第八話 過去譚


一、

 今を去ること、二十数年前…。

 早雲はゆっくりと話し始めた。


 都心から、少し離れた場所にある、静かな郊外地。
 まだ、開発の波も、この山奥には到達せず、静かな山間の地。
 秩父多摩の合間にある、都会の喧騒から、さほど遠い距離ではなかったが、辺りはまだ、自然がそのままに残っている。
 まさにそんな所に、天道家の宗家は今も建っている。
 この辺りを昔から治める「地主」でもある、天道家の宗家は、しっかりと地元に根を下ろし、静かな山間の地を守るように裾野に立っていた。その宗家の周りには、血筋を同じとする、一族の屋敷が幾つか立ち並ぶ。
 中央の少し奥まった丘の上には、宗家が堂々と立っていた。古い士族の家らしく、田舎とはいえ、瓦葺屋根。屋敷のすぐ裏には、高くはないが、緑深き山が広がっている。樹齢何十年、いや何百年とも思われる、木々が嶺へと連なる。
 どことなく、人を寄せ付けないような山。西へと広がるこの山を、天道集落の人々は「天の原山」と呼んで、祖霊と共に、敬っていた。
 頂には「注連縄」が張り巡らされた、平らな土地があり、曰くありげな「五輪の形をした石塔」がある。苔むした石塔。何か文字を彫った址もあるが、長年、風雨に晒されたのだろう。判読は不可能だった。
 五輪の塔の下には、古の「鬼」が封じられた「鬼穴(おにあな)」があるという。家に伝わる「伝説」によれば、その昔、天道の祖先が、将軍様の言いつけによって、この辺りを暴れまわっていた「鬼」を退治したのだというのだ。
 鬼は、たいそう強かったが、天道何某という祖先の武人が、討ち果たし、彼らをまとめて、その「鬼穴」へと葬ったということだった。鬼は、再びこの世に禍をなさぬよう、尽く穴倉に埋められ、その周りには強靭な結界を張り巡らせたという。五輪の塔は「鬼塚」と呼ばれ、今でも、鬼がその地中深くで、こちらの世界を狙っているやもしれぬという。
 天道家の男子たるものは、その「結界」と「鬼塚」を護ること。それが、第一の勤めだと教えられた。だからこそ、身体を強靭に鍛え、武を嗜まねばならない。
 私も、子どもの頃から、寝屋の中、祖母や母が、そんな「伝説」を良く訊かされてきたものだ。
 
 確かに、その「原山」の「五輪の塔」へ行くまでの間には、細き獣道のような山道の所々に、注連縄が張り巡らされ、只者では無い雰囲気を漂わせていた。
 子供心に、わくわくしながら「鬼」と「天道家の先祖」へと思いを巡らせた。
 私、早雲もまた、天道家の血を受けた男子の一人として、心身を鍛えることを日課としていた。
 週の殆どは、都心の練馬にある「別宅」へ住み、高校生として凄し、週末になると、宗家のある山間の地へ帰る。そんな、生活をしていた。


「今年の夏は、天候が不順だな。」
 父が、テレビを見ながら、ふっつと答えた。
「例年と変わらないような気もしますが…。」
 学校のある練馬から帰ったばかりの私は、父親を見詰め返して答えた。
「いや、少し様相が違うぞ。何しろ、数年ぶりに、井戸水が濁った。」
 そう顔を曇らせる。
 山間の地のこの辺りは、昔から「井戸水」を生業の水として使っていた。簡易水道は繋がっていたが、殆ど、井戸の水だけで生活用水は足りる。鬼塚に連なる山の地下から流れて溜まる水脈らしい。
「日照りが続いているとも思えませんが…。濁ったんですか。」
 私は小首を傾げたさ。
 数年前、旱魃続きの暑い夏に、一度だけ、水が濁ったことを覚えているが、今年に限ってそんなことはない。
「山の地下で何か異変が起こっているのかもしれないな…。」
 父はそんなことを吐き出していた。


 その日は、どこかで遠雷が鳴るような、湿気を含んだ嫌な天候だった。

「水の濁りはともかくも…。この台風…。このままだと関東地方を直撃しそうですね。父さん。」
 私はテレビ画面を見詰めながら、父に言ったっけ。
「そうだな…。通常、この季節には、四国や近畿地方へと上陸して北上して行くことが多いのだが…。少し東向きに寄っているような気もする…。」
「準備しておいた方が、良いかもしれませんね…。我が家も宗家も古い家だから、雨風が強いと…。」
「そうだな…。この湿気と高温からして、かなりな威力を持つ台風には違いあるまい。おまえは、宗家の昂君と、屋敷周りを見張って、必要があらば、釘打ちなどして、補強しておいてくれるかね?」
「はい、そうしておきます。」
 私の父親は天道家からは、次男になり、隣の宗家の伯父さんの次に、一族では高い地位にあった。おごる事はなく、物静かな田舎の農林業兼武道家であった。

