◇絆(KIZUNA)


第五話 Eternal


『あかね…。』

 誰かに呼ばれたような気がする。
 上の方から遥かに己を呼ぶ声が響く。

『あかね…。』

 ずっと前から知っている暖かく柔らかな女性の声色。
 薄らぼんやりとした意識の向こう側に浮かぶのは優しい笑顔。

『あかね、負けたわね。』
 笑いながら女性は言った。

(お母さんっ!!)

 思わず目を見張った。
 目の前に佇む白っぽい女性は、仏壇からいつも微笑みかけている見慣れた懐かしい笑顔。

(もしかして、あたしは死んだの?)

 乱馬の激しい気を真っ向から浴びたのだ。無事で居られる方が不思議というものだろう。
 母は己を迎えに来てくれたのだろうか。それとも…。
「お母さん…。」
 不可思議に思いながらも、言葉を継ぎ、差し伸べようと大きく両手を見開いた。

 だが、母はそれを制するように、黙って指を横へと示した。彼女の白い指先は、まるであかねの向かうべき指針を促すように真っ直ぐと横へ伸びている。
 寂しげに母は言葉を継いだ。
『行きなさい…。あかね。あなたが居るべき場所(ところ)は、此処ではない。勇気を出して前へ進みなさい。現実がどんなに苦しく、過酷だろうと、逃げてはいけないわ。』
 強く張りのある透き通った声がそう告げた。

「あたしが居るべき場所…。」

 こくんと頷く母は、もう、それ以上言葉は継がなかった。
 あかねは反芻するともうそこには母の気配も消えうせていた。
 夢か幻か。
 そう思ったときに、暖かい気の流れを感じ取っていた。

 トクン…。と波打つ心の蔵。
 母の胎動にも似た、柔らかな響き。誰かが傍に居る安らぎを肌で感じ取っていた。

「誰…?」

 意識がふうっと浮き上がる。

 白んだ蛍光灯の光が目に眩しく飛び込んできた。薄ら汚れた天井。鼻につく薬品の匂い。
(病室?)
「やあ、目覚めたかい?」
 聞き覚えの或る声が傍でした。
「東風先生。」
 あかねが身体を起こそうとしたとき、東風に腕をがっと拒まれた。
 ベッドに横たわっている自分がそこに居た。東風はさっとあかねの前に来ると、軽く腕や身体を触診した。
「大丈夫、ちょっと脳貧血を起こしただけのようだね。特に主だった外傷は見受けられない。骨や筋肉の挫傷もないようだし…。」
 目の前の東風はそう笑うと、あかねにウインクして見せた。
「もう全て終わったよ…。表彰式もね。」

(そうか、終わったんだ。全て…。)

 観衆のどよめきも、勝負の汗も熱い闘いも、遠い過去へと押し遣られた。今あるのは静寂な空間のみ。

「相当激しくやりあったんだね。気を失うほどに。表彰式へ出られなくて残念だったね。ここへ運び込まれてきた時は驚いたけどね…。大丈夫。脳波も骨も筋肉も異常は見受けられなかった。」
 東風は目を細めながら続けた。
 きっと最後の瞬間に、乱馬が技から殺気を抜いたのだろう。彼ならやりかねないことだ。そう悟った。
「後はゆっくりと体を休めればいい。一晩ここで休めば回復するさ。君は良く闘ったよ。あかねちゃん。」
 昔から変わらぬ優しさ。事あるごとに怪我をするごとに此処へ来ていた。多分、己の初恋。実らなかった淡い恋の記憶。ぼんやりと頼りなげな蛍光灯、木造の廊下のワックスのくすんだ匂い、そして金ベッドの軋む音。全てが懐かしい。
「ありがとうございます。東風先生。」
 あかねは言葉少なげに礼を言った。
「後は宜しくね…。乱馬くん。」
 東風は何かを察してくれたのか、ただそれだけを告げると、ふっとドアを開いて部屋から出て行ってしまった。

(乱馬…。)
 
 その名を聞いてあかねの顔が少し強張った。
 確かに探るともう一対の穏やかな瞳が、部屋の隅からこちらを見詰めている。さっき、夢の中で感じたのは、東風のものではなく、この柔らかい気だったのだろうか。
 全身に緊張が走る。身体が固くなる。ただ、じっと天井を見据えたまま、彼の居る方向へ向き直ろうとはしなかった。いや、視線を移すことができなかったのである。
 
 目を合わせるのも怖く、蒲団の中でじっと身じろぎせずに臥せっている。居た堪れなくなって瞼を閉じると、微かに聴こえてくる、己の鼓動。どう言葉を切り出せばいいか困った。きっと彼も困っているのだろう。

