第二話 見合い話


一、

 翌日も朝から雨だった。

 しとしとじめじめ、不快感が道場中を駆け巡っている。

「ごめんなさいね。また、こんなになっちゃって。」
 かすみは、道場いっぱいに広げられた物干し竿と洗濯物の群れを見ながら、あかねに言った。
「だから、別にお姉ちゃんのせいじゃないって。」
 あかねは乾かぬ汗を拭いながら、すまなさそうにしている、姉に声をかけた。

 雨模様が続くと、洗濯物は溜まる一方。
 だからといって、天道家は大家族。その上、汚し方も半端ではない居候たちがウロウロしているのだから、当然、この状況が生まれるのも、仕方がないことだ。
 こんな梅雨のはっきりしない季節なれば、余計である。必ず次の日が晴れ渡るなら、一日、洗濯しないでも平気だろうが、何日雨が続くか読めぬこの季節。一日洗濯を置いただけでも、次の日、晴れなければ、結果、汚れ物がかえって溢れてしまうのだ。
 ならば、多少の不便を我慢してでも、最低限の洗濯は、毎日続けておいた方が、良策だ。多少生乾きでも、アイロンを当てれば、着る事は可能になろうし、この季節、気温は高いのだから、室内でも二日も干せば、湿気てはいるものの、何とか着られるくらいには乾く。

「今日も乱馬君、遅いのねえ…。」

 しとしとと雨が降り続く外を眺めながら、かすみが言った。

「うん…。どうせまた、右京の店で油売ってるんじゃないのかな…。」

「また、お弁当、持って行かなかったのね。」
 かすみが柔らかくあかねに問い質した。
「そうなのよ。いくら大丈夫だってあたしが言っても、信用しないんだから。この季節は痛みも早いし、腹壊したくねえってね。失礼しちゃうんだから。」
 鼻息荒く吐きつける。

 ここのところ、毎日のように早起きして、作る二人分のお弁当。
 あかねの料理の腕は、実はそこそこ進歩してきている。自分で食べても平気なのが、明らかにそれを物語っている。
 だが、高校時代から散々な目に遭い続けた乱馬は、ちょっとやそっとで、彼女の弁当を信用しないようだった。
 確かに、見てくれは相変わらず「物凄いレベル」である。それは、あかねも自覚している。
 コゲコゲが多い野菜や卵。揚げ物。
 どう見ても不恰好にしか見えない切り口。沢庵も数珠繋ぎ。垢抜けないでなんとなくべっとりとしている弁当箱の中身。「視覚的に不味い」食品群。
『おめえの弁当は食欲を削ぐ。』
 そう言ってやまぬ乱馬。
 今までが今までだから、仕方が無いというものの、一口も箸をつけようとしてくれない。こうなっては、女の意地。彼が食べてくれるまで、と、しつこく作り続けているあかねが居た。

「あかねちゃんだって、ここのところ、随分、腕を上げてきているのにねえ…。」
 かすみが、にこにこしながら相槌を打つ。
 最初は自分でも咽喉を通らなかったほどの妹の腕前を知っているかすみは、いたわりの言葉をかける。
「そうよ!一度でも食べてみてから文句言いなさいって、いつも言ってるのに…。」
 せっかく作ったお弁当も、持参してくれなければ意味はない。
「今日は友人と外で食う。」「教科書が重いから弁当を持ってくのはかったるい!」などなど。いろいろ難癖つけては、持参しようとしないのだ。

