第十二話 結界


一、

 閉鎖された空間。
 魁の妖術によって、分断された結界の中。
 あかねは、静かに魁と対していた。

「これで外の連中には、僕らの声も聞こえないし、姿も見えなくなったろう…。あかねさん。あなたと僕、そして、ここに無様に斃れている奴、三人だけの世界だ。」
 魁は目を細めた。
「そうね…。外界の声も音も聞こえないわ。」
 結界の阻まれて、あちら側の世界も見えない。
 もやもやとした妖気が結界の中を満ちていて、息苦しい。蒸し暑く生温かい空気が不快感を更に強める。

「さあ…あかねさん。そろそろ良いでしょう?」
 勝ち誇ったように笑顔を手向ける魁。
「遅かれ早かれ、君は僕の物になる。」
 すっと差し出してくる手。あかねは、その手をパシンと叩いた。
「言っときますけどね、あたしは「物」なんかじゃないわ。女を見下した、そういう考えが、あたしは一番嫌いなのっ!」
 そう言って、魁を睨み返す。
「その勝気さ…それが君の魅力だよ。あかねさん。」
 魁は怒るどころか、余裕を持って、笑い出す。
「さあ…。約束です。そこに沈んだ男を助ける代わりに、これを。」
 魁はすっと手にしていた盃をあかねの前に差し出した。
「わかったわ…。その前に、乱馬を外の世界へ戻して。」
 あかねは激しく言葉を吐き返す。
「盃が先ですよ。それを飲めば、必ずその男を外界へ飛ばして差上げましょう。」
「駄目、今すぐここでよ…。」
「こちらが先です。」
 押し問答が始まる。あかねにしてみれば、最後まで、鬼に巣食われた魁は信用できない。腹に一物持っている。そう感じていたからだろう。
 押し問答を進めるうちに、頭上がぱあっと明るくなった。
 蒼白い光が、結界を通して降りてくるのが見えた。
「何?光…。」
 はっとして空を見上げるあかね。その、視線の先に、西の端に、沈みゆく、蒼白い細い月が見えた。その光が結界越しに差し込んだのであろう。
「月光?」

 あかねが一瞬、そちらに心を奪われた時だった。

 ドクンと結界が唸り音をあげたような気がした。月明かりと共に、蒼白く光る、地面の結界線。乱馬が砂で引いた、五芒星だ。

「な、何っ!」
 魁がはっとして、浮かび上がる結界を見た。そして、見る見る、顔が強張り始めた。

「へっへ。やっと、結界が動き出したぜ。」
 彼の足元に斃れ伏していた乱馬が声を出した。

「乱馬っ!」
 あかねもだが、彼女以上に魁が驚いた。
「貴様、寝ていたのではなかったのか?」
 と吐きつける。
「ああ、さすがにさっきのはきつかったぜ。」
 ゆらりと身体を揺り動かしながら、少しずつ起きあがる。両手がだらりと、下を向いている。だが、その鋭い視線は、射抜くように魁を真っ直ぐに見詰めていた。

「何故、動けるっ!」
 魁は、吐きつけるように問い質してきた。
「それは…。おまえの小賢しい術が、無効になったからだぜ、魁。」
 乱馬は、土で汚れた顔を魁に手向けてにっと笑った。白い歯が、口元に浮かび上がる。

「馬鹿なっ!何故動けるんだ…。僕の術は完璧の筈。」

「ああ、完璧だったさ。この月光が、結界を満たすまではな。はああっ!」
 だらんと下に向けていた手を、ぎゅっと握ると、乱馬は胸を張って、気合を入れた。と、さっきまで、気の欠片も残されていなかった乱馬の身体に、気がほとばしり始める。漲る闘気。そして、英気。

「まさか、貴様っ!」

「生憎だったな…。おまえに巣食った銀色の鬼を祓う技を、たすきの爺さんに伝授してもらったんだ。俺は。」
「銀羅邪を祓う術だと?ははは、そんなもの。」

「ねえって言いたいのかもしれねえが…。それが、たった一つだけあったんだよ。葉隠魁っ!いや、銀羅邪っ!」

 乱馬の気がグングンと上昇し始める。

「乱馬…。あんた、いつの間にそんな力を…。」
 あかねも驚いたほどだ。ついさっきまで、彼はただ、魁の攻撃にやられて、沈み込んで、地に斃れ伏していただけだ。意識もなく、ただ、呼吸が浅く、気を失っていた筈だ。闘気など、微塵も感じられなかった。
 だが、今は違う。
 身体中に気が充満している。手も足も、背中も丹田も、頭の天辺から踏みとどまる足に至るまで。漲る闘気。

