第七話 男の花道
一、
海から渡ってくる風は、心地良く頬を撫でながら通り過ぎていく。
ゆっくりと上に上がりだすゴンドラ。
結局、初音に誘われるままに乗り込んでしまった。
己の愚かさを悔いてはみたが、扉が閉められてしまえば、引き返すわけにも行かない。それに、目の前の初音は、にこやかに乱馬と景色を楽しんでいる。
こうなっては、何事もないことを祈るだけだった。
二人だけの重苦しい時間の始まりだった。
目の前に居るのがあかねならば、憂慮するようなことは何もないだろう。
共に好奇心をたぎらせながら、目の前に広がる東京湾岸や関東平野を一望して、感傷に浸ることもできるのだろうが。
今目の前に居るのは、少年。それも、己を女だと完全に思い込んでいる青年。
熱っぽい目が乱馬にはたまらなく恐ろしかった。
「海の景観もどんどん変わっていくな…。ベイブリッジだって、昔はなかったろうし…。」
ふと目を転じると、そこは太平洋。
「この海の向こうに、別の国があるなんて…。」
青い海原はずっと遠い外国まで続いているのだろう。
「ここは、母との思い出が深い場所なんだ。」
初音がふっと言葉を切った。
「母さんの?そっか…。おめえの母ちゃん、死んでたんだっけな。」
前に二人きりになったとき、初音から聞かされた身の上話を思い出した。
「随分前に、一度、母とこの観覧車に乗ってるんだ。」
遠い景色を眺めながら、初音が話し始めた。
「まだ、学校にも上がらない頃のことだけど、よほど印象に残ったんだろう。今でもはっきりとあの日の光景が浮かんでくるよ。母はこの観覧車で父にプロポーズされたそうなんだ。」
「プロポーズ?」
「ああ…。留学中だった母と出会い、日本公演のときにそっと楽屋を抜け出して、この観覧車に二人飛び乗った。その頃には二人、随分な恋仲だったらしいけど、改めて母へ父は結婚を申し込んだ。」
「結婚…をねえ…。」
「そんな思い出を、まだ幼かった僕に嬉しそうに話してくれた。青い空がどこまでも続く穏やかな春の日のことだったそうだ。」
「で…。おめえの母ちゃんと今の状況と、どう関係があんだ?」
乱馬は怪訝な顔を差し向けた。
「あはははは…。」
初音はいきなり笑い出した。
「本当、君は鈍い人だねえ…。」
笑ったかと思うと、今度は真顔になった。
「君ってあかねちゃんと本当に仲が良いんだね。」
ふっと初音は言葉を告いだ。
「そう見えるか?」
「ああ。見えるよ。…まるで恋人のように見えることもある。」
乱馬は思わずドキッとした。
「でも、それは余りにも、理不尽だ。」
初音は続けた。
「理不尽?」
「ああ…。君たちはどんなに仲が良くても「夫婦」にはなれない。僕になかなか入る隙を作らせないのは何故かとずっと考えていたんだが…。」
咄嗟にばれたかと思った。ゴクンと唾を飲む。
「君は男の人と付き合った事がないんだろう?」
「あ…ああ、まあな。」
己にはそんな趣味は勿論ない。そう言いかけたがぐっと堪えた。
「だから、乱馬さんとあかねさんの間に入って、ヤキモチを妬いてたんじゃないのかな?違う?」
大いなる見当違いであった。
「だから…。どうだろう?僕とその…。付き合ってくれないかな…。」
「勿論、まだお互い若いから「結婚」とまでは言わないけれど…。」
熱っぽい目が乱馬を捕らえた。
(ま…。まじい展開だぞ、これは…。)
さすがの乱馬も、初音が何を言わんとしているか、ピンと来た。
(俺の、貞操のピンチ…。かもしれねえ…。)
ここは、空中の密室。回りには何もない。また、逃げ場もない。
間もなく天辺へと到達するゴンドラの中、乱馬はゴクンと唾を飲み込んだ。
「あら?」
あかねの異変になびきはふと足を止めた。
