第十話 対峙の刻


一、

 夏の強い青空が、虚空を突き抜ける。
 さわさわと、生ぬるい風が渡っていく午後。

「何とか晴れたな…。」
 ふっと見上げながら、玄馬が吐き出した。
「今のところは…。でも…。」
 遥か向こうに、沸き立つ入道雲。早雲は不安げにそれを眺めた。
「雨が降るも、それはそれで定めだろうよ…。」
「でも、彼が男として闘うのならば、雨は…。」
 言いかけて早雲はやめた。
 今しがた、自分たちが登ってきた山道に、人影を認めたからだ。
 
 ここは、天道宗家の裏山。「天の原山」と呼ばれる、山の天辺だ。
 長年に渡って、宗家が守ってきたという「鬼塚」のあった場所だ。
 その辺りには最早何も無い。早雲の話によれば、二十数年前の山津波で、ごっそりと根こそぎ持って行かれたのだという。ただ、現在は「五輪の塔」の代わりに、小さな石碑が据えられていた。
 そこに刻まれているのは、昂の墓碑銘だという。
 あの山津波に飲まれて死んでしまったと、信じて疑わなかった天道家の人々は、彼と、鬼の霊を弔うために建てたのだという。
 昂が生きていると知った現在では、空々しく見える石碑。
 約束の日に、早雲は玄馬は勿論の事、右京とつばさを率いて、この場所へと足を運んできたのだ。
 久しぶりに上がる、原山。
 だが、懐かしさよりも、重苦しさが、早雲の心を支配していた。

 それは、あかねの格好を、まともに見てしまったからだ。
「あかね…。」
 みるみる、早雲の顔に苦渋が浮かび上がる。
「おっちゃん…。あかねちゃんの格好。」
 一緒に居た、右京やつばさも、思わず固唾を飲んだ。
 
 そう。あかねは白無垢そ身にまとって現れたのだ。
 金襴緞子の白い花嫁衣裳。美しく化粧(けわい)も施され、しずしずと山道を上がって来た。
 傍らを来る、葉隠魁も紋付袴だ。

「すぐにでも祝言を挙げるつもりかのう…。」
 早雲の傍らの玄馬も、思わず苦笑したくらいだ。

「約束どおり、来られたんですね。まだ、対戦相手は来てないようですけどね…。」
 魁が笑いながら早雲と対した。
「ああ…。天道家の血を引く者として、この闘いの行く末をこの眼で見届ける義務が私にはあるからね。」
 早雲は、睨みながら魁の瞳を見た。やはり、あかねの白無垢に、ムッとしたようだ。

「お義父(とう)さん、本日はお日柄も良く。」
 不敵に魁は笑った。
「君に、お義父さんと言われる義理はない。」
 吐き捨てるように早雲は言った。
「それに、何のつもりだね?その格好はっ!」
 顕に不快感を示す。

「ふふ…。祝言の準備ですよ。この闘いがすめば、僕は晴れて葉隠流の当主。そして、あかねさんを娶ることができます。」

「貴様、まさか、あかねに。」
 ギリギリと歯軋りしながら、早雲は魁をやぶ睨みした。
「そんなおっかない顔しなくても…。大丈夫ですよ。私は、約定を破るような卑怯者ではありませんから。あかねさんには一指も触れてはいません。まだ今はね。」
 そう言いながら、あかねを振り返る。

「お父さん、お久しぶりです。」
 あかねはにっこりと、笑みを浮かべてきた。
 白無垢から覗く、可愛らしい笑顔だ。

「あ、あかね…。おまえ…。」
 娘の顔を見ると、ふっと緊張が解ける。
 父親と言うものは哀れな生き物かもしれない。
 思わず、娘の花嫁姿に目を奪われ、我を忘れかけた。
 だが、早雲の面持ちはすぐに険しいものとなった。あかねの笑顔があまりにも、「空々しい物」に見えたからだ。それに、傍には、不敵な笑みを浮かべる、魁が立っている。
「どうしたのお父さん。」
 あかねはきょとんと見詰め返してきた。
「いや、別に…。その、元気にしておったか?」
 早雲は何とか口を開き、平常心を保とうとした。
「ええ。大伯母さまが良くしてくださって…。花嫁修業させていただいてたの。」
「花嫁修業ねえ…。で、成果はあがったのかね?」
「それはもう…。ね、お姉ちゃん。」
 傍らのなびきに声をかけた。
「お父さん、凄いわよ。あかねったら、料理の腕上げたんだから。」
 とにっこりと微笑む姉。彼女の顔からも、また、「生気」が消えているように思えた。あの生来のガメツサが消えている。
「それは良かった…。」
「結婚したら、毎日、魁さんに作ってあげるんだもの…。お父さんにも食べさせてあげるからね。」
 とあかねは上機嫌だ。