「ふん!そんな気、再び我が腹の中に…。」

「吸いたけりゃあ、吸ってみやがれってんだっ!そらっ!」
 
 ドオンと乱馬の体内の気が一気に弾けた。滾った気を、魁目掛けて、投げつけるように送り込んだのだ。

「な…。何だっ!この気は…。」
 みるみる、魁の身体に異変が起こり始める。

「へっ!汚れきった貴様には、この気を受け入れられる術はねえ。」
 乱馬は、魁を睨みながら、吐き出した。

「何だ…。息が…息が出来ぬ。」
 魁の表情が変わり始めた。悶えながら苦しみ始めたのだ。

「へへへ。この気は、この鬼の気に侵された、大地に芽生える、草や木、そこに生きる小さな生き物たちから、少しずつ集めた「精気」なんだ。鬼の妖気で殆ど育たない台地の、それでも、上に伸びようとする雑草の気。それから、原山の生きとし生ける物全てが、少しずつ俺に与えてくれた「精気」。そして、天の月の光の力と、母なる大地の気だ。」

「ぐわあああっ!」
 頭を抱え込んで、悶える魁に、向かって、乱馬は淡々と語り続ける。

「大地の気。それは、てめえら鬼にとっては「毒」にしかならねえ。てめえら鬼が人間を忌むのと同じように、大地の気もてめえらを忌み疎んでいる。だからこそ、少しずつ、己の命を削って俺に与えてくれてるんだ。その気を全身に受けて、どうだ?いつまで耐えられる?やいっ!こらっ!魁の中に潜みし「鬼」よ!」

 膝を折って、そのまま、魁が沈み込んだ。
 両手で頭を押さえ込んで、苦しそうに、悶え続ける。

 また、月明かりが、さあっと結界の上から差し込めてきた。

「うわああああっ!」

 その明りに、遂に耐え切れなかったのだろう。
 魁は上を向いて、そのまま、絶唱した。

 と、彼の口から、もわっと何か、どす黒い煙のようなものが、湧き上がった。

「出て来やがったなっ!銀羅邪っ!」
 乱馬は、はっしと、その煙を見上げて、怒鳴った。
「な、何よ…あれ。気持ち悪い。」
 あかねは、乱馬の傍で、一緒にそれを見上げた。
「あれが、鬼の正体だよ。魁の中に生まれたときからずっと、巣食い続けてきたな…。」
「あれが、鬼…。」
 あかねの咽喉がゴクンと鳴った。乾いた咽喉へ、唾が押し込められる。

 苦しがっていた、魁の動きがピタリと止った。そして、前のめりにどおっと倒れ込む。気を失ったのか、そのまま、動きだにしない。

 彼の体内から沸きあがった「黒い煙」は、みるみる、鬼面を象って上空に浮かび上がる。思った以上に、大きな煙、いや、鬼面だ。
 それの銀色の目がギラリと乱馬とあかねを睨み付ける。

『あな、口惜しや…。依代を追い出されるとは…。』
 おどろおどろしい、低い声が、鬼面から響きだす。腹の底へと、ズンと響くような、ドスの利いた低い声であった。

「へっ!大地の気に居た堪れなくなりやがったな。」

『ふふふ、小僧、おまえか。こやつに忌々しい気を浴びせかけたのは。』

「ああ。今度はおまえに、極上の気を浴びせかけてやるぜ。銀羅邪。」
 乱馬はきっとそいつを見上げた。
 そして、身体中に気を漲らせていく。

『ふん。貴様がその気を扱えようと、所詮は人間ではないか…。どうだ?ワシと組まぬか?』
 鬼は乱馬に語りかけてきた。

「組む?どういうことだ?」

『知れたことよ。おまえは、そこに寝転がっている男より、強い。その肉体と英知で、どうだ?天下を取らぬか?』

「天下だって?」

『ああ、天下だ。ワシを受け入れれば、おまえは、この世で一番強くなれる。望めば、この世の中の支配者にもなれるぞ…。どうだ?悪い話ではないと思うが…。』

「けっ!」
 乱馬は大きな声でそれに答えた。
「やーなこった!てめえの力なぞ、借りなくても、俺は強いんでいっ!それに…。鬼に明け渡せるような、安い魂じゃねえんだっ!俺のこの肉体はな…。」