 今日も、しっかり、置いていった。
 
「栄養のことちゃんと、考えて、いろんな食材で作ってあげてるのに…。」
 自然と溜息が漏れる。

「大丈夫よ。そのうち、あかねちゃんの努力が、乱馬君にも伝わる日が来るわ。だから、諦めないで頑張りなさいね。」
 主婦歴が長い、姉がそう言いながら励ましてくれた。

 シャンプーとムースは、つい最近、中国本土へと帰って行った。
 女傑族のしきたりによれば、二十歳になるまでに、きちんと相手を決めなければならないという、暗黙の了解があるらしく、どうやら、乱馬は、少なくともシャンプーに対して何某(なにがし)かの返事をしたらしかった。
 これは後で、情報通のなびきがこそっとあかねに耳打ちしてくれたことなので、本人に直接訊いたわけではないのだが、あの優柔不断な乱馬が、はっきりと「シャンプーとは結婚できない。」と言って退けたのだという。その理由が如何にせよ、少なくともシャンプーを嫁として迎え入れる道は選ばなかったらしい。
 やって来るのも唐突であったが、帰って行ったのも突然であった。
 引越しソバと称して、中華そばを置くと、すいっと居なくなった。あかねにはそう映った。
 その後、すぐに、コロンもこの地を去った。孫娘が乱馬との結婚を諦めた以上、この街に居る理由もなくなったのだろう。ムースもシャンプーと共に、帰郷していった。
 乱馬は、その件に関して、一切、何もあかねに語ろうとしなかったし、あかねも敢えて問いかけなかった。確かに、シャンプーと乱馬の間に、何かあったということは感じていたが、あかねの及ぶことではないと、一歩下がっていたのだ。
「乱馬君も、そろそろ、腹括ってるのかもしれないわねえ…。」
 なびきはそんな言葉をあかねに吐きつけたが、勿論、彼から、何もアプローチもない。
 シャンプーたちが居なくなって、一つ、厄介ごとが消えたのは確かなようで、父親の早雲と玄馬は、どことなく浮ついているようにも見えた。
 別に、「結婚」という二文字を、意識したわけではないが、大学に入ってから、あかねの弁当作りが始まったのである。

 薄暗い梅雨の夕暮れ近く。乱馬がふいっと帰って来た。
 道場の脇で、ブロック割りに精を出していたあかねを見つけると、つかつかっと近寄ってきた。
 そして、開口一番。
「明日から、無駄な弁当は作るな!」
 とだけもそっと吐き出した。
「何よ、それ…。」
 その言い方があまりにもぞんざいだったので、カチンときて、言い返す。
「文字通りだっ!」
 彼は吐きつけるように言った。
「だから、その無駄なってのは、どういう意味なのよっ!!」
 その一言で冷静ではいられなくなったあかねが、食って掛かる。
「労力の無駄。材料の無駄。資源の無駄…。全てだ。」
「なっ!」
 あかねは呆れるというよりも、怒りが先に頭に上った。
「あたしの弁当が無駄な産物って言いたいわけ?」
 ずいっと前に出る。
「ああ、そうだ!」
「そんなにも、あたしの作った物は食べたくないって…。」
「食うとか食わねえとか、そんなことよりも、おめえ、己の立場わかってんのか?夏場の大会へ向けて、大切な時期だろうが!弁当なんか作る暇があったら、朝から技磨けって言ってんだ、バカ。」
 抑えた口調で返ってくる。
「あたしは、かすみお姉ちゃんの労力と我が家の家計を考えて、お弁当作ってるのよ!バカ呼ばわりされる道理はないわっ!!」
 ますますもって、言葉は激しく応酬され始める。
「だったら、自分の分だけで充分だろ?おえめだけなら、俺と違って、量も要らねえ。夕飯の残り物つめてりゃ、事足りる。とにかく、俺の分の心配は余計だからな。俺の分、作る暇があったら、もっと修行に身を入れろっ!この前の決勝戦みてえな試合しやがったら、無差別格闘流の名折れだぜ。この先、武道の高みにのぼりてえんだたら尚更だっ!わかったなっ!」
 憮然とそれだけ吐き出すと、彼はその場を去っていった。

「たくっ!!いったい、何なのよっ!!乱馬のバカーッ!!」
 カッときたあかねは、そう叫びながら、バスンと一発、コンクリートブロックへと、手刀を叩き付けた。

「あらあら…。困った人たちねえ…。乱馬君ったら、あかねを気遣うなら、もっと言い方があるでしょうに…。」
 乾いた洗濯を選り抜きながら、二人のやり取りを聞いていたかすみが、はあっと溜息を吐き出した。

