第四話 花の二代目


一、

 二日目、三日目と同じようにゆったりとしたペースで、初音の日々は過ぎ去った。

 朝から晩まで、あかねや乱馬たちと過ごしながら、時に、己の楽器と向き合う。
 初音はあかねのブロック割を見てから、少し様子が変わったようだ。
 積極的に乱馬やあかねと交わろうとしたし、楽器練習を途中でヤケを起して投げ出すこともしなくなった。
 根気強く自分で決めた基礎練習は欠かさない。
 だが、やはり、曲へ移ると、まだ悩みは吹っ切れていないのか、苦しそうに楽器を弾いていた。不思議とその様子は音にも現われる。音楽のうんちくがない天道家の住人たちにも、何となく彼の音がひずんで聞こえるのだから、相当な重症なのだろう。
 
 楽器と向き合う時間以外は、乱馬やあかねと共に、身体を目いっぱい動かし続けた。
 三日目を過ぎる頃には、一通り、無差別格闘流の基本の型を覚えてしまうくらいに、熱心に取り組んだ。

「やっぱり、集中力が違うわね…。型のぎこちなさは仕方がないとして、それでも、ちゃんと、一通りは体が覚えてきてるもの。」
 汗を拭きながらあかねがにっこりと笑った。
「先生が良いんですよ。」
 初音も汗を拭いながらそう答えた。
「そうよね…。先生が最高。」
 あかねが得意げに笑う。基本練習に付き合うのはあかねが殆どだった。乱馬はというと、さっさとあかねに押し付けて、己の思うように勝手に修行する。面倒くさいことはやらねえよと、態度が示しているのだった。
 ずっとそうなのかと思うと、あかねと初音がこうして、仲よさげに話し込んでいると、どこからともなくやってきては、茶々を入れる。

「乱馬君、余裕よねえ…。」
 なびきがそんな乱馬を評して言った。
「あん?」
 怪訝な顔を差し向けた。
「だって…。許婚の余裕があるから、初音君があかねと親しくしていても、全然平気なんじゃないの?」
 ときた。
「はん!あかねは勝手に親が決めた許婚だっ!」
 そうは言ってみたものの、本心は違う。
 内心、ヒヤヒヤ、ハラハラしながら、あかねと接する初音を気にしていた。彼があかねに手を出さないか、変な気持ちを起さないか。気が気でない部分もあった。
 その一方で、初音の悩みが、だいたいどこにあるか分かった以上、そう、冷たく接することもできなかった。
 上手くは言えないが、壁にぶち当たっている初音が、格闘技で足掻く、己の姿と重なって見えるような気がしたのだ。微妙な年頃の共通の悩みとでも言うのだろうか。初音の悩みは、そのまま己の悩みに通じるような気がした。
 十七歳の春。もうすぐ十八歳になる。
 十八歳ともなれば、それなりに社会的責任を考えないといけない頃合となる。二十歳で成人となる、この国においても、十八歳になると自動車の普通免許は取れるし、パチンコ店にも入れる。いや、それよりも、親の承諾があれば結婚だってできるのである。
 親の決めた許婚とは言え、あかねを手放す気は毛頭ない。いや、それどころか、いつか彼女と結ばれて当然だと思い始めている自分が居る。彼女の居ない未来はない。
 だが、その実、武道家としては中途半端だ。まだ学生という身分も大なり小なり影響しているが、この先、この天道家に甘んじたまま、結婚へと雪崩れ込んでも良いのだろうかと、悩んでいることも確かだった。あかねを娶るためにはもっと強くなりたい。少なくとも、格闘技に於いて確たる地位を築きたい。
 乱馬は真面目にそう思い始めていたのだ。
 音楽界と格闘界。住んでいる世界、目指す頂点は違ってはいるが、同じように悩む、初音を無下に扱うことができなかったのである。自己中心、唯我独尊の彼にしてみれば、珍しい現象ではあった。

