◇愛する者へ  萌芽の章 〜十九歳〜
  一、長途 〜始まり〜(中編)

かさねさま作


「え〜、それでは家長であるわたくし天道早雲が乾杯の音頭を取らせていただきます」
 コホンと咳払いをし、手にしたグラスを少し掲げた。
「そんな堅っ苦しい挨拶は抜きにして、さっさと始めんかいのぉ〜」
「お師匠様、まぁ、ここは一つ…」
 早く酒を飲ませろとせっつく師匠を、もう一名の直弟子、早乙女玄馬がなんとか宥めようとする。
「ったく、じじいは黙ってろっ」
「むむっ!乱馬っ!その師匠を師匠とも思わぬ態度!許せんっ」
「まぁ、まぁ、おじいちゃん。いいじゃないですか、たまには。ね?」
「ふぅむ…。かすみちゃんがそう言うんじゃ仕方がないのぉ〜」
 どんな妖怪、悪党でもかすみの手に掛かればおとなしくなるかもしれない。
「では、気を取り直して」
 そう言うと、父早雲は愛娘であるあかねに視線を落とした。
「あかね、これから大変だと思うが、気を付けていってらっしゃい」
「はい、お父さん…」
 父の思いをしっかり受け止めるように静かに答える。
「それでは、あかねの前途を祝して…」

「「「「カンパ〜イ!!!」」」」

 いつもの居間に天道家に住む八名が顔を揃えていた。
 あかねの出発はいよいよ明日となっていた。

「いや〜、明日からあかねがいなくなると思うとお父さん寂しくって」
 先ほどの家長の威厳はどこへ行ったのか、半ばおいおいと泣き出しそうな父。
「やだなぁ、お父さん。ちゃんと一週間に一回は連絡入れるようにするし、それに最初に行くところはお父さんの知り合いの所なんだから大丈夫よ」
 どう転んでもこの家族が泣きながら食卓を囲むということはあり得ないのだが、せっかくの家族揃っての夕食を湿っぽくしたくなかったあかねは明るく答える。
 高校を卒業してから、あかねが暫くこの町を離れるというので友達やら知り合いやらが壮行会を開いてくれたり、この天道家で一緒に夕飯を食べていったりということが多々あったが、さすがに出発前夜は家族水入らずで最後の晩餐を迎えたかった。「最後の晩餐」と言うには大袈裟かもしれないが、あかねがこの家を出た後は続いて乱馬も修行の旅に出ることになっていた。二人が出ていってしまったら当分は帰って来ない。その間になびきやかすみが結婚や仕事で家を出ることだって十分あり得る話だった。こうして家族全員が顔を揃えて食卓を囲むのは、これから先、恐らくそうそうないことだった。

「乱馬君はいつ出発するんだい?」
「え?…パスポートが取れたらすぐにでも…」
「早乙女君は行かないの?」
 バシャッ
「パフォ〜!」
「もう、都合悪くなるとすぐパンダになるんだから、早乙女君は」
「けっ!親父なんかと一緒だったら修行になるものもならねーよ」
「アポポポポ!(それが父親に対する言葉か!)」
「はんっ!父親らしいことなんぞしたこともないくせに、よく言うぜっ!」
「アポ〜!(なに〜!)」
「ふっ、おもしれー!やるかっ!」
 パンダと少年が食卓を挟んで睨み合う。
「あなた!乱馬!せっかくあかねちゃんの壮行会なんですから、ちゃんとしなさいっ」
 のどかの手に日本刀が光る。
「ひぃ〜っ!」
「アポアポアポッ!(わわわわわっ、母さんっ!)」
 二人の闘気が一気に萎縮する。「母の力」いや、「母の日本刀」は天下無敵かもしれない。
「おばさま、いいんです。いつもと同じほうが楽しいし」
 こめかみに一筋汗を流しつつ、あかねはのどかを止めた。
「そう、そう。こっちのほうがうちらしくていいわよ」
「そうねぇ」
 なびきもかすみもあかねに同調する。乱馬たちが来てからというもの、天道家の三姉妹はすっかりこの騒々しさに慣れてしまっていた。
 そして、何よりあかねはいつものこの賑やかな食卓を記憶に残しておきたかった。


