◇絆(KIZUNA)


第四話 NO SIDE


 二つの闘いは終わった。
 準決勝の勝者が決まった。

 Aブロック。勝者は早乙女乱馬。
 互いの腕力は拮抗していたようだが、豊富な経験と修羅場の数に圧倒的な差があった。武道場の闘いよりも実践的で闘い慣れていた乱馬の方が、祐三を圧倒したのである。
 渾身から気技の連打を浴びせ掛けた乱馬は、難なく勝者として名を呼ばれていた。
 完敗だと祐三は頭を垂れた。
 あかねの許婚だったこの男。己より三歳ほど若輩にも関わらず、その強さは半端ではなかった。
(ごめん…。あかね。約束は果たせなかった。)
 敗者はゆっくりと武道場から降りた。

 一方Bブロック。
 こちらの勝者は天道あかね。
 飛び道具を豪快に使った右京に、最初は利があったのであるが、あかねは良く耐えた。唸るコテの攻撃を紙一重で交わしつつ、隙を伺ってその武器を弾き飛ばすことに成功したのだ。
 それからのあかねの動きは、鋭かった。元々武器など使わない、肉体総武器のような力技の天道流。コテが消滅した右京の相手ではなかった。
「やっぱりうちは、お好み焼き一筋に生きるわ。武道は似合わん。」
 右京は悪びれる事無く、あっさりと負けを認めた。本心は悔しさで煮えくり返っていただろうに。
 だが、彼女もまた引き際は美しかった。
「うちが言うのも差し出がましいかもしれへんけど…。乱ちゃんに想いの有りっ丈をぶつけて、それで闘ってすっきりしておいでえや、あかねちゃん。」
 勝者であるあかねへの精一杯の餞(はなむけ)であった。

 舞台を降りながら、あかねは右京の言葉を胸に噛み締めていた。
 想いの有りっ丈を乱馬にぶつけてきたことが、かつてあったろうか。いつもあやふやに通り過ぎていただけのような気がした。ぶつけていたのは「勝気」さだけで、秘めていた想いを顕(あらわ)にしたことなど、恐らくなかっただろう。
(案外、あたしって、諦めが悪い性質(たち)なのかもしれないわね…。)
 溜息と共に音にならない言葉を吐き出した。

 予想していた通り、Aブロックの勝者は乱馬であった。
「あかね…。最後の相手は、乱馬君だ。」
 応援に駆けつけていた早雲の口からそう聴かされた。
「そう…。乱馬なの。」
 己に気合を入れるように、あかねはその事実を受け入れた。不思議と心は乱れなかった。
 乱馬とまた闘える。恐らくこれが最後になるだろう…。
 突きつけられた現実を噛み締めながら、静かなる闘志を燃やしていった。


「乱馬君!最後の相手は女性だよ。これで勝ったも同然だ。」
 おやっさんは乱馬を見て微笑んだ。
「君が勝ったら祝言だ。」
 ともう先走っている。
「相手は…。あかねか。」
 電光掲示板に映し出される文字を読みながら、乱馬はじっとそれに見入っていた。
『天道あかね』。懐かしい響き。かつて、本気で愛した女性。多分、今も。
 そして、彼女と遣り合って勝利した方に無差別格闘流の奥伝書が渡る。そう、正当な無差別格闘流の後継者となるのである。

「乱馬…。頑張って。勝って…。」
 志乃は静かに乱馬を見詰めていた。
「そして…。私の所に戻ってきて。」
 最後に頼りなげにそう告げた。これが精一杯であった。闘えない女には。
 乱馬はそれには答えなかった。いや、もう、耳に入っていなかったのかもしれない。目に入るのは倒さなければならない相手。敵としてのあかねだけ。

 望んでいたのは共に強くなることではなかったのか。決して闘うことではない。全身全霊を賭けて守りたい人。それがあかねであったのではないか。
 だが…しかし。

「久しぶりね。」

 落ち着き払った声が聞こえた。

「ああ、そうだな。」

 静かに答えた。

「また、あんたと遣り合えて、嬉しいわ。」

 透き通るような声。目の間の前に居るのは記憶の中の少女ではなかった。背が伸びて、少し落ち着いた女性だった。
 凛とした言の葉の中に秘められた闘志が乱馬をぐいぐいと圧倒してくる。
 短かった髪は、後ろに伸びて一つに束ねられている。
 
「そうか、嬉しいか…。」

 あかねの気を全身で受けながら、乱馬もまた、静寂に答えた。
 張り詰められてゆく闘気。
 乱馬にもまた、おさげはない。
(こいつ、強くなった!)
 彼の心の目にあかねの姿が一際大きく映った。
 