 宗家には、私よりも五つ上の従兄が居り、これまた、静かに田舎暮らしをしていた。名前は「天道昂」。私は、この五つ上の従兄のことを、幼少時から「昂兄さん」と呼んで慕っていた。
 私も、昂もそれぞれの家の一人息子であったので、兄弟のように、仲睦まじく、この山間の地で育ったんだよ。
 宗家の長男なのだから、誰もが、次の宗家はこの従兄が継ぐものだと思いきや、事はそう、簡単なことではなかった。
 というのも、宗家のご隠居、特に、お婆様は、昂兄さんが嫌いらしかった。いや、だからと言って「昂兄さんの性格が悪い」というのではなかったよ。
 当代の青年から見れば、豪傑で、また、礼儀も正しい、青年であったが、祖母の気に食わない点、それは「母親の血」であったようなんだ。
 実は、昂兄さんは、私の父親の兄でもある、伯父の「妾腹の子」だったんだよ…。妾、まあ、今で言えば「不倫の子」というようなことになるのかねえ。
 伯父は他所で子どもを作っていたんだ。家には正妻が居たというのに。この正妻が身体も弱く、子宝にも恵まれず、私が幼い頃に病死してしまったらしい。その後、それを待っていたかのように、伯父が強引に妾が後妻にした。そんな感じだったのだそうだ。 
 後妻に入った伯母と婆様、これがまた、嫁姑の典型、犬猿の仲でもあり、婆様は事あるごとに、昂や伯母に辛くあたることがあったというんだ。伯母も祖母も、どっちも譲らぬほど、気が強い女性だったからね。
 宗家の祖母には息子が二人、娘が一人居る。娘はいわゆる「長姉」で、その後、「大伯母様」と呼んでいた、あの「天道玉婆さん」のことだよ。さっきまで、ここに居たね。長姉の長男の後妻いびりをしたらしい。それも、かなりなものだったとも言う。
 尤も、正妻がありながら、妾を作り、そこで子供を作ってしまった伯父も伯父であろうがね。子供は一方的にはできないものだからね…。ま、それは良い。
 祖母からみれば、気に食わぬ「嫡男の妾腹の孫」よりも、「次兄の孫」である、私の方が可愛いかったと、そんなことを親戚たちは言っていたようだ。確かに、祖母は昂兄さんを嫌ってる。そんな感じを幼心に感じていたのも確かだ。
『おまえが、天道の宗家を継げば良い。鬼塚を護るためには、正しき血でなければならぬ。不義の子であってはならぬのだ。』
 事あるごとに、祖母は私に言い含めていたよ。勿論、小さい頃は、それが何を意味しているのか、とんとわからなかったのだけどね。
 子どもに「不義の子」とは何を意味しているのかわからない。だが、血統を大事にする家からしれみれば、昂兄さんは「妾腹の子」としか、祖母たちには映らなかったのかもしれない。まだ、そんな理不尽な差別が、大手を振っている、そんな「名残」のある時代でもあったのさ。あの当時(ころ)は…。」

 私からしてみれば、子供心に、そんな「大人たちの事情」などは、大事ではなかった。出自がどうであれ、昂兄さんは頼れる兄貴であり、慕える存在でもあったからね。

 その日は朝から 風が出ていた。
 空はまだ、青くともが、湿気を含む風に、嵐の予感が過ぎる。
 澱むような空気の中に、微かだが「異変」の前触れがあった。

 台風が来る前にも、日課としていたお山巡りをしていた、宗家の伯父。朝から見回って、山から下りて来るなり、屋根への対策を施していた、昂兄さんと私、母屋に居た父に、気になる事を告げた。

「結界の注連縄が、ところどころ解けていたよ。」
 伯父はそんな言葉を吐いた。

「注連縄が解けて?縄が腐って切れたのではないのか?」
 父は怪訝な顔を伯父へと巡らせた。
「ああ…。切れたというよりは自然に解けたというような感じだったな。あれは。」
 家から程遠くない、ちょっと上がったところにある、最初の注連縄の張られたところ、そこへと、伯父に連れられて見に行った。

「ほら、見てみろ。」
 指差すところ。確かに、腐って切れたのではなく、解けたといったような感じで、だらっと注連縄が垂れている。
「誰か、悪戯でもしたんですかねえ。」
 父は小首を傾げながら言った。
「まさか…。この辺りは人家もまばらだし、観光や山歩きの物好きもそう来るようなところじゃないぞ。それに、余所者が入って来たら、この家の前を通らねばならぬだろうが…。」
「ああ、確かに、誰かが来ようものなら、すぐにでもわかりますよねえ…さて…。」

「そう言えば、母さんが朝から裏山へ上がってたような気もするけど…。」
 父親たちのやり取りを聞いていたのだろう。昂兄さんが、そう声をかけてきた。
「母さんがか?」
 昂兄さんの父親が怪訝な顔を差し向けた。
「ああ、何でも裏の畑を見てくるとか言って…。まだ早い時間だったから、父さんは気がつかなかったのかもしれないけど…。鍬を片手に上に行ったのを、朝稽古の時に見かけたよ。」
「母さんがなあ…。」
「ほら、今朝のキュウリは朝採りだったろ?」
「あ…。そうだったかな。まあ良い。台風が過ぎ去ったら、新しい縄を張り巡らせれば良いよな…。縄をなっておこうか。」
「そうして下さい。兄さん。」

