ぼやき
私にしては珍しく乗り切らない状態で、途中数日間ほったらかした作文でした。
書いていた時期が激忙だったことにも関係しているのかもしれませんが、これほどまでに煮え切らない作品というのも珍しいです。ダメだと思ったらそのまま置いてしまって何日も(何ヶ月も、何年も)ほったらかしてしまうのが私のパターンなのですが・・・。でも、心のどこかに仕上げたいと思っていたので、煮えきらぬままに我慢してキーを叩き続けました。
最初の三話まではそれでもすらすらと書けたのです。ところが、四話に入ったあたりから、創作が別の方向へと流れ始めました。
そう、乱馬が何を思い、どうしたいのか、見えなくなり始めたのです。
以前にもどこかで書きましたが、私の場合、登場人物の中に感情ごと入り込んでかいている場合が殆どなのです。そのままシンクロして夢中でキーを叩いていることもあるのですが、この作品に関しては、最初から醒めていました。気持ちがどうやっても入っていかないのです。
どこか突き放したような文章なのはそのせいです。
人称作文(誰かの視点に立って人称で作文する)をすると、気持ちごと入りこめることが多いです。人称作文をやったことがある方はわかると思いますが、人称作文は気持ちごと憑依しやすいものです。この手法だと、その人の目で見、頭で考えているような錯覚(妄想)にとらわれることも少なくなく、比較的思うように話も進められます。
書きなれてくると、そういう意味では、人称書きの方が登場人物の性格を捕えやすいですし、感情移入もやりやすいのです。
「まほろば」が止まって久しいですが、プロットが壊れたファイルにあって取り出せないこと以上に、人称作文の壁に突き当たってしまったのが停滞の一番の原因です。乱馬視点で描き出したはいいものの、それではあかねの描写が一切描けず。どうしたものだかと持て余してしまったことにも起因しています。
今の私の稚拙な文章力では、あかねの視点なしで「まほろば」を描ききるには明らかに力不足です。
人称書きに慣れすぎてしまったため、以後はできるだけ視点物は書かないように心がけています。そう、極力、人称作文をやらない方向で、乱あ作品を練って仕込んでいます。
私の場合、気持ちごとシンクロしてしまうタイプの物書きなので、本当は人称作文のほうが性分に合っているのですが、これを長くやると、客観的な文章が書けなくなりそうなことに、気がついたからです。
そのこととも相まって、「絆」は視点作文を取り入れませんでした。
そのせいでかなり苦しんだことも確かです。視点を入れれば、話は端的に流れはしたでしょう。堰き止めるように、ぷっつりと止まったのは最終章。
書き進めれば進めるほどだんだん乱馬の意図がわかんなくなって混乱してきたのです。いつもははっきりと捕えられる乱馬が見えなくなってゆくのです。
私の描き出す乱馬は天上天下唯我独尊で、己の視点を心の奥底ではしっかり持ち、それによって突き進む獰猛勇敢な性質を持っていりことが大半です。(あまり原作では露見しなかった描写です。)
それが、煮え切らない。だんだん情けない乱馬へと変化してゆくのです。遂には物語の終焉が見えなくなりました。元の鞘に収めるのが最初のコンスタンスだった筈なのに。このままではダークエンド(キッパリと決別してしまうラスト)へまっしぐら。
もう、こうなると私の手には負えず、投げ出すしかないかと一度は書き進めるのを諦めかけました。
どうやって打開したか。
こういう場合、客観視してくれる人に縋るのが一番です。
創作に於いては、一番身近に居る、相棒、半官半民さんに「講評してやってくれませんか?」と泣きつきました。
半さんの貴重な講評を受けることができ、実は活路を見い出した作品でもあります。
「ひとつの境地を書く意味でええかと思うっす。心理段階に10あるとして、5までをまっとうし到達した人物像書くつうのも創作だと思うっす。同様に10を充実感と捉えても、5までをもって完成度とするもありかと。」(半さんの講評から)
この半さんの一言で吹っ切れました。
その後は乱馬の行動が具体化して、やっと書き終えることができたという具合です。
尚、あかねが家にこだわったところに、私自身の家の問題が如実に現われています。私も旦那も一人っ子という性を持っているので・・・。
隠しページから始まった呪泉洞も表に浮上して二年と少し。「らんま一期一会」から切り離して二年。
石の上にも三年という言葉がありますが、来年はどんな作品をえがいているのでしょう。
これからもどうか宜しくお願いいたします。
2002年11月18日 一之瀬けいこ
今でこそ、多種多様ならんま二次創作作品が、ネット上に掲載されていますが、「呪泉洞」を開設した当初は、根暗作品を扱うサイトは皆無に近い状況でした。いや、文章系二次創作そのものが、珍しかったと言っても過言ではありません。
二十世紀から二十一世紀へ移った頃、「乱×あ」で、こういう、好き勝手作文やってる書き手は、私くらいじゃなかったかろうかと…。
なので、「こんなん書いて良いんやろか?」…と本気で考え込むことがありました。
この作品、今書くと、多分、もっと、根暗で濃厚な作品になると思います…。掘り下げ方が稚拙なので、書きなおしたい衝動にかられることがあります。
私は時に、根暗な作品を我武者羅に叩きたくなります。
感情の起伏が平坦なようで、実は激しいという性格を反映しているのかもしれません。
乱馬とあかねがラブラブでむふふふ状態の作品が大好きなくせに、ふっと、反対方向へ引っ張ってみたくなるのです。
根は乱あマニアでありますから、結論は乱あから離れることはありませんが、それぞれの意地っ張りな部分へ深く入り込んで作品を書きたくなるのです。
根暗作品を仕込む時は、はたと手が止まることが多いです。両人の感情が見えなくなってしまったり…あんたら、どないしたいん?と自分で突っ込んでしまったりとか…不可解な迷路に入りこんでしまって、書こうにも書けなくなる…という情けない状況に陥ること数回。
同じ根暗根っこから創作したのが「KIZUNA」と「蜜月浪漫」…そして、「スローラブ」。
この三作品は、かなり、屈折した書き方をしております。そして、いずれも超難産でした。
実は、もう一作、同じ根っこの根暗プロットがあるのですが、形にはしておりません。これも、このまま書き綴るとあかねちゃんが物凄く気の毒に悩むことになりそうで…手つかずのまま止まっているのが一本あります。
あかねちゃんばかりを悩ませている傾向が強いので、乱馬君を悩ませる作品も、いずれは書きたいと思っていますが、乱馬至上主義の私には、それはそれで、結構難しいのであります。
人間歳を取ってくると、考え方もねちっこくなるのでしょうか?
2011年11月18日 一之瀬けいこ