彼女の周りに少年たちが集っている。どう見ても、たちの悪いごろつきだった。何か因縁でも付けているようで、はっしとにらみ合っている。
ハンカチを鞄にしまいこみながら、なびきはあかねたちの方をじっと見た。
まずは観察すること。ここから始めなければならない。そのことを、この姉は冷静に判断していた。
己には当然のことながら力はない。無差別格闘流の基本すらおぼつかないのだ。
下手に飛び出していけば、己にも火の粉が降りかかる。それくらいのことは、承知していた。
「不味い!」
それが徹底的な見解になるまで、時間はかからなかった。
このままだと、この無鉄砲な妹は、この少年たちと一悶着起すだろう。いや、むしろあかねが危ない。
なびきは、少年たちに己の存在を気付かれないように、そっと尾行しながら、あかねの動向を見守っていた。
「さて…。姉ちゃん。覚悟はいいか?」
そう言って少年たちがにっと笑った。
「この前はしこたまやられたが…。今日は俺たちの仲間うちにも、強い奴が居るんでな。」
そう言ってリーダー格の男は後ろを振り返った。
でっかい少年がぬっとそこへ顔を出した。
「へへへ…。こいつ、柔道や空手で結構、身体を鍛えてんだ。」
「あら…。あたしにはただのでくの坊としか、思えないんだけど…。」
あかねは物怖じせずにきっとそいつを睨み返した。
「気の強いのも、いい加減にしとかねえと…。怪我するかもしれねえぜ?えっへっへ。」
ケンという少年はそう言いながら、でくの坊へと目で合図した。
でくの坊は、ぬおっと身構えた。
(確かに…。こいつは出来る。)
あかねの中の格闘家の血がぞわっと沸き立った。
でくの坊から立ち上がる「気」がそれを物語っている。鬼気とした殺気が漂ってくるのだ。
「こいつは、試合で何人も病院送りにして、そのせいで、格闘界から追い出された異端児なんでな…。」
にいっとリーダーが笑った。
「今のうちに、降参して、俺たちになびいた方がいいんじゃねえか?」
「そうだ…。俺の彼女にならねえか?丁度募集中なんだ。」
「丁度、女日照り、続いてたんだ。」
他の男たちがぺろっと舌なめずりしながら、あかねを見回す。
「断るわっ!」
気丈なあかねはそう言い放った。
「へっへ…。そうこなくっちゃな。せいぜい抵抗して、俺たちを楽しませてくれよ。丁度、久しぶりに、こいつが闘う姿も見たかったしな…。散々痛めつけたあとで、可愛がってやるよ。」
あかねはでくの坊と間合いを詰めながら、気をためていった。
二、
丁度ゴンドラが、頂点を極めた時に、すっと初音の手が乱馬の方へと伸びてきた。
一緒に逆立つ乱馬の鳥肌。
何か言わなくちゃと思うのだが、初音の気迫に押されて、言葉を失いかけていた。
「乱子ちゃん…。その…。良かったら、僕と…。」
そう言いかけた初音。
と、乱馬の鞄の中で、携帯が個性的な着メロを奏で始めた。
重苦しい音の羅列で始まるメロディー。ど演歌のイントロだった。
(げえ…。なびきの奴、趣味悪い…。)
思わずそう吐き出しそうになった。
「おほほ…。携帯の着信だわ、ちょっと待ってね、初音さん。」
いきなりぶりっ子な声を出すと、乱馬はいそいそと携帯電話を取り出して、電源を入れた。
「はい…。もしもし…。乱子です。」
ラッキーだと思った。是が非でもこの電話を引き伸ばして、地上へ到達してしまえば、とりあえず、密室の危機だけは免れる。
『あ、乱馬君。あたしよ。』
「で…。なびき?」
思ったとおり、電話はなびきだった。
「グッドタイミングだな…。あ…いや、こっちの話だ。で、何の用だ?」
『慌てないで聞いてね。あたしたち、あんたと初音君のあとをずっと尾行してたんだけど…。』
「な。何ぃ?尾行してたあっ?何で…。」
思わず、声を荒げた。
『そんなことはどうでも良いのっ!!あかねがピンチなのよっ!!』