 事は簡単に、終止符が打たれた。


 夕刻が近づくにつれ、風はだんだんに激しさを増した。
 南からの湿気った独特の風。まるで木々を巻き込むように吹き抜けていく。
 そうだな、あれは、日が落ちた頃だろうか。

 ゴオッという地鳴りと共に、地が激しく震った。
 丁度、夕食の食卓を囲んでいた、私と父母と。
 その揺れそのものは、物の一分も続かなかったろう。だが、明らかに、「ただの地震ではない。」のが、すぐさまわかった。

「父さん!」
「ああ…。おまえにも感じたか?」
 箸を持ったまま、真摯に頷きあったさ。

 普通の地震ではない。
 それは、流れてくる「気配」からも明らかであった。
 裏の原山から染み出すように流れてくる、妖気。

『鬼塚が崩れた。』
 咄嗟に、直感した。

「とにかく、宗家へ行くぞっ!」
「はい。」
 私は、父と共に、宗家の玄関を潜り抜けた。



「何かが原山で起きている。」

 宗家では、長男である伯父とその子の昂兄さん、それから、祖母、そして、大伯母夫婦が雁首を並べていた。勿論、その中に父と私も加わった。

『鬼なんて、絵空事の世界の話だろう?そんなに過剰にならなくても。』
 そんなことは誰も言わなかったよ。
 それぞれ、山の異変がわかっていたからだろう。

「台風の暴風雨だけではないな…。この怒気の正体は。」
 伯父が重々しく口を開いた。
「まさかと思うが…。鬼塚が崩れ、結界が破ら、鬼が外へ出たのではないか?」
 折からの豪雨が、烈しく古びた家を打ち付ける音。そして、風が舞う音が聞こえる。

「さっきの地震で、神棚が落ちた。」
 祖母がおろおろしながら言っていたね。
「ばっくりとお札を納めたご神体が吹き飛んで…。こんなことは、初めてじゃ。」
 よほど、驚いたようで、震えていたのを覚えているよ。

「ここで、こうやって、議論していても、何も始まりはしない。ここは、やはり、上に上がるのが一番だろう…。」
 伯父が重い口を開いた。
 その場に居た誰もが、そうするしかないと思っていた。
「様子を見に上がるんですね…。」
 父も同意した。
「鬼塚の保全は天道家の男児の務めだからな…。」
「ここは四人で様子を見に行くべきだな。」
 
 相談がまとまりかけたときだった。

「待ちなされ!」
 意義を唱えた者が居た。
 黙ってずっと話を聞いていた、昂の母親だった。

「四人で上がって、何か事があったときは、どうするのです?四人ともが下山出来ると限らぬのではありませぬか?」
 そんなことを言い出したんだ。
「それは…。」
 口ごもりかけた時、昂の母は続けた。
「もし、古の鬼が復活したのなら、一大事。何をおいても、再び封印をするのは、天道家に生まれし者の宿命。しかし…次の世代に家を引き継いで行くのも、また、義務。」

「何が言いたいのです?」
 話が見えなかったのだろう。伯父が不思議な顔を、自分の嫁に手向けた。

「四人で上がらず、一人、ここへ残りなさいということですよ。」
 大伯母は、代弁するように、ずばっと言った。

「一人残る?」
 伯父は、はっとして、今しがた物を言った己の姉と嫁を交互に見詰め返した。

「そうです…。鬼が出ずとも、この暴風雨の中、原山へ登るのは危険でしょう。どんな災害が待ち受けているか、わかったものではない。あえて、危険を冒さねばならぬなら、もしもの時のために、お家の男児のうちの一人は、ここへ残って待つのです。それも、また、後世へ子孫を伝えるための選択。」
 大伯母は、代弁するように、一気に喋った。

「早雲君、あなたが残りなさい!」
 昂の母親は迷うことなく、すっと私に言って退けた。
「おお、それが良い。早雲、おまえはここへ残りなさい。」
 その声に呼応する、祖母や大伯母たちだったね。

「わ、私がですか?」
 思わず、訊き返したさ。
「そうだな…。もし、この場に残していくなら、早雲。おまえが一番、適任だろう。」
 昂兄さんがすかさず続けたよ。
「ま、待ってください。私も上に行く。」
 自分だけが疎外されるのはたまらない。そう思った私は、釈迦力になって言い返したよ。まだ、青二才。怖いものなんてないような年頃だったからね。
「駄目だ、おまえはまだ若すぎる。今の技量じゃ、足手まといになるだけだ…。残れ、早雲。」
 珍しく、昂兄さんが強く言った。兄さんと私じゃあ、五つ以上の隔たりがあったからね。相手は成人式を勇に過ぎている。対する私は、まだ学生。誰が残るかは、火を見るより明らかであったさ。
 結局は、押し切られ、昂の母と大伯母の提案どおり、私が、一人、その場に残る事になってしまったのだった。


