第三話  悩める少年


一、

 たった一週間。されど一週間。
 始まってみれば、それはそれで長いと感じる時間だった。

 只でさえ、本来あるべき男の姿を封印されている。
 乱馬にはそれが、たまらなく苦痛であった。

 朝は軽いランニングに始まって、朝ご飯まで身体を一通り動かす。
 これが、乱馬とあかねの一日の最初のメニューでもあった。
 初音の父、和音の希望で、いつもどおりに天道道場のサイクルで生活させてくれということだったので、同じように扱われる。ただ、昼間にきっちり二時間だけ、楽器を触る時間を作ってくれ。あと、願わくば手に負担をかける修行だけは、ヴァイオリニストである本人の判断に任せてくれ、と、特殊な条件はそれだけだった。
 勿論、初音もランニングに付き合った。
 ブランド物のトレーニングウエアに身を包んだ彼だが、結構足が速く、思っていたよりもしっかりと乱馬とあかねについて走っていた。


「初音君って結構足が速いのね。もっと、ゆっくりかと思ってたわ。」
 あかねが感心してみせた。
「僕の場合は、学校へ行かないときはずっと、楽譜に向かっているからね。結構、楽器を弾きこなすのも体力が要るんだよ。だから、ランニングだけは欠かしてない。自分のためにね。」
 朝ご飯を食べながら、初音はそんなことを言っていた。
「でも、手に負担をかけられないんじゃあ、瓦割りは辞めておいた方がいいわね。」
 あかねが言った。
「不自由かけてごめんね。極端な話、バレーボールなんかでも、弦楽器をやってる人間にはご法度なスポーツなんだよ。」
「へえ…。」
「レシーブとかトスとかアタックとか、ボールが直接手に触れる激しいスポーツだからね。バスケットも怖いかなあ…。突き指なんかが。」
「結構大変なんだ。」
 あかねは素直に感心していたが、乱馬は始終むすっとしていた。
 別に己の行動を鼻にかけているような嫌な奴ではなかったが、やたらあかねと親しげにしているのが気に食わなかったのだ。
 それに女を強要されている。面白いはずがなかった。
「朝飯終わったら道場だぜ。」
「もう、何ツンツンしてるのよ、乱子ちゃんは。」
「ツンツンなんてしてねえよっ!!」


 ご飯が終わると道場へと足を向けた。
 乱馬が普段につかっている道着の洗濯したものを、初音へと貸した。

「帯はね、だいたいおへそよりちょっと下あたりでぎゅっと締めるのよ。」
 あかねは初音に道着の着こなし方について教えていた。
「ちょうど、帯を締める辺りがね、「丹田(たんでん)」なの。日本人はここへ気をためて相手に対するのよ。そうしたら腰もいい具合に引けて、下半身に力も入りやすいの。」
「へえ…。なるほど、ここが「丹田」なのか。」
 初音は素直に反応して感心していた。
「初音君は初心者だから白帯ね。じゃあ、基本の形から行くわよっ、構えてっ!!」
「こ、こうかな。」
「うんうん。良い感じ。」

 乱馬は面倒見が良いあかねを横目に、どんどんと己で身体を動かし始めた。

「こらっ!乱子ちゃんっ!あんたも一緒にやってあげなさいよっ!あたしにばっか押し付けて。」
 全然からんでこない乱馬にあかねが業を煮やして声をかけた。
「いいよ…。俺、教えるの下手だし。あかねがやればいいじゃん!」
 相変わらずむすっと答える。
「もう…。そんなんじゃ、良い師範代になれないわよっ!!」
「俺は別に師範代になんかなりたかねえっ!」
 そんな二人の怒鳴りあいを尻目に
「結構、足腰にずんとくるんだね…。えっと、一、二、三…。」
 基本の型を教わりながら、初音は頑張った。

「ふう…。思ったよりも、厳しいんだね…。武道の修行も。」
 休憩に入ると、初音が床にへたり込んで言った。
「根性ねえ奴だな…。」
 乱馬がしらっと言い切ると
「初心者の割にはちゃんとやってるわよ。誰かさんみたいに不真面目じゃないし。あたしは筋が良いと思うわ。」
「ほ、本当?」
 初音が嬉しそうに笑った。
「ちぇっ!面白くねえ…。」
「どこ行くのよ。」
「外。ガキのお遊戯の相手なんか、してらんねえっ!!」
「乱ま…あ、いや、乱子ちゃん!もう…勝手なんだから。」