『女に変化してもか?』

「てめえ…。」

『ふん。ワシには全て見通せるぞ。おまえが呪泉郷に落ちて、女変化してしまうことや、その娘を愛していることをな…。』

「わっ!わたっ!余計な事は言うんじゃねえっ!んのヤロー!」
 思わずあかねの事を口走られて、純情な乱馬は真っ赤になって、怒り出す。

『もう一度訊く。どうだ?ワシと組まぬか?』
 鬼は、畳み掛けるように、乱馬に問いかけてきた。

「嫌だねっ!俺の魂は俺の物だ。おまえなどに手渡しはしねえ。」

『ならば、おまえを倒し、力ずくでその身体を手に入れるまでだ。』

「出来るものなら、やってみろっ!」
 乱馬は、溜め込んでいた気を玉状にすると、鬼に向かって、思いっきり投げつけた。

 鬼に向かって、気は真っ直ぐに飛び出す。

『かかったな、小僧!』

 気が弾ける前に、鬼の顔が、ふいっと消えた。そのまま、気の玉は虚空へと突き抜ける。

「なっ!消えた?」
 乱馬がそう思った時だった。
「しまった!今のはオトリか?」

「きゃああっ!!」
 直ぐ傍らで、あかねの悲鳴がした。

「あかねっ!」
 思わず見返して、ぎょっとした。

 どす黒い煙が、あかねに絡み付いているのが見えた。

「あかねっ!」
 乱馬はあかねの方に手を伸ばそうとした。
 巻き付いた黒い煙から、彼女を引き離そうとしたのだ。

「いやああっ!」
 あかねの足元がぐらっと揺れる。
 その波動は、すぐさま、乱馬の元にも伝わった。

「な?何だ?」

 身体が上下に、激しく揺すぶられる気がした。
 と、あかねの足元へ、ぽっかりと大穴が開いた。乱馬の作った五芒星を、そのまま抉り取ったように、抜け落ちたのだ。

「あかねーっ!!」
 乱馬の絶唱、虚しく、あかねの身体が、飲み込まれるように、闇に消えていく。
 と、上空から、もう一つ、黒い煙が降りてきて、あかねの消えた闇へと、同じく吸い込まれて行くのが見えた。
 やがて、穴は何事もなかったように、すうっと消えてしまった。

「あかね…。」
 放心したように、乱馬はあかねの消えた地面を見詰めていた。
 一体、何事が起こったのか、彼には咄嗟に把握できなかったのだ。

「早乙女…乱馬…。」
 直ぐ後ろで、囁くような声がした。
 乱馬に倒された、葉隠魁だ。
 彼は、放心する乱馬に向かって、力を振り絞り、声をかけたのだ。
「乱馬…。あかねさんは…鬼塚へ…消えたんだ…。多分。」
 途切れ途切れに、言葉を継いでいく。口を開くのがやっとだという、状態の中、彼は、更に続けた。
「行け…。乱馬。…おまえだったら、鬼の張った結界を破ることが出来る。」

 その言葉に、我を取りもどした乱馬。はっとして、魁を見た。

「大地の気を扱えたおまえなら、奴らを倒せる…。」
 魁はそう言いながら、這いながら乱馬ににじり寄ってきた。

「奴ら…。あかねさんを食らって、再び妖力を得ようとしている。」

「あかねを食らって、妖力を得るだと?」
 やっと、言葉を返すことが出来た。

「ああ…。二つの闇が一緒に、穴倉へ飲み込まれたろう?遅れて入った、妖気は「金羅邪」のものだ。」

「馬鹿な…。金羅邪は俺がさっき、札の中に…。」

「外界で何かがあって、封印が破れたんだろうさ…。僕にはわかるんだ。この世に生まれて、すぐさま、親父から二匹の鬼を託された僕にはな…。」
 魁は、真摯な瞳を乱馬へと手向けた。起き上がる力も惜しいのだろう。うつ伏せに腹ばったまま、肩で息をしながら、喋る力を振り絞ったのだ。

「訊け、乱馬。奴ら、銀羅邪は僕に、金羅邪はあかねさんに憑依して、契りを結ばせるつもりだったんだ…。あかねさんは天道の血を濃く受け継ぐ武道家だからね。依代にして、完全な鬼を孕ませ、生ませるのにうってつけの生娘だったからね…だが…。」
 魁はじっと乱馬を見ながら、途切れ途切れに話す。
「だが…。おまえの活躍で、大きく「予定」が狂った。俺の身体から、鬼の気が、二つとも弾き飛ばされてしまったからな…。一度、身体を離れると、二度と同じ依代には憑依できない。それが、鬼なんだ…。」

「だったら、奴ら、あかねをさらってどするつもりだ?」
 乱馬は魁を見ながら、急き込んだ。

「あかねさんを食らおうと考えてるだろう…。」
「あかねを食らうだって?」
「ああ、あかねさんは、父さんより、天道氏の血を、もっと濃く受け継いでいるから…。奴らが手っ取り早く超力を得るのには好都合な存在だからな。」