 一人、居残る、宗家。ほんの隣りの自宅へも帰らず、宗家にて、爺さんと婆さん、そして、昂兄さんの母と、重苦しい時を重ねる。
 三人が懐中電灯片手に、原山へ上がってしまうと、雨風が、もっと強くなったような気がした。
「何で、私だけ…。」
 腐った気分で、じっと待つ、宗家の座敷。退屈というよりは、身の置きどころがないんだ。こう、落ち着かなくてね。
 雨戸を閉め、蒸し暑さが篭る中、じっと、豪雨が過ぎ去って、上から三人が戻ってくるのを待つ。その時間の長さ。
 山鳴りはガタガタと引き戸や雨戸を烈しく揺さぶる。ボタン、ボタンとどこかで雨水が滴り落ちる音。そして、ビュービューと吹き荒ぶ雨風。
 じっとしているのが、居た溜まれず、用も無いのに、家の中をうろついたさ。天道宗家とは言え、他人の家だから、うろつける場所は決まっているさ。厠(かわや)と座敷の間だ。
 何度目かに、厠へ立った時だった。
 裏の井戸端で、何やらもそもそと蠢く人影と出くわした。
 目を凝らすと、昂兄さんの母親がそこに居た。
 何だろうと思って、じっと観察すると、灯明を持って、高く天上に差上げている。その先には、小さな社のようなものが据えつけてあって、赤い鳥居の札がくっきりと見えた。それに向かって、一心不乱に、何かを祈りこめている。手を揉みしだき、頭には赤い鉢巻。角のように両耳の上辺りへ差し込んだ、榊の玉串。
 大方、今しがた、原山へ分け入った、夫や息子の無事帰還を祈っているのだろう。そう思って、通り抜けようとした。
 と、その時だ。
 何故だろう。背中辺りがぞくっとした。
「な?」

 見上げると、窓越しに、山にぽおっと、鬼火のようなものが、浮かび上がっているのが見えたのだ。

 そいは、ふわふわと、山の頂辺りを、彷徨うように、蠢いている。

 と、それに続いて、ゴオッと耳元に確かに地鳴りのような音が聞こえたような気がした。
 「えっ?」と思って、更に、良く聞こうと耳を澄ませたが、暴風雨の音と混ざり合ったのか、それ以上は判別できなかった。
 
 その音へ耳をすまして、暫く経った頃、私は、すぐ向こうに見える、伯母の顔を見て、思わずぞくっとした。何かに向かって、懸命に祈り続けていた、伯母。その顔が、灯明に照らし出されて、何とも、恐ろしげな顔が、にっと笑ったように見えたのだ。
「おばさん?」
 声をかけようとしたが、やめた。
 何故か、躊躇われたからだ。
 一瞬、伯母に「鬼」でも乗り移ったのではないかと、思ったくらい、それは、異様な光景に見えたのだ。

 ふと気が付くと、さっき、に山に浮かんでいた「鬼火」は消えていた。見間違いだったと思うくらい、何もなく、木々が暴風に吹かれて、ざわざわと揺れていた。

 見てはならないものを、通りすがりに見てしまったような、何ともいえぬ「罪悪感」。
 私は、そのまま、音もたてずに、座敷へと引き上げた。
 そして、そこから、出ることなく、じっと、父親や伯父、昂兄さんの帰宅を待った。


 それから、そう時間も経たない夜明け前、大慌てで、父と伯父が、山から戻って来た。
 雨合羽はボロボロに裂け、ところどころ、かすり傷を負っているのか、血も滲んでいる。何より、全身、泥まみれだった。
 目を凝らしたが、昂兄さんの影は無かった。

「駄目だっ!昂が山津波にさらわれた!」
 二人は家に辿り着くと、それだけを言うと、がっくりと頭を落とした。

 伯父と父の話によれば、三人が崩れた鬼塚を目の当たりにし、塚に歩み寄ろうとしたその時、大地が揺れ、いきなり、昂兄さんの立っていた地面が、滑り落ちるように、崩落したというのだ。
 父と伯父は探そうにも、二次災害の恐れに、結局は、津波の痕を辿れなかったというのだ。
 そして、ほうほうの態で山から下りて来たのだという。


 その後、台風の過ぎ去るのを待って、近くの村や町から、人を頼み、手分けして、津波のあとを探し回ったが、昂兄さんに繋がる、手がかりは、何も見出すことはできなかった。所持品ひとつ、見つける事はできなかったんだ。昂兄さんの姿は、その日から、忽然と山から消えた。

「あの子は鬼に魅入られた…。もう、ここへは戻るまい。いや、戻る時は、この家が鬼に飲まれる時…。復讐の時…。」
 そんな、言葉を、ぶつぶつと吐き出すのを、その後日、偶然、私は聞いてしまったのだが、誰にもそのことは告げなかった。手塩にかけて育て上げた息子を、とられた母の、悲痛な叫びと、私なりに理解したからね。
 そう、その日を境に、昂兄さんの生母でもある宗家の後妻、伯母は、精気を失ってしまったようだった。ふっつりと糸が切れた凧のようにね。
 私が練馬の「別宅」に戻って、また、平穏な学生生活に戻って暫く経った頃、息を引き取ったのだという。
 伯父も愛するものを、立て続けに失った事が、災いしたのだろう。彼もまた、そう長くは生きられなかったんだ…。

