第二話  尋ねてきた少年


一、

 春休みに入って間なしの天道家。
 そこへ現われた突然の訪問者。彼の名は初音・フランツ。
 いまや世界を股にかける、オーケストラ指揮者の和音・フランツの一人息子。天才ヴァイオリニストとして、これまた有名な音楽界の貴公子だった。

「しっかし…。何で、唐突に天道家にやって来たんだ?」
 乱馬はまだ納得がいかないというような顔を手向ける。
 彼らの向こう側の部屋では、早雲と初音が机を挟んで正座して対面していた。
 天道家の人々はその背後の障子の向こう側から、じっと事の成り行きを見詰めていた。

「だから何でそんな有名人が天道家に…。」
「しっ!黙って、聞こえないわっ!!」
 なびきが口に指をあてた。


「で、これがお父さんから預かってきた手紙ということなんだね。」
 早雲が改めて初音を前に問い返していた。
「はい…。本来なら一緒に来るべきなんでしょうが、オケあわせやゲネプロの日程が押していて、どうしても足を運べずに、手紙だけで失礼しますと…。」
「なるほど…。」
 早雲は手紙を取り出して目を通している。



「オケあわせとか、ゲネプロって何だ?」
 乱馬が影からごそっと口に吐き出した。
「音楽界の業界用語よ。オケあわせはオーケストラの練習、ってところね。ゲネプロは「ゲネラルプローべ」の略。日本語にすると「本番前の総練習」ってところかしらね。」
 物知りのなびきが説明してくれる。
「けっ!まどろっこしい言葉だぜ。」
「いいから、黙って。」
 あかねが後ろから嗜めた。



「手紙に寄ると、今日から七日間、彼の東京公演が終わるまで、うちで下宿させて欲しいとのことだな。」
 早雲が言った。
「はい。、父が昔お世話になったこの道場で生活させていただくことは、これからの僕の音楽人生を形成する上でも、高名な先生に楽器を習いに行くよりも、素晴らしい芸術の肥やしになるだろうと、父が言うもので…。」
「かもしれんなあ…。まだ、若かった頃、君のお父さんもここへ半月ばかりいたことがあるんだよ。彼もまた、ヴァイオリンを手に、いろいろと悩んでいた時期だったみたいでね。亡くなった家内の伝を辿って、ここでいろいろなことを学んで帰られたんだ。」
 早雲がふっと柔らかに微笑みかけた。
「ええ、父からはここでのことをいくつか聞かされました。ここには日本人ですら忘れ去ってしまった「人情」や「温かさ」があると。」
「あの当時は内弟子もたくさん居て、賑やかだったからなあ…。まだ先代も健在で、家内もここに通って来ていたからなあ…。」
 遠い過去を懐かしむような目を早雲がしてみせた。



「へえ…。やっぱり、フランツ氏って、天道家(うち)に来たことがあったんだ。」
「まあ…。お父さんは本当のことを言ってたのねえ…。」
「こら。おじさんのこと疑ってたのかよ…。」
 ごそごそと早雲と初音のやりとりを聴きながら天道姉妹と乱馬がこそこそ話し合った。


「ここでの生活の後、父はヨーロッパでコンクールに入賞して、そこから本格的に音楽界へ羽ばたけたそうです…。短い期間でも絶対に僕の糧になるから、世話になって来いって…。」
 初音がおずおずと切り出した。
「ああ、そうかもしれないねえ…。確かに、ここには、他のどんな場所にもないものがたくさんあるからねえ…。良かろう。七日間、ここで生活していきたまえ。何、休暇だと思って気楽にすると良いよ…。さて…。」

 そう言うと、早雲は、折り重なるように覗き込んでいる家族たちを流し見た。

「これが、長女のかすみ、二十歳。で、こっちが次女のなびき十八歳。それからこっちが三女のあかね。君と同じ十七歳だ。それから、こっちがパンダ芸人の早乙女玄馬さん。古いワシの友人だ。今、パンダの着ぐるみを着用中。で、こちらがその娘さんの早乙女乱子ちゃん、あかねと同じ十七歳。早乙女親子は居候だから。気を遣わんでも良いからね。」
 そう言って家人たちをざっと紹介した。