「のう、天道君。あかね君の味音痴はどうなったんじゃろ…。そんなに直ぐに治るとでも…。」
 話を聞いていた玄馬が、早雲に耳打ちした。
「相手が鬼だからな…。或いは、何かの術で味音痴が緩和したのかもしれないよ…。早乙女君。」
 思わず苦笑いしながら、早雲は玄馬に答えた。
「そうかねえ…。」
「そんなところだろう。なびきが腕を上げたと言ってるんだ…それに、鬼とて、あの料理はまともには食えはしまい?だったら、妖術か何かで治したかも知れぬし…。」
「恐るべし鬼の妖術と言ったところか。」
 真面目に玄馬は感心して見せた。

「なあ、あかねちゃんのあんな顔、初めて見るわ…。」
 右京が傍らのつばさに吐き出すように言った。
「そりゃそうですよ。やっぱり花嫁衣裳は美しいですわね。ああ、つばさも右京様のところへ金襴緞子でお嫁に行きたい。」
「来んでええっ!!」
 思わず、声を荒げた右京。
「ま、ええわ。それより…。あれはあかねちゃんの目やない。何かに魅入られるようになった瞳や。瞬きもしない魚の目のような…。それに笑い方もいつものあかねちゃんとは違う。あんなにキラキラした笑顔、自分からはなかなか見せへんで。ましてや男の人にはな…。」
「右京様にはわかるんですか?」
「ああ、わかる。うちでもわかるんや、乱ちゃんが見たらどう思うやろ…。」
「そういえば、乱馬様、まだ来られませんね。」



 さわさわと渡っていく風。

 その風下に、乱馬とたすきが身を隠していた。
 実は、昨夜からこの場所に来ていたのだが、あえて、一番最後に身を現そうと、じっと隠れていたのだ。
 結界があった場所からは少し離れているせいか、それとも、鬼塚が壊れ、鬼の気配がなくなったからか、周りに鬱蒼と草木が茂っている場所だった。

「…きっしょう!ふざけやがってあんの野郎!」
 ぎゅううっと握るしめる拳。
「乱馬よ、あかね君の笑顔、どう思う?」
 たすきはにっと笑いながら尋ねてきた。
「ふざけた笑顔だぜ…。ったく。」
 ずっとだんまりを決め込んでいた乱馬は、その問い掛けに、淡白に答えた。
 彼としては、あかねの視線が常に、魁へと注がれているのが気に食わなかったし、何より、己にも滅多に見せない「極上の笑み」を、魁のために捧げているのに、腹立てているようだった。