 と、その時、にわかに庭先が賑やかになった。

 人の気配がしたかと思ったら、今度はなびきが駆け込んで来た。

「かすみお姉ちゃん!お客様が来たわよっ!お父さんがもてなし頼むって…。」
 そう言いながら、なびきは道場を覗き込む。

「お客様ですって?あらまあ…。それは大変。すぐにお茶のご用意しなくっちゃ。」
 洗濯物を脇に置くと、大慌てで、主婦、かすみはお勝手に向かって駆け出した。
 来客は主婦の正念場でもある。

「あ、あかね。あんたは急いで客間へ来なさいって…。お父さんが言ってたわ。」

「あたしに?客間に?」
 怪訝な顔を手向けるあかね。
「ええ、何か大切な話が生じたとか言って…。って、あんた、どこへ行くのよ…。」
「だから、客間。」
「あんたねえ…。それって道着でしょう?その格好でお客様に…。」
「あら、急いで来いってお父さんが言ってるんじゃないの?」
「だからって、その格好で、うら若き女の子が…。」
「別に良いんじゃない?武道家の正装は道着でしょう?」
 まだ、乱馬とのやりとりの不機嫌さをどこかに引き摺っているのだろう。あかねは至って不機嫌だ。姉の忠告など、耳に入らぬ様子で、そのまま、どすどすと母屋に向かって歩き出した。

「たく、しょうがないんだから、あかねは…。まあ、いいわ。あの方なら、道着で対面したって、平気でしょうから。」
 なびきはやれやれと、その後ろ姿を見送った。



二、

 客間には、確かに、一人、ご客人が見えていた。

 居間に続く南向きの部屋が、客室となっている天道家。床の間には生花が飾ってある。開け放された障子の向こう側に、いつも、乱馬と玄馬がはまる、「池」が雨の波紋を水面に浮かべながら佇んでいた。
 静かに濡れる、和の空間だ。

 ちょこんと座していたのは、薄い緑色の着物を着込んだ婆さんだった。それも、カクシャクとしている。背は決して高くはないが、背筋がピンと伸びている分、大きくも感じられた。
 髪の毛は殆ど白髪で、着物に似合うようにあげていた。

「ねえ、誰?」
 襖一つで隔てられた茶の間で、控えるように言われたあかねは、同じく控えて座したなびきに、こそっと耳打ちした。
 初めて見るご婦人だったからだ。

「あ、あんたは知らないっか…。大伯母様よ。」
「おおおばさま?」
 きょとんと丸い目がなびきに手向けられる。

「ええ、天道の大伯母様。お父さんのお父さんのお姉さん、平たく言えば、あたしたちの祖父の姉ってところね。」
「ってことは、親戚?」
「勿論そうよ。確か、名前は天道玉(てんどうひかる)さんって言ったと思うわ。玉って書いてひかるだから、お玉さんとか言う方も居るそうだけど…。天道流の本宗家(ほんそうけ)を取り仕切ってる、凄い婆様よ。」
「天道家の本宗家?」
「天道家の本家の中の本家っていう意味になるかしらん。」
 なびきが説明してくれた。
「で、本家の大伯母様が何しに来たの?」
「さあ…。前に来たのは確か、十年ほど前だったわねえ…。あの時は、お父さんに縁談持って来てたわね。」
「え、縁談?そ、そんなもの持って来てたの?」
「ええ。お母さんが亡くなった後、男やもめで子育てするのは大変だろうし、男の子が居ないんじゃ、天道家の安泰もないからって、結構強引に、後妻話持って来てたのよねえ…。」
「なっ…。そんな話、初めて訊くわ。」
 あかねは目を丸くして姉を見返した。
「うふふ…。あんたはオコチャマだったものねえ…。知らなくって当然でしょうけど。」
「オコチャマって言っても、お姉ちゃんと一つしか違わないわよ。あたし…。」
 何で、姉が知っているのかと、不思議に思ったが、それはぐっと押さえ込んだ。恐らく、情報通の姉のことだから、幼心にも興味を持って、大伯母のことを調べたのかもしれない。
「ふっふっふ、あんたとあたしじゃあ、世の中ごとの色々に関しての目線や好奇心、探究心が雲泥の差なの…。」
 案の定なびきは、そんな風にすらっと言ってのけた。
「で、お父さんは断ったんでしょ?」
 あかねは恐る恐る尋ねてみた。
「あったり前じゃない。だからこそ、家族四人、こうやって平穏無事に過ごして来てるわけだし。…あ、平穏ってわけではないか。」
 なびきは、玄馬パンダを横に流し見て、後の言葉を付け加えた。
「そうよね…。お父さんが、お母さん以外の女性に興味持つなんてこと、あるわけないわよね。」
 自分に言い聞かせるように、あかねも返事した。
「ま、そのおかげで、天道家の本宗家とは仲違いに近い状態になって、行き来自体も無くなって久しいんだけどね。」
「そ、そうなの?」
「ふふふ。だからこそ、お父さんは、天道の本宗家の流派から離れて、己で流派を作ってるのよ。」
「え?」
 これまた初耳なことであった。
「ま、天道流の本流から離れたのは、男の子を産めなかったお母さんを守るためだったとも言われてるけど…。」
「何よ、それ…。」
「かなり深い話になるってことよ。結婚は家の問題も含む部分がたくさんあるからね…。ま、あんたが知らなくても当然の事なんだけどね…。」
 意味深な言葉でお茶を濁すように、なびきはそこで話を止めた。
 ううん、と早雲が咳払いをしたからである。余計なことは言い合うなとでも言いたげだった。