なびきが携帯の向こう側で叫んだ。
「あかねも一緒だったのか?」
『そう…。ちょっとしたアクシデントに巻き込まれて、あの子、チンピラに囲まれてるの。』
「何だ…。そんなことなら、あいつは強いから…。」
『何、悠長なこと言ってるのよっ!ピンチだからあたしが電話してあげてるんでしょうがっ!!どうも雲行きが怪しいのよ。強い奴が居るみたいでさあ。あかねの動きがいつもに比べて鈍いの。』
「な、何だってえっ?」
『いい、良く探してね。場所言うわよ。そっちからだと海側ね。ビルの脇に小さな公園があるでしょう?』
「ああ…。ある。」
『その影、見えない?人影がたくさん。』
「ちょっと小さいけど、何となくわかる。」
『そこにあかねが居るわ。あたしもその近くからかけてるの。お願い。そこを降りたら、直行して頂戴っ!でないとあかねがっ!』
「わかった…。なびき、ついでにお願いがある。」
『何?あたしに出来ることなら…。』
「湯を…何でもいいから、湯を用意しろっ!」
『湯?でも、そんなことしたら…あんたの正体が…。』
「かまわねえっ!対峙してる奴があかねで持て余すなら、乱子でも無理かもしれねえ…。缶珈琲でも何でもかまわねえから、俺に浴びせかける準備だけでもしてろっ!」
『わかったわ…。』
「頼んだぜっ!」
そう言って乱馬は携帯の電源を切った。
そんな、やり取りを、初音は不思議そうに見詰めていた。
「今の電話は?」
「なびきからだ…。」
「なびきさん?」
乱馬は携帯を脇へ置くと、真摯な目で彼を見詰めた。
「ら、乱子ちゃん…?」
今までずっと乱子をリードしていた初音が、思わず彼女の気迫に気圧された。乱子の目に何か不思議な光が宿った。そんな気がしたのだ。
「あかねがなびきと一緒に俺たちの後をつけてきて、どうやら、この近くでチンピラ連中にからまれちまったらしい…。」
「えっ?」
「悪いが、俺はそれに付き合ってやらなきゃなんねえんだ。」
「君が?」
「ああ…。」
「どうして君が?」
「おめえは男だろ?女のピンチに助けに入らないのか?」
乱馬の瞳が輝いた。
「君だって女の子じゃないか。いくら格闘が強いって言ったって…。」
「心配ねえ…。俺は負けない。」
「だけど、あかねさんを守るのは君じゃなくて、本来は許婚の乱馬さんの領分なんじゃないのかい?」
解せないという瞳が乱馬を見通していた。
初音から見れば、そこまであかねを守ることにこだわる乱子の心情が理解できなかったのである。
「ここは警察にでも任せておいて…。」
歯切れの悪い初音に、乱馬は言った。
「切羽詰っていなければ、俺だってそうするさ。でも…。今は警察云々なんて、悠長なことは言ってられねえ…。それから…。」
乱馬はすっと初音を真正面から見据えた。
「初音…。これから何が起ころうと、動揺するな。」
「え?」
初音は乱馬が何を言わんとしているのか、図ることが出来ずに問い返していた。
「たとえ、常識が覆されるようなことが起ころうとも…。この先、おめえが見るのは真実だ。」
「真実?」
「ああ…。俺の真実だ!」
何故かぞくっとした。
対峙するそのダークグレイの瞳に、引き込まれそうになった。
乱子の中に棲んでいる、別の生き物がそこから覗いて居るような気がしたのだ。
そして、観覧車が地上に降り立ったと同時に、彼女は駆け出していた。
ひらっと身を翻して、一気に駆け出す。
「は、早いっ!」
毎朝一緒に走っていた初音だが、ここまで彼女が早いとは思わなかった。ひょいひょいっと、障害物のような人波を避けて、器用に回り込んで駆けていく。それを見失わないように、必死で追いかけた。
三、
じりっじりっと間合いが詰まっていく。
額を詰めたい汗が流れ落ちてくるのが分かる。