「ふふふ…。良く見ておけ、乱馬よ。あれは、あのあかね君の笑顔は、操られし者の本心の裏返しじゃ。」
「あん?どういう意味だ?」
 たすきの言葉の意味がわからず、乱馬は思わず問い返していた。
「あかね君、彼女はよほど己に、「自信がない」らしい。」
「自信がない?」
 ますます、混乱するような言葉を吐きつける、たすき。
「おうさ、言い換えれば、おまえさんとの恋に自信がないんじゃ。」
 とポツンと言った。
 何が言いたいのか、皆目わからずに、乱馬はきょとんとたすきを見返す。
「おまえ、彼女に「気遣い」をしたことなど、無いだろう。」
 今度は訊いてきた。
 質問の意味も汲み取れず、また、どう答えて良いかわからず、乱馬は押し黙る。
「だから、ほれ、おまえさん、彼女に向かって、己の本心をきっちりと告げたことなど無いだろうと、訊いておるんじゃよ。「愛している」とか「好きだ」とか、言の葉にのせて告白したことなどないだろうが。」
「ああ、ねえよっ!」
 思わず、吐き捨てるように言った。
「図星か…。」
 たすきはにっと笑った。それから、ゆっくりと乱馬へ向き直る。
「本当に惹かれ合う二人ならば、言葉などは要らぬ…そんな事をおまえは思っておる上に、言い出すきっかけもなければ、己の気持ちにも奥手…そんなところかのう。」
 すかしたように覗き込む悪戯な老人の瞳。
「だ、だったら何だってんだよ…。」
 思わず荒げそうな声を押し殺して、乱馬はぼそぼそっと吐き出した。
「ふふふ…。だからこそ、彼女に迷いの隙があったんじゃ。おまえさんを愛してはいるが、おまえさんに愛されているという自覚や自信、実感というものが、彼女には欠落していたのじゃよ。それを逃さず、鬼が彼女の心へと入ったのじゃ。いとも簡単にな。」
 言われている意味がわからずに、乱馬はきょとんと顔を手向けた。
「恋は駆け引きじゃ。口に出さねば、相手に伝わらぬこともある…。おまえさんが奥手ならば尚更、彼女には「本当に自分はおまえさんに愛されているのか」、「己はおまえさんに相応しい女性なのか」と、疑う心も芽生えようというもの。それを、鬼は利用したんじゃよ。彼女も、また、おまえさんと同じく、己の恋に不器用で青い。金色の鬼目はそれを利用して、彼女の心の隙間に入り込んだんじゃよ。巧みにな。」
 そう言われて、ようやく、たすきが言おうとしたことに、気付いた。ぎゅうっと拳に力が入る。

(あかねは…。俺の想いを疑っていたのか?…いや、お人よしのあいつのことだ…。確かに愛に対して、自信がなかったのかもしれねえ…。)

 普段の二人は「口喧嘩」の連続だ。出会ってこの方、愛の言葉など、囁いたこともなければ、あかねからも聞いた事も無い。確かな「絆」など、二人の間に結ばれては居なかったことに、ようやく気が付いたのだ。

 そんな、乱馬の心情の変化に気が付いたのだろう。いや、最初から、わかった上であえて、たすきは切り出したのかもしれない。

「ふふふ…。乱馬よ、誤解するなよ。だからと言って、何も、過去の己を卑下することはないぞ。彼女のあの目は、おまえさんへの愛情の強さが、鬼の邪気に反応して、魁へと手向けられたようなものじゃ。彼女のおまえさんへの想いの丈、全てが、鬼の邪気によって、真っ直ぐに魁へと手向けれられておるのじゃよ。彼女はその視線の先には、魁ではなく、おまえさんを見ておるんじゃ…。」
「俺を見てる?」
 更に、たすきは続けた。
「ああ。妖の手だよ。」
「妖…。」
「…若い恋に迷いは付き物。おまえは、あの娘が好きなのだろう?誰に何を言われようとその心は変わるまい?…だったら、おまえは、おまえの愛し方を貫けば良い。要は、おまえの心が、いかに彼女を愛しとおせるかだ…。鬼は一瞬の迷いの中につけ入る。おまえは、己を信じろ。その力も、愛情も、全てな。」
 たすきは、じっと乱馬を見ながら言った。

「己の力を信じきれば、鬼を倒すことが出来る。これは、ワシの餞(はなむけ)じゃ。わかったら、行って来い!そろそろ、鬼が痺れを切らすぞ。はっはっは…。」


 ざざざっと木陰が動いた。

 乱馬は今一度、拳をぎゅうっと握り締めると、すっくと草むらを立ち上がった。

 少女のままの身体は、魁から見れば、幾分もか細く小さい。だが、背負った気は、決して小さくは無かった。
 見てくれは女ではあったが、心は男だった。猛し青年の気だ。
 静かに、ざざ、ざざっと歩み寄る。
 その乱馬に少し遅れて、たすきも後ろに従った。見守るように、満面に笑みを手向けながら。



二、

「ふん、やっと現れよったか。」
 魁はにっと笑った。
「大方、恐れをなして、逃げたと思っていたのですけれどね…。」
 と、立て続けに挑発の文句を吐きつける。
「バカな女ですね…。みすみす、私に殺られに来るなんて…。」

「そうよ…。何で来たのよ。あんたなんか、さっさと魁にやられてしまえば良いわっ!」
 つっと魁の前に立ち塞がったあかね。

「あかね…。」
 一瞬、驚きの声を上げた乱馬だが、直ぐに、気を引き締めた。
 それから吐きつけるように言った。
「俺は逃げねえよ…。魁やおまえ、突きつけられた現実、そして、俺自身からもな。」