「乱馬。ちょっといい?」
 夕飯を食べ終え、部屋へ戻ろうとした乱馬をあかねは呼び止めた。
「え?…ああ」
 少し躊躇いがちに己を呼び止め、話をしようとするあかね。そして、出発前夜。乱馬は何かあると感じ取った。開け掛けた自室の襖を閉めると、やや緊張した面持ちであかねの部屋へ向かった。

 再び目にする殺風景な部屋。
 あれほど寛げたあかねの部屋だったが、今はなんだか落ち着かなかった。あかねがこれからしようとする話も、何か別れを惜しむようなものなのではないかという懸念もあった。うまい言葉の一つも掛けてやれない不器用な乱馬としてはできれば避けたい状況だった。
「いよいよ明日だな」
「うん」
「ちゃんと準備したのか?」
「うん」
「明日は早いんだろ?はやく休めよ」
「うん」
 話があると言って呼んだのはあかねのほうなのに、なかなか本題を切り出さない。逆に乱馬のほうが話を進めていたが、当たり障りのない話しかしようとしなかった。それでも、あかねはただただ「うん」としか返せずにいる。

(ったく、しょうがーねーな…)

「…で?何だよ、話って」
 なかなか言い出せず俯いているあかねが少し不憫に思え、自分のほうから話を切り出した。
「え?」
「何、驚いてるんだよ。話があるって言ったのはお前だろ?」
「…うん。あのね…」
 そう言ったきりまた黙ってしまったが、覚悟を決めたように言葉を続けた。

「乱馬、何かほしいもの…ない?」

「ほしいもの?!」
「うん。ほら、乱馬、あたしにチャイナ服くれたでしょ?だから、お返しにあたしが乱馬にあげられるものないかなって…。本当はもっと早く聞きたかったんだけど、なかなか話すきっかけがなくて…」
 あかねの修行のことを聞いて動転した数週間前のことが乱馬の頭に思い出される。そして、あの時に交わした口付けのことも…。
「べっ、別にほしいものなんて…」
 あの丘の上で思わず取ってしまった大胆な己の行為に今更ながら照れていた。あかねもあかねで、乱馬と同じことを思い出しており、恥ずかしそうに黙り込んでいる。
 部屋の中央で赤面した男女二人。
 しかし、そんな二人がドア越しにある気配に気付くにはそう時間はかからなかった。

「…おい、あかね」
「…うん」

 二人は頷き合うと、抜き足で窓の方へと移動する。
「どうするの?」
「そうだな…」
 部屋の外で聞き耳を立てている家族たちに気付かれないようにひそひそと囁き声で話す。暫く考え込んでいた乱馬は、ふと何か閃いたようにポンと手を叩いた。

「よし、あかねっ。しっかり掴まってろよっ」

「え?え?え?」

 驚いたのはあかねである。あかねをいきなりお姫様抱っこで抱えた乱馬は、ふわっと窓の外へ飛び出した。
「ちょっ…!ちょっと〜!」
「手、離すなよっ」
 あかねを抱えているにも拘らず、乱馬は軽々と朧月夜の中を飛んでいく。
 あかねも屋根伝いに飛ぶことはできたが、滞空時間が全く違っていた。長くばねのある脚が屋根を蹴り上げると逞しい身体がしなやかに伸び、高くそして長く空中を舞う。出逢ってから流れた三年の月日は、その少年の肉体を青年のものへと変えていくには充分な時間だった。
 乱馬のことは信じていたが、あかねはしっかりとその腕を乱馬の首に回していた。

 屋根に着地してはまた次の屋根へと飛んでいく。空高く舞い上がり、ゆっくりと落ちていく感覚に初めは怖くて目を瞑っていたあかねだったが、少しずつ慣れてくるとそっと両目を開けた。乱馬の肩越しに、大きく上下する夜の街並みが見える。
(不思議な光景…)
 あかねはそんなことを思っていた。怖さがなくなってきたのか、少しだけ腕の力を緩める。それを察した乱馬があかねに声を掛けた。
「しっかり掴まってろよっ」
「うん…!」
 乱馬の首に回した腕に再び力を入れた。

