◇夢幻
  7、境界線

自動的存在さま作


 意識があるようでないような感覚に陥ったのは、いくつもの修羅場をくぐりぬけてきた彼にとって初めてのことではなかったが、その時の記憶の残滓が、まるで空間に縫い付けられたと錯覚させられるほど、その映像は鮮明に彼の視覚へとつながってきた。
 いつのことだったか。この感覚。
 確か呪泉洞での時のことだった。世界の意味とか自分の存在意義。そういった全ての価値あるものが、ぶち壊されたような感覚。意識の存在を拒絶していくあの感覚が、執拗に全身を支配していった。
 その時の彼女の寝顔は、これまで自分が見てきたどんなものよりも美しいと思った。絶対的な喪失感と無力感と絶望感。それらが、残酷なまでに彼女の寝顔の美しさを際立たせていた。
 もう、決して目を覚まさないと思われたその寝顔を。
 そのときの自分は間違いなく、砂の城のように脆く崩れ去っていく世界の音を聴いていた。
 その音は確かにこの世界にも、発されているような気がした。

 
 悪夢みたいだ。あの時の思い出したくない嫌な記憶が、こうも鮮明に脳裏に浮かび上がってくるとは。しかも、よりによってこんな時にだ。
「い……てえ……」
 その声に現実に引き戻され、振り向くと、ついさっき自分が倒したプールサイドに倒れているそいつが、意識を取り戻したところだった。結構本気でやったつもりだったが、こうも簡単に意識を取り戻すとは。流石に常人離れしているだけのことはある。あの不敵な態度も、どうやらハッタリではなかったようだ。
 まあ、流石に立ち上がれることはないだろうが。
 しかし、見事にプールは破壊されている。あちこちにひび割れが起こり、そこからプール内の水が漏れ出てきているため、プールには水が一滴も残っていない。おまけに更衣室やらトイレやらの窓ガラスはことごとくぶち破られており、もはやこのプールの原形がどんなものだったのかすら判然としない。現実世界じゃなくてほんとよかった。
 しかし、ここも現実にあたるんだよな。いや、夢幻だったけ。
 それとも、その境界線といったところだろうか。
 どちらなのか区別のつかないこの世界。自分の存在さえあやふやなものに感じられた。
 そして、今思い出したかのように自分の身体のあちこちを触り、ダメージの確認をする。幸い身体中に軽い切り傷がつけられているが、それ以外に特に目立った外傷は見られない。内臓の損傷や骨折もないようだ。普通に動いても問題はないだろう。
 それほど、乱馬はこの襲いくる中毒者を容易に片付けたのだった。
「や……ろう……」 
 未だに憎悪と執念を込めた双眸で、ハートは乱馬をにらみつけていた。その視線は、数十年を経てようやく見つけた仇敵と言わんばかりの、過剰なまがまがしさに満ちている。あくまで常人の感覚での話だが。
 そして、常人である(少なくとも自分はそう思っている)乱馬は、この常人離れした殺気と妄念が剥き出しになったハートの視線を受け止めて、少しというかかなり気分が悪くなった。
 そこまで恨むことか。寧ろ半殺しに留めたことに感謝して欲しいぐらいだ。ただ単純に命を奪うことより、適度な加減をしなければならないので、半殺しは意外と難しいことなのだ。下手をすればこちらの命の方が危険にさらされることになる。
 とは思うものの、同時にこれこそハッタリかもなあとも思う。
 たとえ相手がどれほど憎憎しいやつでも、自分はそいつを殺すことまではできないだろう。それだけの精神力が自分の中には培われていない。いや、この先何年経っても、自分は人を殺せないかもしれない。自分がそれほど冷酷にはなれないであろうことがなんとなくだが分かっている。
 まあ、その方が生きていく上で問題にならないので良いのだが。
 以前、もう顔すら覚えていないが、修行中にたまたま知り合った武道家の男にこんなことを言われた。
「お前にゃ人は殺せねえよ」
 なんでこんな話題になったのかは覚えていない。
 が、自分は何故かこの男の話に聞き入っていた覚えはある。
「は?なんで?」
「殺せねえ目をしているからだよ、お前が。人を殺せる奴の目なんてのは、大概目が死んでるのさ。要するに、もう自分はいつ死んでも構わないって輩だ。そして、そういう目が出来る連中ってのは生まれつきそうなんだよ。どれだけ辛い経験を積み重ねようが、死んだ目にはなれないね。つまりはそういう倫理的な境界線があるわけだ」