 ゴオッと風が一陣、渡っていった。
 乱馬のおさげが、それにすくい上げられて、ゆらゆらと背中で揺れたように見えた。

「あたしは、魁さんと祝言を挙げるの。わかったら、さっさと…。」


「退けっ!あかねっ!」
 乱馬はあかねの言葉を遮るように、荒々しく言葉を吐きつけた。

 やぶにらみしていたあかねが、その言葉に、一瞬、ビリッとなった。乱馬の気概に飲まれたようだ。

「あかねさん…。奴は本気です。それに、…あなたが居ては、私も闘えない。」

「でも、魁さん…。」
 一瞬、心配げに魁を見詰めたあかね。
「大丈夫…。僕は強い。こんな闘いは、さっさと終わらせてしまいますよ。そしたら、あかねさん…。あなたと「祝言」だ。」
 そう言いながらにっこりと微笑んだ。

「わかりました…。私も武道家、葉隠魁の妻になるもの。夫の言には従います。」
 あかねは、凛と言葉を吐きつけると、くるりと後ろを向いた。
 しずしずと下がっていく、白無垢のあかね。


「へっ!随分、てめえに懐いてやがるじゃねえか…。どんな手を使ったのかは知らねえけどよっ!」
 乱馬は、はっしと魁を睨んだ。
「ええ…。あかねさんには健全な恋をしてもらいたいですからね。間違っても「不肖の恋」には陥って貰っては困ります。」
 魁はにっと笑った。
「不肖の恋ねえ…。」
「ええ、あなたのような女を、あかねさんの近くに置いても平気だなんて…。早乙女乱馬はどんな男なんでしょうね。それに…。」
「それに?」
「こんな騒動になっているのに、彼は姿を現さなかった。少しは期待していたんですよ。あなたではなく、彼とあかねさんを賭けて闘うことをね。」

(やっぱり、こいつ、俺の正体に気付いてねえか…。)
 乱馬はつっと流れてきた汗を拭った。

「まあ、いずれにしても、葉隠のじじ様が対戦相手に選んだのはあなただ。容赦なく、あなたを叩かせてもらって、私は葉隠流の当主となり、あかねさんと祝言を挙げる。」
 くわっと見開かれる魁の瞳。
「てめえの好きなようにはさせねえっ!この俺の全てを賭けてなっ!」
 対する乱馬の瞳も、激しい怒りに満ちた。

 二人の闘いの幕が上がる。

 ざざざっと草地を駆け、乱馬と魁が互いに間合いを計りながら、向き合う。
 互いに、一歩も引かぬと言わんばかりに、睨み合いながら、凹凸のある大地を駆け抜ける。


「始まったか。」
 そう言いながら、葉隠たすきの横に現れた男が一人。天道昂であった。
「おぬしも、見物に来たのか?」
 思わず、たすきの口からこぼれる言葉。
「ふん、おまえの選んだ娘が、魁の前に斃れるところを見物に来たのよ。」
 ふてぶてしい答えが、昂の口から返って来た。
「そう、簡単に斃れる相手ではないぞ。あいつはな。」
「ほお…。葉隠氏以外のところから、馬の骨を引っ張り込んで来て…。」
「馬の骨か…。確かに、「馬」には違いないがな…。」
 そう言いながらたすきはにっと笑った。


 頂の平坦な地を、縦横無尽に駆けながら、乱馬と魁は睨み合った。互いの隙を探りながら、動き回る。


「最初から飛ばしておるのう…。乱馬の奴。」
 玄馬が吐き出した。
「力を加減できる相手じゃないことは、彼が一番良く知ってるんだろうよ。早乙女君。」
 少しはなれたところに陣を取り直して、早雲が答えた。
 平坦な頂から少し下った斜面に腰掛けた。つばさと右京も同じ場所に居る。彼らもまた、じっと乱馬の戦いぶりを見守っていた。
 あかねはなびきと大伯母と共に、反対側の斜面へとじっと座っていた。
 二人の闘いの邪魔にならないように、持って来た座椅子へとちょこんと腰掛けている。じっと微動だにせず、真っ直ぐに瞳は魁の方へと手向けられている。