 私も、程なくして、その地を出た。
 別宅として、昔からあった、この練馬の家を財産分与で貰って、後は、ここで、宗家とは違う流儀の武道道場を開いて今に至っているというわけだ。
 天道宗家とは、以後、いろいろあって、絶縁状態にあった。
 今回の見合い話を、大伯母が持ってくることがなければ、接点などは、なかったろう…。それでも良いと、思って、家を飛び出したのだからね…。




 一同は、シンと静まり返って、早雲の話に耳を傾けていた。

 勿論、伯母の口走った「変事」については、一切、そこでは触れはしなかった。だが、何故か、あの時の、伯母の言葉が、鮮やかに脳裏に浮かび上がってきたのだ。自分自身も長らく忘れていた事だった。

 
「あの時、昂兄さんは、山津波に飲まれて、そのまま死んでしまったものと思っていたよ…。今の今まで、生きていることなど、知らなかった…。」
 早雲は、溜息を吐き出しながら言った。

「何故、もっと早くに連絡を入れてくれなかったんだ?伯母さんも伯父さんも、昂兄さんが生きていると知っていれば、もっと長生きできたかもしれないのに。」
 それは、早雲の正直な心境だったに違いない。

「ふん…。親父やオフクロが、生きようと死のうと、そんなこと、ワシには小事にしか過ぎんわ。」
 昂は、悔いるどころか、ふてぶてしい言葉を吐きつけた。

「昂兄さんっ!」
 早雲が、その言葉を聞いて、信じられないという顔を手向けた。親思いの従兄から、そのような言葉を、聞くなどとは思わなかったからだ。

「それよりも、ワシがどうして、ここへ現れたか、訊きたくはないのかね?早雲よ。」
 昂はにやにやと笑いながら、早雲を見やった。

「ああ、訊きたいさ。いや、訊かねばなるまいて…。申し開きがあるんなら、あの時、兄さんの身に何があったのか、そして、何故、今頃になって、私に会いに来る気になったのか…。ここで、はっきりと喋って貰おうではないか。昂兄さんっ!」
 静かだが、感情を押し殺したような声で、早雲は問い質した。
 

「ふふふ。ならば、きかせてやろう。我が身に起こりしことと、野望と貴様らの絶望への序章をな…。」

 昂はにやにや笑いながら、話し始めた。




二、

 そうさな、どこから始めるか。


 鬼塚の様子を見に、上に上がった少し前から、話しておくべきかな。

 ワシと天道家の関わりについては、さっき、早雲が述べた通りさ。ワシは天道家嫡子とは言え、所詮は、妾腹の母から生まれた子。祖母や大伯母が、色眼鏡をかけて、私を見ていたことなど、ガキの頃からわかっていたことだ。
 何度、己の出生を疎ましく思ったことか。
 それは、早雲、所詮、おまえにはわかるまいさ。
 傷つきやすい硝子の心は、いつしか、ワシの中に、鬼を呼ぶ「気」を生み出していたんだろう。

 あの鬼は、ワシが目覚めさせてしまったようなものかもしれん。

 「鬼」は人の心の隙間に乗じるものだ。人の野心や絶望、嫉妬や苦しみ。そういうものを含んで、だんだんにその力を増していくもの。それは、古来から変わりはしない。
 祖母や大伯母の、陰湿な嫡男の嫁いびり。それが、己たちの意にそぐわない者だと、余計に激しさを増す。何となく、疎まれていたこともわかってたさ。
「おまえは天道家の正しい道筋の者ではない。」そういう無言のプレッシャーを、絶え間なく感じていたさ。

 禍々しい妖気は、あの台風の日よりも、かなり前から兆候があったのは確かだ。
 ワシとて、武道家の走り。血がどうこうと言う前に、怒気だけはわかっておったつもりだ。
 まさか、あの「鬼」が、母を蝕んでいたところまでは、さすがに見抜けはしなかったが…。

 ふふふ。さっきの「注連縄」のこと。
 無残に切り刻まれた注連縄。
 知っておったか?あれは、母が切ったのだよ。故意にな。
 そう、驚くことはあるまい。
 あの晩のことだって、母が好意で、早雲、おまえに残れと言い出したのでなかったとしたらどうする?予め、仕組まれていた事の一端だとしたら…。

 何となく、母の後ろ側にある、きな臭い「邪気」に気付いていたワシは、それに押し出されるような感覚を受けながら、あの日、天の原山へ登ったんだ。

 暴風雨は激しく我々一行へと襲い来た。
 折からの台風。しかも、心許ない真っ暗な山道。
 懐中電灯を手にしていたとは言え、その恐ろしさは、その場に居た者にしかわかるまい。あの山は、天辺近くは、平らな土地だ。
 そう、あそこは、鬼塚の周りは、殆ど草木が育たぬのだ。何故か、昔からな。せいぜい、雑草がしょろしょろと生えるのみの岩肌剥き出しの荒地。
 それが何を意味しているか、わかるか?
 封印されてもなお、強い鬼の妖気。こいつのせいだ。荒地に草木が育たないのは。それほどまでに、この世に恨みと念を持った鬼。奴が在命中、どんな鬼だったかは知らないが、そいつが鬼塚に幽閉されて、想うことは只一事。

