちを食らい、そっぽを向くとそのまま部屋へと戻っていった。
 「はいはい」
  乱馬の照れた背中に微笑み、
 (やっぱり昔のままね)
  と思うあかねであった。


  3駅ほど電車に乗り、いつもの店へと足を運ぶ。

 「「「「いらっしゃいませ〜」」」」

  スッタフ全員で客の来店を歓迎する。
 「3時に予約した早乙女ですが…」
  結婚して一年になるが、まだ「早乙女」の姓を名乗ることに気恥ずかしさを感じる。
 「カットのご予約ですね。今担当者が参りますので、こちらにお掛けになってお待ちください」
  見習いであろう若い女性スタッフがあかねに席を勧める。
  受付の前にあるソファに座り、ぱらぱらと雑誌を捲る。
 「こんにちは、あかねちゃん」
  数分もしないうちに、あかねの担当者が現れた。
 「こんにちは」
 「今日もカットでいいんだよね」
 「はい、お願いします」
 「シャンプーはもう済んでるんだっけ?」
 「はい。さっき家で洗ってきましたから」
 「そう、じゃ、軽く髪の毛濡らそうか」
  そう言うと、あかねの担当者はシャンプー台の方へと誘導していった。

  ジャーッと勢いよくお湯が出され、あかねの髪が濡れていく。
  プロというだけあって、慣れているし手際もいい。けれども、
 (やっぱり乱馬にやってもらってるほうが気持ちいいわね)
  と内心思っていた。
 「いつも旦那さんが髪の毛洗ってくれるんでしょ?」
 「え?あ、は、はい」
  つい数時間前までの乱馬の手の感触を思い出していたあかねは、急に話し掛けられどもってしまった。
 「奥さんの髪を洗ってくれるなんて、優しい旦那さんなんだね」
  担当者の言葉に苦笑する。
 「う゛〜ん…優しいのかなぁ」
 「優しいよ。少なくとも僕の周りにはいないよ」
  髪を濡らし終え、作業台へと案内される。
  座り心地のいい大きな椅子に身を沈めると、今度は鏡越しで話し出す。
 「なんで旦那さんが洗うようになったの?」
 「え…」
  と言って、一瞬顔を赤らめる。
 (別に話してもいいわよね。ずいぶん昔の話だし)
  自分の中で適当な理由をつけると、あかねはふふっと笑い、そのいきさつを話し始めた。
 「実は…」


  乱馬があかねの髪を洗うようになったきっかけ。
  それは、二人が高校二年生の時に起きた出来事だった。



つづく




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