「何だって?」
 思わず魁へと目を転じる。

「あかねさんの身体が奴らに食われる前に…乱馬。止めるんだ。でないと…あかねさんが…。」

「でも、結界も閉じてしまって、どうやって奴らを追えば…。」

「貴様なら出切るさ。大地の気を扱えるんだから…それに、おまえ、まだ、この結界を張った時に使った「銀砂」を持って居るんだろ?」

「おい、おまえ…。」
 乱馬ははっとして魁を覗き込んだ。

「ふふふ。僕にはわかったさ。結界を張った、あの砂の正体がね…。」
「魁…。」
「行けよ、乱馬。母さんなら…。母さんなら、きっと、鬼どもの張った結界を打ち破るのに、手を貸してくれる筈だ。そうだろう?」
「ああ、そうだな…。」
「それに、あかねさんを守りきれるのは、貴様だけだ。…彼女をこの世で一番愛している者でなければ…できない。悔しいがな。」
 魁はそれだけを言うと、乱馬から視線を外し、向こう側に首を倒してしまった。
「俺が言いたいのはそれだけだ。行け。こうしている間にも奴らはあかねさんを…。」

「わかった…。ありがとうな…。魁。」

「ちぇっ!ライバルに感謝されるとはな…。僕も地に落ちたもんだ。…。最後の力で、結界を貫く手伝いをしてやるよ。僕の気と、貴様が結界を張るのに使った結界砂は馴染む筈だから。」

「ああ、頼まあ…。俺だけの力じゃあ、心許ない。」

「行くぞっ!俺の気に波長を合わせろっ!」

 魁は目を見開くと、地に横たわったまま、はああっと息を入れ始めた。
 乱馬もその波長に合わせて、丹田には息を入れる。

「はああああっ!」「はああああっ!」
 二人の声が重なる。
 だんだんに高ぶる結界。
 ビリビリと空間が揺れ始めた。

「滅界っ!」
 魁は、一言、そう叫ぶと、右掌で、バシンと地面を思い切り叩きつけた。
 
 ゴゴゴゴゴッと音がして、再び空間が激しく揺れた。
 その揺れに反応するかの如く、五芒星の結界の形に地面が開いた。

「今だっ!行けっ!乱馬ーっ!!」

「おおっ!」
 乱馬は雄叫びと共に、どおっと、地面に開いた、五芒星の穴倉の中へと、飛び込んでいた。

 やがて、彼の気は、飲み込まれるように、穴へと消えていく。そして、すぐさま、穴も塞がり始めた。

「乱馬…。あかねさんと共に、帰って来いよ…。」
 持てる力を使い果たしたのだろう。魁はそのまま、ふうっと意識を飛ばしてしまった。



二、

「一体、結界の内側では、何が起こっていると言うのだ?」
 外界の者たちは、皆、地面の振動に、目を見張りながら見詰め合った。
 激しい、揺れを感じたのは、一体、何度目だろうか。
「あかね…。乱馬君。」
 早雲も、心配げに結界を見詰めた。

 何も見えない、何も聞こえない。
 不安は、増長されていく。

「ふふふ…。魁のやつめ。結界の中で大暴れしておるな…。」
 にんまりと昂が笑っている。
「そうとも限らんのではないのかね?昂よ。」
 たすき爺さんも負けじと言葉を吐き出す。

 やがて、地鳴りは止み、辺りは不気味なほど静かになった。

「おっちゃん、あれっ!」
 右京が思わず叫んだ。
「おお、結界の中が透けて行くぞ。」
 今まで濁って、何も見えなかった、結界の中が、すうっと煙が引くように見え始めた。
 夜の闇が辺りを照らしつけているので、目を凝らさないと、なかなか良くは見えない。でも、確かに、霧が晴れていくように、結界の向こう側が、映し出される。

「誰か、倒れてるで。」
 右京が真っ先に叫んだ。おそらく、このメンバーの中では、彼女が一番、視力が良かったのかもしれない。
「あ、あれは…。魁君。」
 早雲が次に叫んだ。

「何だと?魁が倒れておるだと?ありえぬわっ!」
 続いて、昂が叫んだ。

「ほら、見てみいやっ!あれは、葉隠魁や。乱ちゃんでもあかねでもあらへんっ!」
 右京が指差した。

「本当だ。まさしく、あれは、葉隠魁。」
 玄馬がポンと手を叩いた。

「ということは、乱馬が勝ったのか?」
 
 一同は目を凝らした。

「いや、他には誰も居らん。乱ちゃんもあかねの姿も、どこにもあらへんっ!」
「何だって?」

 一同、右京の言葉に、目を凝らしてみたが、乱馬もあかねも見当たらない。
 やがて、結界の力が緩みきったのだろう。すううっと光っていた五芒星も丸い結界も、無くなっていった。

「魁っ!」
 真っ先に飛び出したのは、昂であった。
 結界が剥がれたと、感じた途端に、走りこんでいった。
「魁っ!何があった?早乙女乱馬は、天道あかねはどうした?」
 激しく揺さぶりながら、魁を抱きこむ。

