第八話 名残の花


一、

「あかねさんと乱馬さんが危ない。」
 初音がなびきを見返した。
「だからって言って、この状況じゃあ、何にもできないんじゃないかしら?」
 なびきは回りを見回しながら言った。
 乱馬へと缶珈琲を投げつけてから、こちらの存在がばれていた。したがって、奴らの仲間たちが、にいっと笑いながら、二人の周りを囲っていた。
「でも…。このままだと…。」
「あたしたちも危ないかもしれないわねえ。」
 焦る初音に対して、なびきはいたって冷静だった。
「ま…。彼が何とかするんじゃないのかな。ううん、彼なら何とかしちゃうでしょうね。」
 そう言いながらにっと笑った。
「でも、形成は明らかに不利ですよ。何とかするって言ったって…。限界が…。」
「だからって、ジタバタしたところで、どうになるってもんでもないから、見物してましょう。このくらい離れていたら、多分、大丈夫でしょうから。」
「大丈夫って…。」
「いいから、いいから。」
 自信ありげななびきに、初音は不安げな顔を手向けた。




「さて…。どうやって料理してやろうか?このまま海に沈めるってもの、いいかもしれねえな。」
 そう言いながら、サンドバックのように、乱馬を翻弄した。
 埃まみれになりながら、乱馬は地面を転がる。
「いいぜ、やっちまえっ!!」
 やんや、やんやと後ろがはやし立てる。
 あかねを捕らえられて、抵抗できない乱馬を、でくの坊は滅多打ちにした。
 乱馬はただ、黙ってなすがままにでくの坊を睨み返す。
「気に入らねえなあ…。その目っ!」
 そう吐き出しながら、再び彼の拳が乱馬を襲う。

「乱馬っ!!」
 思わずあかねが叫び声を上げた。
「大丈夫だっ!俺はそう簡単にはやられはしねえ!」
 乱馬はそう叫んだ。
「でもっ!」
「てめえも武道家の端くれなら、俺の闘い方をきっちり見ておけっ!!馬鹿野郎!」
 乱馬が蹴りを喰らいながらも叫んだ。

「闘い方?へっ!やられ方じゃねえのか?」
 でくの坊はそう言いながら突っかかっていく。

 思わず目を逸らしたくなったが、あかねは、はっとして乱馬を見た。その一言に冷静さを取り戻したのだ。
(そうよね…。あの乱馬がこのまま、引き下がる筈はないわね…。)
 そう思いながら、じっと乱馬を見詰めた。
(あ、あれは…。)
 その時だ。あかねの凝らした瞳に、僅かだが、乱馬を中心に渦巻く気の流れが見えた。周りが興奮しながら、乱馬のやられている姿をはやし立てる。彼らの熱い身体から、熱気がどんどんと流れこんでいくのが見えるのだ。あかねの後ろ手を引きながら、ナイフで脅し続けている、目の前の男からも、気は流れている。
(乱馬、あんた…。)

 暖かい春の陽だまりを、ぬるい風がさあっと流れてくる。カサカサと音をたてながら、背後の常緑樹の葉が揺れる。新芽が芽吹くこの時期、常緑樹は葉をしこたま落す。その葉が、気の流れに沿って、くるくると乱馬の方向へ流れて行くのが見えた。

(あの技を、飛竜昇天破を撃つの?乱馬!)
 あかねはじっと乱馬へと目を凝らした。
 乱馬はでくの坊にやられながらも、確かに、螺旋のステップを描いていた。
 疑問は確信へと変わった。

(お姉ちゃん!初音君っ!!)
 あかねは心と目で二人に叫んだ。

(あかね?)
 なびきがあかねの視線の動きを捉えた。観察力の鋭い彼女は、あかねが目で何かを言おうとしておるのを敏感に察知したのだ。
 あかねは視線を使って、乱馬の方を流し見る。そして、なびきに必死で何か合図を送っていた。
 巻き込む気の大きさによっては、なびきたちの回りも巻き込んで、大技がぶっ放されることになるかもしれない。あかねはそれを危惧したのだ。
 飛竜昇天破の破壊力は目の当たりにしたものでなければわかるまい。少しでも被害を食い止めるには、咄嗟に何かにつかまって渦に巻き込まれないようにするしかない。
「初音君…。」
 なびきがぼそぼそと初音の耳元に囁きかけた。
「あたしが合図したら、形振り構わずに、そこのベンチへしがみつくのよ。何があっても放しちゃだめ。」
「え?」
「いいから、怪我したくなかったら、あたしの言うとおりになさい!」
「は、はい…。」
 なびきが何を言っているのかわからなかったが、彼女の気配が逼迫(ひっぱく)していることだけはわかる。
 ちらちらとベンチとなびきを比べ見ながら、初音はぐっと手を伸ばした。