「あかねは鈍いからねえ…。」
 くすっとなびきが笑った。
「あん?」
 何が言いたいのかわからず問い返す。
「だから…。初音君がもしあかねに興味を持って、果敢にアタックしてきたとしても、あの子にはそれを感じる能力があるか疑わしいって言ってるの。」
 向こう側で、一所懸命に初音にコーチしているあかねを見詰めながら、なびきが言った。
「だから何だってんだ?」
 乱馬が面倒くさそうに尋ねた。
「少なくとも、あかねに一定以上の好意は抱いているでしょうよ、初音君は。だって、あかねは面倒見が良いし、人当たりも柔らかだし。」
「人当たりが柔らかいってか?」
 乱馬が疑わしげに目を差し向けた。
「あら、あんた以外には人当たり、いいわよ、あの子。ふふ、本当は気になるんじゃあないの?」
 ちらっと見るなびき。
「けっ!俺には関係ねえって言ってるだろ?あかねが初音が良いって言えば、それはそれで結構なことなんじゃねえのか?」
 吐き捨てるように言う。
「ふふふ…。本心からそう思ってるのかしら?乱馬君は。」
「あ、あったしめーだろ?」
「この辺で楔を打ち込んで置いてもいいんじゃないの?あんたが打てないんだったら、あたしが打っておいてあげましょうか?」
 なびきがくすくすっと笑った。
「要らねえよっ!」
「素直じゃないんだから。」

 それだけを言い置くと、なびきはどこかへ行ってしまった。



二、

 なびきが具体的な行動に出たのは夕食時だった。

 
「初音君は恋人とか好きな人とか居ないの?」
 箸を片手に、なびきが突然、そんな話題を初音に振ったのだ。

 一瞬、初音の顔が強張って箸の動きが止った。

「ちょっと、お姉ちゃん、いきなり何なのよ。」
 あかねがきょとんとして姉を見返した。
「だって、あんたは興味ないの?」
 なびきは歯に衣着せずに畳み掛ける。
「そんな、失礼なこと…。ねえ、初音君。」
 ちらっと初音の顔を覗き込む。
 乱馬は知らん顔をしてご飯をかっこむ。

「決まった恋人は居ません。強いて言うなら、楽器が恋人のような生活ですし…。」

「でも、音楽業界なら、美人なお姉さんもたくさん居るんでないかい?」
 玄馬が問いかけた。
「美人が多いって言っても、それはそれで、厳しい方が多いですからね。音楽家は得てして我がままが多いですし。」
「なるほど、音楽家の嫁さんだと苦労しそうだしなあ…。ましてや音楽家同士となったら、芸術的なことで衝突だってありそうだしなあ…。」
「格闘界だって似たようなものかもよ…。」
 なびきはにっと笑いながら、乱馬とあかねを見比べた。勿論、当人たちはそ知らぬふりだ。
「初音君のお母さんはどんな人なの?やっぱり音楽関係の方?」
 話題を変えようとあかねが振った。
「母はヨーロッパに留学中に父に出会ったんですけどね。」
「へえ…。ということはやっぱり…。」
「ピアニストを目指していました。でも、父と出会ってからは辞めたようです。父に才能ないってはっきり言われたって言ってましたね。」
「それって、かなり無茶な話よね。」
「いえ…。それで良かったんだって本人は言っていましたよ。」
「で、今は、お父さまと一緒に…?」
「もう亡くなって久しいです。」

 その言葉にあかねたち、天道家の娘たちは、シンっとなった。

「そう、君の母さんも居ないのか。」
 早雲が寂しげに言った。
「あたしたちと同じね。」
 あかねもポツンと吐き出した。
 言葉に詰まった。思わず沈みかけてしまったのだ。

「僕の母は日本人だったんですよ。」
 その沈黙を破るように彼が言った。
「そっか、だから、お父さんのフランツ氏より、君の方が髪の毛が黒いのか。」
 早雲がしみじみと語った。
「ええ、父方の祖母も日本人ですからね。僕の中の血の四分の三がこの国のものです。」
「日本語もお上手だし。」
「何ヶ国語話せるの?」
「日本語、ドイツ語、英語、それからフランス語とスペイン語を少々…。」
「すっごーい!バイリンガル…。」
 とあかね。
「嫌味なくれえ、喋れるんだな。」
 と乱馬。