 ぷいっと外へ出て行ってしまった乱馬を見送って初音は言った。
「君たち、仲が良いんだね。」
 と笑った。
「え?そう見えます?」
「ああ…。女の子同士の心情がどんなものか僕にはあんまり理解できないけど、ちょっと僕が君と乱子ちゃんの間に入ってヤキモチ妬いてるような…。あ、深い意味はないんだけどね。」
 くすくすと初音が笑う。
「後で、模範演技を是非見てみたいなあ…。あかねちゃんと乱子ちゃんって全然タイプが違う動きをしそうだから。」
「まあ、タイプが違うというのも当たってますけどね…。でも、あいつ、あたしと組む気はないだろうな…。」
「ここに居る間に是非。」
「…あいつを説き伏せてやらせてみます。」



 外に出てみると、道場脇にある桜の花がポツン、ポツンと開いていた。
 ここのところの陽気が本物と桜の木も判断したのだろうか。ぼんやりと空が曇っている。
 花曇り。そんな感じだ。

「でやーっ!たーっ!!とーっ!!!」

 別に始終一緒に修行をしているわけではないが、初音が入ってきたことで、かなり己のペースが乱れている。乱馬は正直そう思った。
 乱れているのはペースだけでもなさそうだ。
 不機嫌なのは、あかねが初音に対してやたら親切に見えるせいもあるのだろう。自分でもわかっていたが、どうしようもなかった。

「でやーっ!!たーっ!!とぉーっ!!」

 木の棒に向かって蹴りや拳を突き上げる。
 女の体だから威力はいつもの半分だろう。手足が短い分、どうしても破壊力が落ちる。

「あらあら、乱子ちゃんは一人で修行なの?」
 なびきがカメラを抱えて勝手口から出てきた。
「けっ!あいつの相手ならあかね一人で充分だっ!!」
 そう言って毒づいてみせる。
「ホント、まだまだガキねえ、あんたは。」
 くすくす笑いながらなびきが言った。彼女には乱馬の不機嫌とその原因がわかっていたのだろう。
「で、おめえは何だ?そのカメラ…。また、あかねの「かわいくねえ写真」でも撮るのかよう。」
「これだもんね…。あかねの写真じゃなくって、初音君の写真よ。あの世界的指揮者の息子にして、ヴァイオリニストの卵がここに居るのよ。それも、普段じゃ見られないような「道着姿」。これを撮らないで何とするの!」
 なびきはにこっと笑った。
「たく…。物好きだな。そんなに道着姿が良いのかよう。」
「良いわよ!もう、セクシー度満点よ!そそるじゃないの。ちらっと見える鎖骨なんてさあ、もう、美味しいって思っちゃうんだから。」
「けっ!!勝手にしろっ!!」

 乱馬は思わず吐き出していた。



二、

 昼ごはんが終わって、一息つくと、初音は楽器を持ち出してきた。
 一日最低二時間の楽器練習は欠かせないからだ。

「あの…。鏡、できれば姿見なんかがあったら貸していただきたいんですが…。」
 ぼそっとかすみに問いかける。
「姿見ねえ…。どっかにあったかしら。」
「納屋にあるんじゃない?」
「鏡なんかどうすんだ?」
 乱馬が問うと、笑いながら初音が言った。
「弦楽器奏者、特にヴァイオリン奏者にとっては、フォームの補正は絶えずチェックしておかなきゃならないんです。それには鏡が有効なんですよ。」
「はあ?」
「だからね…。美しいフォームじゃないと、良い音は出ない。僕らヴァイオリン奏者の動きはあまり理に叶っていないというか、自然の摂理に反して動かしている部分が多いから。特に弓を持つ右手の角度や弾きおろし方はチェックしておかないと、弦に対して良い角度にならなかったり、変にフォームが崩れてきたりするんです。身体はすぐに楽な方へと働きたがるから…。弦に常に垂直な角度で動かなければならない弓なんか、ほっておくとすぐに歪んでしまうんですよ。」
「へえ…。弓の構え方や動かし方一つでも、奥が深いんだ…。」
 あかねが目を輝かせて尋ねた。
「ちぇっ!鏡相手にするなんて、ナルシストだな。」
「良く言われるな…。確かにヴァイオリニストにはナルシストが多いでしょうね。自身の姿を鏡に映して練習していることが多いから、自然にそうなるのかもしれませんね。」
「乱子ちゃんだって充分にナルシストだと思うけど!」
「何だよ、その言い方。気に食わねえな!」