「あかん、あかん。そんなに乱暴に扱こうたらあかん!」
 傍で右京が怒鳴ったが、昂は一向にお構い無しに、魁に問い続ける。
「だから、あかんっちゅうてるやろがっ!」
 思わず、背中に持っていた、愛用の巨大コテを振り回す、右京。

「やあ、皆さん、お揃いで…。」
 昂の激しい揺すりに、気がついたのか、魁が、そう言い掛けて、にっと笑った。
「魁っ!おまえ、あの小僧に負けたのかっ!?」
 昂が畳み掛けた。
「ええ…。早乙女乱馬との勝負には、負けました…。完敗ですよ、父さん。」
 と力なく微笑んで見せた。
「魁、嘘だろ?何故負けた?それに、早乙女乱馬も天道あかねも居ないというのはどういうことだっ!」
 皆の訊きたい事を、真っ先に、全て問いかける、昂。
「今頃、地の底で鬼どもの亡霊と闘っているでしょう…。未来を賭して。」
「馬鹿な…。おまえ、みすみす鬼を、…ずっと宿っていた銀羅邪までも、手放したと言うのか?」
 昂の叫びに、魁は答えた。
「ええ…。やられました。見事に、乱馬(やつ)に、叩き出されましたよ。」
「おまえの技を破ったと言うのか?あの小僧が…。」
 こくんと揺れる魁の頭。
「技が、彼の方が勝って居た…。それから、敢えて言うならば、母が彼に味方したようなものです。」
「母がどうしただと?」
 昂が驚いて声を荒げた。

「何、簡単な事じゃよ。魁君の母は、そう、比奈は、我が子に鬼が憑依してしまった事実を、受け入れて肯定しておった訳では無いからな。」
 たすき爺さんが、ポツンと言った。

「どういうことだ?たすき。」
 魁を抱えたままで、昂が問い返す。
「だから…。愛する我が子を、鬼に捧げる母親など、この世には居ないということじゃよ。昂。」
「馬鹿な…。あれが、魁を愛していたとでも言うのか?望まぬ子を孕ませられて、産み落としたのだぞ。ワシの手で…。」
 昂が強張った顔で、たすきを見返した。

「いや…。比奈さんに限って、それは無いと思うよ、昂兄さん。」
 早雲が横から口を挟んできた。
「ふん、わかった口をききよって。」
 早雲の横槍に、昂が不快感を示したが、彼は続けた。
「女というものはね、自分が誠心誠意愛した男性(ひと)の子を生み育てる時、希うのは、ただ、その子の幸せだけだからね…。」
「フン、だから、それは一般論だ。愛する男の子を宿し、生んだときだけだろう?その子の幸せを願えるのは…。」
 昂は早雲を睨み見た。
「だから、比奈さんは、鬼に我が子を巣食わせたいなんて、これっぽっちも思ってないと言ってるんだよ…。魁君は、昂兄さんとの間に成した子だったら、尚更ね。」
早雲が静かに言った。だが、声は決してよどんでは居ない。真っ直ぐに伸びる声だった。

「どういうことだ?早雲…。それじゃあ、まるで比奈が、ワシとの契りを歓迎していたように聞こえるではないか。」

「たく…。昂よ。おまえは、比奈に愛されていたんじゃよ。そんなこともわからぬのか…。子まで成した癖に。」
 たすきがポツンと言った。

「嘘だ…。比奈がワシを愛していたなどということは在りえん!比奈は、早雲、おまえとの許婚を断られて、生きる屍の状態に……。」

「だから、それが違うと言ってるんだよ…。昂兄さん。」
 早雲は、真摯な瞳を昂に手向けた。

「黙れっ!おまえの聞き苦しい言い訳などききたくはないわっ!他の女の元へ走り、許婚の比奈を捨てたおまえに…。」

「比奈さんと僕の許婚の件は、あれは僕自身も、全く知らなかったんだ。昂兄さん。まさか、祖母と、葉隠の家が勝手にそんな約定を結んでいたことなどね。」
「そうやって、己を保身するつもりか?早雲。」
「…そもそも、僕は、比奈さんの許婚は昂兄さんだと、ずっと思い込んでいたんだから。だって、比奈さんの視線は、常に昂兄さんにしか、手向けられてはいなかったんだから。ずっと昔から、ね。」
「なっ…。」
 再び、何か言わんとした、昂に、大伯母が横から口を挟んだ。