 そんな会話が続いていく

「で、結婚するなら日本人が良いのかしらん?」
 また、話題を元に戻そうとなびきが質問を浴びせかけてきた。

「できれば、日本人が良いかなあ…。この国はいろいろなものが美しい。勿論女性もね…。」
 にっこりと微笑んだ。

「あたしが名乗りあげよっかなあ…。」
 なびきが唐突にそんなことを言った。

「え?」
 思わず一同の視線がなびきに集る。

「だって、かすみお姉ちゃんは年下は嫌だって常々言ってるし、あかねには許婚が居るしさあ…。」
 そう言って意味深に視線を乱馬へと差し向けてくる。
 思わず彼はコホンと咳払いしてしまった。
「許婚って何です?」
 初音が顔を手向けた。語意が分からなかったのであろう。
「フィアンセのことよ。」
 なびきがにっと笑って答えた。
「お姉ちゃん!」
 あかねが声を荒げた。要らないことは言うなとでも言いたげに。

「へえ…。あかねさんにはフィアンセが居るんだ。そりゃ、初耳だ。」
 ちょっと複雑そうな顔を初音は傾けた。

「フィアンセって言ったって、その…。お父さんたちが勝手に決め付けたことで!」
 
「じゃあ、結婚する気はないの?」
 不思議そうにあかねを覗きこむ瞳。

「いや、ある!絶対ある。なあ、乱子ちゃん。」
 早雲が意味深に乱馬へと視線を流した。
「さあな…。当人同士の気持ち次第じゃねえのか。」
 乱馬は突き放すように答えた。俺にふるなと言いたげに。

「ふーん…。で、君のフィアンセってどんな人なの?年上?」
 今度は初音が喰らいついてきた。

「同じ歳よ。乱馬君って言ってね、格闘家の卵よ。格闘家としての素質はともかく、ま、ルックスは人並みってところかしらん。」
 なびきがにっと乱馬の前で笑って見せた。
「結構いい男だと俺は思うけどな。」
 それに対して乱馬はそう答えた。
「良く言うわよっ!」
 あかねが乱馬の方をきびっと見返した。

「あかねちゃんは格好良いとは思わないの?君のフィアンセのこと…。」
 初音は、目の前の乱子がその許婚とは当然知らないので、鋭い質問を浴びせかけてくる。もっとも、誰だって呪泉郷の悲劇を知らなければ、目の前のおさげの少女が、本当は男であかねの許婚当人などとは夢にも思うまい。

 さあ、その問いに答えてみなさいよ!と言わんばかりに、天道家の人々は、初音の後ろ側からあかねをじっと見詰めた。

「もう…。乱馬のことはいいわよっ!あーんな女々しい奴っ!」

 矢も盾たまらず、あかねはそう吐き出した。

「女々しい?」
 初音が小首を傾げた。
「格闘家の卵なのに女々しいの?」

「まあ、見ようによっちゃ、確かに…。」
 頷く一同の頭。

「あのなあっ!女々しいって、何なんだよっ!!」
 その言葉にカチンときた乱馬自身が、そんな発言をした。だが、彼は、初音から見れば、少女の乱子だとくる。その辺りがますます事情を混迷化させてしまうのだった。
「乱子ちゃんがムキにならくってもいいんじゃないのぉ?」
 あかねがこれ見よがしに言った。
「まるで、あんたが、乱馬に気があるみたい。」
 ふんっと鼻息荒く、あかねはあしらう。
「なっ!!たく、おめえは、本当に可愛くねえなっ!!」
「あんたよりはましよっ!!」