目の前に立ちはだかったでくの坊は、余裕があるのだろう。薄ら笑いを浮かべながら、あかねを見下ろしていた。
その後ろには、チンピラたちが、輪になりながら、美しき獲物を逃がすまいと、囲みながら取り巻いている。
逃げようにも、がっちりと周りを固められては、術もなかった。
人通りもここ辺りはまばらだ。
「おい、そろそろやれよ。」
リーダーがアゴで合図を送った。
「ああ。」
でくの坊はにやっと笑うと、先制攻撃を仕掛けてきた。
「くっ!」
あかねのすんでで拳が唸る。
触れていないのに、後ろへと弾き飛ばされた。
「強い…。」
あかねは起き上がりざまに、攻撃へと転じた。
「でやああっ!」
その蹴りをでくのぼうは、身軽に避けた。図体がでかい割には、すこぶるフットワークが良い。
勿論、避けられることも想定していたので、あかねは着地するとすぐに己も横へと飛んだ。
「遅いぜっ!」
そいつの拳があかねの肩をかすった。。
体に重量がある分、軽く触れただけなのに、肩が痺れるほどの衝撃を受けた。
ジーンと骨身まで染み渡る痛さだ。
「もろいな。女は。」
でくの坊は言葉を吐きつけた。
「でやああっ!!」
その隙を伺って、あかねは己の蹴りを、思いっきりでくの坊の胸へと蹴り上げた。
バシッと激しい音がしたが、そのまま、足首をつかまれた。
「そんな弱っちい力じゃあ、屁とも感じないぞ。お嬢ちゃん。」
そう言いながら、つかんだあかねの足を捻った。
その痛みに思わず顔をしかめたが、気丈にも呻き声一つ上げないであかねは耐えた。
「ほお…。なかなか勝気なお嬢ちゃんじゃねえか…。くくく、でも、痛ければ痛いと言った方がいいんじゃねえのか?えええ?」
そう言いながらまたぐぐぐっとえぐるように力を入れる。
歯を食いしばってあかねは耐えた。
「俺の女(スケ)になるんなら許してやってもいいぜ。」
にんまりとでくの坊は笑った。
「おい、抜け駆けはずるいぜ。」
「そうだ、そうだ。そんな可愛い子はおまえには勿体無いぜ。っはっはっは。」
背後のギャラリーたちが好き勝手にはやし立てる。
「うるせえ、闘ってやってるのは俺だからな…。黙ってやがれ。」
よほど力に自信が有るのだろう。ちらっと脇へ視線を流す余裕まであるでくの坊。あかねは、彼の呪縛から逃れようと必死で足掻いたが、がっちりと足をつかまれていては、後ろへも前にも動けなかった。
「へっへっへ…。強情な女は好きだぜ。」
でくの坊は、そう言いながらあかねの足を更にねじあげようと力を入れた。
「そろそろ言うこときかねえと、綺麗な足(あんよ)が折れちまうかもなあ…。」
じわじわとなぶるように痛めつけてくる。
気技を使おうにも、バランスを取っているのがやっとのことで、放てる余裕すらなかった。だが、果敢にもあかねは残った気力を振り絞って握りこぶしへと気を溜め込んで行った。
「でやあああっ!!」
でくの坊の前で気弾が一発弾け飛んだ。だが、威力はない。それでも、驚いたのか、でくの坊はあかねの足を離した。
バランスを失ったあかねは、そのまま、つんのめるように地面へと倒れこんだ。
口笛と感嘆の声が傍に上がった。
男と女の力の差を見せ付けられたようで、悔しさがこみ上げてくる。
ぎゅっと拳を握り締めると、再びあかねは立ち上がった。
だが、身体はさっき、でくの坊に締め上げられた痛みが所々に残っている。それでも、あかねは、まだ闘おうと、残った力を振り絞った。
でくの坊がにっと笑って、あかね目掛けて拳を振り下ろしてきた。
やられる。そう思って、目を閉じかけた時だ。脇から疾風(はやて)のように誰かが突っ込んでくるのが見えた。
と、でくの坊の動きが目の前で止った。
「たく…。何やってんだよ。おめえらしくもねえ…。」
聞きなれた声がすぐ傍から聞こえてきた。