「でやああっ!」
 痺れを切らしたのだろうか。乱馬のほうから先に、魁へと仕掛けた。
 軸足を蹴って、その反動で魁へと拳を振るい上げる。
「何のっ!」
 動きを呼んでいた魁は、難なくそれを避ける。と同時に、蹴りを乱馬へと食らわせてくる。
「くっ!」
 その動きをも見切っていたのだろう。乱馬は、だっと手を地面へ付くと、蹴りだしてきた魁の胴目掛けて、己の右足を突き出す。
 バッシッと二つの肉体が宙ではじけた。
 
 ドサ、ドサッと鈍い音が二つして、だっと、降り立つ地面。
 一転、二人はそのまま、睨み合った。



「ほお…。あの小娘、なかなかやるではないか。」
 昂が笑った。
「あやつの実力は、まだまだあんなものではないぞ。」
 たすきは落ち着いて言った。
「しかし、爺さんも因果な事をする。…魁が相手だと、あの娘、ただ事では済まんぞ。」
「そんなことは始めからわかっておるよ…。」
「わかっていて、鍛えたのか?このタヌキ親父め。」
「ああ…。承知の上じゃよ…。おまえさんたちの企みを消し去るには、多少手荒くなっても構わぬ。」
 口元は笑ってはいるが、目は決して笑っていない。
「因果なことだな。たすき爺さんよ。そんなに娘がワシの手で穢された事が悔しいか…。」
 昂はにんまりと笑った。
「私怨などは忘れておるよ。」
 たすきは涼やかに言った。
「そうかな…。ワシから見れば、己の娘を捨てた早雲側に手を貸すこと自体が滑稽に思えてならぬがな。」
「早雲は、別に、比奈を捨てたわけではないじゃろうよ。」
 爺さんは乱馬と魁が睨み合う姿へ目を凝らしながら答えた。
「あれが、捨てたのでなければ、何だったのかね…。許婚だった比奈を捨て、他の女に走った。ワシは比奈の仇討ちに手を貸してやっておるのだぞ。」
「早雲の娘を奪い取り、魁と娶わせることが、比奈が望んだことだとでも言いたいのか?おまえは…。」
 昂へ視線を手向けることなく、たすきは吐き捨てるように問いかけた。
「ああ。そうだ。おまえが何を企んでおるかは知らぬが、早雲の末娘は、魁の手に落ちたも同然だからな…。」
「それはどうかな…。そう簡単に倒せる相手ではないからな。ワシが見込んだあの者は。」
「せいぜい、楽しませてもらうとするかな。」
 昂はそう言いながら、たすきのすぐ傍へと腰を下ろした。



 乱馬と魁は、ピクリとも動かず、じっと相手と睨み合った。
 互いに軸足を前に、大地を踏みしめ、気を高めながら、相手の出方を伺った。


(こいつ、強えっ!)
 乱馬は魁を睨み据えながら思った。
(やっぱり、どこかで男に戻らないと、タイマンでは勝負にならねえな…。スピードは俺に分があるが、力勝負となると…。この女の身体じゃあ、不利だぜ…。」
 ぐっと、懐に手をやった。
 小さなポットがそこに忍ばせてある。

『最後の最後に使うんじゃ!良いなっ!暫くは女で耐え抜くんじゃぞ!乱馬よっ!』

 そう言いながら渡した、たすき爺さんを思い浮かべる。

(どこまで、女で通用するか、わからねえが…。まだまだだ…。まだ、このままでいくしかねえ。)

 ぐっと拳を握り締めると、気を身体中へ充満させた。そう、力で敵わないなら、気技で行くしかない。彼なりに考えた作戦だっだ。

 その時だ。迷った乱馬に、一瞬の隙が出来たのだろう。
 魁はその好機を逃さず、攻撃を仕掛けてきた。

「何をぼさっとしているっ!貴様に考える余裕などない筈だっ!」

 そう言って、魁、自ら襲い掛かって来た。
「ぐっ!」
 果敢な攻撃に、思わず遅れを取る。
 慌てて、後ろに飛び退く。
 だが、道場ではなく、ここは草の上。焦ったものだから、足が、ずるっと滑った。

「うひょうっ!」
 ずるずるっと心許ない足元。

「でやあっ!」
 ここぞとばかり、魁は間髪入れずに打ち込んでくる。

「おっと!」
 乱馬は必死で右へ避けた。

 ズボッ!

