第五話 周到な罠


一、

 ゆらゆらと足元が浮き上がってくるような錯覚。いや、実際、波の上を走行している船の上だから、違和感があっても然りなのだが、落ち着かない。
 さっき、ダンスをした頃までは、平気だった。
 乗り物酔いなど、今まで経験したことも無い。

 さっき、飲んだドリンクが、口内で後味を引いているような、そんな、嫌な感覚。何となく、胸もむかついているような気がする。
 魁に付き添われて、通された部屋。
 小さな丸い窓が、海に向かって開いている。
 明るい蛍光灯が、あかねを映し出す。その眩さに、くらっときそうになった。
 そんなあかねを察したのか、
「ちょっと、灯り、落しましょうか?」
 魁は気遣うように言った。

「ありがとうございます…。落せるなら少し…。」

 ボーイに長椅子へ座るよう促されて、そこへ、パンプスを脱いで上がりこむ。
 ふかふかの皮の長椅子だった。

「空調の具合はいかがですか?」

「ちょっと寒いかもしれないね。少し部屋の温度を上げてくれますか?」
「かしこまりました。」
 ボーイはこくんと頭を下げると、ドアの袂にある、コントローラーをいじった。コンッと音がして、空調が少し緩んだようだ。

「直接、エアコンの風を受けない方がいい。君、毛布か何かを彼女に。」

「はい。こちらで宜しいでしょうか?」
 クローゼットの中から、毛布を一枚出して来て、あかねへとかける。
「何かございましたら、最寄のスタッフに申しつけください。私はこれで…。」
 ぺこんと頭を下げると、ボーイは自分の持ち場へと戻って行った。
「ごゆっくり…。」
 パタンと重い鉄の扉が閉まる。心なしか、ボーイの顔がにっと笑ったように見えた。

 その後は、取り残されるように、ポツンと二人きり。

 このシチュエーションは不味いのではないか…。
 誰も居ない個室に、若い男女が二人きり。
 相手は、格闘界のプリンス。力でかかられては、太刀打ちもできないだろう。大声を上げても、外に通じるかどうか。

 あかねは、思考が回らないなりに、ぼんやりと、そんなことを思ってしまった。
「暫く横になっていれば、楽になりますよ。多分、酔ってしまわれたんでしょうね…。」
 魁はサングラスを外して、あかねに寄り添った。
 柔らかな瞳が、再び降りてくる。
 思わず、あかねの身体に力が入った。
 自然と、抵抗するように、身体が身構えたのだろう。
 
「あかねさん…。」
「は、はい…。」
 乾いた声で返事をする。少し声が震えていたかもしれない。
「何か欲しいものはありますか?良かったら取って来てさしあげますが…。」
 あかねの想像とは別に、彼は、そんなことを言った。

「あの…。良かったら、水を…。」
 あかねは、ホッと息を吐き出しながら、そう告げた。
 この場から、魁が遠のいてくれれば、とりあえずは「危機」は回避できる。そう思ったのだ。
「わかりました。お持ちしましょう…。少しお待ちくださいね。」
 魁はにっこりと微笑むと、サングラスをまたかけた。そして、あかねの希望に沿うべく、水を貰いに部屋から出て行った。

 何故だろう。
 大きな溜息がふうっと漏れた。

(魁さんにはどうしても、硬く身構えちゃうわ…。乱馬に対するのとは、大違いよね…。)
 そう思いながら、丸い窓から外を見た。
 窓ガラスに映る、自分の顔。そして、その向こう側に、東京の摩天楼がぼんやりと見えている。赤や青、黄色や緑。いっぱいの電球が煌めくように光る、大都市、東京。
 船の動きにつられて、それが、ゆらゆらと動くように見える。
(やっぱり、乱馬の傍が良いな…。)
 おぼろげに、そんなことを思った。
 気を遣わないで、いつも傍に寄り添える存在。その、大切さが、少しわかったような気がした。

(乱馬、怒ってるかな…。心配してくれてるのかな…。)

 緊張の糸が、ふっつりと途切れたあかねは、そのまま、まどろむように、浅い眠りへと落ちていった。




 さて、あかねの眠る、厚い鉄の扉の向こう側。
 そこでは、修羅場が訪れようとしていた。



「さてと…。君かい?さっきから、ずっと、殺気だった瞳で、僕たちのことを見ていたのは…。」
 ドアを締め切ってしまうと、魁がそう言葉を張り巡らせた。

「むむむ、貴様か…。あかね君を誑(たぶら)かしたのは…。」
 対するのは、なびきにたき付けられた、九能だった。
 何処に隠し持っていたのか、木刀を中段に構えている。