 鏡を出してきてもらうと、壁に立てかけて、それに向かって、自分の姿が良く見えるように立った。
 軽く調弦すると、弾き始めた。
 左手の指は動かさず、開放弦だけを熱心に弾き下ろす。念入りに鏡に映し出される姿をチェックしながら弾いている。
 それだけの練習のために半時間近くを費やした。
 それから、音階にうつる。メトロノームを取り出して、決まっている音階を猛ダッシュでこなし始めた。いわゆる「ドレミファソラシド」の羅列だ。上がったり下がったりアルペジョ(分散和音)になったり。メトロノームのカチカチの音に正確にかぶるように、左手が動き、弓が勢い良く流れて行く。
 天道家の人々は、物珍しさに集ってきて、初音の様子をじっと道場の外から見物していた。


「しかし…。間近でヴァイオリンの音色を聞いたのは初めてだけど…結構迫力があるんだね。」
「ぱふぉふぉ〜(そうだね。)」
「やっぱ、超絶的なテクニックを持ってるって雑誌に書いてあったけど。…。侮れないわね…。」
「何事も基礎…。この確たる礎(いしずえ)があってこその応用。武道でも同じだな。」
 早雲が頷いた。

 午後のティータイムよろしく、優雅な楽器の音色と思っていた天道家の面々からは、案外、せせこましい楽器練習に正直驚いた。流れるような曲を通すのは、本当は皆無に近い。それがプロの練習なのであった。
 それは、基礎練習から曲へと移行しても同じであった。
 譜面がなくてもさらさらと弾きとおす彼の力量はさすがだと思ったが、譜面台を立て、楽譜を置き、何度も同じパッセージを繰り返し練習する、根気の強さ。

「楽曲だって、ああやって、何度も立ち止まって、丁寧に修練を重ねていくんだなあ…。同じように和音君もああやって、練習していたっけなあ。」
 ふっと早雲が言葉を吐いた。古い記憶が巡ったのだろうか。

 やっと、一通り納得した取り出し練習を終えたのだろうか。
 初音は思い切ったように弓を取り、曲を通し始めた。流れるような旋律が、流れ出す。道場はさながら、中世ヨーロッパの教会にでもなったようだ。豊かな音が溢れるように響きだす。
 天道家の人々は、暫しその重厚な響きに魅了された。

 だが、初音は途中で、ぴたりと弓を止めた。

 それから雪崩れ込むように床に平伏した。

「駄目だ…。どうしても、思うように流れない…。こんなんじゃ、駄目だ…。」
 そう言いながら肩を落としたきり、黙り込んだ。


 天道家の人々は、初音に何が起きたのかわからずに、じっと暫く見ていたが、彼に悟られないように、そっとそれぞれその場を離れた。
 桜の枝に開いた花が、ゆらゆらと風に揺れていた。
 湿った空気が鼻につく。もしかすると今夜は雨になるかもしれない。
 そんな予感がする天候だった。