「もういいわ…。ずっと傍に居てくれてありがとう。あたしは一人でも平気だから帰ってちょうだい。」
 長い沈黙の末、明後日の方向を向いて、やっと、それだけを言葉にした。
 何年も前に別れたままの彼に、どんなふうに切り出せば良いものか。迷った末の言葉。
「ダメだ…。」
 無味乾燥に言葉が返される。
 懐かしい声色。少しだけ低くなったテナートーンの柔らかな声。
 あかねは焦った。このまま、乱馬がここに居座れば、己の感情がどう流れるか、まるで見等もつかなかったからである。
 また無言の空間が暫くそこにあった。
「どうして、ダメなの…?」
 恐る恐る尋ねてみる。
「俺がそうしたいからだ。」
 はっきりとした声が返ってくる。
「おめえは俺の闘気を浴びたんだ。真正面から。だから、おめえを一人残しておけるわけねーだろ。…それに確認しておきてえこともあるし…。」
 語尾は小さくて聞き取れなかった。
「何よそれ…。」
 むすっとした表情であかねは食って掛かった。彼の物言いが癇に障ったのであろう。
「背負わないでよ!あれくらいの気でやられるほど私は柔じゃないわっ!」
「嘘付けっ!」
 何時の間にか激しい応酬になる。
「平気よっ!これくらい。」
 流れを断つために、ベッドから立ち上がろうとした。だが次の瞬間、クラッときた。見事に身体が前へとつんのめる。足に力が入らなかった。

「バカッ!急に歩いたら転倒しちまうだろうがっ!!」

 一際大きな声が響いて、がっしりとあかねを支える。
 時が止まった。
 不思議な感触だった。とっくの昔に忘れてしまた彼の匂いが吸い込む空気と一緒に流れ込んでくる。汗の匂い。懐かしい乱馬の匂い。

 動揺を胸の奥に隠すようにさっと言葉を継ぐ。
「大丈夫よ…。」
 声は小さく震えていた。
 だが、返事の代わりに彼は、支えた腕に力を入れたのがわかった。
「たく…。言っただろ?俺の気砲をまともに浴びちまったんだから、直ぐには回復しねえ。」
「何よ、あれくらい。」
「いい加減にしろっ!強がるなよ。このじゃじゃ馬。」
「いちいち勘に障るわねっ!久々に会って、その言い草?あんた、あたしに喧嘩売ってるの?」
「うるせー、口の悪いのは生まれつきでいっ!おめえだってそれくらい知ってるだろうがっ!」

 あかねは乱馬の剣幕に、思わずぷっと吹き出した。
 久々の言葉の応酬。もう、何年も交わしていない喧嘩腰の会話。
 何故か懐かしくなって、胸が詰まった。笑みを浮かべながらも、涙が零れ落ちそうになる。それを必死で堪えた。

「髪、伸びちまったな…。」

 ふっと矛先を緩めるように言葉が上から漏れてきた。
 そう、彼が天道家を出て以来、ずっと伸ばして来た髪だ。さらさらと抱えた腕に枝垂れかかる長い髪へ顔を埋めながら乱馬は言った。
「あんただって、おさげじゃないわ…。」
 顔を伏せたままであかねは答えた。相変らず長髪ではあったが、おさげではなく、後ろに一まとめにして垂れさせていた乱馬。
 流れた時の無常を感じさせる。

「ありがとう。もういいわ。血もだいぶん体内に巡ってきたわ。多分、今度は一人で立てるわ。」
 ふと寂しげに言葉を解き放つ。
 また離れ離れになる元許婚に精一杯の笑顔を向けようとする。

「無理するなよ。」

「無理なんかしてない!」

 直ぐ傍にある彼の顔。心臓が張り裂けんばかりにドキドキしていた。
 このまま縋ってしまいたい、そんな、情けないほどの気弱な己が心に芽生えている。それを薙ぎ払うように言った。精一杯強がらなければ、このまま己を保つことはできないだろう。
「乱馬。あんたの帰りを待ってる人が居るんでしょ?今日の勝利を一緒に分かち合える人が…。だから。」
 ピクンと動く肩に、あかねは現実を思い知らされる。そうだ、姉から聞かされていた。乱馬には結婚を誓った相手が居ることを。
「だったら、何だ?」
 激しい口調で訊き返してきた乱馬。
「あかねにだって居るんだろ?結婚を決めた相手が。」
「そ、そうよ…。無差別格闘流を極めるために、ずっと何年も放り出されてあんたは帰って来なかったわ。そして、あんたはあたしに勝った。だから、無差別格闘流の本流もそれから「奥義伝書」も持ってさっさと何処かへ行けばいいじゃない!!お父さんたちから貰ったんでしょ?あたしなんかに気を回さないでっ!」
 一気に繰り出された言葉。
 そして、言い切ると共に、気持ちとは裏腹に流れ出す涙。
 つくづく可愛くない女だと思う。素直な言葉が何故出ないのだろう。そして、忍び泣いた。声も発てずに。