「で、大伯母様は、また、お父さんに縁談でも持って来たのかしら…。」

 あかねはそちらが気になって仕方がなかった。男やもめ。娘たちも大きくなったとはいえ、まだ父は四十代後半。まだまだ、男盛りである。
 ちらっと父と大叔母の姿を覗き見していると、かすみがお茶を入れて持って来た。
 無作法とはいえ、それなりに、かすみは客人の大伯母にお茶をすすめる。

「ごゆっくりどうぞ。」
 愛想笑いを浮かべるかすみに、早雲は、傍に座るように言った。
「かすみ、そこへ座りなさい。それから、なびき、あかね。おまえたちもこちらへ。」
 と、娘たちを呼んだ。
「あ、早乙女君、乱馬君も呼んで来たまえ。」
「ぱっふぉ!」
 パンダはむっくりと起き上がると、乱馬を呼びに客間を出て行く。
 素人なら、パンダが家の中をうろうろしているだけで、仰天するのだろうが、大伯母は至って平気に、そのでかき背中を見送った。そればかりか、落ち着いて、かすみが持って来たお茶をすすっている。

「紹介しておこう。こちらは、私の父親の姉、おまえたちから見れば、祖父の姉に当たる方だ。ずっと以前には、何度かこの家に足を運んでくださったことがあるが、おまえたちは覚えているかどうか…。」

「ほっほっほ、あの頃は皆、小学生くらいだったからのう…。大きくなって。」
 と目を細める。
「こちらが長女のかすみです。」
「お久しぶりです。大伯母様。」
 かすみは覚えていたのだろう。そう言いながら深々と頭を下げる。
「で、こちらが次女のなびきです。」
「こんにちは、大伯母様。」
 そう言いながら、愛想良く笑う。
「と言うことは、こちらの道着姿の娘さんがあかねさんかね?」
 そう言ってあかねをちらっと見やった。
「始めまして。末娘のあかねです。」
 あかねは深々と頭を下げた。
「なるほど、闊達そうな娘さんだこと。修行でもしておられたかの?道着姿で。」
 道着姿を咎められたのかと、思ったが、どうやらそうでもないらしかった。
「ええ、娘の中で、武道をやっているのは、この、末っ子のあかねだけですからね…。」
 そう言いながら早雲が笑った。
「大いに結構!武門の血を引くものは、道着が正装。それに…。思ったよりも、鍛えこんであるようね。」
 きりっとした答えが返ってくる。

「大伯母様はこれでも、古武道の達人でおられるのだ。我が、天道家の大元でもある宗家の主でもあられるから…。」
 早雲は、大伯母を娘たちに紹介した。

「で、何の御用向きで、わざわざ、こんなところまで、お越しいただいたのでしょうか?宗家直々に…。娘たちに用があるということですが…。」
 明らかに早雲は困惑しているようだった。