「でえっ!!こら、おじさんっ!そのパンダ芸人と娘ってえのは何なんだ?」
 乱馬がそう突っかかろうとした時だった。
 早雲は彼の胸倉を掴むと、すすすすっと部屋の脇へと連れ込んだ。
「しー!!今の君ら親子はどこから見ても「パンダ」と「女の子」なんだから。早乙女君は着ぐるみを着ているからとか何とか言って誤魔化せるが、君は、その…誤魔化せないだろう?」
「何を誤魔化すってんだ?あん?」
 乱馬ははっしと早雲を睨み上げた。
「あのね、乱馬君。あんたの体質は普通じゃないの!音楽家のような繊細な神経を要される前途優秀な青年に、あんたの正体をあからさまにして御覧なさい…。どうなることか。まあ、普通なら、驚いて逃げ出すわよ。」
 なびきが口を挟んだ。
「そ、そっかなあ…。」
「絶対そうよ!預かるって決めたんだったら、今のまま七日間を通すのが一番じゃないのかしらん?」
「まあ、理屈から言えばそうなのかもしれねえが…。そんな大そうな体質なのか?俺たち。」
「あんたねえ…。全ての人間が、ここの家族みたいに、不可思議なことに寛容だ何て思ってないでしょうね?普通、化物よ、あんたもおじさまも。」
「その、化物っつーのは何なんだよっ!!」
 なびきと乱馬のやり取りに、早雲は揉み手をしながら言った。
「まあ、彼の芸術家としての細やかな神経を壊さないためにも、ここは一つ、七日間、女として通してくれたまえ。乱馬君!」
「お父さん、居候にそんなに卑屈にならなくてもいいわよ。」
「何だとぉ?あかねっ!!」
「居候なんだから、家長の言うことは率先してききなさいって言ってるのっ!」
「こらこら、あんたたちは、また喧嘩して!」
 


「あのう…。」
 早雲たちがなかなか戻ってこないことに痺れを切らしたのか、初音がひょこっと顔を出した。
「すいません。お手洗いどこでしょうか?」
 ともじもじしている。
「あ、こっちなの。ついていらっしゃいな。」
 かすみがにっこりと微笑みかけて先に立った。
「すいません、お世話かけます。」
 ぺこんと初音が頭を下げた。


「ホント、あんたと違って紳士よねえ、初音君は。」
 初音の気配が去ると、あかねが言った。
「何だ…。あかねはああいうのが趣味なのか?」
「そこまで言ってないわよっ!!」
「こほん!とにかくだ。初音君の健全な音楽家の神経を守る上でも、彼が居る間は男に戻ること相成らず!早乙女君はとにかく、目前での変身に気を付けて一週間を過ごしてくれたまえ…。でないと、追い出すよ、この大飯喰らいの居候諸君!」
 ぎろっと二人を睨んだ早雲に、仕方なく乱馬は承諾の意を告げた。
「わーったよ。」
 乱馬は吐き捨てるように言った。
 それからくるりと背を向けて、自分の部屋へと入って行く。
 嫌に大人しく、あっさりと承諾して引き下がったなと、なびきが小首を傾げた。



二、

 なびきの予見どおり、女であり続けることを強要された乱馬は、自室へ戻るとすぐさま、荷物をまとめだした。

 現在の乱馬は二階の物置小屋だったところに、自室を貰っていた。
 早乙女夫婦がそれまで居た八畳間をそのまま使っていたが、いつまでも親と同じ部屋では具合が悪かろうと、のどかが押しかけて来てからは、彼も一つ部屋を持たしてもらったのだ。物置小屋だったので、窓も小さく、狭かったが、それでも、一人居の方が何かと羽を伸ばせた。

「あら?乱馬君、何やってるの?」
 気になって様子を伺いにきたなびきが、ひょいっと乱馬に声をかけた。
「見りゃわかんだろ?荷物作ってるんだよ。」
 ぶすっとして乱馬が答えた。
「あらら…。家出?」
 なびきの答えに、だあっと思いっきり脱力した乱馬が言った。
「何でそうなるんだよっ!違わいっ!修行だよっ!!あいつがここに居る間、男の身体に戻れないんだったら、丁度良いから春山にでもこもろうかと思ったんでいっ!!」
 乱馬は下着など、日常品を詰めながら言った。