「ふん、物騒な物を振り回すんだな…。ここは客船の中だぜ…。君。」
 魁は動じることなく、軽くいなした。

「もとい、かまわん…。貴様のような、ふざけた奴は、ここで叩きのめしてくれるわっ!」
 九能の目は、心なしか、血走っている。

「どうしてもやりたいって言うのなら、相手してやらぬでもないが…。」
 魁の口元が、にっと笑った。目はサングラスをかけているので、表情までは伺えない。
「ここでは、やりあうのも狭すぎる。君の得物(木刀)だって、こんなところじゃあ、存分に振り回せまい…。どうせなら、心置きなく動ける場所、そうだな、甲板でやろう。そこなら、他の目もあるまい…。どうだ?」
 誘いかけるような言い草だった。

「良かろう…。」
 九能はすいっと木刀を下げた。

「ふふふ…。ならば、付いて来い。」
 先だって歩き始めた魁に、九能は遅れまじとついて行く。



「お、おい。あいつら、やりあう気だぜ…。」
 そのはるか背後から、乱馬が言った。まだ、女のなりのままで、なびきとこっそり、九能へついてきたのだ。
「願ってもないチャンス到来ね。百聞は一見にしかずってね…。これで、彼の手の内が少しでも、伺えるわ。」
 なびきがくすっと笑った。
「だと良いんだがな…。相手は九能だからな…。期待できねーかもしれねー。」
「ま、とにかく、できるだけ離れた場所から、こっそりと…。あんたはともかく、あたしは面が割れてるし…。」
「そだな…。」
 二人は、足音を忍ばせ、気配をたちながら、先を行く、九能と魁の後を追った。



 甲板の上は、真っ暗だった。
 灯りが全く無いわけではなかったが、あたりには、客人たちも居ない。
 雨は降ってはいなかったが、じめっとした海の潮風が、頬を掠めて吹きすぎていく。
 暗い海の向こう側には、ベイエリアのビル街がはっきりと見える。

「ここら辺りで良いだろう…。」
 すうっと魁が立ち止まった。
 片手をぽっけに入れたまま、九能へと向き直る。
「やめるなら、今だぜ…。」
 凄みはないが、真っ直ぐに透き通った声が九能へと通っていく。
「問答無用!あかね君に近寄る不逞の輩め!貴様を叩きのめしてくれるわ。」

「そうか…。君もあかねさんに惚れているのか…。ならば、容赦はしない。」
 すいっと魁も身構えた。

 と、その時だった。対峙する二人の間に、割って入った人影があった。
 もっこりと目の前の甲板が盛り上がり、ボコッと音をたてて破壊されて現れた人影。
「待て!九能っ!!その勝負は俺がやる。」
 人影はそう叫んだ。

 
 そう、九能と魁の間合いに入り込んだのは、永遠の迷い子、良牙であった。
 良牙もまた、あかねに言い寄る魁に、一物持っていたのだ。



「あっちゃー!あの野郎、良牙じゃねえか…。今まで散々、何処さまよってやがったんだか…。」
 影で見ていた乱馬が、思わず苦笑いをした。
「あら、あらららら…。良牙君、丁度良いところに現れて…。」
 なびきも同じくにんまりと笑った。
「これで、相手は二人…。なかなか拮抗して、良い見世物になりそうよ。」
 と付け加えた。



「ふふふ、もう一人、あかねさんの周りに虫が迷い込んで来たのか…。たく、煩(うるさ)いことだ。」
 魁は、バカにするように良牙にはきつけた。

「貴様…。言わせておけば…。」
 良牙の目がメラメラと萌え始める。戦いに赴く、格闘家の目だ。
「良牙っ!こいつを叩きのめすのは、この僕が先だ!横入りをするなっ!横入りはいけないんだぞっ!幼稚園の先生に習わなかったのか?」
「習ってねえっ、んなのっ!俺は幼稚園に通ったことがねえんだっ!」
「ほう、貧乏人は義務教育以外は受けぬとでも言うのか?」
「貧乏で通えなかったんじゃねえやっ!幼稚園がどこにあるかわからなかったんだっ!鞄も制服も持ってたけど、辿り着けなかったんだっ!」




「お、おい…。あいつら、変なことで言い争い始めたぜ…。」
「ホント…。緊張感がないわねえ…。」
 大声で叫び合っている。離れたところで様子を見ていた、乱馬となびきのところへも、筒抜けだった。