「早雲が言ってる事は本当だよ。昂。早雲と比奈さんの許婚の話は、元々は、亡くなったお姉さま、おまえたちの祖母が言い出した事なんだ。葉隠家は昔から同じ鬼を倒す流儀の武道の家元。いずれ、ここから嫁を貰うのは、ずっと何代も前からの両家の悲願みたいなものだったから。だから、比奈をいずれは早雲の嫁にと思っていた。幼き頃より、早雲に嫁がせるための布石として。だが…。比奈は、年が同じ早雲よりは、年上のおまえの方が頼もしく映っていたんだろう。傍目にも、それは良くわかってはいたさ。」
 大伯母は当時の事情を話し始める。
「だが、姉はそれがまた、気に食わぬ話だったらしい。天道家の本流に近い早雲のために引き合わせたのに、比奈はそちらへは靡かず、昂を見ている。それでは、お膳立てが全て無に帰するではないかと。だから、先に、早雲と「許婚の約」があると決めてしまえば、どちらも、家の言いなりになるだとうと思ったんだろうね…。でも、姉上が思うほど、事態は甘くはなかった…。姉上、いや、我らの世代は、個人の恋愛よりも家のつり合いや体裁を気にして、そっちを優先し、結婚したものだからね。てっきり孫もそれに従うと思い込んでいた。」

「そんな、話…。俄かに信じられるものかっ!」

「信じようが信じまいが、それは昂兄さんの勝手かもしれない。でも、比奈さんは昂兄さんに惹かれていることは、僕ですらわかっていたさ。それに…。僕も、恋をしていた。」
 早雲は、遠い日の記憶へ想い馳せるように、暗い夜空を見上げた。
「僕も恋していたからね…あかねやなびきたちの母親に。それはそれで、周囲に猛反対されたさ。何でそんな娘に惹かれる、決めてやった許婚と結婚しないんだってね。随分、父や母、いや、祖母から嫌味を言われたさ。そうなると、もう、僕が家を出るしかないじゃないか。中学を卒業したら、すぐさま、練馬へ出たさ。親の仕事の関係で、東京へと移り住んでいた彼女を追ってね…。僕が、練馬にこだわったのは、その辺にあるのさ。そして、彼女が通う予定だった風林館高校へと入学したんだ。強引に押し切ってね…。」
 早雲は、一気に喋った。
「僕は、別の恋に夢中で、周りが見えていなかったし、僕が、里を出た事で、比奈さんと昂兄さんの仲は進展するって、勝手に思ってた。だけど、許婚の話は、当人たちを通り越して、家同士の話になってたみたいなんだ。僕も若かったし…。無責任だと言われても、仕方の無いことだとは思うけれど…。
 まあ、先方の葉隠からしてみれば、僕が許婚を断ったことには変わりは無いからね。程なくして、比奈さんは蟄居を葉隠流の当主から言われたのだそうだ。それも、随分、後になって知ったんだ。僕は。
 で、間もなくして、あの山津波が起こった。僕や父親や伯父は、てっきり、山津波に飲み込まれて死んでしまったものだと思っていたからね…。それに、僕も程なくして、天道本宗家との縁を自分から切ってしまったから…。自分の愛した人との事を貫くためにね…。」

「その後のことは、ワシが話そう。」
 そう言って、たすきが出て来た。
「比奈はおまえさんが山津波に飲み込まれて、死んだという話が信じられなかったらしい。その後、そのショックが祟ったのか、床に伏せるようになってしまったんじゃよ。その療養も兼ねて、葉隠の里を出て、別のところで暮らしておったんじゃ。
 そして、時が経ち、おまえさんが比奈の前に現れた。そして、比奈と契りを結んで、魁を身篭っていることを知ったんじゃ。
 こちらとて、まさかおまえが生きているとは思っていなかったしな…。その後はおまえさんも知ってのとおりだよ。元々、身体も弱かった事が災いして、産後の肥立ちも悪く、魁が物心つくまえに、死んでしまった。そして、身を削って、産み、育てた魁はおまえが奪うようにして引き取り、何処となく立ち去った…。そして、今日まで格闘家として育ててきた。そうであろう?」

「馬鹿な…。比奈は早雲、おまえに捨てられて、身体を壊したのではなかったのか?」

「だから、それは違うんだよ。それに、話を断って来たのは、比奈さんだったんだから。心を偽ってまで、あなたの嫁にはなれないから、許婚はなしにしましょうってね…。線は細かったが、意志はしっかりした女性だったよ、比奈さんは。だから、てっきり、自分の本心を昂兄さんに打ち明けていると思ってた…。つい最近まで、ね。」

「嘘だ…。それでは、最初から、ワシは…。勝手に自分の掌で踊っていた事になるでは無いか…。」
 昂の肩が、微かだが震え始めていた。

「ワシにはわかっていたさ。昂。おまえも、比奈を愛していたことにな。だから、早雲との破談に腹を立てたことも…。比奈は身体は弱かったが、意志はしっかりした娘じゃった。だから、魁を生んだ。一族から、散々罵声を浴びせかけられ、そしられてもな。
 それは、まがいもなく、比奈自身が、昂、おまえさんを愛していたからに他ならぬからだよ。」