「率直に言いましょう。私はとある武道の宗家に頼まれて、縁談を持ってきました。」
 そう言いながらちらりと娘たちを見やった。
「またで、ございまするか?大伯母さま。」
 早雲はすぐさま反応した。
「ずっと以前にお断りしたように、わたくし、早雲は、今後、どのようなご婦人にもこの家に入ってもらうつもりなどありません。今の生活で充分でございますれば。」
 と予防線を張りにかかる。

「ほっほっほ、そなたのことは、とっくに諦めています。私が持って来たのは、ほれ、そなたの娘の事。」
 そう言いながら笑った。
「娘に縁談…で、ございますか?」
 己に言われるよりも、もっと、狼狽し始めている早雲が居た。
「是非に、私に直々に仲立ちに入って欲しいと、切望された方がいらしてなあ…。」
 とにこにこと大伯母は笑った。
「切望でございますか?」
 早雲は恐る恐る切り出した。

 と、そこへ、玄馬に伴われて、乱馬が下座へと入ってきた。
 大伯母はちらっと彼らを見たが、特別、気に留めることも無く、すらっと用件を言い始めた。

「あかねさんとやら。実はそなたに縁談を持って来た。」
 老婦人の鋭い目が、あかねへと手向けられた。

「え?あたし?」
 思わず驚きの声を上げた。
 と、同時に、下座へと座った乱馬の眉間がピクンと動いた。

「何でも、先方様は、とある武道大会で、あかねさんを見初められたとかでな、是非に仲立ちして欲しいと、頼まれた。いろいろ、そなたのことを調べていて、天道家の血を引く者とわかったそうで…。そこで、本宗家でもある、我がところへ打診に来られたというわけじゃ…。ふふふ、武道大会で殿方の心を射止められるとは…。なかなか隅には置けぬではないか。」
 そう言いながら、風呂敷包みを開き始めた。四角い形と大きさから、どうやら、相手の写真らしい。

「あ、ああ。大伯母様。あかねに縁談ということですが…。生憎、あかねには許婚がおりまして…。」
 慌てて、早雲が口を挟んだ。

「ほお…。許婚とな…。」
 婆様の目がぎらりと光った。そして、下座に座った乱馬を見据えた。この男のことかと言わんばかりにだ。

「あ、あのう…そこに座っている、青年は早乙女乱馬君と言って、あかねの許婚なんです、大伯母様。」
 そう言って早雲は乱馬を紹介した。
 乱馬は黙ったまま、コクンと頭を下げた。
 だが、大伯母は乱馬には目もくれず、じっとあかねの瞳を見詰めた。

「あかねさんとやら…。ということは、もう、この御仁とは、一つ臥所(ぶしど)に過ごしておるのかの?」
 やんわりと、契りを結んだか否かを、問いかけてきた。

「い、いいえ。まだ結婚はしておりませんから。」
 あかねはきっぱりと言い切った。

 婆様はじっとあかねを見据えた。
「では、祝言の日取りなどは?」
 と静かだが、的確なことを訊いてきた。
「祝言も何も、あたしと乱馬は、お父さんたちが勝手に約束した許婚というだけです。ね、そうでしょ?乱馬。」
 ツンとした言葉をあかねは返した。
「あ、ああ…。そうだな。おまえと俺は父親同士が勝手に決めた許婚に違いねえ。」
 乱馬も受け答えした。
「あ、あかね…。」
 慌てた様子で、早雲が口を挟もうとした。
 そのやりとりを黙って聞いていた、大伯母の顔が、ゆっくりと口を開いた。

「ならば、話を持ってきても、何も問題もないではないか。のう、早雲。」
 と言葉を継いだ。

「そ、それは…。」
 困ります。と声を荒げたかったが、先に、大伯母が牽制の言葉をかけたのだ。

「許婚と言っても、互いに惚れあっておって、既成事実があるわけでもないのであれば、いつでもその約は反古にすることができるということ。私の見たところ、まだ、契りを交わしたというわけでもなさそうだしのう…。」
「と、とは言いましても…。」
 すっかり狼狽している早雲に向かって、更に大伯母は追い討ちをかけた。

「早雲。おまえが、許婚云々に関しては、何も言える立場ではないぞ。違うかの?」

 湿った風が吹き込んできて、チリンと風鈴を一つ、鳴らして行った。
 暑苦しい雰囲気に清涼を与えるはずの音色が、かえって重さを増す。

「そなたこそ、自分の許婚との話を反古にしてまでも、純粋な愛を貫いたのではなかったのかえ?流派が設えた許婚の話はきっぱりと断って、現在のこの家があるのであろうが。」

 あかねたち、娘の顔色がさっと変わった。
 えっと言わんばかりに、父親を振り返っていた。

 父に許婚。しかも、母とは違う女性が居た?