二、

「ふん!バカな雑魚(ざこ)が何人かかってきても同じだ。いっぺんに相手してやろう…。」
 挑発するように、魁が声をかけた。

「何いっ?この九能帯刀をバカ呼ばわりするとはっ!この方向音痴のバカと同類にするなっ!」
「けっ!それはこっちの台詞でいっ!」

「とにかく、どちらからでも良い。かかってこい!相手してやる。勿論、本気でな。」
 魁は不敵に笑いながら、すっとサングラスを取った。
 それから、二人をやぶ睨みに睨み付けた。


「なっ、何だ?この荒んだ気は…。」
 乱馬は思わず、魁の背中を見て、そう吐き出した。
 ぞわっと、体中の毛が逆立ったような感覚に襲われる。
 乱馬の位置からは、魁は丁度、背面となって映る。
 残念ながら、今の位置から、彼の表情を読み取ることはできない。
 だが、体中から立ち上る、「闘気」が、尋常では無いことは、明らかであった。


 と同時に、魁に対して、身構えている、九能と良牙、その二人の様子に変化が訪れた。
 じっと、中段に剣を構える九能。そして、柔道の組み手のように、一歩足を引き、身構える良牙。じっと睨みつけるように、魁に対する、瞳の輝きが、ふっと薄れたように思った。


「良牙?九能先輩?」
 乱馬は、思わず、怪訝な瞳で彼らを見据えた。
「どうかしたの?」
 なびきがこそっと乱馬に尋ねた。
「いや…。二人の闘気が鈍ってる…。」
「闘気が鈍る?」

 なびきが返答を返したとき、九能の手から、カランと木刀が滑り落ちた。
 いや、それだけではない。
 木刀を握り締めていたはずの手が、わなわなと大きく震えているではないか。
 脇で同じように身構える良牙も同じだった。
 身体が硬直している。柔軟性の欠片もない。暗くてよくわからないが、彼らの動きに「生気」が感じられない。
 一方、魁の闘気は荒んでいく。そうだ。明らかに、凄みのある気が彼の背中から立ち上がっている。どす黒い妖気のような闘気だ。
 無差別格闘の技の一つに、闘気で相手を威嚇するというのがあるが、それに近いものが感じられた。八宝斎が邪念を巨大化させて、玄馬や早雲を圧倒するという、あの技に近いが、根本的に何かが違う。
 乱馬自身の総毛が弥立つのも、その感覚がなさせる仕業(しわざ)なのかもしれない。

 身動きすらとろうとしない、九能と良牙。

 やがて、先に、九能が動いた。いや、動いたというよりは、倒れたと表現した方が良いかもしれない。

「うぐっ…。」
 たった一言、吐きつけると、前のめりに倒れこんだ。

「ふん!他愛も無い。貴様など、この私が手を触れるまでもなかったか…。虫けらめっ!」
 魁が嘲るように罵った。
「さて、…そっちのバンダナ野郎はどうだ?まだ戦意は残っているようだが…。」
 と良牙に問いかける。

 良牙は、明らかに何かに耐えているような感じだった。
「ち、畜生っ!お、俺は、こんな「妖術」には負けねえ…。」
 良牙は、気力を振り絞っているようだった。
「ま、負けねえぞっ!お、俺は…。」

 と、魁がすっと左手を前に差し出した。
 掌を上に向け、かかって来いと言わんばかりに、良牙を挑発した。

「くっそおっ!でやあああっ!!」
 良牙は体内に、闘気を溜め込んでいたのだろう。
「受けてみやがれーっ!獅子、咆哮弾っ!!」
 彼の手から解き放たれたのは、暗く歪んだ破壊弾道。必殺技、獅子咆哮弾を仕掛けたのだ。
 バンッ!と赤黒い闘気が、仕掛けた良牙のすぐ目の前で炸裂する。
「ざ、ざまあみやがれっ!」
 良牙はそうはきつけると、ゆっくりと立ち上がった。至近距離で獅子咆哮弾を打ち放ったのだ。無事ではいられまい。
 黙々と上がった煙。だが、その中から現れた、魁は、傷ついてもいないようだった。
 ただ、良牙の気弾に、少しだけ、着ていたタキシードが破れている。
「貴様…。」
 冷たい瞳が良牙を捉えて睨みつける。


「あいつ、良牙の気を至近距離からうがたれても、けろっとしてやがる…。」
 思わず、乱馬の表情が硬くなる。
 のうのうと立っていられるというのは、良牙の気弾が利かなかったということだ。
「でも、ほら…。全く利かなかったってわけでもないようよ。」
 なびきがすいっと指を差した。
 彼は左腕を押さえていた。さっき、良牙に向かって、差し出した腕だ。
 うっすらと血が流れている。