「駄目だこりゃ。こうなったら、この子たちは止らないから…。初音君、ほっといて、あっちへ…。」
「は、はあ…。」

 激しく罵り合いだした乱馬とあかねを横目に、溜息を吐きながら、天道家の人々は、きょとんと目を奪われたままの初音を引き連れて、茶の間から座敷の方へと場所を移した。



三、

 特に変わった変化もなく、滞在も五日目になった。

 咲き始めていた桜も、ここ数日で一気に花開いていく。
 まだ所々につぼみがあったが、つぼみも桜色をしている花。天道家の庭先にあったのもヤマザクラではなくソメイヨシノらしいので、三分咲きといっただけでも満開に近い趣がある。
 だが、桜の時期には、グンっと冷え込むこともある。特に晴天の朝は、気温が下がる。「花冷え」などと呼ばれる気候だ。

 五日目、少し天道家に変化が起きた。

 その日はあかねが朝から出かけてしまったのである。
 かねてから、高校の友人たちと約束していた。新学期までの束の間を楽しく過ごそうと、春の装いでお出かけする。

「あら、あかね、出かけるの?」
 なびきが朝食の時に声をかけた。
「うん、ゆかとさゆりと、前からショッピングに行こうって誘い合ってたから。」
「って、この前も出かけてたじゃない。」
「あれは、別の友人よ。」
 とあっさり答える。
「あんたも交友関係は広いからねえ…。」
 とちらりと乱馬を振り返る。

 俺は関係ねえっ!

 そんな顔をして、朝ご飯をかっこむ女乱馬がそこに座っている。

「だから、乱子ちゃん。今日は初音君の面倒はあんたがちゃんと見るのよっ!」
 あかねは乱馬に念を押した。
「あん?」
 怪訝な顔があかねを見返す。
「だから、いつもあたしばっかりに押し付けてたんだから…。今日ぐらいはちゃんと、基本の型から手取り足取り教えてあげなさいよっ!!」
 ずいっと身を乗り出された。
「何で俺が…。親父たちだって居るだろう?」

『残念!居ないんだよ〜ん!』
 パンダがおちゃらけて看板をすっと差し出した。
「悪いねえ…。ほら、今日は日曜日だろう?町内会の寄り合いがあって、花見なんだよ。」
 早雲がにょっと顔を出した。

「ということよっ!諦めて、相手しなさいよっ!」
 あかねがじろっと乱馬を見詰めた。
「そういうこと。たまには働きなさいな。乱子ちゃん。今日はあんたがこの家で一番暇なんだからあ…。」
 なびきまでもが同調する。

「あの…。ご迷惑かけますが…。よろしく、乱子ちゃん。」
 初音がぺこんと頭を下げてくる。

「わーったよっ!!一日、俺が面倒見ればいいんだろうっ!!」




 そんなこんなで、この日は乱馬が朝から初音の手合わせに付き合った。

 考えてみれば、この家に初音が来て、彼の相手をするのは初めてのことだった。
 あかねにずっと付き添われて、基本の型はマスターしていたものの、初心者と乱馬とでは、技量が違いすぎる。それに、女の形では何となく、己の本領も発揮できない。
 普段から距離を置いて接している手前、会話もぎこちない。
 いや、会話が成立するどころか、変な緊張感に苛まれてしまう。
 道場の中で二人、取り残されたように、ポツンと身体を動かし続けている。まさにそんな感じであった。人に教えるという行為を、これまで殆どとってきたことのない彼には、教えると言う行為そのものが不慣れなものだった。