「へっへっへ…。そろそろ仕上げといくかな…。」
 大男が乱馬の頭を片手でつかみ、ぐぐっと上に持ち上げた。
「念仏でも唱える暇をやろうか?」
 余裕ででくの坊は乱馬を流し見た。

「へっ!念仏を唱えるのはてめえの方だぜっ!」
 乱馬は握っていた右手の拳を、ぐっと上方へと突き上げた。

「俺の飛竜昇天破、喰らいやがれっ!でやああああっ!!」

「な、何?」

 一瞬であった。
 乱馬から突き上げられた氷の拳が、熱気をそのまま、突き上げたのだ。
 彼の放った拳は、同時にでくの坊の大きな図体も突き上げたのだ。

 ゴゴゴゴゴゴゴ…。

 地面が物凄い音をたてながら、盛り上がる。
 ザザザザザっと風が乱馬の振り上げた拳の方向へと流れる。堰を切るように一気に熱気が吹き抜けていったのだ。

「うわあああっ!!」
「な、何だ?」
「竜巻?」

 突然の異変に慌てる男たち。あかねを捕らえていたリーダーの手も緩んだ。

「でやあああっ!!」
 あかねの見事なアッパーパンチがリーダーのアゴへとまともに入った。
 彼は突き上げられた拍子に、竜巻へと吸い込まれて行った。
「うわあああっ!!」
「た、助けてくれえっ!!」

 ゴオゴオとビル街の谷間の公園を巻き上がる竜巻。
 
 初音はなびきと共に、必死で備え付けのベンチへとつかまった。幸いベンチはネジで地面に固定されていたので、一緒に吸い上げられることはなく、何とか竜巻から逃れることができた。

「あかねっ!!」
 乱馬は咄嗟に、身を盾にして、あかねをがっしとつかむと、地面へと彼女を押し付けた。できるだけ姿勢を低く保ち、気流に身体を持っていかれるのを耐えたのだ。

 やがて、チンピラたちを振り回し、地面へと投げつけて、竜巻が収まった。
 ようやく、付近の異変に気がついた人々がざわざわと集りだした。

「さて…。後々面倒だからな。あかね、この場は…。」
「逃げの一手ね。」
 二人は、集る野次馬の中を通り抜けて公園を抜け出した。勿論、なびきと初音もそれに続く。
 集る人々は、誰も彼らのことなど気にもとめなかった。



二、

「君が、乱子ちゃんと同一人物だなんて…。まだ信じられないな。」
 初音が円らな瞳を乱馬へと手向けた。
「ま、信じられないのも無理はないわね…。でも、ほら。」
 そう言いながら、なびきが水を乱馬へと浴びせかけた。
「くおらっ!なびきっ!わざわざ、水をかけるなっ!水をっ!!」
 乱馬が怒涛の如く怒り出す。

 ここは、天道家の軒先。
 あれから、一同は逃げるようにその場を離れ、天道家へと帰ってきたのだ。

「この子ったら、ドジでさあ…。中国の修行場で呪いの泉に落っこちて、こんな変態体質になっちゃったのよ。ふふふ。ね、乱馬君。」
「うっせえっ!変態体質じゃあねえっつーのっ!変身体質だっ!!」
「あら、どっちも似たようなものじゃない。」
 あかねが口を挟むと、
「似てねえっ!変態と変身じゃあ、意味が全く違うだろがっ!!」

「でもさあ…。」
 なびきはニュースが映し出されるテレビ画像をちらっと眺めた。

『次に、本日午後三時ごろ、横浜のベイエリアで単発的な竜巻が観測されました。竜巻は局地的だった模様ですが、何人かの若者が巻き込まれて怪我をしています…。』

「ホント、飛竜昇天破が竜巻になっちゃったんだもの…。凄いわよね。」
 なびきがにんまりと笑った。
「仕方がないんじゃないの?だって…。飛竜昇天破なんて格闘技はメジャーじゃないし、非現実的な技でもあるから…。それに…。」
 あかねは怪我人として映し出されたチンピラ少年たちの画像を眺めながら言った。
「彼らだって、自分たちの罪や乱馬から受けた技なんか、恥ずかしくって口にできないでしょう…。竜巻っていう自然現象ってことで理由つければ、面目も立つし、罪も問われないんでしょうしね。」
「まあ、自業自得ではあるんだけど…。」
 そう言いながら、外へと目を転じた。
 もう、すっかり陽は落ちて、庭も夕闇が迫っている。