 痛いところを突かれたのか、早雲はぐっと黙り込んでしまった。
 己のことを引き合いに出されては、言い返すこともできなくなったのかもしれない。

「いずれにしても、ここは私の顔を立てて、一度、話を持って来られた先方と会ってもらいたい。そのくらいの借りは返してくれても良いのではないのかえ?」
 大伯母の芯のある瞳が早雲を捕らえた。
「しかし、大伯母様…。昔の話はともかく、あかねと乱馬君は…。」
 早雲が、我に返って、言った。

「何、気軽に考えればよい。許婚とは言ったところで、現時点では「形式的なこと」に過ぎぬのであろう?なあ、あかねさん。」
 大伯母はあかねの方へと向き直った。
「ええ、まあ、そのとおりです。」
 あかねは乱馬を意識しながらも、現況の己のことを正直に答えた。

「ならば、己の見識を深めるためにも、先方とは会っておくのも、決して悪いことではないと思うが…。」
「大伯母さま…。」
 おろおろする早雲を押し切るように、大伯母は続けた。
「何、今の世の中、恋愛は自由。それくらいは私もわかっております。女子が家のために縁を結び、結婚したのは昔の話。断るも断らぬも、それはあかねさん、そなたの自由。そこの許婚殿との仲を真剣に考える意味でも、有効だと思うがの。」

「わかりました。伯母様がそこまで言われるなら、一度、先方に会ってみます。いいわよね。お父さん。」

 誰よりも先に、あかね当人がそう答えた。
 乱馬との、さっきのいきさつが、彼女の背中を押したのかもしれない。判然としない態度の乱馬。彼の関心を引こうという意識が、心のどこかにあったのも否定はできないだろう。
 勿論、今一度、他の男と対面し、己の気持ちをしっかりと確認したいという決意もあった。
 断るのも己の意思のままで良いと、大伯母もはっきりと告げているではないか。
 そこに心の緩みが生じたのかもしれない。

 その返答を聞いていた乱馬は、黙っている。内心、腹の虫が騒ぎ出しているのであろう。はっしと鋭い視線があかねに注がれていた。
 だが、当の本人は、それに気がつかなかった。



三、

「良かった…。不戦敗だったらどうしようかと、思いましたよ。」

 と、すぐ後ろで透き通った青年の声がした。

「だ、誰だ?」
 思わず振り返った乱馬。

「え…?」
 そこにはどこか、見覚えのある青年が、真っ赤なバラの花束を抱えて、立っているではないか。黒いスーツ姿。サングラスをかけている。
 がっしりした身体にフィットした黒いスーツ。背もすらりと高い。

「おお、これは、御曹司。」
 大伯母が目を丸くして見上げた。
 どうやら、あかねに見合いを申し込んだ相手らしい。
「直々にお見えになるとは、これまた律儀な…。」
 大伯母はにっこりと微笑んだ。見合いを持って来た手前、かなり気に入っているのだろう。

「いえ、この近くを丁度通りかかったものですから。はじめまして、あかねさん。」
 そう言いながら青年は花束をあかねへと差し出した。

「あ、あの…。」
 すっかり狼狽したのはあかねだ。
 赤いバラは、瑞々しく、大輪を咲き誇らせている。
「最初から断られたらどうしようかと、気が気ではなくってね…。失礼かとも思ったんですが、僕も伺わせてもらいました。」
 そう言いながら、青年は正座し襟元を正した。
「お写真を見せるよりは、本物のの方が良いのう…。紹介しようか。こちらが、今回、あかねさんを見初めたという、葉隠流次期当主となる青年だよ。」
「葉隠魁です。」
 婆さんの紹介に続いて青年は真っ直ぐ向き直った。
 取り外されたサングラス。