(乱馬の…匂いだ…)
 顔を埋めた少年の右肩から、いつも側にあった匂いがした。もう暫くは嗅ぐことのできない匂い。あかねは胸いっぱいにその匂いを吸い込むと、広い背中に回した小さな両手でチャイナ服をギュッと掴んだ。

(…あかね)
 さらさらと風に靡く髪からほんのりとシャンプーの匂いがした。柔らかい髪が乱馬の右頬を優しく撫でる。乱馬はその髪にキスするかようにほんの少し顔を埋めると瞳を閉じ、あかねの匂いを吸い込んだ。そして、少女を抱く手にぐっと力を入れた。

 夜風を受け、二人の胸の中に同じ記憶が蘇る。
 あかねの髪が良牙のベルトによって切られた、あの時。

 あかねを抱いて飛んだあの時も…
(あかねの柔らかい髪にどきっとしたんだよな…)

 乱馬に抱かれて飛んだあの時も…
(怖くて必死に乱馬に抱きついてたっけ…)

 夜が明けたら、二人を待つ長い別れ。
 そんな思いが余計に二人の心を敏感にしているのかもしれない。こんなに近くにいるのに、言葉にできない切なさがじわりじわりと広がっていった。
 月は空高く上り、月暈を作っていた。


「ここ…」
 乱馬があかねを連れて来た場所はあの丘の上だった。
「ほかにいい場所が思い付かなくってよ」
 ぶっきらぼうに答えた乱馬の顔がほのかに赤い。
「うん…」
 あかねも連鎖したように赤くなる。
「それで、あの…乱馬のほしいものって…」
 それでもなんとか言葉を繋げようと、部屋で途中になってしまった話を持ち出した。
「…ほ、ほしいものなんて…」
 そう言って、あかねを見つめた。いや、正確にはあかねの唇から目が離せなかった。

 ドクン、ドクン、ドクン…

 乱馬の胸が激しく波打ち始め、その思考が完全に止まる。
 己があかねの唇に吸い込まれていく感覚さえしてきた。というより実際に乱馬の体はあかねに少しずつ近づいていた。
「あかね…」
 そう口にしたと同時に少女の右腕を掴んでいた。
「乱、馬…?」

「!」

 己の名を呼ぶ澄んだ声ではっと我に返った。慌てて腕を離し、その勢いのまま二、三歩後退する。
「い、いや…、なんでもねえ…」
(なっ、何考えてんだっ!)
 自分に喝を入れるようにガツンと頭を殴った。あかねはそんな乱馬に微笑むと、一歩前へ歩み寄った。
「あ、あかね…?」
 まだ自分の心臓がどきどきと音を立てていた。優しい笑みを浮かべるあかねが目の前に来たのだから尚更高鳴る。

 あかねは愛しい人の顔を見つめていた。
 出逢った頃と変わらない少年のままの瞳。
 意志の強さを表すきりっとした眉毛。
 そして、いつも自分への暴言を吐くけれども、時としてあかねの名をいとおしそうに呼ぶ口。

(今夜を最後に…)

 そう思うと、あかねの体は自然に動いていた。
 乱馬の両腕にそっと手を添える。

「乱馬…」

「え…?」

 あとはスローモーションのようだった。
 自分の両腕をそっと掴んだあかねがゆっくりと背伸びをする。あれほどほしいと望んだその唇がゆっくりと己に近付いてきた。うっすらと瞳を閉じたあかねが数センチのところまで迫り、前髪が重なる。掠めるように鼻先が触れ合い、唇に掛かる甘い吐息が頭の芯を麻痺させていった。
 そして…

(あか…ね…?!)