「よくも、私に傷をつけたな…。」
 魁は、良牙を睨みつけながら言った。痛がっている風はないが、さっきよりも数倍、鋭い視線で、良牙を射抜いた。
「ゆ、許さんっ!!」

 ぶわっと逆巻く闘気。いや、殺気かもしれない。

 次の瞬間だった。
 彼の傷ついた左手から、蒼白い闘気の渦が舞い上がった。

「なっ!」

 ピカッと閃光が走ったかと思うと、良牙目掛けて、飛んでいく。まるで、電光石火、稲妻が、良牙に向かって走ったような風景だった。

「う、うわああああっ!」
 魁の気を、真正面から、まともに食らった良牙の身体が、後ろへと、ぶっ飛ぶ。
 風圧とも言うべきだろうか。
 ダンッと鈍い音がして、良牙は甲板の上に投げ出された。
「うっ…。」
 そう言ったまま、良牙は仰向けに転がっている。
 だが、魁の攻撃はそれだけでは終わらなかった。
 真っ直ぐに、良牙を見下ろすと、上から、更に、掌を翳し、攻撃を仕掛ける。
 シュッ、シュッと空を切って、良牙目掛けて打ち下ろされる、連続した気弾。
 良牙の身体を打ち込むたびに、彼の身体が、浮き上がる。それは、おぞましい風景でもあった。
 直視できずに、なびきが顔を背け、目を反らせる。

「や、やめろーっ!!」

 何発か、良牙の身体に、魁が気をたたきつけた時、思わず、潜んでいた物陰から、乱馬は飛び出していた。これ以上、見て見ぬふりができなかったのである。
 良牙の前に両手を広げて、立ちはだかる。

 いきなり飛び出してきた、女性を見て、魁はふっと微笑みかけた。

「おや、やっと飛び出して来たのですか?お嬢さん。」
 そして、すっと、攻撃していた手を下げた。
 はっしと睨み合う視線と視線。

「てめえ…。良牙は最初の一撃で、気を失っていただろうがっ!」
 乱馬は飲まれることなく、魁に向かって吐き付けた。
「そうですか?…そんな風には見えなかったなあ…。何しろ、言いがかりをつけて、挑んできたのは、この男たちなのですからね…。僕は、被害者だ。ほら、怪我もしている…。」
 ポケットにしまっていた、サングラスを拭きながら、言い放つ魁。
「てめえ、のうのうと…。」
 ぐぐっと拳を握り締めた乱馬を見ながら、魁が制した。
「およしなさい。勇敢なお嬢さん。…。もしかして、訳有で、ずっと、私のことを見ていたんでしょう?大方、あかねさんのお父さんにでも頼まれて、ほら、そっちで潜んでいる、なびきさんと一緒に、観察していたのではないのですか?それとも…。この男をたき付けてきたのは、あなた方ですか?」

 どうやら、乱馬となびきの尾行に気付いていたらしく、魁は余裕を見せながら、乱馬に対した。

「くっ…。」
 乱馬は拳をぎゅうっと握りつぶすと、身体から力を抜いた。

「この男もバカですよ。生半可な力があるばっかりに、私に向かって、挑んでくるとは…。」
 魁は良牙を見下ろしながら言った。
「こっちの男くらい、弱っちければ、それはそれで、のされただけですんだものを…。ま、あなたがたに免じて、急所は外して差上げていますから…。これに懲りたら、人のことは、こそこそと付け回さないことです…。」
 魁はそう言いながら、くるりと背を向けた。

「てめえ…。何処へ行く?」
 乱馬は、倒れこんだ良牙を抱えて起こしながら、訊きつけた。再び、あかねのところへでも行くのかと思ったからだ。

「そろそろ船が湊へ付きますからね…。このまま、帰ります。」
 あっさりと言い退ける。それから、なびきへと視線を流すと、言葉を続けた。
「なびきさん、あかねさんは下の医務室で休んでいます。船酔いしたようですので、介抱していました。船が着岸する前に行って、連れて帰ってあげてください。」

「え、ええ…。そうさせてもらうわ…。で?あなたは?…こんな目に遭って、あかねと縁組するのは諦めたとでも?」
 真摯な問い掛けをした。

「まさか…。僕はあかねさんが気に入ってるんです。その思いは変わりません。それに、あかねさんから直接、断りを聞いた訳ではありませんからね…。」
 魁は微笑をたたえながら、なびきの問い掛けに答える。
「明日、改めて、天道家に、あかねさんの御意志と御返事を伺いに参ります。」