 無差別格闘流。この一流派を守るため、どれだけの犠牲を今まで払ってきたというのか。
 男の子に負けないと一心で鍛錬した子供時代。いきなり引き合わされ押し付けられた許婚。そして、「奥義伝書」を巡る裂罅(れっか)の果て潰えた恋。
 
「可愛くねえな…。」

 一瞬和んだ彼の口から、つっと聞き慣れた悪態が吐き出された。

「そうよ、あたしは可愛くなんかないわよ!それはあんたが一番知ってることじゃないの。」

 荒々しく吐き出される言の葉。

「おめえは何も変わっちゃいねえな…。その強がりも、危なっかしい脆さも…。何で素直な言葉が告げられねえ。…。いや、その天邪鬼は俺も同じかもしれねえな。だから袂を分った。互いの無差別格闘流を追及するために、な。そうだろ?」

 そうだ。
 素直な心が欠落していた、十代の己たち。
 互いに牽制し強がることしかしてこなかった。感情を叩きつけてそして闘争心へと変えた幼き日々。

「わかったこと言わないでよっ!「奥義伝書」はあんたが継げばいい。あたしはあんたに負けたんだから。潔く身を引くわ。」

 止めの一言のつもりだった。
 どう足掻いても、乱馬とは同じレールの上には乗って走ることはない。意地になって守ろうとした道場も無差別格闘流も、全ては潰えた夢とともに消えてゆく。そう決め付けていた。
 この期に及んで己は彼から何を望めるというのだろうか。
 悔し涙なのか、それとも愛惜の念なのか、ボロボロと溢れ出す涙は留まることを知らなかった。それでも見られたくない一心で顔は彼から背ける。丸見えなのに…だ。

 ふっとなずむような溜息が上から漏れてきた。
 下りて来る太い腕。すっぽりと包まれる。彼から発せられる気の流れが変わった。
 逃れようとして力を入れてみたが、彼の力には敵わなかった。気力は武道大会の勝負で使い果たしていた。
 動けずに、乱馬の力に翻弄される。それでも足掻こうと力を入れた。
「俺の負けだ。」
 と、ポツンと聴こえた。確かにそう聴こえた。

「乱馬…。」
 無理矢理に近く抱きとめられた腕であかねは、怪訝そうにふと顔を上げた。
「先に惚れた方が負けだ…この勝負はな…。やっとわかった。五年近く回り道しちまったけどな。俺はおまえに惚れてる。多分、出会ったときから。心底な…。これは正直な心だ。それに…。」
「何よそれ…。」
 あかねが言葉を挟んだのを乱馬は制した。
「いいから聞け。」
 言葉を区切り、穏やかに息を吸い込んで吐き出すように続けた。
「俺たちの力は互いが共にあって、初めて洗練されてゆく。それがおまえと俺の絆だよ。あの闘いの中で、それが見えた。はっきりとな。」
「絆?」
「ああ、そうだ、誰にも切り離せねえ、強い絆が俺とおまえの間には繋がってるんだ。おまえだってまだ俺のこが好きだろ?違うか?」
「あたしがあんたのこと好きだなんて…。そんなこと一度だって言ったこと…。」
「今まで口にしたことがないだけだ…。おまえも俺に惚れてる。それを確認しにきた。」
「勝手にそんなこと…。」
 あかねはおたおたしながら返事をした。乱馬の眼光は鋭く己を射すように見詰めている。誤魔化しはなしだと云わんばかりに、ギラギラと輝いて見えた。
「この期に及んで嘘は言うなよ。」
「ちょっと。何を根拠に…。」
「わかるさ…。おまえ、最後に沈む時、敢えて受け身を取らなかっただろ…。俺に真正面から打ち砕かれた。まるで俺のこの手で息の根を止めてくれと云わんばかりにな。」
「あの時は…無我夢中で。」
「それはどうかな。おめえは心のどっかにまだ捨てきれねえ俺への想いがある筈だ。だからあの時、敢えて俺の渾身の攻撃を避けなかった。違うか?」

 火が出るように真っ赤になるあかね。 
 面と向かって言われて動揺を隠せない。彼の言うとおりだったからだ。
 彼の気を全身全霊で受け、そして果てたいと思った。それは武道家としての想いだけではなく、せめて沈むなら、愛した彼のその手でこの恋の幕を引いて欲しいと思ったからだ。
 全てを見透かされている。