目の前には、おさげの少女がでくの坊と己の間に立って居るのが見えた。
でくの坊が突き出した拳を、右手の人差し指たった一つで止めている少女。いや、本当は少年。
「ら、乱馬?」
あかねが驚いて声を上げた。
「相手に無闇に立ち向かうことだけが闘いじゃねえぞ。押すだけじゃなくって引くことも大事だろうが…。押しと引きとを上手く使い分ける。それが無差別格闘流の基本だろ?忘れたのか?」
清涼とした声がビル街へと鳴り響く。
「また、変なのが現われやがった。」
そう言って、でくの坊がにっと笑った。
「てめえ!よくもあかねを痛めつけてくれたな。」
乱馬は目の前で啖呵(たんか)をきった。
「ほお…。また娘っ子か。」
でくの坊は手を引っ込めると、乱馬を見てにっと笑った。
「乱馬っ!邪魔しないでよ。これはあたしの勝負よ!」
あかねが後ろからがなった。
「馬鹿っ!何が勝負だ。こんなの勝負でもなんでもねえっ!」
乱馬がそれを受けて怒鳴り返した。
「へへへ。面白いや。おまえも一緒に俺のスケにしてやろうか。」
でくの坊が笑い出した。
「悪いな!俺は男とつきあう、そんな趣味はねえ。」
乱馬はきっと睨み上げた。
「そっちになくっても、俺は気の強い女が好きだからな。」
そう言いながらでくの坊は乱馬へと襲い掛かった。
ヒュンヒュンと乱馬は彼の拳をすり抜ける。紙一重でそれをかわしていく。
「凄い…。」
物陰から見ていた初音が唸った。
「まだまだ、こんなもんじゃないわよ。彼は。」
そう言ってなびきが笑った。
「彼?」
「ええ…。彼なの。」
そう言うとなびきは、買ってきたばかりのホット飲料の缶を、指先でプシュッと開けた。中から湯気が湧き立つ。
「はい。」
そう言うとなびきはその缶を初音の手へと渡した。
「え?」
突然温かい飲み物缶を手渡された初音は、不思議そうになびきを見返した。
「それは、あんたが彼に投げて頂戴。」
なびきはそう言うとにっこり笑った。
「投げる?これを乱子ちゃん目掛けて投げるんですか?」
怪訝な顔で質問が返ってきた。
「ええ…。合図があったら、彼に浴びせられるようにこれを投げて欲しいの。やっぱり、女の細腕じゃあねえ…。初音君だったらかなり飛ばせるんじゃないかと思って。命中できなかったら後で何言われるかわかったもんじゃないし…。あなたの音楽家としての集中力に期待してるわよ。あかねと彼を救うためだから、しっかりね。」
「は、はあ…。」
初音は缶を右手に持ち替えた。
「でやああっ!!」
乱馬はかわしてばかりいた拳を軽くいなすと、今度は一転、己から攻撃に出た。
ドスッと鈍い音がして、蹴りがまともにでくの坊に入った。待っていましたとばかりに足首をつかもうと手を伸ばす。
「させるかよっ!!」
乱馬は手を地面に付けると、その反動でもう片方の足を、でくの坊の手へ突き出した。
「おっと。」
でくの坊は乱馬の足をつかめずに、後ろへと後退した。だが、綺麗に蹴りが入ったはずなのに、胸にも手にも、ダメージを負わせることはできなかった。
「ちぇっ!やっぱ、この身体じゃあ、不利か。体重が違いすぎらあ…。」
乱馬は空中で一回点して着地しながら呟いた。
「おまえの可愛らしい蹴りなど、鍛えぬいた俺様には痛くも痒くもないぞ。」
でくの坊はにっと笑った。
「じゃあ、しゃーねえから、奥の手出させて貰うぜ。」
少し離れた場所に居る、なびきへと目で合図を送った。
「今だ、その缶、こっちへ投げろっ!」
その声に乗じて、初音が思いっきり後ろへと振りかぶった。
「野球は得意じゃないけど…。腕力だけはあるからね。やああっ!」
そう言いながら、思いっきり前に向かって缶を放り投げた。
放物線を描いて、缶が乱馬目掛けて飛んで来た。
「血迷ったか?貴様っ!」
でくの坊が声を荒げたのと、乱馬へと缶の中身が降りかかったのは、同時だった。