 っと音がして、魁の拳が、草むらを突き抜け地面へ。

「ちぇっ!逃したか。」
 にやっと笑う魁。
 引き上げた拳の先は、地面がばっくりと抉り取られていた。
 もし、あの拳が当たっていたならば、乱馬の骨は砕けていたかもしれない。物凄い破壊力だ。

「うへえっ!あぶねえっ!」
 思わず冷や汗をかいた乱馬だ。

「今度は外さない。」
 にいっと魁は笑った。思わずその笑みにぞっと、身の毛が弥立つ。

(こいつ、相手をなぶるのがよっぽど好きらしいな…。たく、たちの悪い野郎だぜ。)
 ゴクンと飲み込む唾。

「言ったろ?僕は、女とて容赦はしないって。ふふふ、恐れをなしたかい?お嬢さん。」
 乱馬の気後れを感じたのだろう。魁はにっと笑って吐き捨てた。
「別に…。そのほうが、俺だって本気を出せるってもんだ。女だと思って甘く見てもらいたくはないんでな。」
 乱馬も負けじと言い返す。
「おまえの本気…。見せてみろっ!」
「ああ、見せてやるっ!目ん玉、見開いて良く見てろっ!猛虎高飛車っ!」

 今度は乱馬の番だった。
 そう叫ぶと、至近距離から、気弾を打ちつけた。

 バアンと炸裂音。

 バラバラと砕け飛ぶ、土石。

「へえ、気弾も打てるのか、君っ!」
 土煙の向こう側で声がした。

「避けやがったか。」
 にっと乱馬は笑った。

「ああ、そのくらの速さじゃあ、僕は捕まえられないね。でも、そのくらい、面白みがなくっちゃ…。闘っていても楽しくないさ。」



三、

 両雄、怯むことなく、相手を果敢に攻め立てる。
 今のところ、スピードも力も技も、拮抗しているように見えた。
 どちらも、なかなか奥の手は出さないようだった。

 彼らが闘い始めて、半時間は経っただろうか。
 煌々と照らし出していた太陽が、いつの間にか、その光を失い始めていた。
 まだ日暮れまでに時間はあるようだが、陽が西へ傾く連れ、灼熱の炎は収まり始めていく。夏とはいえ、太陽の動きは地球の自転に忠実だった。
 どこかで「ヒグラシ」が啼き始めた。
 キキキキキと甲高い声が、山間にこだまする。

「乱ちゃんも、魁っつう男も強いわ…。息つく暇もあらへん。」
 じっと食い入るように見入っている右京がポツンと呟いた。
「ホント、持久戦になりますかねえ。」
 つばさもじっと、体育座りして右京の傍らで見守っている。


 と、魁がにっと笑うと、乱馬目掛けて、仕掛けていった。
 何度目かの攻防。
 乱馬も心得たもので、その動きを牽制しながら対峙する。
 再び、肉弾戦。
 がっしと組み合いながら、相手へと拳や蹴りを連打していく。
 だが、体重が軽く力がひ弱な分、肉弾戦は、乱馬に不利だ。

「そろそろ、終わりにしたいな…。」
 乱馬と対峙していた魁が、そう囁いた。

「え?」

 と、その時だ。
 大地がドクンと唸ったように思えた。



「ふふふ、魁め。ようやく仕掛けよったか。」
 たすきの傍で昂が吐き付けた。
「仕掛けるじゃと?」
 たすきが、それを逃さずに聞き返した。
「ここからが、魁の本領だ。」
「ほほう…。ということは、巣食っておる鬼が出るのじゃな。」
「そうよ…。魁の中に巣食う鬼が出る…。アレが出れば、あの娘も、もう、終わりじゃ。良く闘ったがな。ふふふ。」
 不敵に笑う昂に対して、たすきは呟くように言った。
「そう、簡単には終わらんよ…。あやつは普通の娘ではないからな。」
「ほお、負け惜しみか?」
「負け惜しみなどではないわ。良く見ておれっ!昂っ!」