「ほら…。思ったとおりだ。」
 乱馬は軽く微笑んだ。
「俺だって手は抜かなかった。それがおまえに対する愛情だと思ったからな。手加減はしなかった。流石に殺意だけは取り除いてはいたが…。そっか、やっぱり、想いは一つだったわけだ…。」
 真っ赤に熟れたあかねを嬉しそうに抱き締める。
 ドクンドクンと聴こえる心音。乞い求めてきた安らぎの鼓動。

「あかね、俺と来い!」
 鼓動は止まり、声が真っ直ぐに響く。
「え…?来いって…。」
 ドキッとした表情を浮かべるとあかねは乱馬を見返した。
「ちょっと待ってよ。あたしには婚約者が…。」
「そんな奴、ほっときゃいい!俺に惚れてるんだろ?」
 相変らず無茶を言う。
「婚約なんか破棄しちまえよ。俺だってそうしてきた。望まぬ婚姻を結ぶなんて、おめえらしくねーぞ。」
「あんた、自分の言ってることわかってるの?」
「わかってるさ。」
「一緒に来いって簡単に言ってくれるけど、具体的にはどうするのよ!住む場所は?」
「そんなのは後から探せばいい。武道大会の賞金でなんとかなるさ。そして目指すのは世界大会だ。おめえだってエントリーされてる。一緒に行くんだぜ。強い奴と闘いにな。」
 心底嬉しそうな乱馬が居た。
「勝手に決めちゃって…。でも、「奥義伝書」はどうするのよ…。早乙女流はどうするのよ。天道流は?道場は?」
「無差別格闘流早乙女流なんざクソ食らえだ。天道流も然り。そんな流派の肩書きなんていらねえ。勿論、「奥義伝書」や道場だってな…。」
「乱馬…。あんた。」
「流派や奥義なんかに縛られる、そんなのは本当の強さじゃねえ…。奥義は俺たちの中に萌芽するもんなんだよ。書で伝えてゆくものなんか、そんなのは奥義なんかじゃねえ。奥義は俺とおまえの中にある。それを育てて形に変えるのは俺たち自身なんだ。違うか?」
 覗きこんだ彼の瞳には、無限の輝きが煌いている。
「だから、あかね、俺と来いっ!いや、連れていく。そう決めた。」
「乱馬…。」
 彼の腕の中で喘いだ。息苦しくなるほど、強く抱き締められたからだ。
 この強引さは相変らずだ。不器用な言葉の羅列。

 でも、その言葉をずっと、その強引さをずっと、己は待っていたのかもしれない。
 己が回帰できる場所、それは、乱馬の腕の中。

「いいわ、付き合ってあげる。地獄の底までね…。あんたの生き様と強さをこの目で確かめてあげるわ。そして、その生き様を真新しい奥義伝書に綴りましょう…。あんたとあたしとの奥義伝書にね。」
 あかねは最上級の微笑を乱馬に向けた。
「俺は字が下手だぜ…。」

 ふっと言葉が途切れた。
 睦びあう者同士の影が、柔らかに浮かんで、病室の灯りと共に消えた。
 永久の想いと熱い吐息を暁露(あかときつゆ)に塗りこめながら。








「なあ、早乙女君、これでよかったのかな…。」
 早雲はふうっと長い溜息を吐きながらそう問いかけた。
 目の前には奥伝書が無造作に置かれている。
「ああ、よかったんだろうよ、天道君。「奥義伝書」なんて、我等の流れの中には必要なかったのだろうよ。」
「そうだね…。若い二人で新しい流派を組み立てていければ、それで良しと…。」
「おうさ…。望んだ形とは幾分違ったが、我々の流儀は一つになる…。」
「そうだね…。早乙女君。祝言ができなかったのが心残りではあるが…。」
「祝言なんて、所詮、親の欲目だけなのかもしれんぞ。」
 玄馬は言葉を継いだ。
「にしても、乱馬くんもやるな…。」
「倒れ込んだあかねくんにキッスか。これじゃあ、愛情を日本国中に知らしめたようなもんだよ。あの馬鹿息子め。」
 二人は目を細めて、折り込まれたスポーツ新聞の記事に目を落とす。そこには決勝戦で乱馬の勝利が決まった瞬間、あかねの唇へ己のを当てる乱馬の雄々しき姿が映し出され、この予期せぬ出来事を賞賛した見出しが躍っていた。
「今頃、あの二人はどうしているだろうかね。」
 空を仰ぎながら早雲はふっと吐き出すように言った。
「この広い空の下で、強くなることに必死になっているだろうよ。」
「互いの技を磨きながら、か。二人とも雄々しき武道家だ。それに…。孫の顔を拝める時が、案外早く来るかもしれないな…。」
「そうなれば我々は、揃っておじいちゃんだ!わっはっは。」


 笑い声は、遠く高らかに渡ってゆく。
 古びた天道家の縁側の上には、真っ直ぐに続く紺碧の清んだ空。
 







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