 だが、庭先で天へと枝葉を伸ばしている桜の木の辺りだけは、ほんのりと明るい。花の白さが暗闇に浮かび上がって、何ともいえぬ美しい世界を作っていた。

「さあ、なびきやあかねも手伝ってちょうだいな。」
 奥の台所からかすみの声がした。
「はーい!」
「今行くわ。」
 二人が立ち上がった。
「結局は、家で花見かあ…。」
「いいじゃないの、天道君。せっかく、ここにも綺麗な花が咲いているんだから。」
 早雲と玄馬が、敷物を持って、桜の木下へと出て行く。
「初音くんも最後の夜だから、ささ、ぱあっといこう!ぱあっと…。」
「あ、はい…。」
 花見の宴が、天道家で始まる。
 結局のところ、公園は賑やか過ぎて場所取りも上手くいかず、人が多すぎて楽しめないということで、家の庭先に敷物を広げて、花見をすることに落ち着いた。
 台所から、かすみが作ったたくさんの花見の料理が運び出される。
「あ、ワシ、花より団子っ!」
「嘘付けっ!親父の場合は食い物よりも酒じゃねえのかっ!」
「もう、そんなにがっつかないでよ、乱馬もおじさまも。」
「みっともないわよ。」
「うっせえっ!ベイエリアのゴタゴタで、こっちは思いっきり腹が減ってるんだっ!!」
「さあ、パンダの裸踊り行ってみようか!」
「パンダは最初っから裸でしょ?お父さん!」
「ぱふぉー。ぱっふぉっふぉっふぉーっ!!」

 賑やかな家の賑やかな宴。
 そこここで笑いと歌が飛び交う。


 食べ物も少なくなり、父親たちにほろ酔いが回りだした頃、乱馬に、初音が話しかけた。
「君が乱子ちゃんと同一人物だったなんて…。」
「やっぱショックか?」
「ええ…。まあ…。でも、本当は…。」
 初音はポツンと桜を見上げながら言った。
「ホッとしたところもあるんです。」
「あん?」
「その…。乱子ちゃんのあかねさんを見詰める目は、普通の友達へ手向けるものとしては、真剣すぎると思ってたんで、僕。」
 そう吐き出して、初音はふっと笑った。
「普通の友達じゃねえって?」
「ええ…。でも、乱馬さんと同一人物だと知って、何だか納得しました。」
「良く意味がわからねえな…。」
「…実はね、僕の父も、この家で初恋に落ち、見事、玉砕したらしいんです。」
「ここでか?」
「ええ…。僕より少し年上の二十歳の頃。ここで、一人の少女に出会って…。でも、少女にはもう既に好きな人が居て…。」
「へえ…。」
「あかねさんたちのお母さんだったみたいですけどね。」
 そう言葉を告ぎながら笑った。
「やっぱり桜の季節で、こうやって桜を見上げながら、恋破れたって…。でも、それはそれで良かったんだと、後で父は言ってました。恋破れたからこそ、僕の母さんと出会うことが出来たってね。」
「なるほどね、親子揃っての日本での失恋ってか…。」
「僕の場合、失恋の数には入らないかもしれませんけどね…。僕は…。幻の少女に恋していたんですから。」
「幻の少女…かあ…。」
「ええ。」
 そう言いながら、初音は桜の枝を見上げた。
 ひらひらと一花、舞い降りてくる花びら。
「ま、恋の一つや二つは見送っても構わないんじゃねえのか?…それも、人生。そうだろ?」
「そうですね…。でも、乱馬さんはどうなんです?この恋、見送れますか?」
 そう言いながら、あかねを流し見た。
「…見送るつもりなんてねえよ。俺は失恋なんかしねえ。」
 乱馬は静かに答えた。
「どうして?」
「この恋を手離すつもりはねえから…。それに、俺は…強くてカッコいいからな。」
「わあ…。凄い自信ですね。」
「あったりめえだ!」
 そう言い合いながら、二人、からからと笑った。