「あらら…。ニューウエーブの若獅子、葉隠魁…。」
 さすがのなびきも驚いたようで、小さく声をあげた。
 そうだ。雑誌に掲載されていた「格闘界の若き獅子、葉隠魁」、そのものだったのである。
「雑誌で見るより、ずっとオトコマエよねえ…。」
 そう言いながら、目を細める。
 それを訊いて、乱馬はむすっと口をへの字に結んだ。

「ほお、格闘家、葉隠魁として、御存知か。ならば話も早いわねえ…。彼は実は「古武道」の流派でもある「葉隠流」の総本家、葉隠家の時期当主候補なんじゃよ。血も才能も、申し分の無い、サラブレッド。その活躍目覚しいことは、世も認めておられる。こちらも最高の見合い相手として、世話のし甲斐もあるという逸材じゃ。」
 そう言って大伯母は笑った。

「嫌だなあ…。褒めすぎですよ。」
 そう言いながらも、決して笑っては居ない目。冴え冴えと輝き渡る「格闘家の目」だ。



(こ、こいつ…。)
 乱馬の顔は険しかった。
(完全に気配消してやがった。俺としたことが、声をかけられるまで、全く、気付かなかった…。それに、こいつの気は…。)
 何故だろう。背中がぞくっと逆立った。今まで感じたことの無い種類の気を、この青年は身にまとっている。そう思ったのだ。
(得体の知れねえ、野郎だ…。)
 武道家の第六感が警鐘を鳴らしている。思わず、身震いしそうなほどにだ。



「先ほど伺っていて、あかねさんに許婚がいらっしゃるというので、門前払いかと思ってドキドキしていたんですよ。」
 青年はちらっと乱馬を見やった。どうやら、大伯母と早雲のやり取りを、一部始終、聴いていたらしい。
 乱馬はふっと視線を背ける。嫌味な野郎だと思った。

「でも、あかねさんは物分りが良い人だ。」
 そう言って真っ直ぐに彼女を見た。
「物分りがよいだなんて…。」
 思わぬ方向へと進み始める話に、とうのあかねは、困惑し始めていた。
 もしかして、とんでもないことを言ってしまったのではないかと、安易に見合いを承諾したことを、後悔し始めていた。
 ある意味、乱馬への当てこすりのつもりだった。
 さっきの、弁当を巡る言動が、起爆剤になったようなものだ。
 まさか、自分を見初めたという御曹司が、格闘界の貴公子と呼ばれる大きな器などとは、思いもよらなかったからだ。
 正直、それと知ってしまった今、やはり断ろうかと一瞬考えた程だ。

「あかねさん。あなたには許婚が居るということですが、一度だけでも、僕のことを考慮していただける時間を作ってくださって、ありがとうございます。」
 青年はにっこりとあかねへ向き直った。
「は、はあ…。」
 青年の情熱に、あかねは困惑気味で生返事を返した。乱馬の手前、どうリアクションを取ればよいのか迷ったせいもある。
「何、見合いなんて堅苦しく考えず、軽いデートのつもりで会ってくださればよいんです。…一日、あなたの許婚をお借りしますが、良いですね?」
 どういうつもりか、魁は乱馬へと言葉を差し向けた。

「ああ、かまわねえ。許婚といったって、形式上のことだ。意志を決めるのはあかねだからな。」

 乱馬は憮然と言い切った。

「ふふ、その言葉、確かに承りましたよ。」
 魁の瞳がぎらっと光った。
「あかねさん、ああやって形式上の許婚の方からも、許可が出ました。これで、僕も同じ土俵へと上がれます。」
 にっこりと柔らかな微笑をあかねに返した。
「は、はあ…。」
 生返事を返しながら、あかねは乱馬を見た。