「違う…。似てるけど、ちょっと違うかなあ…。もっと腰落さないと、力が入らねえだろ?」
「あ…。なるほど。」

 乱馬はそれでも、仕方なく、初音に無差別格闘流の基本の型を教えていた。




「ほら、お茶だ。かすみさんが入れてくれた。」
 休憩時間。そう言ってぶすっと湯のみを差し出した。
「あ、ありがとう。」
 にっこりと微笑み返す初音。
「汗を出した後には、渋いお茶が良いな…。」
「ま…な。」
「緑茶はいい。…欧州では紅茶や珈琲ばかりだもの…。紅茶と緑茶は同じ茶木から採れる葉なのに、加工方法の違いだけでこんなにも香も味も違ってくるんだから…。やっぱり僕は日本人の血が濃いんだろうな…。こっちの方が好きだ。」
「年寄り染みたこと言ってるな…。」
「そっかな…。」
 にっとはにかむように笑った初音は、そのまま乱馬へと視線を流した。真っ直ぐな瞳が乱馬を見詰める。思わず変な気持ちになってその視線を外した。
「ねえ、乱子ちゃん。あかねちゃんも、強いけど…。本当は君とあかねちゃん、どっちが強いの?」
 茶を飲みながら、初音は問いかけてきた。
「そりゃあ、俺だ。」
 乱馬は自分を指差した。
「へえ、試合になると君の方が強いのか。」
「ま、あいつとは本気でやりあうことなんて、ねえけどな。」
「え?どうして?本気で取り組みとかはしないの?試合とかさあ…。」
「しねえよ。」
 乱馬が吐き出すように言い放った。
「何でだい?」
 珍しく初音が食い下がってきた。
「その必要がないからさ。」
 乱馬はぼそっと吐き出す。
「何で必要ないんだい?」
「俺の方が抜きん出て強いもん。」
「へえ…。凄い自信だね。あかねちゃん、あれだけのブロックを右手一つで綺麗に叩き割ったのに…。君も出来るの?」
 道場のすぐ脇に積み上げられている瓦礫を眺めながら、初音が言った。
「ああ、あれくらいなら、俺も出来るさ。」
「本当に?君の方があかねちゃんよりも背が低いし、腕や足だって細いじゃない。」
「確かに…。このままだとな。」
 乱馬はぎゅっと手を握った。
「でも…。俺にはあいつに出来ない技がある。」
「どんな技?」
 興味津々な瞳が乱馬を見詰めた。

「気の技だよ…。あいつはまだ、気を自在には扱えねえからな。」
 乱馬は握った掌をゆっくりと開きながら言った。

「気の技?」
 そう問いかけた初音に乱馬は言った。
「ああ、気の技だ。見せてやろうか?」
 乱馬はそう言うと、ぎゅっと再び拳を握り締めた。
 そこへ己の体内の気を一気に集中させる。
「見てろよっ!はああっ!」
 気合と一緒に、右手を差し出した。
 
 ぴかっと鈍い光がほとばしり、彼の手から瓦礫に向かって気砲が飛び出した。

 バンッ!

 弾けとんだ光は、一瞬のうちに瓦礫へと達すると、粉々に砕け散らせた。
 ボロボロと破片と共にブロック塊が崩れ落ちた。

「す…凄い。」
 初音は驚いて乱馬を見返した。
 人間離れした彼のその技に、暫く言葉が継げなかったほどだ。
「こんなことが出来るなんて…。」

「今のが気の技だよ。体内にある気を一点に集めてそれを放出する技だ。」
 そう言いながら気の玉を掌に浮かせた。気の玉は、彼の掌の上で煌々と輝いた。
 それを見詰めながら乱馬は言った。
「今のところ、この天道道場で完璧に気弾を扱えるのは俺くらいだろうな。あ、言っとくが今のは軽くやっただけだからな。本気になれば、この家くらいは簡単に破壊できる。」
「破壊…。」
「ああ、コントロールを間違えば、一気にドッカン!」
 バンッと掌の玉が弾けた。
「わあっ!」
 思わず身を屈める初音に乱馬はにっと笑いかけた。
「大丈夫。俺は完璧だからな、そんなヘマはやらねえ。」
「あ、それはどうも…。」
 ふっと初音の頬が緩んだ。