「あら…。そこの良牙君はあかねのお友達よ…。あなたが、彼をこんな風にしたと知って、あかねが許すとでも?」

「ふふふ…。彼も武道家なら、みすみす挑んだ勝負に、無様に負けたことを、あかねさんに言うでしょうか?…そちらの木刀男もしかりでしょう…。それとも、男の沽券を無視して、あなたが、あかねさんのお耳に入れるとでも?」

 魁は決して気後れしていない。いや、むしろ、女傑のなびきですら、手玉に取らんと言わんばかりの勢いであった。

「私に、仕掛けるのなら、もっと強い男でなければ…。例えば、あかねさんの許婚、早乙女乱馬君とか…。」

「乱馬君だったら良いの?」
 なびきは勢い良く訪ねた。

「ええ…。尤も、彼でも、僕を倒すことはできないと思いますがね…。あかねさんの目前で、無様な姿を晒すのが落ちだ…。尤も、彼は、この場には居ないようですが…。残念だ。彼と今夜はやりあえるかもしれないと思ったのですけれど…。」

 魁は、傍で勢い良く見上げている女性が、乱馬だとは、さすがに気付いていないらしい。

「早乙女乱馬は、もっと強いぜ…。」
 憮然と乱馬は吐きつけた。

「ま、いずれ、彼とはやりあうことになるでしょうけれどね…。それまで、せいぜい、楽しみにさせていただきますよ。」
 魁は不気味な笑みを女乱馬に差し向けると、くるりと背を向けた。そして、後ろ手に、手を振りながら、その場から立ち去って行く。
 また、雨がパラパラと降り始める。
 良牙はみるみる、黒い子豚へと変身しはじめた。目を回してぐったりしている良牙を、腕に抱えると、乱馬はじっと魁の後姿を見送った。
「てめえは、絶対に、俺が倒す…。」
 そう呟きながら、はっしと睨み続けた。



三、

「たく、いやにあっさりと引き下がったではないか、魁。」

 ふっと後ろ側から声がした。
 壮年の男性の低い声だ。良く見ると、さっき、あかねの世話をしていた、ボーイだった。
 その声に、魁の足が止る。振り向くことなく、ボーイに向かって話しかけた。

「ふふ…。ちゃんと伏線は張ってありますよ。」

「ほお…。伏線とな…。ワシはてっきり、あのまま、あかねという女を己が物にしてしまうのかと思ったが…。」

「力ずくで…なんて不精な真似はしませんよ…。どうせ手に入れるなら、もっと周りから固めて…。そして、逃げられないようにしてから、絡め取ります。」

「ほお…。いつから、そんな「紳士」になったのだ?」

「私はいつだって、紳士ですよ…。父上。」

 魁の言葉に、ボーイの顔が少し険しくなった。
 いや、険しくなったのは、魁の言葉に対してではなかったかもしれない。
 すいっとボーイは、持っていたペーパーナイフを投げつけた。
 カンッと音がして、魁のすぐ後ろの壁に突き刺さった。
 そして、耳を澄ます。

 シンと静まり返った廊下からは、船の操舵音以外の音は漏れてこない。
 それを確かめると、ボーイはふっと言葉を漏らした。魁にしか聞こえないような小声でだ。

「不用意に、その言葉を語りかけるな…。魁。どこで、誰が耳にしているかわからぬぞ。」

「父上は臆病なのですね…。」
 魁はにっと笑った。

「ま、もうじき、嫌でも、ワシの事が露呈する…のだろうがな。いずれにしても、天道氏の娘を己が手中におさめる事は、我らが願いなのだからな…。」
「わかっておりますよ…。積年の恨みを晴らすために…でしたっけね。」
「そういうことだ。忘れるな。必ず、あの娘を…。」
「ふふふ、逃しませぬよ。父上の望みどおり、いえ、我が身体に流れる忌まわしき血の願いのとおり、必ずしや、この手の中に…。」
「それでこそ、我が息子だ…。」
「それより、父上、頼んでおいたことは…。」
「万事抜かりはないわ。ちゃんと付け届けしておいてやったぞ…。」
「それはそれは、ありがとうございます。ふふふ。これで、あかねさんを僕の方へぐっと引き付けられる。」
「細工は上々…仕上げをごろうじろとな…。最後まで気を抜くなよ…。息子よ…。」

 それだけを告げると、ボーイはすいっと魁の傍から離れた。
 向こう側に人影を認めたからだ。

「ふふふ…。父上が生きていると知ったら、天道の一族たちは何と思うでしょうね…。ま、今更、僕にはどうでも良い事ですがね…。」
 独り言を吐き出しながら、魁もその場を離れて行った。