「やっぱり…。初音君が行き詰ってるっていうのは本当のことだったか…。」
 早雲が空を見上げながらポツンと言った。
「どういうこと?」
 あかねが最初に反応した。
 早雲はゆっくりとみんなに向かって言葉を継いだ。
「彼の父、和音君の書状に書いてあったとおりさ。どうやら彼は、音楽家として花開く前の憂鬱な壁にぶつかってしまったようなんだ。」
「憂鬱な壁?」
 乱馬の口から思わず漏れた。
「ああ、壁だ。幼き頃より天才ともてはやされた者にはよくあることだよ。彼は父親が指揮者というサラブレッド故に早くにその天賦を見いだされすぎた。幼き頃は「技巧」だけが優れていてももてはやされるが、総じて「見世物的志向」があることは否めまい?子役タレントの人気が必ず大人になるまで持続されないのと同じことなんだよ…。」
「なるほど…。幼き者が超絶的な技巧を持って弾くだけで、世間は天才と言ってもてはやすが、その子が成長してしまえば、天才という形容は解け、ただの上手に成り下がることもあるってことか。技巧だけでまかり通る甘い世界ではないよなあ…こと感性に訴える芸術の分野は…。」
 玄馬がうんうんと腕を組む。
「いや、彼は天才だよ。だからこそ、このままでは駄目だと気がついたんだろう。それが迷いとなって、演奏家としての登竜門でもあるどのコンクールにも「第二位」という結果に甘んじているのだろうよ…。」
 早雲が言った。
「大きく羽ばたく前の苦悩に翻弄されかかっておるというわけか。」
「ああ…。それが分かっているからこそ、和音君は、彼の父親は、この道場に行って来いと引導を渡したのだろうさ。」
「それは責任重大だねえ…。で、我々が何か手伝えることはあるのかね?」
「何もしなくてよいさ。彼が天才ならきっと、自分で何かを掴むだろう。さてと…。将棋の続きをしようかねえ…。早乙女君。」
「よっしゃあ。今度も勝つもんね…。」

 父親たちの、妙に真剣な話を傍で聴きながら、あかねも乱馬も黙ってそこへ佇んでいた。


「おまえなあ…。」
 乱馬がほつっと口を開いた。
「何よ…。」
 あかねそれに答えた。

「おまえ…。まさか、あいつを元気付けるのに、何か言葉を探してるんじゃねえだろうな…。」
 乱馬がじろっとあかねを見やった。
「例えば、頑張ってね、とか、大変ね…とか。」
「……。」
 あかねは黙り込んだ。
「絶対にやめとけよ。」
 乱馬はぼそっと言った。
「何でよ…。」
 ついあかねは、反論するように言葉を投げかけた。
「たく…。おめえの性格だと突っ走るからなあ…。さっき、おじさんたちも言ってたろ。「何もするな」ってな。」
「でも…。」
「奴の悩みは奴しか計り知れねえんだ。言わば、俺たちには無関係。それを横から突っつく真似だけはすんなよ。」
 釘を刺すように言い含めた。
「何よ…。無関係だなんて、冷たすぎるわよ。」
「今まで一緒に暮らしてきた家族ならまだしも、まだ、ここへ来たばかりなんだぜ?奴は…。そこまで踏み込む技量も義理もねえんだ!俺たちにはな。」
 珍しく乱馬はあかねに突っかかってきた。彼が理責めにすることなど、珍しいことだった。
「乱馬って冷たい奴よね…。」
 あかねは乱馬の言葉の真意がつかみきれずに、そう吐きつけてくる。
「冷たいとか、熱いとか、そんなんじゃねえよ…。やっぱ、おめえ、わかってねえなあ…。奴は男なんだ。己の悩みは奴自身で解決するしかねえんだ。下手に手立てしたら、見える出口も見失っちまう…。奴は天才だからこそ、自分で答えを見つけなきゃならねえんだ。そのために苦しんで足掻いて悩みぬいて…。俺たちにできることは、奴を黙って見守るだけだ…。いいか、忘れんなよ。」
 それだけを言い置くと、彼は再び道場へ入っていった。
 それから初音がまだへたり込んでいるところへと、ずかずかと歩み寄った。

「おい、そっちが終わったんなら、こっちの続きだ。まだまだへばったわけではあるまい?」
 にっと笑うとそう声をかけた。
「あ…ああ。そうだね。こっちにばかり時間をとられるわけにもいかないか…。今は僕もここの門下生だから。」
「そういうことだ…。来いよ!いい物見せてやらあ。」
 そう言うと乱馬は表へ彼を連れ出した。

「ちょっと乱馬。何やるつもりなのよっ!」
 あかねがその後ろを追って来た。

「いいから、いいから。」
 そう言うと、道場の脇へと連れ出した。咲き始めたばかりの桜の小枝がさわさわと風に揺れている。
 乱馬は道場の脇へブロックを幾つか積み上げた。