 たすきの瞳が真摯に輝いていた。

「そして、比奈は今際に言ったんじゃ。おまえさんの身体から己、そして、魁に通り抜けていった「金羅邪」と「銀羅邪」のことをな。あれも、葉隠流の血を受けた娘。薄々、おまえさんが鬼に操られていたことを知っておったんじゃよ。
 だから、魁の事をワシに託して逝きよったわ。いずれ、魁の中に巣食った邪鬼が目覚めると。その時は、身を挺して、魁を守ってくれとな…。己は土に返ろうとも、必ず、魁の中に潜みし鬼を浄化させるとな…。そして、その時が来たならば、己を埋めた墓土を使って結界を張れと。」

「まさか、あの、小僧が使った、結界砂は…。」

「比奈を埋葬した墓の土じゃよ。彼女の想いが染み込んだな…。」



三、

(何て暗い世界なんだ…。ここは…。)

 堕ちながら、乱馬は辺りの気配を伺った。

 あかねをさらった鬼を追って、再び開いた穴倉へ、後先考えずに夢中で飛び込んだ。

(地球上の重力なんか、無視した世界だな…。ここは。)
 堕ちるというよりは、辺りを漂っていると表現した方が正確だろうか。
 むっとした、不快感。陰惨とした灰色の世界が、どこまでも拓けている。
 不快な空気が、己の身体を、舐めるように触れては流れ、まるで、巨大な闇の中に、閉じ込められていくように、どす黒い煙が辺りを漂い始める。

 少し遅れてしまったせいで、あかねの気配は感じられない。
 いや、辺りに降りてくる「闇」が、彼女の気配全てを、覆い隠している。そんな気がした。

「あかねっ!」
 全身を目にして、澱んだ空気をまさぐってはみたが、荒涼たる世界が続くだけで、気配など全く読めなかった。

(この世界のどこかに居るはずなんだ。…あかね。)
 何も無い世界。
 いや、そればかりではない。早く見つけ出さねば、あかねは鬼どもの餌食になる。そう思った。
 焦り始める気持ちに、乗じるように、闇の色はますます濃くなっていくのを感じた。
(闇が成長している?)
 いや、闇全体が、脈動している。まさにそんな感じであった。
 息苦しさが乱馬の五体を支配する。咽喉が無性に渇いた。

 そう思ったとき、ドクンと波打つ気配を感じた。それも、一つや二つでは無い。

『来たぞ…。人間だ。』
『人間が来たぞ…。』

 男とも女ともわからぬ、声が、脈動に合わせて、耳元に聞こえ始める。
 一つ、二つ。その声はだんだんに、大きくなる。

『また、来た…。今度は男だ。』
『良き男か?』
『まだ穢れを知らぬ、男だ。』
 声は自問自答するように、乱馬の周りで囁きかける。

『その気を穢せ…。』
『我が一族の糧にしようぞ。』
『誰が奴に憑依する?』
『ワシだ。ワシの依代に…。』

 ざわざわと、辺りの闇が五月蝿くなり始める。

『血を赤から黒に染めよ。』
『腸(はらわた)を穢せ。』
『我にその肉体を寄越せ…。』
『いや、我だ…。』

 目の前に下りてきた闇が、煙のように燻ると、ふいっと数個に分かれて浮き上がる。
 そして、纏わりつくように、幾重にも乱馬の身体へと伸び上がり始めた。

「気持ち悪いっ。何だ?こいつら。」
 乱馬はそれらを振り切ろうと、手足をばたつかせる。闇は乱馬が動くと、すうっとそれから離れ、また、すぐに、周りに纏わりついてくる。

『寄越せ。新しい肉体を。』
『その、強き力を我に寄越せ…。』

 一度引いていた闇が、一斉に、乱馬目掛け、集り始める。

「うわ…。冗談じゃねえぞっ!」
 相手は、得たいが知れない上に、どうやら「実体」ではない。
 実体があれば、そのまま、打ち砕くこともできようが、拳を振り上げても、さっと引いてしまい、手応えもない。

 そればかりか、だんだんに、闇色が濃くなり始め、視界も利かなくなってくる。

「こいつら、俺に憑く気か…。畜生。こんなことをしている間にも、あかねが…。」

 焦れども、まとわり付く、闇煙の数は減らない。拳を穿ち、気弾を撃ち振るったが、凌げるのは、ほんの一瞬。
 乱馬が攻撃に出ると、身体から、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと周りに飛び退くが、すぐに、寄って集ってくる。