 ……。……。



「聞いたか?今の。」
「ええ、確かにこの耳で…。」

 もそっと声が漏れた。
 
 ボーイが投げた、ペーパーナイフで穴が開いた壁紙よりも、右へずれること数センチ。そこの脇にドンと置いてあった、ダストボックスの中から、ひょいっと人影が現れた。
 ゴミにまみれて出てきたのは、右京とつばさであった。
「ふう…。危なかったな…。さっきのおっちゃん、うちらの気配に気ぃついたらしいな。」
「ええ…。でも、運良く、僅かに外れましたけど…。」
「悪運が強いってやっちゃな…。さすがに、ゴミ箱に変化して隠れてたとまでは、思わんかったようやな。」
「ええ、葉隠突撃流の勝利ですわ。」
 ふんぞり返るつばさを冷たく見下ろしながら右京が言った。
「それに関しては、いろいろ言いたい事があるんやけど…。」
 それもそのはず、ゴミにまみれてじっとしていたわけだから、右京にとっては、あまり愉快であろうはずも無い。
「まあ、ええわ。それより、あのおっちゃん、かなりな使い手やで。何者やろ…。」
「葉隠魁は父上と呼んでいましたが…。」
「父上っちゅうことは、親父さんちゅうことやろ?」
「ええ…。多分…。」
「なあ、葉隠魁の父親って誰やねん?」
 つばさは小首を傾げていた。
「母親はわかってるんですけどね…。父親の素性は…。はて…。」
 うーむ、と唸るつばさ。
「もしかして…わからんのかいな。あんたの一族なんやろ?魁は。」
「ええ、一族です。母親は、確かに葉隠一族の血を引いていますから…。」
「母親がか?」
 右京が怪訝な顔を差し向けた。
「何でも、生まれた時には父親は既に他界して…というのを訊いた事があります。それに…。その母親も一族から、追い立てられるように出て行って、他で魁を育てたということでしたから。」
 つばさは、己の知りうる情報を右京へと告げた。
「一族から追い立てられた?…そらまた、何でや?」
 つばさの言葉に右京が咎を立てた。
「だから、恐らく、父親のことと絡んでくるんだと思います…。だからこそ、一族はいくら強くても、彼をすんなりと当主に迎え入れられなかったのだと思います…。」
「何か、複雑な事情があるんやな。」

「でも、私が聞き及んだ事では、父親は他界しているものと思っていましたけど…。」
「さっきのおっちゃんが、魁の父親やったとしたら…。それに、気になる事、いくつか言っとったなあ…。天道家の娘を手中におさめるとか、積年の恨みを晴らすとか…。あかねちゃんを嫁に迎えるってことは、そんなにも、あいつらにとって大事なことなんやろか…。ってことは、天道家にも繋がる、何かがあるってことになるな…。」
 考えれば考えるほど、複雑に絡みついてわからなくなる、さっきの二人の会話。分析するには、明らかに情報量が不足し過ぎていた。
「いずれにしても、葉隠魁の父親や出生の秘密に絡んでくる話には違いないでしょうね。でも、僕は何も知らないんです…。恐らく、一族の者でも、知っているのはごく一部かと…。知っていても教えてくれるかどうかさえ…。」
「危ういってわけか…。でも、調べる必要があるな…。是が非でも。」
「おじじ様がつかまえられれば、はっきりすることなのかもしれませんが…。」
「練馬へ行くと言ったまま、行方不明って訳か…。」
「え、ええ…。」
 二人は顔を見合わせながら、同時に、はあっと、大きく溜息を吐き出した。

「何とか調べんとあかんやろな…。葉隠魁の素性と天道家の繋がりを…。」



 なびきが船室へ行ってみると、あかねは、ぐっすりと眠りこけていた。

「睡眠薬…使ったのかしらね…。」
 なびきは、思わず苦笑いした。
「たく…。何事もなかったから良いようなもんの…。ねえ、乱馬君。」
 ちらりと後ろを振り返る。
 そこには、憤然とした乱馬が、無表情で立っていた。
 あかねの無事は確認できた。だが、魁によって眠らされていたという事実に、底知れぬ怒りのようなものが、こみ上げてくる。
 無防備にまどろむ己の眠り姫。
 魁はすんなりと、下船してしまったようだ。

 もうじき桟橋に着く。
 船内のアナウンスが、そう告げていた。



四、

「もう、一体全体、乱馬ったら何なのよっ!!」

 あかねはぷりぷりと怒っていた。
 
「そりゃあ、仕方がないじゃないの…。あたしたちが、行って見ると、あんたは船室で眠りこけていたんだし…。」
 なびきがくすっと笑いながらあかねを見た。

 そうなのだ。あれから、どう巡って家に帰って来たか。
 気がつくと、己の部屋のベッドの上に、身を横たえていたというわけだ。
 勿論、気持ち悪くなって、魁に船室に連れて来られたところまでしか、記憶には無い。