 なんだか論理的なようで、とてつもなく観念的にも聞こえる説明だが、その口ぶりにはどこか人を納得させる雰囲気があった。ふーん、と乱馬は頷いてみせる。
「境界線ね。でもよ、毎日のように殺人事件とか起きているような気がするけど。そんなに人ってのは殺しの才能を秘めているもんなのか?」
「そういう時、犯人はなんて答えるよ?大概、殺すつもりはありませんでした、とか答えるだろ。そういう奴らは境界線では間違い無く殺しのできない側の人間なんだよ。ま、法律的に見れば運がなかった連中ってことだな。でも、お前は修行積み重ねているから、そんなことにはならないだろう?」
「そうであって欲しいね。そう言うあんたはどうなんだよ?境界線とやらのどっち側の人間なんだ?」
 聞きようによっては、なんだか非常に失礼な質問だったが、男は大して気にも止めていない様子だった。
「さあな」
 印象の薄い男であったが、その時の会話だけは不思議と鮮明に頭に刻み込まれている。そして妙に納得していた。
 しかし、随分と物騒な話題だと今更ながらに思う。何話してんだ、俺は。
「境界線か」
 確かに殺人なんて生涯起こしたくない。しかし、世の中には別に構わないと考えている奴もいるってことだろうか。
 たとえば、今眼前にいる男のように。
「てめええ、覚悟しとけよおおお!てめえが死ぬまで追い回して、その身体引き裂いてやるからな!ついでにてめえの家族から恋人まで、てめえの目の前で全員やつ裂きにして……」
 ようやくまともにしゃべれるようになってから、ひとしきりに汚いことをわめきちらしているというか負け犬の遠吠えを吐いているハートの顔面に蹴りが入った。
 全くもってうっとおしい。
 こいつはどうにも口だけは達者なようだ。確かにあの変則的な動きにはそこそこ驚かされもしたが、慣れてみればその変則的に見える動きにパターンがあることが読めたのだった。
 後は簡単だった。ただ動き回って相手を撹乱させ、隙を見てナイフを投げつけてくるという、まあ乱馬からしてみれば常套戦法だったので、こいつの動きを線で捉え、そこを捕まえてから羽交い締めにして気絶させたのだった。気絶するまでは、ぼこぼこにさせてもらったが。
「おい、質問だ」
 乱馬はハートの髪を掴みあげて、少しドスをきかせながら質問した。
「お前らのリーダーはどこにいる?」
「知らねえな」
「あかねは無事だろうな?」
「知らねえな」
「お前ら正気か?本当は何が目的なんだ?」
「知らねえな」
 どす!
 録音テープのようにしか話さないハートに苛立って、乱馬は再び顔面に蹴りを入れた。
「てめえ、知らねえ知らねえで通ると思ってんじゃねえぞ。こちとら、今すぐこの校舎ぶち壊したいぐらいに頭きてんだよ。もし、このまま何も吐かないなら」
「どうするよ?殺すか?」
 う、と乱馬は言葉に詰まる。
 どうするんだ?と真面目に自問自答した。こいつは、はっきり言って肉体的な拷問に屈するような奴では無いし、そんなことをしている暇も無いのだ。特に有効と思われる手段が何も思いつかない。
 うーん、としばらく悩んでみて、自分がとても間抜けなことをしていることに気がついた。
 悩む間に自分で探すより仕方がないではないか。
 ち、と舌打ちして乱馬は再び校舎に向かう決心を固めた。そして、眼前の男を無視して、その場から離れようとしたその時、
 がしっ!と腕を力強く掴まれた。
「な、なんだよ?」
 思わず慌てる乱馬だったが、ハートは構うことなくさらに力を込め、そしてその口元に、にやり、と底の知れない歪んだ笑いを浮かべた。
 その笑いは、背筋に何かぞっとするものを走らせること請け合いの飢えた野獣のおたけびのようであった。脳内でレベルMAXの警戒信号が鳴り始める。
 危険だという。
「は、離せこら!」
「お前は別に何も探す必要はねえよ。ましてあかねとかいう奴を心配する必要もねえ」
「な、どういう意味……」
 そして、乱馬は気がついてしまった。
 全身が冷凍庫に入れられたみたいにおぞましい寒気が背筋に走る。
 どこから取り出したのか、ハートの右手には棒状のようなものが握られていた。
 テレビよりも映画でよく見かけられるそれは、現実世界では実に霧のようにおぼろげなものに感じられる。
 だが、乱馬の記憶に間違えがなければ、眼前のそれは間違い無くダイナマイトと呼ばれるものであった。
「何故ならお前はここで死ぬからな」
 その声と同時に、導火線の火が本体に到着する。
 憎悪と執念が内在したその爆発は、辺りに凄まじい衝撃を迸らせた。