「乱子ちゃんは不思議な女の子だね…。」
 そう話しかけてきた。
「あん?」
「まず、その言葉遣い。どこから聞いても男の子みたいだ。日本語にはいろんな一人称があるからね。私、僕、わし、俺…。いろいろあるのに、「俺」って使うところなんて…。」
「ま、まあな…。」
 自分が本当は男であるとは言えないから、笑って誤魔化すしかない。下手に女言葉を使うと不自然があるので、初音の前でも男言葉で通しているのだ。当然、初音にはそれが不思議でたまらなかったのだろう。
「乱子ちゃんは「自分」というものがしっかりあるんだね。」
 ポツンとそんなことを初音は言った。
「何だよそれ…。」
「僕には主体性なんてずっとなかったような気がしてさ…。だから、眼鏡だっていつまでも外せない。」
 初音はふうっと溜息を吐いた。
「あん?」
 言わんとしている意味が飲み込めず、乱馬は初音を覗き返した。

「乱子ちゃんはどうして、武道をやってるの?」
 唐突に彼は問いかけてきた。

「どうしてって…。強いて言うなら、生まれて物心がついたときから傍にあったから…かな。そんなこと深く考えたこともねえな。格闘をやるのが当たり前だって育ってきたもんな。ま、おめえが当たり前のように音楽を志したのと似たようなもんだろうよ。」

「君の家も元々は格闘家なの?着ぐるみパンダ芸の親父さんなのに?」

「たはは…。あれねえ…。あれでいて、親父も本当は武道家なんだ。」
 まさか、己の父親が泉の呪いで水浴びでパンダに変身を遂げる体質になったとは答えられず、咄嗟に誤魔化した。初音には着ぐるみとあの状態を誤魔化しているのである。
「武道の修行と着ぐるみで通すことと、何か関係でも?」
「あるんだろうなあ…。親父に言わせりゃ、獰猛な動物と一体化することで、何か悟りの境地にでも達したいんだろうよ…。」
 勿論、口から出任せだ。
「僕の場合は、ヴァイオリンを始めたことはもっと不純な動機だったからなあ。」
「不純な動機?」
「家に父が弾いていた楽器があったから…っていうのも勿論なんだけど、音楽家として大成してしまった父だからね。物心がついた頃から、殆ど家には寄り付けないような状態だった。勿論、それでも、スケジュールを調整しては顔を出していたから、父親の愛情はそれなりに注がれていたとは思うんだ。…でも、僕は一人っ子だったからね。母も寂しそうだったし。己の寂しさを紛らわせるために、たまたま家にあった子供用のヴァイオリンの弓を取ったのがきっかけだったと思う。」
「ふうん…。家に子供用のヴァイオリンねえ…。」
「ヴァイオリンにはいくつかサイズがあるんだ。三歳児が使うこんな小さいのから大人のサイズまで。四種類はある。」
「へえ…。」
「乱子ちゃんだって、物心ついたら武道があったんだろ?」
「ああ、まあそうだが、俺の場合はもっと特殊だな。親父なんか決まった家があったくせに、そっちはオフクロ任せで幼い俺だけを連れて、修行と称して放浪三昧。」
「え?」
「ま、俺のことはいいやな…。で?」
 乱馬は続きを聞いた。
「母も寂しかったんだろうね。僕が練習するのをいつも傍らで聴いていてくれたんだ。何も言わずに、微笑んだまま。上手く弾けるとその笑顔がもっと輝くんだ。幼心にさあ、僕が上手く弾くことで母が喜んでくれるんだって…。」
「健気だな…。」
「子供なんて至って単純なものだからさ。それでも、母が生きている頃はそれでも楽しかったんだ…。でも、小学校に上がって暫くして、母は病に倒れ、そのまま返らぬ人になってしまった。」
「そっか、おまえも母ちゃんが死んだって言ってたよな。」
「そこからは、楽しんで弾くというよりは、寂しさを紛らわすためだけに、必死で弾き込んでいただけのような感じなんだ。弾いている時間は何も考えなくても良い。寂しさも感じない。とにかく、我武者羅に練習したさ。おかげで超絶技巧と呼ばれるテクニックを取得できるほどの腕前にはなれた。それを武器に、中学に上がる頃には、天才少年とか何とかいうレッテルを貰ってさ…。」
 初音はふっと自嘲気味に笑った。
「でも…。技巧だけでは人を魅了させることはできない。まだ子供だったからという物珍しさも手伝っていたから、業界内ではちやほやされてはきたけれど、テクニックはただの音符の羅列。いくら完璧に弾きこなせても、それだけなんだ。巧妙なヴァイオリニストや先生に師事したけれど、いつも言われる。「君のテクニックは機械が弾いているように隙がなく完璧で素晴らしい。でも、それだけだ。」とね…。そう、上辺だけの技量はあっても、音に深みが出せないんだ。感情をこめても、それが相手に伝わらない。己は伝えているつもりでも、伝わらないんだ。」
 そう言ったまま、黙り込んでしまった。