「あかね。これを割ってみろ。」

「突然何なのよ…。」
 あかねは困惑しきって乱馬を見返した。

「模範演技だ。」
 そう言ってにっと笑った。
「でも、初音君は手は使えないんじゃ…。」
 躊躇するあかねに乱馬は言った。
「だから、模範演技だっつってるだろ?初音にやれなんて言ってねえ。おまえにやれって言ってるんだ。ほれ、おまえはこういう力技、得意中の得意だろうが!」

「あかねさん。是非見せて欲しいな。瓦割りとかブロック割りとか。空手家がやるっていうのはきいたことがあるけど、目の前で見るのは初めてなんだ。是非…。」
 初音の目が輝いた。さっきまで沈んでいた目に光が宿っていた。

「初音君がそこまで言うんだったら…。やらないでもないけど…。」
 あかねははあっと溜息を吐き出した。

「えっと…。六個くれえでいいかあ?」
 乱馬が尋ねた。
「ちょっときついかなあ…。ここのところブロック割りはやってないし…。」
「じゃあ、五個にしとくか。」
「いいわ、それで。」

「五個だってえっ?一個じゃないの?」
 初音が驚きの声をあげた。

「こいつの馬鹿力は俺を凌ぐからなあ…。まあ、見てなって。俺が言うのもなんだが、女格闘家じゃあトップクラスだろうさ。」
 
 あかねは帯をぎゅっと締めなおした。
 ぐっと下半身を落として、力を丹田へと溜め込む。
 そして浅く深呼吸を繰り返し、己に気合を入れた。

「はああああっ!やああああっ!!」

 一気に積み上げられたブロック目掛けて、手刀を振り下ろした。
 バシャンッと音がして、ブロックが見事に崩れていく。綺麗に真っ二つに割れていた。

「おっ!真面目に修行してたか。腕上げたな、あかね。」
 乱馬がにっと笑いかけた。
「と、当然でしょう…。」
 はあはあと肩で息をしながら、あかねが答えた。
 激しい動きはないが、全神経を研ぎ澄ませなければならない。並外れた集中力が必要なのだ。だから自ずと息は上がる。

「見ろよ、初音。この割れ口。真っ直ぐ綺麗に割れてるだろ?これって簡単なようで、力加減が結構難しいんだ。生半可な力だと、綺麗には割れねえ。ボロボロに崩れるのが落ちなんだ。いや、下手すると己の手に負担がかかって痛めちまうこともある。」
 そう言いながらあかねの手を取って差し出した。
「この小さな手にどんな力があるか、不思議に思わねえか?」

 確かにそうだと思った。
 あかねの手はごく普通の少女の大きさだ。特別でかいわけではない。ただ、普通の少女と違って、確かに、少し骨がゴツゴツしている感はあるが、それだけだ。

「瓦やブロックは力だけで割るんじゃねえんだ。手を振り下ろす前に、気を溜め込んで、一気に吐き出しながら、叩き割るんだ。一瞬の気も抜けねえ。抜いたら怪我しちまうからな。」
 そう言って乱馬はにっと笑った。
「なるほど…。力で割るんじゃないのか…。」
「ああ、おめえだって、楽器弾くのに、無駄な力なんか使ってねえだろ?あれと同じようなもんさ。」
 弦楽器は力では弾かない。無駄な力を乗せていては、楽器の響きそのものを消してしまうからだ。乱馬は暗にそれをさしたかったのだろう。

「さてと…。あかね。後片付けしとけよ。」
 乱馬はそれだけを言うと、さっさとそこを離れた。
「ちょっと、あたしだけにこれを片せって言うの?あんたがあたしに見せてやれって言ったんでしょうがっ!!」
 あかねが息巻いた。
「いいから、あとは頼まあっ!」
「こらっ!乱馬ぁっ!!」
 思わず叫んでしまった本当の名前。
 一瞬、初音は不思議な顔を手向けたが、拳を振り上げたあかねをなだめた。
「あかねさん…。僕も手伝いますよ。」
 そう言ってにっこりと微笑んだ。
「あ、でも…。」
「いや、いい物を見せてもらったお礼です。」
 そう言いながら、真っ二つに割れたブロックを、瓦礫の山が積みあがる道場の脇へと運び出した。
 あかねは、少しだけだが、彼に笑顔が戻ったような気がした。