 大地は激しく微動し始める。

「な、何だ?」
 乱馬は、足元の異変に気付いて、思わず、魁を見上げた。
 足元の土が地面にめり込み、生えていた草が乱馬の足をつかみかかるように、伸びてくる。
「うげっ!気持ち悪いっ!」
 思わず吐き付けたほどだ。
 じわじわと伸びてくる草は、乱馬の足をその場に留め置くように、絡みつく。
 足を動かそうと足掻いたが、しっかりと固定されているように、動かない。
「ふふ、どうだ、動けまい?」
 直ぐ先で、魁がせせら笑った。
「てめえ、何のつもりだ?」
 乱馬ははっしと魁を睨み付けた。

「ふふふ…。君を虜にしてあげるのさ。」

「なっ!?」
 睨み付けた魁の左目が怪しく光り始めた。
 大きく見開かれるその瞳の輝き。
「うっ!」
 思わず眩しそうに乱馬は目をしかめた。

「駄目だよ、一度魅入ってしまったんだ。君はもう僕から目が離せない。」
 じわじわと追い詰めるように、魁は乱馬を見ながらせせら笑った。




「どうだ?あの鬼の目に魅入られれば、どんな女子も魁の思うが侭だ。あの早雲の娘のように、魁の虜になるか、それとも、醜く地面へ這いつくばされるか。どちらかに一つ。」
 昂が楽しそうに、たすきに畳み掛けた。
「鬼の目か…。左目に巣食うは「金羅邪(きんらじゃ)」じゃったかのう…。」
「くくく、そうじゃ、「金羅邪」だ。」
「そうか…。奴が出るのか。」





「くっ…。」
 乱馬は釘付けられたまま、微動だにできない。

『そら…。僕の瞳に巻かれてしまえ…。最早、手も足も動かせまい。…そうだな、あかねさんの手前、女にはあまり酷な真似もできない。そのまま、意識を失って、地へと倒れてもらおうかな。』
 乱馬の耳元へと、声が雪崩れ込んできた。
 多分、他の者には聞こえない、囁きだろう。

『この地に倒れ伏してしまえば、君も余計な怪我もせずにすむ…。君は強かったよ。恐らく、あかねさんよりも数段強いだろう…。その栄誉をたたえて、無駄な殺生はしたくはないのでね…。僕は優しいんだ…。』

 そう言いながら、金色の瞳を乱馬へと手向ける。

 乱馬はその声に、反応したのか、だらりと手を下に垂らした。
 瞳も虚ろげだ。

『良い子だ…。僕の言うことを訊いて、その地面へと倒れるが良い。』

「は…い…。」
 乱馬の口がそう象ったように見えた。

 そのまま地面へと倒れる。誰もがそう思った時だ。
「なーんちゃってっ!」
 倒れ際に乱馬はそう叫ぶと、思いっきり拳を魁へ目掛けて打ち込んだ。
「なっ!おまえ、何故、動けるっ!!」
 慌てたのは魁の方だった。
「さあな、それはてめえで考えろっ!!」

 そう言うと、乱馬は間髪おかず、右手の掌を前方へ突き出すと、魁目掛けて突進して行った。その掌には、一枚の札が張り付いていた。

「葉隠流奥義っ!追儺撃っ!覚悟しやがれっ!!」

「うわああっ!」

 バチバチッと二つの塊が激しくぶつかった。
 いや、それだけではない。確かに、魁の身体から、何かもやっとしたものが、上に向かって吹き上げた。
 黄金色に輝く邪気。

「でやあっ!」
 乱馬は持っていた札を、思いっきり、魁の身体に向かって貼り付けた。

「やめろーっ!!」
 魁が叫んだのと、黄金の邪気が札に向かって吸い寄せられるように消えたのは、殆ど同時だった。

 ハアハアと荒い息が魁から漏れる。
「き、貴様…。」
 荒んだ表情で、魁は乱馬を見た。

「へへっ!鬼を一匹、退散させてやったぜ。貴様の身体からな。」
 乱馬は光る札を目の前に持ちながら、笑った。
「貴様、その札は…。」
「葉隠氏の祓い札だそうだ。葉隠氏ってのは、元は天道家と同じく、鬼退治を請け負う一族だったらしいじゃねえか。へへ。今頃足掻いても無駄だぜ。鬼は、あの札の中だ。そらっ、親父、預かっとけっ!」
 そう言うと、乱馬は札を玄馬へと投げつけた。