「ふーん…。あんたにしては、考えたわね。」
「だろう?一週間くらいこもってくりゃあ、厄介ごとにもなんねえだろうし…。」
「でもさあ…。それはちょっと不味いんじゃないの?」
 なびきはにんまりと笑った。
「ああん?」
 荷物を作る手を止めて、乱馬はなびきを振り返った。
「たく…。相変わらず短絡思考というか…。ここを逃げ出したって、問題は解決しないわよ。」
「逃げ出すんじゃねーぞ!修行するって言ってるだろ?」
 じろっとなびきを見返した。
「あんたが、天道家(うち)を出て行ったら、案外、あの初音君の思い通りってことにもなるかもよ。」
 なびきはふふふっと微笑んで見せた。
「何だよ…。その、思い通りってのは。」
「考えても御覧なさいな。初音君とあかねってもう、既に顔見知りだったでしょう?」
「ああ…。あかねが公園で助けたらしいからな。」
「ってことは、初音君、あかねと一番話しやすいってことよね。」
「ああ…。まあ、そう言うことになるよな。」
 乱馬はぶすっとして答えた。
「で、あんたが居なくなったら…。初音君、あかねにちょっかい出し易くなっちゃうかもしれないわね。」
「なっ?ど、どういうことでいっ?」
 乱馬はぎょっとしてなびきを見返した。
「これだから、あんたは何にも考えてないことがわかるのよね…。いい?もし、初音君があかねに気をひかれたとしたら、あんたが居ないと、一気に燃え上がったときに、どうするの?あかねって、可愛いし、人も良いからねえ…。かなりもてるほうだし。告白されて迫られたら…。バシッと断りきれるかしらねえ。」
「はん…。あいつが可愛くてもてるだって?」
 乱馬は何を言い出すかと言わんばかりに強く返答した。
「あら、あんたがここへ来て、あの子の許婚となるまでは、毎朝、男子たちと交際を巡って格闘してたじゃない。今でも、あんたが居なくなると、ほっとして、また求愛行為に出てやろうって思ってる男子、いっぱいいると思うけどな…。ほら、あたしとあかねが許婚交代した時だって。途端、掌を返して、あかねに求愛三昧した男子が多かったこと、よもや忘れたわけじゃないでしょうね?」
「うぐ…。」
 乱馬は言い返せなかった。
 口では「可愛くねえ」を連発する彼でも、本心は違う。あかねが気になって仕方がないし、勿論、他の男に持っていかれるなど、考えただけでも怒りがこみ上げてくる。
「ま、あんたが、あかねと初音君が、どんな仲になっても良いって割り切れるんだったら、好きになさいな…。山でも海でも好きなところへ出かけて修行でも何でもして来なさい。でも、一週間後に帰宅したら、許婚が交代してたってことになってても、あたしは知らないわよっと。」
「まさか…。そんなこと…。」

 そう言っている乱馬となびきの向こう側、仲良さげに話しているあかねと初音の姿が目に入った。
 ほうら、御覧なさいなと言いたげに、なびきはそっちへ視線を流す。
 その時、乱馬の脳裏に、あらぬことか、あかねと初音がいちゃついている姿が、ぱああっと浮かび上がった。初音があかねに迫る図。そして、あかねが潤んだ目を帯びて頷く図。
 ブンブンブンっと頭を思わず振るって、妄想を消した。
 当然、修行に出ようと思う気は、一気に失せた。
 はああっと大きな溜息を吐いて。リュックに詰め込み作業していた手が止った。