三、

 で、案の定、その夕方に、一騒動が起こった。

 修行の後は、風呂場で汗を流す。それから夕食となる天道家であったが、その時に騒動が持ち上がったのだ。
 当然のことながら、一番風呂は、お客様の初音。
 初音自身は、レディーファーストだから、あかねと乱馬に先を譲ってくれたが、かすみがにこにこしながら「お先にどうぞ。」と促したので、それに素直に従った。
 予め、日本での入浴方法は聞かされていたのか、ごく普通に風呂から出て来た。

「いいお湯でした。」
 タオルを片手に次の乱馬へと交代する。
 初音、乱馬、あかねと入ることになっていたので、それはそれで良かった。
 だが、問題は、湯に浸ると、乱馬は元の姿「男」へと戻るというところにあった。
 当然のことながら、湯船に浸かると、手足は伸びて、逞しい男の身体へと変化する。初音にさえ見られなけれが、危惧することもなかったのだが。こういう場では、得てして「思惑通り」に事は運ばないものだ。いや、それどころか、騒動の種がある以上、そちらへと流れていうのも、常なのである。

「しまった…。眼鏡…。浴室に忘れて来ちゃった。」
 自室で荷物整理しながら、初音が気付いたものだから溜まらない。
 なくし物に気付くと、取りに戻るのも、また、当然のことだろう。
 脱衣室のかごの中へ入れたまま、こちらへ戻ったという確信があったから、引き返して取りに戻る。

 が、風呂場には乱馬が居た。
 入浴中だけが、現在、本来の姿に戻れる唯一の場になっていたから、リラックスして手足を伸ばす。ずっと、小さな女の体の中に、自分自身を押し込めていた閉塞感が、一気に解放されるのも、また、仕方のないことであった。
 
「ううう…。いい気持ちだぜ…。」

 と、自然に独り言が漏れる。

「はあ…。やっぱ、男の体が良いなあ…。ううう、湯が五臓六腑に染み渡るぜ。」

 つい、親父の如く唸りながら、独りごちる。
 彼にしてみれば、一気に己自身を解放していたのだが、そのガラス越しの脱衣所に初音が現われたらどうなるだろうか?
 初音は乱馬が女であると疑ってはいない。まさか、男の体が本当の姿などとは、思いも及んで居ない。彼の耳元に、浴室の中から、見知らぬ男の声がしたとすればどうなるだろう。それは、驚愕となって、大騒ぎに発展するに、充分すぎるきかっけになるのではないか。

「えっと…。確か脱衣かごの中に置いたと思ったけど…。」
 そう言いながら、脱衣所に足を踏み入れた彼は、ふっと隣りの浴室の方から、聞こえてくる、男の声に気がついてしまった。元々耳は良い。音楽家だから当然なのであるが。
 はっと思ってそっちを見た。
 と、曇りガラス越しに見えるのは、確かに、背の高い男の体だった。

「え?」
 はっと手を止めた。
 脱衣かごの中と、浴室の影を見比べる。かごの中には、確かに、乱子の着ていた赤いチャイナ服。おもむろにそれを持ちながら、見比べる。
「え…。え?…えええっ?」
 次に来る刹那、彼は、矢も盾たまらず、ガラガラッと浴室のドアを開けた。
 そこに居たのは、乱子ではなく、乱馬だ。

「げっ!やっべえっ!」
 咄嗟に乱馬は手元にあった、シャワーの蛇口をひねった。

 ブッシュッと音がして、水がシャワー口から噴き出した。

「いやああっ!初音さんったらあ、エッチイッ!!」
 わざとらしい黄色い声を張り上げて、乱馬は手で前を隠した。

「あ…。」
 初音はその声に我に返った。
「ご、ごめん!僕としたことがっ!!」
 そう言って思いっきり浴室の戸を閉めた。

「ど、どうしたの?」
「何があったんんだ?」
 少し遅れて、ドタドタと天道家の面々が浴室に駆け込んでくる。
「あ…。僕、乱子ちゃんの…。は、裸…。の…のぞいちゃって…。あの、男の子が居たと思ったから。」
 初音はパクパクと訳の分からないことを口走っている。
 あかねはガラガラっと浴室の戸を開くと、中へとずいっと入っていった。