 二人の唇が、静かに…重なった。


 柔らくて温かいあかねの唇。
 ひんやりとした形のいい乱馬の唇。

 乱馬はあかねを引き寄せることも、そしてあかねは乱馬の首に腕を回すこともしない。
 ほんの少し触れるだけの口付け。
 けれども、その重なり合った甘美な感触が身も心もゆっくりと溶かしていく。
 乱馬も静かに瞳を閉じた。

(あかね…)

(乱馬…)

 唇も瞳も閉じた二人からそんな心の囁きが聞こえてくるようだった。

 薄雲の間から差し込む蒼白い光が満開の桜を微かに照らし、春の夜風がその花びらを舞い散らす。
 溶け合う魂の別れを惜しむように、いつまでもいつまでも二つの影が重なり合う。
 小高い丘に立つ桜の木の下で、長く静寂な時が二人を包んでいった。


「見送りはいいわ」
「見送りは行かねーぞ」
 二人の言葉が重なった。
 長い口付けを交わした照れがあったのか、二人の距離が微妙に遠くなっていた。けれども、「見送りはなし」と言った二人の言葉はいつもの照れから来るものではなかった。
 乱馬もあかねも怖かった。
 暫しの別れが訪れる決定的瞬間に居合わせた時、乱馬はあかねを引き止めてしまうかもしれないという己の弱さがあった。そしてあかねには、この修行の旅の決心がぐらついてしまうかもしれないという怖さがあった。
 二人にとって、今宵を見送りとしたほうが幾分か気持ちにけじめがつけられた。
「…そろそろ帰らねーとな」
 明日の出発は朝早かった。
「うん…。みんな心配してるかもしれないしね」
「どーゆー心配してっか分かんねーけどな」
 確かに乱馬の言葉には一理あった。さっさと乱馬とあかねが結ばれればいいと思っている家族である。あかねの帰りが遅いという心配より、二人の関係がどうなったかという心配のほうが大きかったかもしれない。
「帰るか」
「うん」
 乱馬はあかねの手を取る。あかねはそれに答えるようににっこりと笑った。

(……)

 屈託のないあかねの笑顔を目にした乱馬は進み出した歩みを止めた。
「あかね」
 そして、隣にいる少女の方へ向き直るとその細い肩をぎゅっと掴んだ。
「おめーは、色んな人からたくさんの愛情をもらってんだ。分かるな?」
 乱馬の真摯な瞳があかねをぐっと見つめる。
「う、うん…」
 少年の言おうとしていることが掴めないまま、その真剣さに圧倒される。
「おじさんやかすみねーちゃんやなびき。俺の親父やおふくろ。それから学校の友達や東風先生…」
「うん…」
「…姿はなくったって、お前のおふくろさんだって…」
「うん…」
「みんなみんな、おめーのこと大切に思ってんだ」
「…うん…」
「だから…」
 続いていた言葉がそこでぷっつり止まった。
「…だから?」

「だから…、その気持ち、ぜってー無駄にするなよっ」

 『絶対に無茶はするな…』

 あの時、乱馬の震える腕の中で聞いた言葉があかねの脳裏に蘇る。
 少年はどうしても言わずにいられなかった。何度でも、何度でも…。そう言うことでこの少女を守れるとは思わなかったが、口にせずにはいられなかった。

「うん…。無駄にしないよ、絶対」

 あかねは乱馬の気持ちをしっかりと受け止めると、力強く答えた。
 乱馬の瞳に少しずつ安堵の色が広がっていく。
「…乱馬は?」
 少女の茶目っ気ある瞳が乱馬を覗いた。
「え?」

「乱馬は大切に思ってくれてるの?」

「そっ…!」

 思わぬ展開に先ほどまであった余裕は吹っ飛ぶ。
「バッ、バカ!そんなこと…!」
 とだけ言うと再びあかねの手を握り大股で歩き出した。
 耳まで真っ赤になった横顔と力いっぱい握る大きな手だけで、あかねには十分に答えになっていた。それでも、ここぞとばかりにいじめに掛かる。

「で、結局、乱馬のほしいものって何だったの?」
 知っててわざと聞くあかね。

 ぎしっ
 乱馬の歩みが一瞬止まる。
(もっ、もう、貰っちまったからいいよっ///)

 口が裂けてもそんなことは言えない乱馬は、硬くなった体を必死に動かし歩き始めた。
 むっつり黙ったまま思いっきり照れた背中を見せる乱馬に、あかねはくすぐったい思いでいっぱいになっていった。



つづく




 出発前夜・・・少しは素直になれて良かった・・・かな?
 にしても、かさねさまの乱馬くんもやっぱり不器用ですね。(そこがいいんですが・・・)
(一之瀬けいこ)


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