「恋は火が付くと消し止めることはできないものねえ…。」
 なびきはそう吐き出すと、鼻歌を歌いながら出て行ってしまった。

 作りかけた荷物。
「ちぇっ!」
 それを投げ出して乱馬はだあっと畳の上に仰向けに寝そべった。

 と、ドアをノックする音がして、今度はかすみがどかどかと入ってきた。

「か、かすみさん?」

 掃除をする以外はここまで浸入しないかすみが、にっこりと乱馬に微笑みかけた。

「乱子ちゃん。悪いんだけど、ここへ初音君を一週間だけ置いてあげてちょうだいな。」
 そう言ってにっこり笑った。

「えええ?」
 驚いてぱっと起き上がった。

「いや、悪いね…。ここへ来てもらうのが一番いいんだよ。」
 早雲がにっと笑った。

「お、おいっ!俺は今、女の子の格好してんだぜ?そっちが一週間そのままいろって言うから…。んなもの、若い男と女を同じ部屋へ押し込めようってーのかよっ?おじさんたちは。」
 シドロモドロしながら言い放った。考えれば無茶苦茶な話である。
「俺の部屋じゃなくって、親父の部屋の方がいいじゃねえかようっ!!あっちならパンダとだから…。」
「獣とヴァイオリニストを一緒の部屋に寝かせる訳にはいかんだろうが…。それに、初音君は高そうな楽器を持ってきているから、そんなものをあのパンダが壊しでもしたら…。」
 真顔で早雲が突っ込んできた。
「そ、そんな無茶な…。」
「何も、乱子ちゃんもここに居てなんてこと言わないわよ。乱子ちゃんには別の部屋にうつってもらおうって決めたところなの。」
 かすみがにっこりと微笑むと、パンダが運んできた布団を入れ始めた。

「だったら、茶の間とか居間でもいいじゃねえか!客間だってあんだろが、ここの家は。」

「布団の上げ下ろしがあると、一階だと人間がいっぱい居てくつろげないだろうし。客間に居ついているお師匠様が、これまたいつ戻って来なさるともわからぬからなあ…。ここが良いんだよ。悪いね、乱子ちゃん。」
「わ、悪すぎらあっ!!」
 乱馬が叫んだが、聞き入れてはもらえなかった。
「おっ、いい具合に荷物もリュックにまとめられてる…。いやあ、準備が良くって助かるよ。乱馬君。」
 早雲は玄馬と結託して、乱馬の布団とリュックを、運び出し始めたではないか。
 修行にこもろうと思って作った日用品入りのリュックが、思わぬところに功を奏する。

「ちょ、ちょっと待ていっ!!その布団とリュック!どこへ持っていくつもりなんでいっ!!」
 焦る乱馬に早雲は追い討ちをかけた。

「当然、君と仲良しさんのあかねの部屋だよ。」

「なっ、何ぃーっ!!」

 叫びきる乱馬を横に、早雲たちは布団とリュックをさっさかとあかねの部屋に運んでいく。


「ちょっと!お父さんたち、何で乱子ちゃんの布団をあたしの部屋に持ってくるのよっ!!」
 当然のことながら、迎えるあかねも絶叫した。
 いくら女の形をしていても、乱馬は男だ。彼女が驚くのも無理はなかろう。

「乱子さん、あかねさん、ごめんね。一週間だけ不自由かけちゃうみたいだけれど。」
 乱子(乱馬)が本当は男だという事情を知らない初音が、すまなさそうに二人に言った。
「いや、何の何の。この二人、とっても仲が良いですしなあ…。年も同じだし、通ってる高校も一緒ですから、お気になさらずに。」
 口をあけたまま、塞ぐことを忘れた、乱馬とあかねを目の前に、早雲がにこやかに言ってのけた。
「丁度、荷造りをしていたようだし…着替えを運び出す手間は省けたよ。」
 などと暢気なことを言う。

(お、おじさん、最初っから、これを見越して、俺を女のまま、貼り付けやがったんじゃねえのか?)