「あんたが、無用心に、魁君と船室まで付いていったから、あのヤキモチ妬きなりに、すねてるんじゃないのかしらねえ…。」
 ファッション雑誌を広げながら、なびきが返答した。
「だからって、これ見よがしに、あたしのこと、無視することはないでしょうが…。」
 自然と文句が口から零れ落ちる。
 そうなのだ。
 今朝から乱馬の機嫌はすこぶる悪い。
 ちょっとしたことから、口喧嘩というのも、珍しい事ではなかったが、ずっとむすっと口を結んだまま、朝食中にも朝の稽古中にも言葉は出てこない。
 こちらから気を遣って話しかけても、ろくな返事も来ないのだ。
 相当、オカンムリというのは、あかねでもわかった。

 女乱馬に変身して、姉と一緒に、ずっと様子を伺っていたのだと聞かされて、少しはホッとしていたものの、ずっと尾行されていたのも、当事者としては、あまり快くない。だが、それも、あかねが心配だということから来た行為なので、許してはいるものの、あかね自身も複雑な心境には違いなかった。

「で?魁さんは今日は何時ごろお見えになるのかしらね。」
 なびきがしたり顔でこちらを向いた。
「夕方頃お見えになるって言ってたわ。」
「ふうん…夕方かあ…。で?あんたはどう返事するつもりなの?」
 なびきはちらりと妹の顔を盗み見た。
「どう返事するも何も…。」
「このまんま、魁さんと結婚しちゃうつもりかしらねえ?」
「ま、まさかっ!そんなことするわけないじゃない。」
「それもいいかもしれないわよ。はっきり、己の気持ちを現さない、許婚なんか、この際、ふっちゃって…。」

「お姉ちゃんっ!幾らなんでもそれは言い過ぎよ。」

 思わず怒鳴ったあかね。
「ふーん、じゃあ、やっぱり、魁さんを断って、乱馬君にまっしぐらなんだ。あんた。」
 とにっと笑った。
「何よ…。そのまっしぐらって…。」
 思わず荒げた声を落として、なびきを見返す。

「あら、この話、あんたが断ったら、お父さんたちが黙ってないわよ。また、何処の誰ともわかんないのが、あんたに求婚しに来るとも限らないし…っていうんで、ひと月以内に、乱馬君と祝言ね…。」
「なっ!何なのよ、それ。」
 今度は焦ったあかね。
「魁さんを断るって理由があるとしたら、ネックになるのはやっぱり、乱馬君の存在でしょ?魁さんとのお話をお断りする理由があるとしたら、「他に好きな男性が居るから。」となるわけで…。あんたはともかく、先方さんはあんたのこと、相当気に入ってるみたいだったし…。」
 なびきは、九能と良牙に襲い掛かった、魁の剣幕を思い出しながら言った。

 そうだ。あの時の魁は、鬼神に魅入られたような凄みがあった。あかねに近づく虫には容赦はしない、そんな風にも見受けられたからだ。勿論、九能と良牙の一件については、あかねには何も語っていない。
 魁があの時、なびきに言い置いたように、九能や良牙にもプライドはあるし、彼らの純粋な思いをこれ以上傷つけるのも忍びないと思ったからだ。それに、良牙も九能も、命に別状すらなかったものの、そうとう酷いやられ方をしたようで、東風先生に担ぎこんだ時には、顔をしかめられたほどだ。
 あかねが気にするといけないというので、緘口令(かんこうれい)も敷かれている。

「ま、いずれにしても、あたしには、まだ「結婚」なんて考えられないの。まだまだ、若いんだもの…。結婚って言葉に縛られるのはまっぴら御免よ。そこのところは、お姉ちゃんからもお父さんたちに、ばっちり言っておいてよ。」
 と苦言した。
「あら、嫌よ…。」
「何で?」
「だって…。無償でそんなこと、引き受けるわけないでしょう?」
 とにんまり笑われた。
「たく…お姉ちゃんらしいわね。」

 そう言って溜息を吐き出したところで、血相を変えて飛び込んで来た、姉のかすみ。


「た、大変っ!ど、どうしましょう…。」

 何やら、おろおろしながら、なびきとあかねが雁首を並べていた茶の間へと飛び込んできた。

「お姉ちゃん?どうしたの?」
 普段おっとりした姉が、ここまで取り乱すのは珍しい。まあ、取り乱し手居るとは言え、多少あたふたしている程度にしか見えなかったのであるが。