 己を封印した一族を滅すること。

 それ以外の願いなど、あるまいよ。
 その怨念が、染み付いた土塊。
 奴はじっと刻(とき)が満ちるのを待っていたんだ。
 結界が鬼を信じない世の中になって、だんだんに解けてくる日を。悠久の刻を、封じられた穴倉の中、ずっと。

 僅かずつだが、解け始めた結界。それを完全に解いたのは、おまえたち一族の、奢りや高ぶりが、追い込んだ一人の女。我が母だったのだ。解き放たれる、その日を夢見て、少しずつ染み出した妖気で、母を絡めとるには、容易かったろう。
 宗家の後妻として、いびりぬかれた女性の荒んだ心へ取り入るのに、何ら、障害はなかったろうさ。

 母は迫り来る「その刻限」を感じて、憑依された手足にて、山に張り巡らされた結界を解いて回ったんだ。畑へと入ると見せかけてね。
 そんな短時間に、山の結界を解くのは無理だって?彼女の心の隙間に入り込んだ鬼気は、一瞬にして、山を駆け巡らせるほどに強かったなんて、誰も思いもしなかったろうさ。
 注連縄は尽く母が切った。
 そして、迫り来る嵐の中で、儀式を行った…。鬼塚を取り崩し、そして、埋もれたままの鬼を解放するためのな。

 早雲。貴様、さっき、自ら言ってたろう?
 嵐の最中、鬼気として祈り続ける母の姿を見たと。声もかけられぬ雰囲気だったとな。
 そうさ、母はワシに鬼神の超力を与えるべく、命を削りながら、祈っていたのだ。
 
 父や叔父たちと共に、豪雨の中、塚の様子を見に行き、塚の横に立ったその時だったさ。

 地面から、凄まじい気が吹き上げて来たのは。

 鬼は、ワシがその地に立つ刻限を待っていたのだよ。
 この身を捕らえるために。

 怒気と共に、地面がぐらついた。
 足元から、えぐられるように、土中へと引き入れられた。
 勿論、ワシには何が何だかわからなかったさ。「山津波」そんな言葉すら忘れていた。
 わかったのは、見開く目や鼻、口に、容赦なく、泥が流れ込んでくるという、衝撃的な事実だけだ。
 その次に、頭を満たしたのは「死」。
 思うように動かぬ手足、いや、それどころか、身体が引き千切られんばかりの衝撃と痛み。
 このまま死へ誘われる。
 そう思った時だ。
 急に、死への恐怖心が募った。
 死など怖いものとは思っていなかった。ワシはこれでも武道家だったからな。どんな時でも冷静に死を迎えられると思っていたさ。
 だが、人間、死を目の前に意識すると、「貪欲」になるものだ。
 駄目だという絶望感と共に、生きたいという欲望が、心の底から吹き上げてきた。

 鬼の奴は、それを逃さなかったね。

 その時を待っていたかのように、俺の心に直接話しかけてきやがった。

『天道昂…。貴様、もっと生きたいか?』
 とな。

「ああ、生きたい!こんなところで死にたくない!」
 生死を彷徨っていたワシは、心で吐き出したさ。無我夢中でな。

 すぐ傍らで、奴は笑ったさ。
『ならば、我をその身体に受け入れよ!そして、我と同化せよ。』と命じたのさ。

 ワシの中に、迷いなどなかった。
 生きたい、死にたくないという、純粋な欲望が、鬼との同化を望んだのだ。
 鬼へ身体を差し出して、同化する。それしか生きる残る道が無い。究極の選択だった。

「ならば、来い!俺の身体ごとくれてやる。だから…俺を生かせ。」

 それが答えだったのだ。


 信じようが、信じられまいが、そんなことは貴様たちの勝手だ。

 だが、ワシはその時、鬼と同化したのだ。
 引き千切られんばかりの泥の衝撃の中から、どうやって抜け出したかなど、覚えていないが、気が付けば、原山の天辺から、随分、下へと押し流されていた。それも、天道家とは反対側の斜面へと。