「あんた…。もしかして。」
 そう言いながら、乱馬のおさげ髪をくくっと引っ張って顔を向けた。

「しゃ、しゃあねえだろっ!湯を浴びたら俺、戻っちまうし…。」
 乱馬はぼそぼそっとあかねの耳元に囁いた。
「もしかして、男、見られちゃったの?」
「ああ…。でも、咄嗟に水ひっかぶったから…。誤魔化せるとは思うぜ。」
「もう…。手がかかるんだから。」
 そう言いながら、初音を振り返った。
 彼は脱衣所で、まだ、目を白黒とさせて、へたり込んでいた。


「乱子ちゃんったら、驚いたみたいで、咄嗟に水ぶっかけちゃったみたいで。ごめんなさいね。ホント、粗暴なんだから。」
 あかねは初音を振り返りながら、言葉をかけた。
「おめえに粗暴なんて言葉、言われたかねえよ!」
 乱馬が後ろから叫んだ。
「あ…。あの…。」
 初音は元気いっぱい胸を肌蹴ている乱馬を見て、そのまま真っ赤に熟れたまま固まってしまった。
「乱子ちゃんっ!前くらい隠しなさいよっ!初音君が目のやり場なくって困ってるでしょうがっ!恥じらい持ちなさいっていっつも言ってるでしょう、もう!」

「確かに、男の子が風呂に入ってたと思ったんだけど…。」
 まだ、初音は落ち着かないのか、そんなことを口走っていた。
「ここに入ってたのは俺なんだぜ…。俺のどこが男なんだ?」
 乱馬はずいっと前に迫り出してきた。勿論素っ裸だ。
「わ…。わわわわ…。」
 そのまま後ろにずりさがる初音。
「もうっ!だから、そういうことはやめなさいって言ってるでしょうがあっ!デリカシーないんだからあっ!」
 あかねが乱馬のおさげを引っつかんで押し戻す。

「でも…。確かに…。」
「見間違えたんじゃねえのか?…おめえ、眼鏡外してたみてえだし。」
 乱馬はタオルを横から持ち出すと、前をやっと隠しながら言った。
「眼鏡かけてなくっても、見えるんだ。だから…。見間違えることはないはずなのに…。」
「あん?」

 乱馬はじっと初音を見詰めた。

「と、とにかく…。ごめんなさいっ!」
 初音はぺこんと頭を下げると、あたふたと風呂場から離れた。


「ふう…。女になりきるのも楽じゃねえや。」
 誰に呟く出なく、乱馬はそう吐き出していた。



つづく




一之瀬的戯言
 弦楽器奏者にナルシストが多いのは、鏡練習のせいだろうと私は勝手に思っています。
 弦楽器、特に腕に構えて弾くヴァイオリン、ヴィオラには、姿見の鏡は練習時の必需アイテムです。
 人間の身体の理とかなわないフォームで弓を弾き下ろすので、充分にチェックしながら弾かないと、すぐにフォームが崩れるからです。
 多少なりともこの楽器を弾いたことがある方にはわかると思いますが、真っ直ぐ弓を弾き下ろしたつもりでも微妙に曲がるのです。また、ともすれば、指板(しばん)と呼ばれる黒い部分へ運弓がかたよっていきます。(弓はできるだけ駒に近いところで弾いた方が発音の良いしっかりした音になるのですが、これが結構難しいのですよ。)
 フォームの崩れは即、音に跳ね返るという、結構シビアな世界でもあります。
 プロになれる方と、一端のど素人の分かれ目は、運弓(ボーイング)にもあると言われています。
 まずは左手を使わずに開放弦だけで運弓練習するのが最初の基礎練習。半時間はやらないと楽器が充分に鳴らないといわれています。これをこなしたあと、音階練習に入り、それから練習曲や楽曲へというのが基本的な練習の流れになります。
 管楽器ではさしずめ、チューニングベーやアーを吹くロングトーンと同じような意味合いになるのでしょうか。
 何の楽器も基礎は疎かにはできないというのは、武芸一般に通じる部分があると思います。絵画もデッサンを疎かにすると駄目なのと同じように。


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