「今、右京さんからお電話があってね…。朝のワイド番組を見なさいって…。ほら。」
 そう言いながら、茶の間のテレビのスイッチを押した。

 ブツンと音がして、テレビが点く。それから、リモコンをパタパタとプッシュして、右京が支持した番組へとチャンネルを合わせた。

「あら…。葉隠魁じゃない。これ…。何?彼が何かしでかした…とでも?」

 最初は余裕だったなびきの顔が、さあっと焦り色に変わった。勿論、傍のあかねもだ。
 画面いっぱいに映し出されていたのは、魁と親しげに歓談する、あかねとのツーショット。家庭用ビデオで写されたのか、あまり鮮明な画像ではなかったが、昨夜の船の中だと一見してわかる。
 字幕には「格闘界のプリンス、電撃婚約か?」という文字が右脇に躍っていた。

「ちょっと、これ、何よっ!どういうこと?」
 とうのあかね自身、思わず画面に向かって怒鳴っていた。
 明らかに「ゴシップ」である。それも、話題の渦中に己が居る。
 これが一大事と言わず、何と言えよう。

『えー、葉隠魁さんに熱愛疑惑です…。お相手は、これまた、格闘界に颯爽とデビューした、女流格闘家、女子大生のTAさん、二十歳。いかがですか?コメンテーターの、一之瀬さん。』
『いやあ、びっくりしましたねえ…。確かな情報筋からすると、どうやら、魁さんがプロポーズしたと言うんですけどね…。』
『これまた、電撃的ですね。お二人とも、まだお若いのに…。』
『いやあ、結婚に年齢は関係ないですよ。法律さえクリアしていれば、きゃっはっは。』

 かくかくと揺れるあかねの前で、テレビ画面の中に納まった人たちは、まことしやかに、好き勝手並べてくれている。
 勿論、昨夜、船上で一緒に居たこと以外は、殆どが「嘘八百」であった。
 
 茶の間の様子が変だと気付いたのか、早雲や玄馬までもが、テレビを覗き込んだ。幸か不幸か、乱馬がこの場に居なかったことが、唯一の救いだったかもしれない。

 程なくして、家の電話が鳴りっぱなしになる。
 はいはいと、その応対に追われだした、かすみ。

 おまけに、番組はこれだけでは終わらなかった。
 電撃インタビューとして、葉隠魁、本人の弁が画像つきで紹介されていたのだ。

『いえ、ちょっとした知り合いなだけですよ。彼女とは。』
 などと、ニコニコしながら、受け答えしている。

「ど、どういうつもりよっ!」
 思わず画面に競りこんでいた。


「してやられたわね…。あかね。」
 画面と取り乱す妹を見ながら、なびきが吐き出した。

「やられたとは?」
 玄馬がはっとして、なびきを見返した。

「あかねがこの縁談を断りにくくするように、先に、葉隠魁が予防線を張ったってことよ。いえ、先に既成事実を作ってしまおうという腹なのかもしれない。気の弱い女性だったら、既成事実を突きつけられて、相手の思うがままになるかもしれないし…。」
 なびきの口元が微かに震えていた。出し抜かれたことが、彼女なりに悔しかったに違いない。
「いずれにしても…。葉隠魁。かなりのやり手だわよ…。一筋縄ではいかないわ。」
 真剣な表情があかねを捕らえた。

「そんなあ…。乱馬君との縁談はどうなってしまうのかねえ?」
 早雲がおろおろし始める。

「大丈夫よ。」
 あかねは、すっくと立ち上がると、己に言い聞かせるように吐き出した。
「これで、あたしの決心もついたわ。…この縁談!絶対、お断りします。」
 ときっぱりと言った。
「本当かね?あかね。」
 早雲が覗き込んだ。
「ええ、あたしは気の弱い女なんかじゃありませんからっ!」
 己の気持ちを無視して、魁が暴走した事を、あかねはかなり腹立たしく思ったに違いない。心なしか鼻息も荒かった。
 バカにしないでよっ!という勝気さが、全面に出されている。

「事はそう単純に終われば良いのだけど…。葉隠魁…。あかねがそう思うことを見越して、わざと、こんなことを言ってるように、あたしには思えるのよ…。その辺が、どうも…胡散臭いのよね。」
 なびきだけは、じっと、そんな妹を、心配げに見詰めていた。



つづく




一之瀬的戯言
 あかねに容赦なく襲い掛かる、魁の罠。
 あかねは、この縁談を無事に破談にすることができるのか?


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