「ねえ、初音君。ヴァイオリン弾いてよ。」
「そうねえ…。せっかくだから夜桜の下で聞いてみたいわ。」
 離れていたあかねとなびきが、こっちへやってきて、せがんだ。

「ほら、リクエストだぜ!」
 乱馬が突付く。
「あ、はい。楽器持って来ますから、待っててくださいね。」

 夜の桜と美しいヴァイオリンの響きと。
 きらびやかなヴァイオリンの音色。後で初音に訊いたら、ベートーベンのヴァイオリンソナタ第五番だと教えてくれた。副題に「春」という名前があるという。
 天道家の人たちは、暫し幽玄に酔いしれながら、桜の花を愛でた。
 過ぎゆく春の夜を惜しみながら。



三、

「初音っ!!しばらくぶり。元気にしてたかい?」

 翌朝、迎えの車が来て、初音の父、和音が天道家へと降り立った。
 やっとスケジュールの隙間が出来て、父親自ら、世話になった天道家へ出向いて来たのだ。

「おお、早雲!君もお元気そうで何よりです。」
「君も、すっかり貫禄つけちゃって!!」
 がっしと抱き合う中年親父が二人。

「すっげえ、抱擁なんかしてらあ…。こっちがてれそうだぜ。」
「外人さんってオーバーアクションだからね。」
 乱馬の横からなびきが、横からデジカメのシャッターを切った。
「とか言いながら、お姉ちゃんって、ちゃっかり画像撮ってるじゃない。」
 とあかね。
「和音・フランツが相手ですもの。そう、日本に来るわけでもないし…。お宝画像になるわよおっ!」
「そっから離れなよ、お姉ちゃん…。」

 旧友の対面と親子の対面。
 日本公演を終え、落ち着いたのか、和音はとってもテンションが高かった。
「初音も、すっかり逞しくなって…。武道はどうでしたか?」
「ええ、基本の型なら、ばっちりです。」
「力は全然上がってねえけどな。」
 乱馬が傍で笑った。
「もう、酷いんだったら、乱馬さんは。」
「そりゃあそうさ。一週間やそこらの修行では、せいぜい基本中の基本の型を覚えるくれえ、力までは身につかねえさ。悔しかったら、また来な。今度は俺がじきじきに教えてやるよ。」
「本当に?」
 目を輝かせた初音に乱馬はこくんと頷いて見せた。
「ああ…。」
「嘘っぽいわね。初音君の面倒は全部、あたしに押し付けてたくせに。」
 横からあかねがひょいっと口を挟んだ。
「うるせーっ!」
「今度は、気技、是非僕にも教えてくださいよね。乱馬さん。」
「気技は難しいから無理だな。十年は修行しねえと…。」
「先生が良かったらすぐ覚えられるんじゃないでしょうかね?」
「あー、言ったな、このやろう!!」
「あっはっは。」

 屈託ない若者たちの笑い声が天道家に響く。





 ひとしきり、天道家で歓談した後、いよいよ初音が天道家を去る時が訪れた。


「初音…。つき物が落ちたようですね…。というか、ふっきれましたか?」
 和音はにっこりとヴァイオリンケースを手にした息子を見た。
「はい…。やっと…。」
 初音の目が美しく輝いた。もう、そこには迷いの光は宿ってはいなかった。
「ほお…。ダテ眼鏡も外したのかい?」
「度のない眼鏡は、僕にはもう、無用の長物ですから…。」
 そうだ。ベイエリアでの一件以来、彼は眼鏡を外してしまったのだ。
「やっと…。外す気になりましたか。」
 初音は目を細めて我が子を見た。
「早速、帰ったら、遅れた分、取り戻して猛特訓ですね…。」
「ええ、夏のコンクールに備えるよ。父さん。」

「初音、昨夜の音色なら、きっと、次のコンクールは優勝するさ。しっかりやれよっ!」
 乱馬が初音に声をかけた。
「ええ…。きっと朗報をお届けします。乱馬さんも、しっかり修行して、格闘界の中央へ躍り出てください。」
「ああ、言われるまでもなく、そうしてみせるぜ。俺たちは強い。おめえも、俺も。それぞれの生きる世界の中では最強になるんだ。」
「そうですね…。僕たちは強い二代目だ…。」
 二人の手ががっちりと合わさった。
 恋が友情へと変化した瞬間だったかもしれない。