 再び、我が瞳に人心地が戻った時、鬼はワシの中で言った。

『天道の宗家を滅せよ!その手で…。それが、まず、おまえの成すべき仕事だ。どんな方法でも良い。この世から抹殺してしまえ。』
 とな。
 ふふ、ワシは、最初、抵抗したさ。どんなに腐った一族でも、己の中にも、その血は流れているんだ。それを滅せよと言う、憑依鬼の言うことが素直に訊ける筈がないだろう?
 我が身に巣食った、鬼(やつ)のせいで、己を見失う事が怖かったんだな。ワシは、天道の里から離れた。鬼の呪縛の無い土地へと、失せることで、自らの手を汚すことを避けようとしたのだ。
 それに、まだワシは、早雲。おまえが可愛かったのだ。純粋な心で真っ直ぐに伸びる、若木のようなおまえがな…。
 ワシが拒否するたびに、鬼の奴は、ワシを苦しめた。
 すぐにでも、殺しに行けとな。その手で憎き一族全てを締め上げろ。とな。
 抵抗して、抵抗しぬいて…。
 そんな折だったよ。
 ワシは、おまえの消息を耳にしたのだ。偶然にな。
 訊けば、近くおまえが結婚するのだという。
 ワシが鬼に身を任せる少し前、大伯母から、早雲は葉隠一門の比奈さんと許婚になるということを聞かされていたからな。てっきり、彼女と結婚すると思っていたのさ。
 比奈さんの事は、ワシも良く知っておったからな。葉隠一門も、古くから伝わる古武道の家柄。血筋も確かだ。器量も気立ても確かな女性だった。
 大伯母が進めた縁談だということも、何となく察していたさ。
 その頃、ワシの修練のおかげか、我が体内に宿った鬼は、すっかりおとなしくなっておってな。祝福がてら、ワシは、数年ぶりに、天道の里へと帰ってみたのだよ。
 父も母も既にこの世の人ではなくなっていた。ワシもすっかりと、様相が変わっておったからな。親戚の誰一人、このワシが天道昂ということもわからなかったようだ。祖母もすっかりもうろくし、遠方から尋ねてきた、おまえの旧知の友人だと言ったら、すっかり信用してな。いろいろなことを話してくれたよ。
 中に、信じがたき事がひとつ。
 それは、おまえが、許婚の比奈さんを疎み、別の女性と婚儀を結んだということ。天道家を飛び出して、今は東京へ出ているという。
 耳を疑ったね。最初は俄かに信じられなかった。
 おまえが、従順で素直な早雲が、女性を裏切るなどとはね。
 婆さんが言うには、比奈さんは、葉隠の家からも出たという。そりゃあ、そうだ。婚姻の約束を反古にされることは、由緒正しき家の優しい娘には酷な話だ。葉隠氏も古い士族。辱められてのうのうと家に居られるほど、強い女性ではないさ。
 その後、比奈さんは、ずっと泣き暮らしているとね。
 また、大伯母はそれでも血筋が正しいと、もし、早雲の新しい嫁に男児が出来れば、宗家の跡取りに迎え、その結婚を認めようとまで言ったという。

 天道の里を辞し、私はすぐさま、おまえの元へ行ってみた。
 どうしても、婆さんの言葉が信じられなかったからだ。
 垣根の外から垣間見た、おまえの生活ぶりを見て、ワシは愕然とした。確かに、隣りに居るのは比奈さんではなかった。別の女性と楽しそうに笑いながら暮らすおまえ。それを見て、ワシの中に、やりきれなさと共に、憎悪の念が一気に吹き上げたんだよ。
 天道氏に禍をなそうとしている鬼。その怒気と闘っていた事が無意味だったように思えた。
 と、その時を待っていたかのように、鬼が体内から囁いてきた。

『天道家を滅ぼせ。人を不幸にして笑う人間を、その手で滅せ!』とな。

 可愛さ余って、憎さ百倍。

 すぐにでも、おまえたちを襲って滅してやっても良かったのだが…。ただの復讐ではつまらぬではないか。

 ワシは、良い事を思いついたのだ。

 別に天道氏の血を滅ぼすばかりが復讐では無いとな。
 憎き一族の血の中に、鬼と己の血を混ぜればどうなるか。天道氏の娘から、鬼の血を受けし子を産み落とさせれば、もっと楽しいことになるのではないかとね。

「鬼よ、おまえの禍々しい血を、天道氏の子孫の中に流してみぬか?少し時間はかかるが、憎き天道の一族、あの天道早雲の娘を支配し、鬼の子を生ませてみるのも面白いと思わぬか?」
 とな。

 鬼の奴は狂喜したね。
『面白い話ぞ!』
 とすぐに乗ってきやがった。
 鬼が人間の中に巣食えるのは、普通、一代限りのことらしい。
 天道氏を根絶やしにしたとしても、ワシが朽ち果てれば、鬼は再び、人間から放り出されて、巷を彷徨うことになる。
『おまえだけではなく、おまえの子へ我が身を転生させることになるが、それでもかまわぬのか?』
 と訊いてきた。
「かまわぬ…。我が子もおまえに差し出そう。その代わり、ワシには男児を、早雲には女児を授け分けてもらわねばならぬが…。おまえの力でそれは可能か?」
『ああ、可能だ。我が術を施せば、簡単にできる。』
「ならば、私には男児を、早雲には女児を生ませ、いつかその二人を娶わせ、おまえはその子へと転生を続ければ良い…。」
『そうさな…。転生のたびに、我が力は人間の体内で増殖する。おまえよりも、おまえの息子の方が、鬼の心と血が強くなる。さらに孫はその上だ。ふふふ…三代、この身を転生できれば、その超力は増殖し、鬼人となって体現できる。鬼人となれば、この世への禍は我が思うがまま。そんな鬼人を天道氏の娘に産ませれば、もっと愉快なことになるかもしれぬ…。乗った。その話。乗ってやろう!』
 いとも簡単に、鬼は私の提案を受け入れよった。