 わなわなと乱馬は震えていたが、乱馬を女と思い込んでいる初音の手前、あからさまに文句も言えず、早雲の姦計に従うしかなかったのである。
 あれよあれよと言う間に、布団とリュックに入った着替え一式はあかねの部屋へと運ばれて行った。




「わかってると思うけど…。」
 あかねがギロッと乱馬を見た。
「ここからは入って来ないでよね!!」
 あかねは部屋の真ん中に、ビニール紐で境界線を引っ張った。
「わ、わかってらあっ!だーれが好き好んで、てめえの傍なんかに行くもんかっ!!」

 初音が長旅の疲れを取るために、先に部屋に入ってしまうと、乱馬とあかねは互いにいがみ合った。

「たく、お父さんたちもお姉ちゃんたちも、どうかしちゃってるわよっ!!年頃の娘なのよ、あたしは。」
 あかねはがっくしと肩を落とした。
「何で、あんたみたいな変態を一週間も部屋に置いてあげなきゃならないのよ!」
「それは、こっちの台詞でいっ!居候で肩身が狭いから仕方なくここへきたんでいっ!バーローっ!」
「言っとくけど、ここからこっちへ浸入したら、承知しないんだからっ!」
「はっ!おめえも、こっちへ来るなよっ!!」

「いいから、静かに、早く寝なさいよ。もう初音君は寝てるんだから…。」
 トントンと隣りの部屋から音がして、なびきが独り言のように二人に話しかけてきた。

「はあ…。一週間かあ…。長い…。修行にも行くわけにはいかねえし…。畜生!」
 と言いながら布団へ這いつくばった。

 この日から、地獄が始まったのである。




三、


 蛇の生殺しとはこういうものだろうか。

 真夜中、思いっきり乱馬は溜息を吐いた。
 暗くされた部屋のすぐ脇のベッドでは、あかねがさっきから、心地良い寝息を吐いている。天使の寝顔と思いきや、寝相の悪い彼女は、時々バタン、ドタンと、寝床で暴れまわっている。その度にベッドが軋む音がして、乱馬は眠りに落ちることもできなかった。

「畜生…。自分一人だけ気持ち良さそうに…。」
 むくっと起き上がって寝顔を覗き込む。
 寝返りを打たない限りは、あかねは天使だった。
 惚れた女性の寝顔ほど、健全な少年の欲情をそそるものはない。
 手を伸ばせば届くところに彼女が眠っている。

 今は女の形でよかったと胸を撫で下ろす。 
 抱きしめたくなるようなこみ上げてくる想いを必死で抑えるのに女の身体は有効だと思ったからだ。
 この姿であかねを襲えば、文字通り「変態」である。
 そう思ってぐっと耐えた。

「はああ、これが一週間、続くのかあ…。」

 嬉しいようで残念なようで。複雑な想いが余計に眠気から己を遠ざけているように思えた。

 早雲の話によれば、明日から期日まで、初音は天道道場の門下生として過ごさせるそうだ。初音の父、和音の書状に、己が二十数年前に体験したのと同じように、この道場で過ごさせてやって欲しいと、願いが書かれてあったからだ。

 何でも、その書によると、音楽家として行き詰まりかけていた和音が、憔悴しきって母の母国へ来日したときに、ここへ来て、武道と日本の古い家庭文化に触れ、一気に吹っ切れたことがあったのだそうだ。今の自分があるのは、この道場と、天道家の存在があったからだと簡単に記されていた。
 当時の天道家は、先代の早雲の父の代。昭和の五十年代前半だったということもあり、門下生が何人かここで暮らしていたそうだ。あかねやなびきたちが使っている部屋は、元はそんな門下生たちのために作られたとも言う。
 早雲も高校生だったそうだ。
 もうその頃にはあかねたちの母と出会っていて、彼女もここへ足繁く通っていた門下生の一人だったらしい。和音の母とあかねたちの母の母、つまり母方の祖母は友人で、その伝(つて)を使って日本へ来たという。同じように桜の季節だったと早雲は回想して話してくれた。
「許婚というまでの間柄ではなかったんだけどね…。母さんとはそれなりに将来一緒になれたらいいなあとぼんやりと思い始めていた頃だったかなあ…。」
 あかねも初めて耳にする、己の母の話に黙って耳を傾けていた。
「彼女が和音君を連れて来て、十日ほどここに入門させてあげてくださいってね…。いやあ、当時は外国人なんて今よりは随分と珍しかったから。外国人って言ったって、日系人の血が流れていたから、和音君はテレビで見たとおり日本語にも堪能だったがね。でも、不思議な気持ちがしたよ。髪の毛の色も目の色も違う彼がここで道着を着た日はね。彼はいろいろ演奏について行き詰っていたようで、武道と言う未知の世界に引き込まれるように十日間、必死で修行した。日本の心っていうのかな。そんなものを学べたって言っていたよ。古い思い出話さ。」
 早雲は目を細めた。亡くなった奥さん、あかねたちの母のことを少し思い出したのだろう。
 そんな早雲の様子に乱馬は思わず考え込んでしまった。
 己は当たり前だと思っている世界でも、他所から見れば、そうではないだろう。異国から来た彼が夢中になるものを、無差別格闘流は秘めていたのかもしれない。
 おそらく、同じように音楽という壁にぶち当たっている息子のために、和音はここ(天道道場)へ来ることをすすめたのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、いつしか彼も、眠りの淵へと入っていった。
 