(勝手にしろ!)
 彼の瞳はそう告げていた。
(わかった、勝手にさせてもらうわ!)
 あかねも強い瞳の光で、そう心へと吐き出していた。

「僕は、今日のところはこれで…。いろいろと雑誌の取材やら、雑用が多くて…。」
 腕時計を見ながら魁が慌しく席を立つ。
「もう、行かれるのか?御曹司…。」
 婆さんが言葉を投げかける。
「ええ、この後も仕事が入ってるんです。僅かな隙間の時間を作って、無理言ってここまで来たものですから…。」
 そう言いながらあかねへと視線を流した
「あかねさん。今日はこれで失礼しますが、二人きりでゆっくりとお会いできる日を楽しみにしています。それじゃあ、また…。」
 やけにあっさりとした引き際だった。
 言いたい事だけを端的に告げ満足したのだろうか。青年は颯爽と去って行った。
 残ったのは、あかねの手元にある、抱えきれないほどのバラの花束。

「なかなかやるじゃん。さすがに、世界を股にかけた格闘家だけはあるわ。まさか、あんたに惚れるなんてねえ…。」
 なびきがにっと笑った。
「それ、どういう意味よ…。」
 すっかり困惑したあかねが振り返る。
 乱馬は苦虫を噛み潰したような顔を、じっと手向けている。
 二人の上には、何となく気まずい雰囲気が漂っていた。

「御曹司は、本当にあかねさんのこと、気に入られているようだわね。」
 大伯母もにこにこと切り替えした。
「殿方から花をいただくなんて、女冥利に尽きるでしょう。わざわざ時間をぬって逢いに来てくださるなんて…。ほほほ、早雲よ。そなたの娘とて、侮れませぬなあ…。」
 とまで言う。
 確かにそうに違いなかったが、初対面の男性に、ここまでしてもらうと、空寒さまで覚えるのは何故だろうか。

「とにかく、次の日曜日。二人でお会いなさい。交際を始めるのか、それとも、お断りするのか。それは、あかねさん、あなたが決めればよいこと。この許婚がよいか、それとも、私が世話した御曹司が良いか…。どちらを選んでも、また、選ばなくても、それはそれで天道家としての義理も立ちますから。さて、私もお暇申し上げますかなあ…。ほっほっほ、結果が楽しみですわ。」

 何となく、乱馬には、婆さんの言葉が皮肉っぽく聞こえた。
(葉隠魁とおまえとでは、毛並みや違い過ぎる。)とでも言われたような、不快な気持ちになっていた。



「あかね、本当に良いのかね?これは見合いなんだよ?乱馬君という許婚が居るのに…。断るなら、今だと私は思うがね…。」
 早雲は心配そうにあかねを見た。
「一度、こうと決めたのなら、それを覆すのは、武道家らしくはないのではないかえ?のう、あかねさん。」
 婆さんが横から口を挟む。

「一度、会うって決めたのは、確かにあたしですから…。手筈を整えてください。約束した以上、きちんとお会いします。あたしも武家の娘ですから。」
 あかねは乱馬の険しい目を振り切るように言い切った。まるでそれは、己自身へ言い聞かせるように。一旦、口にしてしまった以上、引っ込めることはできないだろう。ましてや、腕には真っ赤なバラが咲き誇っている。

「よう言いなさった。」
 婆さんはうんうんと頷いている。
「その代わり…。その先は、あたしの意志に基づいて決めさせていただきます。たとえ、お話を白紙にしても…。」
「ええ、勿論、天道家のために結婚を強要するようなことはしませぬから、安心なさい。」
 婆様は凛と言い放った。

 そうなのだ。自分の口から、承諾さえ言わなければ、一度見合いしただけで、魁との関係は進展するはずはあるまい。
 厳しい乱馬の視線をかいくぐりながら、あかねはそう思った。
(それに、乱馬の本当の心を知る機会になるかもしれないわ。)
 試すようなことになるのだが、彼が、この話にどう関わろうとするか、興味もあった。自分のことを大事に思ってくれているなら、何某、行動を起してくるだろう。

 こうやって、あかねは、当代切っての格闘家、葉隠魁と、お見合いデートをする羽目に陥ったのであった。



つづく




一之瀬的戯言
 何だか、物語が変な方向へ走り出しました。
 葉隠魁も只者では無い気配。
 素直じゃないカップルに立ち始めた波風。大きくならなければ良いのですが…。(と言いながら、大きくしようとしている邪悪な私。)


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