 決まったところで、私は葉隠の里から出た、比奈を探し出し、で、契ったのよ。
 それが魁だ。

 もうすぐ、鬼の願いは成就する。
 天道家は自ら、鬼の手の内へ堕ちるのだ。
 あかね君と魁が契りを結んだそのじてんでな。





 雷が、すぐ傍で轟いた。

 ぞっとするまでに、荒んだ気を育んだ昂がそこに居る。





「あかねを…復讐の道具にするなど、俺は許さねえ…。」
 ぐっと握り締める、掌。
 全身から怒りの闘気が立ち込める、乱馬。

「ふん。貴様など、鬼を体内に飼っている魁の強さには、足元にも及ぶまいよ。」
 鼻先で昂は笑った。
「ワシの体内に居た頃よりも、鬼気が増しておるからな…。」

「まるで、今のてめえの体内には、鬼は居なくなってるみたいな、言い方じゃねえか。」
 乱馬ははっしと鋭い視線で、昂をとらえた。

「ああ、もう居らぬ。」
 にやっと昂は笑った。
「これが、その証拠だ。」

「なっ!」

 昂はそう吐き出すと、己の左目を抉り出した。

「驚くことはない。これは義眼だ。」
 抉り出した目玉を掌に持ちながら、昂はにっと笑った。

「おめえ、その目…。」

「一つだけ教えておいてやろう。そのくらいのハンディーがないと、貴様では相手に不足だからな。鬼は眼の光の中に潜む。おまえも見たろう?昂の瞳の鮮やかなる輝きを。」

「魁の持つ金銀妖瞳か。」
 玄馬が割り込むように言った。

「ほお、貴様も見たのか。そこの親父。」
 昂は玄馬を見て、にっと歯をむき出した。

「道理で…。だから、あかね君もなびき君も、鬼の宿る魁の瞳を見て、様子が変になったのじゃな。」

「そうか。その鬼の瞳であかねとなびきを惑わし、誘惑したんだな。あの助平野郎。」

「そういうことだ。ふふふ。」
 昂は吐き出すように笑った。

「手の内を明かすとは、貴様、相当余裕があるのじゃな。」
 玄馬は不敵な笑いをする昂へと言葉をかけた。

「当たり前よ…。あの眼力に敵う人間など、居るものか。それが証拠に、ニューウエーブバトルの試合は、完全勝利だ。魁の鬼の瞳に魅入られて、平気な奴など、居ない証拠。奴こそ、最強だ。…お嬢さん、君は彼の瞳の前に斃れ伏すだろう。悪い事は言わん。魁とやりあうのは、止めておけ。あやつは、おまえさんが女とて容赦はしない。」
 昂はそう続けた。
「おもしれえ…。だったら、余計に、魁とやりあいたくなったぜ。」
 負けん気だけは強い乱馬は、物怖じせずに、正面から昂を睨み返した。
「そして、絶対に、魁を鬼ごと倒してやる!」

「ふふふ。せいぜい、技を磨き、楽しい闘いにしてくれたまえ。天道家が鬼の前にひざまずき、早雲、貴様の娘が贄として差し出される、記念すべき日になるのだからな。わっはっはっはっは。」

 また轟く激音。

 湿気た嫌な空気が、風に乗って流れ込んできた。

「七月の晦日を楽しみにしておるわ。天の原山で、確かに、会おうぞ…。おまえたちが来なければ、日没と共に、早雲、おまえの娘は昂の物になる。一生、昂が可愛がってくれるだろうさ。あいつは、あかね君が大そう気に入っているようじゃからな。はっはっは。」

 すっと立ち上がると、激しく打ち付け出した雨に打たれながら、昂は天道家の客間を後にした。

 彼の帰宅と同時に、雨は更に激しく天から降り注ぐ。
 まるで、天道家の行く末を暗示するかのような、土砂降りへと様相を変えた。
 庭先の赤い紫陽花が、重い頭を雨にさらしながら、ゆらゆらと一斉に揺れ始める。
 いつ果てるともわからぬ豪雨。暫く止む気配もなく、振り続けた。

 早雲は黙って、昂が見えなくなった庭先を見詰めている。
 彼の残した足跡も、雨が綺麗に流していく。

 梅雨明けまでには、まだ、間がありそうだ。



つづく




一之瀬的戯言
 作品の根幹部でもあり、重要なプロット部分があるこの章の扱いが、一番悩んだところかもしれません。珍しく、一度、全面に書き換えています。
 悩みに悩んだ末に、この項は、早雲視点と昂視点の混在で、書き直してみました。読み辛いかなあ。
 スパッと飛ばしてしまっても良かったんですが、ここを抜くと、後半への引張りが悪くなりそうで。結局、予定通り、ここへ挿入しました。
 重苦しくなってきたので、そろそろ、本来のらんまモードへ戻してみようかとも思っています


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