 
 長い間夢の中にいたような気がする。頭がぼおっとしている。
 夢はなんて都合が良いんだろう。現実逃避できる格好の対象だ。そして、何故この世界は夢のようにはいかないのだろう。
 そもそも夢と現実とはどうやって判断するのだろうか。
 何をもって現実とし、夢とするのだろうか。
 そして、その境界線はどこに引かれているのだろうか。
 希望がかなう時、人は夢のようだと言う。しかし、絶望する時、人はこれが現実と思う。
 希望が夢で、絶望が現実なのだろうか。もしそうなのだとしたら、この世界を作った神様とやらはなんとすばらしい人格者であることか。
 そんな哲学的なことをときどき彼女は考える。
 ぱりん、という無機質な音が辺りに響き渡った。
「あいやあ」
 皿を取り落とすという自分らしからぬミスに思わず叫んでしまう。何故だかどこかから衝撃がきたような気がして、思わず手が震えてしまったのだ。
 何故だろう。別に地震が起きたわけでもないし、どこかで爆発が起きたようでもない。疲れがたまっているのだろうか。そういえばさっきから頭がぼおっとしているし。
 何を言っているんだ、自分は。疲れを知らないほどの体力が自分の長所のひとつではないか。何かの錯覚だろう。こんな調子では、この猫飯店に来る常連客の人達に対して失礼というものだ。
 ふう、と気合を入れ直して、笑顔を作った。お客さんの中には、自分の笑顔を見たいが為に足を運んでくれている人もいるという。それが、本当に嬉しかった。
「おい、注文注文」
 はい、と精一杯の笑顔で注文を受けにいく。
 しかし、客のいるテーブルの前まできて、途端にその笑顔が薄れた。
「なんだ、お前達か」
 眼前の客は良牙とムースであった。全身の力が抜けそうな客だ。
「なんだはねえだろ。なんだは。こっちは客だぞ」
 確かに客として来てくれる分にはいいのだが、何せ店をよく壊すわ、ろくでもない問題を持ち込んでくるわ、はっきり言ってあまり歓迎できない奴らだった。
 そして、シャンプーはそもそも良牙を自分の最も愛している人の敵だと認識しているので、つまりは自分の敵だという認識があるのだった。本人はライバルとか何とか思っているのだろうが、そんな微笑ましい考え方は彼女の中には存在していない。
「笑顔作って損した」
 にべもなくそう言う。
「おいおい、そりゃないだ。シャンプー」
 ムースが抗議の声をあげたが、シャンプーは答える代わりに蹴りをくれてやった。
「おまえ、出前どうした?もう終わったのか?」
「ぐ……いやまだだが、ここらで少し休憩を……」
「働かざる者食うべからずね。さっさと行くがよろし」
「なんだか、俺らにゃいつも冷てえなあ、お前」
 優しくされることを欠片も期待していないくせによく言う。大体そうは言われても、優しくする必要性が無いだろ。
 そんなひどいことを内心本気で思いながら、こう付け加えてやった。
「乱馬がいれば別だけどな」
 それはもう最上級の笑顔で迎えるだろう。
「ぐ、ひどいだシャンプー」
 ムースの行き場のない抗議と同時に入り口が開いた。
 ひとりの少女が入ってくる。
「あかね、珍しいな」
 シャンプーが声をあげた。ひとりであかねが来るとは実に珍しい。なんの用事で来たのだろうか。まさか、客として来たとも思えないが。
「乱馬を渡しにきたのか?」
「何馬鹿なこと言ってんのよ」
 期待を込めずに言った挑発にあかねはむきになって怒った。
 やっぱり、どこか単純ね、この女は。
 自分のことをあまり省みないシャンプーはしきりに頷いている。
「あ、あかねさん……」
 良牙が意味も無く緊張している。それを見て、はあ、とシャンプーは肩を落とした。
 本人は必死なのだろうが、こうも不器用では、毎回同じ光景を見ているシャンプーとしては、なんだか世の中の報われない不条理さを見ているような気がして、滑稽よりも寧ろ同情を感じてしまう。
 そんなシャンプーの憐憫の情がこもった視線に、良牙は全く気がつかない。
「どうしたんじゃ?」
 奥から何やら騒がしくなっている店内にコロンが出てきた。
「ん?あかねか?なんの用じゃ?」
 あかねは、にこり、とコロンに向かって微笑を浮かべる。
 その笑顔は砂漠のように、あるいは海のように、静かに深く彼女の顔に浮かんでいた。
 そして……


 シャンプーの耳に誰かの声が飛んでくる。
「?」
 振り返ったが、声の主は見当たらない。
 幻聴だろうか。なんだか聞いたことがあるようで無いような声だった。これはいよいよもって身体に疲れがたまっているかもしれない。しかし……
「今の声……乱馬か?」
 根拠は無いが、何故かそんな気がした。

 そして、境界線は静かに破られる。


 つづく



作者さまより

今から見れば、最初のころの自分の小説、まあよく臆面も無くあんなん送ってたなあというぐらいひどいですね。いや、今も下手くそなんですが、しかし初期に比べればまあ、少しは精進したかなと。うーん、文章は奥が深い。
しかし今回は自分で見てもかなり退廃的になってますね。自分の心情でも表れてしまったんでしょうか。
ちなみに自分は個人的に一番シャンプーが好きだったりします。今回なんか登場してますが。



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