 乱馬は初音の悩みの根幹部分を垣間見たような気がした。

 焦りが焦りを呼び、ますます、彼を混迷へと突き落としているのだろう。

「いいじゃねえか…。未熟でも。」

 ぽつんと言葉が漏れた。


 初音と己はどこか似ている。

 乱馬はそう思っていた。
 こちらは奔放な野生児。あちらは、芸術家のサラブレッド。取り巻く環境には雲泥の差があったが、根幹にある部分に共通項がある。
 互いが足を踏み込んだ世界は親の稼業を受け継いでいるとは言え、格闘技と音楽家。それぞれ、才能が物をいう世界。努力だけで生きられる世界でもないからだ。
 格闘には強さ、音楽には感性。両方とも生まれ持った天賦の才も要求される。それがあるのかないのかは、己自身では分からない。だが、あると信じて突き進まなければならない辛さが二代目にはある。
 なまじ同じ世界を先に行く親が居るばかりに、それは想像を絶するほどの辛さがある。常に先頭を走ろうと思えば思うほど、辛さは焦りとなって現われることがあるのを、乱馬は知っていた。勿論、それを踏み台にして乗り越えていかなければならないことも。

「おめえ、真面目なんだな。」
 乱馬はポツンとそんな言葉も投げかけた。

「未熟で真面目かあ…。痛いところを突いて来るな、君は。」

「まあな…。俺もある意味、そうだからな。」
 乱馬は真顔で答えた。

「君も?」
 初音は驚いた顔を乱馬へと差し向けた。
 もし、この場にあかねが居たら、あんたが真面目な訳ないじゃないと言うだろう。

「格闘の世界も力が物をいう世界だからな。己の力の限界に挑んでいかねえとなんねえ。限界が見えたら終わり…そんな部分があるからな。常に一番先を見据えて、修行しねえといけねえ…。それほど辛い事はねえからな。なまじ己の先に、立派な親が突っ走っていたら余計だろうさ。」
 暗に乱馬は初音の父のことをさして答えた。

「だが、親父は親父。そして、子は子だ。同じ世界で生きていても、必ず親父と全く同じ道を行かねえといけねえって訳でもねえしな…。親父の道は親父の道。己の道は己の道。到達点が同じでも道程は違う…。そう思ったことはねえか。」
 己自身に言い聞かせるように乱馬は初音に言った。
「それに、おまえの技巧が悪いなんて俺は思わないよ。基礎を疎かにしたら、結局は何事も大成できねえ…。それは格闘技も音楽も一緒だと思うんだ。基本の型が出来ねえ奴には大技は生み出せねえ…。だから…。」
 乱馬は再び掌に気を集めた。

「日々是修行、なんだろうさ。」

 乱馬はそれだけを言い含めると、さっと湯飲みを置いて立ちあがった。
 本当はそれは、初音に対して言ったのではなく、自分自身へ放った言葉だったのかもしれない。



つづく




一之瀬的戯言
 結構観念的な作文をしている作品なので、全体的に重いかなあ…。
 文章が流れないで一所に留まるような作品は、私には珍しいかもしれません。会話内の文字もいつもに増して多いような。
 何より、優柔不断でいい加減になりがちな乱馬が真面目に語っているのが異色かも。


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