「友情も芽生えましたか…。昔の私たちのように。」
 和音は息子たちから視線を桜の木へと手向けた。
「美しい花、桜。早雲…。ここからみ上げる空は変わりませんね。都心の変化は目まぐるしいが、ここは昔のままだ。人の心も、温かさも…。」
「ああ、そうだね。代は確実に次の世代へ受け継がれてはいるが…。」
「花の宿…。初音の心にも、ずっとここでも思い出は残るんだろうね…。まだ、私の心に二十年以上前のこの家の桜が咲き続けているように…。」

 早雲もまた、一緒に空を見上げた。桜の花が青い空の下、満開の花をたわわに揺らしていた。





 桜の花道。
 フランツ親子を乗せた車は、エンジン音も軽やかに、天道家から遠ざかっていく。
 見えなくなるまで手を振った後、天道家の人々は、それぞれ門扉の中へ入って行った。

「さてと…。俺も初音が居た間にすっかり鈍っちまった身体、も一回鍛えておかねえとな…。」
 乱馬は空へクンと一伸びした。
「今日もお花見やるってお父さんたちが言ってたわよ。今度は、近所の皆を呼んで盛大にやるんだって。」
「へえ…。そりゃいいや。」
「日本人の特権ですものねえ…。花の季節のささやかな楽しみ…。」
「あれ?おめえも身体動かすんじゃねえのか?気技教えろって言ってたじゃねえか…。」
 玄関へ入ろうとするあかねを呼びとめた。
「修行は明日からでいいわ。」
「お、おい!修行に待ったはねえって、てめえの口癖じゃなかったっけ?」
「うん、わかってるけど…。今日はね、これからかすみお姉ちゃんを手伝って、花見のご馳走をたっくさん作ろうって思ってるの。こっちも修行しないとね。」
 腕を捲し上げながらあかねがにこっと笑った。
「でえっ!てめえ…。まさか…調理する気じゃあ…。」
「何よ、文句有る?」
 ギロッと見返す、悪魔の瞳。
「や、やめろっ!頼むから、やめてくれっ!」
 乱馬は思わず、揉み手してみせた。
「何言ってるのよ。手伝わないと、かすみお姉ちゃん一人じゃあ、大変でしょうが。何人分作らなきゃならないと思ってるのよ。」
「やめねえなら、俺、花見はパスな…。」
 乱馬はその場から逃げ出そうとした。
 その襟首をぐっとあかねが握って引き戻す。

「あんた…。あたしの手料理から逃げる気?」

「あ、あったしめえだっ!お、俺はまだ、死にたかねえーっ!!」

 パシッと手を振り切って、逃げ始める。

「乱馬あっ!!言っていいことと悪いことがあるでしょうがっ!せっかくあんたのために作ってあげるって言ってるのに。」

「それが余計だっつーのっ!まだ、花嫁修業するには早いだろうがっ!」

「遅かれ早かれ、いつかは、手料理食べるんだから。いいじゃないの、付き合ってくれてもっ。」

「やだ!おめえの手料理食べるくらいなら、逃げるぜ、俺は!」

「ひっどーい!」

「うるせー、俺は正直なんでいっ!」

「絶対美味しいって言わせてやるんだからっ!」

「今のおめえの腕前じゃあ、無理だっ!」

「言ったわねっ!!」

「ああ、言ったさ!もっと修行してからにしてくれいっ!!後生だから。」

「何をっ!」


 二人の追いかけっこが、だんだんにテンションを上げていく。



「やれやれ…。本当に仲がおよろしいことで…。」
 その様子を見ながら、なびきがふっと頬を緩めた。
「世は全て事もなし…か。天下泰平ね。少なくとも、天道家(ここ)は…。」



 庭先では、乱馬とあかねの追いかけっこを見下ろして、桜がたわわな花を、重そうに、枝先いっぱいに咲かせていた。
 その上には、どこまでも続く、蒼茫な春の空。
 巡り来た、花の季節を謳歌するように。








一之瀬的戯言
「花の宿」
花のたくさん咲いている家のことです。
桜の季節に合わせて前から書きたかった一本。
四話くらいでさらっと流し書きするつもりが、予定オーバーして、長編になってしまいました。
長丁場、お付き合いくださりありがとうございました。


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