 カーテン越しに柔らかな春の日差しが入ってきた。
 
 チュンチュンとスズメの声もかしましい。

 まだ寝ぼけた眼を巡らせて、ふっと傍らに気配を感じた。

「ん?」
 
 柔らかな感触。このまま引き込まれそうな良い気持ち。
 また目を閉じようとして、はっと気がついた。

「で…。あかね?」

 己の腕に包まれるように眠っていたのは、この部屋の主、あかねだった。
 女になっていることなど、すっかり忘れていた彼の心音が、急激に鳴り始める。

「な、何であかねがこんなところに?」

 そう思って上を見上げた。布団がばさっと垂れていて、何もない空のベッド。
 どうやら彼女は、寝返った拍子に、乱馬の布団の上に落ちてきたか寝ぼけて入ってしまったらしい。
 
 うぶな乱馬はそのままぎしっと固まった。
 柔らかいあかねの髪の毛がふわっと己の頬に当たっている。

「う…ん。」
 体内時計が正常に働いているのか、それとも、乱馬の気配を感じ取ったのか。あかねがぱっかと目を開いた。

「よ…。おはよ。」
 目が合って乱馬は、強張った笑顔を手向けた。

「き…きゃあああっ!何であんたがこんなところに居るのよーっ!!」

 バチコーン!!

 それは激しいビンタの強襲だった。

「い、いってええーっ!!何すんだっ!この、すっとこどっこいっ!!」
 思わぬ攻撃に乱馬は激しく言葉を吐きつけていた。
「それはこっちの台詞でしょうがーっ!!何であんたが、こんなところで寝てるのよーっ!!」
「だ、だから、俺の部屋には初音が居て、こっちへ追い出されてきたんだろうがっ!!寝ぼけるなっ!!」
 乱馬も負けじと言い返した。
「だからって、何であんたがあたしの布団に寝てるのっていうのっ!!」
「おめえが、ベッドからここへ降って来たからだろうがっ!!俺は大人しくおめえから離れて下へ寝てたんだ。下へ。ほれ、ここは俺の布団の中だっ、ぼけぇっ!」
 凡そ、女の子が使うには不適切な言葉の羅列であった。


「んもう!まだ六時前よ…。あんたたち…。朝から喧嘩なんてしないでくれるう?仲が良いのはいいんだけどね、喧嘩も時と場所を選びなさいよう!もおっ!!」
 なびきが部屋へと雪崩れ込んできて文句を言った。
「仲良し、結構!このまま、雪崩れ込み!大いに結構。」
 その後ろから、いつの間に起きてきたのか早雲とパンダがおどけている。


「くそ…。何だってんだよーっ!!」

 これがまだあと五夜も続くのかと思うと、気分が滅入りそうな、春の朝であった。



つづく




一之瀬的戯言
乱馬とあかねの年齢は原作よりも時計を進めてあります。
この春から「高校三年生」という設定で書き出して有るので、十七歳。
また、書いている現在を起点として創作したために、和音の来日修行は昭和五十年代前半ということになっています。
2004年から二十五年くらい前というところでご想像ください。(私が高校生くらいの頃になるかな…。)


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