「このままじゃやべえぞ…。あかねを探すどころか、こいつらに、やられちまう…。」
 落ち着いて考えようとするが、攻撃方法も、退治方法も、まるで見当が付かない。

「痛っ!」
 左腕に激痛が走った。
 見ると、何かにえぐられたような傷が付く。
 それを薙ぎ払うと、にっと笑ったように見えた。
「こいつ…。」
 乱馬は己を傷つけた、闇煙に向かってはあっと気を吐き付けた。ばっとそいつは、煙の如く離散する。と、その中に、鋭い刃があるのを見つけた。
 闇煙の中には、鋭い「牙」を持つ物も居るらしく、触れただけで、皮を裂いてしまうらしい。
「じ、冗談じゃねえぞ…。こんなのに、闇雲に襲われたら…。」
 言っている先に、また、つっと痛みが走る。
 その傷口に、闇は染み入ろうと、ふわふわと煙を棚引かせる。
「無理矢理、身体に入って中から俺を襲う気か…。くそっ!」
 そいつを薙ぎ払おうと、右手を近づけてはっとした。
 闇が、一所だけ、避けて通ろうとしている。それを見極めたのだ。それは、乱馬の胸元にあった。
「な…。ここには、近寄りたくねえのか?」
 道着の内側に、しっかりと縫い付けた皮袋だ。
 結界砂を入れた袋。葉隠魁の母、比奈の墓砂が入った小袋だ。まだ、少しだけ砂が残っていた。
「こいつら、これを避けてやがる…。ってことは…。試してみる、価値はあるってことか。」
 乱馬はにっと白い歯を見せて笑った。
「よっし…。一か八かだ。ここで足掻いていたって、始まらねえ!行くぜっ!早乙女流最低秘儀っ!敵前大逃亡っ!」
 乱馬は身をくるりと翻すと、だっと、その場から駆け始めた。
 敵前大逃亡。文字通り、敵の襲来から逃げ惑い、次の攻撃への時間を稼ぐせこい技だ。だから「最低技」と彼は位置づけていた。

『くくく…。訊いたか?最低奥義だとよ…。』
 鬼の気配が、それを聞いて笑い始めた。
『やつめ…。狂ったように逃げ惑い始めよったわ。』
『ふん、我らから逃れられるとでも思っておるのか?』
『うつけもの、大馬鹿者よ!』
『追え、追い立てて、取り押さえよ。』
『ワシが行く。』
『いや、俺が行く…。』

 獲物に集る、黒蟻のように、逃げ惑う乱馬に、わっと集りだす。

「へへっ!追ってきやがれっ!」
 乱馬は、それらを招きよせるように、闇の中を動き回った。くるくる、くるくると。
 滅多やたらに逃げ惑うように見えて、実は、乱馬は、円陣を回っていた。
 だんだんにその、円を縮め、一転へと集中させ始める。螺旋のステップ。

「こいつらの発する、妖気は、生温かい…。それが寄って集ってこっちへ向かってくる。この妖気の渦。これを上手く利用してやれば…。」
 乱馬は螺旋の中心へすっくと立つと、がっと身構えた。


『止ったぞ!』
『諦めたか?』
『所詮は人間だ…。』
『さあ、寄越せ、その身体。』
『依代に差し出せっ!』

 乱馬の周りを取り巻いていた、闇煙が、一斉に乱馬目掛けて、襲い掛かった。

「飛竜昇天破ーっ!」
 それを待っていたかのように、乱馬は、右手の拳を、真っ直ぐ上に突き上げた。
「いっけえ!砂塵の舞いっ!」
 それから、握っていた右拳を、ぱっと開いた。

 さらさらと、冷気と共に、上昇していく、砂。腰に結わえていた巾着から、握り出した、比奈の墓砂だった。

 それはそれは、見事な砂塵の舞いだった。
 乱馬の放った、飛竜昇天破の渦の中に、勢い良く吸い上げられて、砂が、あたり一面に飛び散ったのだ。

 おおん、おおんと一斉に唸り始める、闇煙たち。
 その砂塵に祓われるが如く、空間へと同化し始める。
 幾重にも重なる、断末魔の叫び。それが、空間中に満ち溢れた。

「思った通りだったぜ。こいつら、この結界砂が苦手だったんだな…。ま、当然だろうさ。葉隠一門の血を受けた、魁の母さんの想いが詰まった、墓砂だからな…。」

 キラキラと砂が舞い降りてくる。
 その砂に、尽く、祓われるように消えていく闇色の煙。
 やがて、煙が多い尽くしていた闇色は、薄い灰色の空間へと変わり始める。
 そして、少し先に乱馬は「それ」を認めた。

「あれは…。」

 一際大きな闇と、それにくるまれるように包まれる、愛しき者の姿を。



つづく




一之瀬的戯言
 やっぱり、もう一話使います。
 次回こそ、最終話です。
 鬼との決着をどうつけるのか…。そして、あかねは?
 わくわくしながら、一気に書くぞ!


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