「お、おう…。」
 飛んできた札を、ばっしと受け止めると、じっと眺めた。
「変わった札じゃな…。」
「どらどら…。」
 覗きこむと、シュウシュウと音を発てているのがわかる。
「妖気が札の力で抑えられているみたいな…。」
「ちょっと、おっちゃん!見てみ、あかねちゃんらが…。」
 傍らの右京が、トントンと背中を叩いた。

「あかね?…」

 右京の促した先には、あかねとなびき、そして大伯母。その三人に、如実に異変が起こっていた。
 頭を抱えて苦しんでいるのが見えたからだ。

「な…。あかね?」
 大慌ての早雲を、ぐっと玄馬が引き戻した。
「天道君、落ち着いてっ!ほら…。良く見るんだ。」
 玄馬に促されて、じっと目を凝らす。
「あれは…。」
 良く見ると、彼女たちの身体から、邪気が上に這い上がっているではないか。
 それだけではない。その気が玄馬が手にした札に向かって流れ込んでいく。

「へへへ…。思ったとおりだ。あかねたちも元に戻りやがったな。」
 乱馬はにっと笑って魁を見た。
「貴様…よくも。」
 みるみる激しい憤怒の表情に変わる魁。


 程なくして、あかねとなびき、大伯母の気がふっと浮き上がってきた。

「あれ…。あたし…。」
 あかねはキョロキョロと辺りを見回した。
 なびきも、きょとんとしている。
 我に返ったのだ。
「ちょっと、あかね、あんた…。何て格好を。」
「え?あ…何よっ!この衣装っ!お父さんっ!」

「あかね…。正気に戻ったんだね…。そうか。鬼の気が札に吸い取られて、それで、術が解けたんだ!」
「良かったね、天道君。」
「良かった。うんうん、良かった!」
 手を取り合って喜ぶ中年親父たち。


「どうだ?魁。貴様の術は解けちまったぜ。」
 乱馬はにんまりと笑った。
「貴様…。最初からそれを狙って…。何故だ?何故、術が利かなかった?何故、左目の金羅邪の投げた光に…。」
 魁は歯軋りしながら悔しがる。
「女は金羅邪の放つ光から、目を反らすことが出来ぬ筈…。」
 ぐぬぬっと乱馬を見据える瞳。
「まさか…貴様…。男?」

「へへ、今頃気付きやがったか。」

「そうか、去勢した男だったのか。」
 そう吐き出した魁の言葉に、思わず、ずるっと来た乱馬。
「でえっ!何だ、その去勢した男っつーのはっ!!」
 思わず、声を荒げた。
「文字通りだ。本当は男だったのを、玉を取って、胸にシリコンでも入れて、女変化したのだろう。このカマ野郎っ!」
「ち、違わいっ!事情があって、変身できるだけでいっ!」
「カマではないのか?」
「ぐっ!良くその目、かっぽじって見とけっ!俺は正真正銘の男だっ!」

 懐から取り出した、小さなポット。それの蓋を開くと、思い切り頭から、中身を浴びせかけた。
 みるみる変身する、その逞しい身体。

「貴様、早乙女乱馬っ!」
 魁の目が大きく見開かれていった。

「ああ、俺だ。葉隠魁。」

「今までの女は貴様だったのか。ぐぬ…。貴様が変化していたのか…。」

「信じられねえかもしれねえが、俺は、とある呪いのせいで、男と女が入れ替わる体質になっちまってるんでな…。でも、正真正銘の男だぜ。俺は。」

「そうか…。それで、僕の術が作用しなかったと…。」

「そういうことだ。魁、待たせたな…。あかねも正気に戻せたしな。これで存分にてめえと勝負できる。」

「ふふふ、からくりがわかった以上、これ以上、君の好きにはさせない。早乙女乱馬よ。」

「ああ、ここからが真剣勝負だ。葉隠魁っ!」

 鋭い気が二人の身体をたぎっていく。
 見守る人々は、固唾を飲みながら、勝敗の行く末を案じた。



つづく




一之瀬的戯言
 クライマックス突入。ついに、両雄が対峙です。
 私としては、やっと「男乱馬」を書けるのでわくわく。
 ここまで押さえ込んでたのが、一気に出るかな。やっぱり乱馬は男が一番です。
 まだ銀羅邪が右目に居ますからねえ…。予断や許しませんぜ、乱馬君よ。
 あと一波乱、二波乱、仕掛けるつもりです。残したまんまの伏線もありますし…。
 最後までお付き合いをば!


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