「血迷ってなんかいねえさ。元の姿に戻っただけだ…。」
目の前の地面で、缶がカランコロンと転がる。中身は見事にぶちまけられて、その液体を浴びた乱馬が、そこへ立っていた。
勿論、男の姿でだ。
「今までの借り、あかねの分も含めて、全て返させてもらうぜ。」
そうにっと笑いかけた。
「な、何だ?貴様…。」
ざわざわと回りがざわつき始めた。
今の今まで、少女だったその身体が、少年のそれへと変化を遂げたのだ。驚かない方がおかしいだろう。
勿論、初音の目も見開かれていた。
乱子が乱馬へと変身を遂げたのだ。それも、目の前で。
「なびきさん…。これは…。」
開いた口が塞がらないようだった。
「後で本人から事情を聞けばいいわ。そう…。乱子ちゃん。彼の本当の名は乱馬。早乙女乱馬なの。あかねの許婚のね。」
「う…。嘘だ。乱子ちゃんと乱馬さんが、同じ人物だなんて…。」
「これは、夢じゃないわ。現実よ。」
その声にさっきの乱子の声がかぶった。
『たとえ、常識が覆されるようなことが起ころうとも…。この先、おめえが見るのは真実だ。』
初音は、それ以上言葉を告げずに、ただ、じっと、乱馬の闘いぶりを見詰めていた。
「化物…。」
でくの坊も思わず口走っていた。
戦慄が身体にはしっていくのを感じていた。
「俺は、化物なんかじゃねえっ!俺は、無差別格闘早乙女流二代目、早乙女乱馬だーっ!!」
乱馬は怒鳴った。
「くっ!」
でくの坊は、乱馬の攻撃を必死でかわした。いくら相手が化物でも、ただでやられるわけにはいかない。でくの坊の中の闘争本能が、かえって潤滑に働きだしたのかもしれない。
それに、今更、この闘いを辞められる筈もない。
「こうなたら、やけくそだっ!」
でくの坊は乱馬へと闘争心を駆り立てた。
バッチン!
肉体と肉体が激しくぶつかり合った。
勿論、体重が軽い分、乱馬の攻撃は破壊力に欠けた。だが、彼は、気迫でその力を押し退ける。
「俺様の方が力は上だ。」
でくの坊がうめくように吐き付けた。
「ああ、確かに、力だけだったらな。」
乱馬は気を高ぶらせながら、それに答えた。
両者一歩も譲らずに睨み合う。
「そこまでだ!変身野郎!」
背後でリーダー少年の声がした。
「あ、あかね。」
油断したあかねを彼は後ろから羽交い絞めにしていた。普段の彼女なら、こんな奴、有無も言わさずに投げ飛ばしていたろうが、でくの坊とやりあった時に受けたダメージが想像以上に響いて、逃げることもできなかったらしい。
「そら、そっちががら空きだっ!!」
あかねに気を取られた隙を狙って、でくの坊の蹴りが、勢い良く乱馬の左脇腹へと入った。
「うぐ…。」
思わぬ蹴りの強襲に、乱馬は後ろへと飛び退いた。
「へっへっへ…。この子を痛めつけられたくなかったら、大人しく言うことを聞くんだな。」
にいっとリーダー格の男が笑った。
「乱馬っ!あたしはいいから、闘って!」
あかねが叫んだが、それを否定するようにリーダーが言い切った。
「おまえが少しでもおかしな真似をしたら、この子の可愛い顔…。傷物になるかもしれねえぜ。」
リーダー格の少年の傍に、もう一人少年が進み出て、ジャックナイフをあかねに突きつけた。
「卑怯な…。」
睨み付ける乱馬にでくの坊は言った。
「用は闘いに勝てば良いんだ。戦争でも何でもそうだろう?男の闘いは勝てばそっちが正義になる。」
「けっ!チンケな屁理屈だぜ。」
「ぬかせっ!!」
でくの坊の蹴りがまた、乱馬へと入った。
「へっへっへ…。こてんぱんにのしてやらあっ!覚悟しな。」
でくのぼうがそう言いながら、乱馬へと身構えた。
つづく
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