「俺は、手は抜かねえぜ…。」
 自然に言葉が吐(つ)いて出る。強い者と対峙できる喜びに、乱馬は戦慄(わなな)いた。
「望むところよっ!」
 それに答えるあかねの声も気迫に満ちている。

 武道家同士の激しい気と気が、ぶつかり合った。目に見えない気の渦は、互いの熱を帯びた興奮を押し出すようにメラメラと燃え上がる。

「はじめっ!」

 審判の声が遠くで響いた。

 次の瞬間、揺れる身体と身体。がっと取っ組み合い、そして弾け飛ぶ。まともに組み合ったら身体が小さい分、不利だ。あかねは良く知っていた。だから、するりと乱馬の下を抜け出して、丹田に力を込めた。
「おっと!」
 彼女の攻撃を瞬時に悟った乱馬は、後方へ飛ぶ。
 乱馬のそんな動きは全て計算ずくなのだろう。
「やあっ!」
 彼の着地を狙ってあかねの気砲が空を駆け抜けた。
「はあっ!!」
 乱馬は軽く握り拳を作って、打ち込まれてきた気を、薙ぎ払う。
 ドンっと二人の目前で気が弾けた。
 バラバラと音をたてて、周りの壁が崩れ始める。気の震動で脆い部分が剥がれ落ちてきた。
 スピード、力、技、どれを取っても互いに気後れしない。
 気迫を叩きつけて乱馬が言った。
「やるじゃねえかっ!」
 自然と笑みが漏れる。
「あたしだって、無駄に時間を費やしていたわけじゃないわっ!」
「なら、これを避けられるか?」
 差し出された右手から、連続して気弾が飛んだ。
「はっ!ほっ!やっ!とおっ!」 
 目の前で弾ける気を避けながらあかねが動く。体操選手の床運動のように軽やかな動きだった。
 乱馬が最後に飛ばした気は赤い炎を浴びていた。真っ直ぐに向かってくる。
「やあーっ!」
 あかねは最後は避けずに、己の気を正面から組んだ両手で放出させた。
 バンッ!!ドンッ!!
 赤い気が真ん中で弾けて誘爆した。
 天井の照明がゆらゆらと揺らめく。ブルブルと伝わる振動。

 互いの技の軌道を予想して、流れるように動く二人。まるで予め用意された台本でもあるように、打っては避けるの連続であった。
(やっぱり、こいつ、強くなった。)
 今まで対峙してきたどの相手よりも、あかねは生き生きと動いてくれる。綺麗に避け、そして時々牙を剥く。いつしか我を忘れるように、乱馬は闘いを楽しみ始めていた。

「あかね、おまえこの数年で段違いに強くなったな…。だが、俺の方が一歩上だ。」
「それはどうかしらね。あんたを超えたかもしれないわよ。」
 負けずに言い返す。
「俺の動きについて来られるか?」
「楽勝よっ!!」
「なら、試してやらあっ!」
 激しい気弾が降り注がれる。あかねはそれを紙一重でかわしてゆく。素晴らしい動き。体重が軽い分、あかねの技は美しく栄えた。強い者の動きは乱れない。
 だんだんと白熱してゆく心を持て余しながら、乱馬は攻める。勿論、あかねは隙を伺っては、すかさず反撃をしてくる。
 乱馬が撃てばあかねが避ける。あかねが撃てば乱馬が受ける。どちらも譲らない。
 激しく気砲が飛びかい、そして弾ける。
 気の往来と息も吐かせない攻防に、人々は我を忘れた。場内を埋め尽くした観客たちは、声も出すことを忘れて、二人の技に魅入っていた。
 いや、誰よりも夢中になったのは乱馬だったかもしれない。
 ワクワクした。
 目の前に居るのは、よく知っている泣き虫の少女ではない。気高く美しい闘気を燃やす、一人の女武道家、天道あかねだ。
 彼女の全身全霊から迸る闘気は、彼の本能に揺さぶりをかけた。己の中の獣の血が熱く萌え出す。
 あかねは魅惑的で健気だった。その一本気は昔と何ら変わっていない。彼女は己を敵と見なし、全ての気を集中させて攻め上げてくる。その姿が、乱馬を否が応でも昂揚へと押し上げていく。
 己に向けられる彼女の一挙手一投足全てが愛しくなる。不思議な感覚だった。
 今なら彼女の全てを受け入れ、そして、包み込むことができるのではないか。そうさえも思えた。
 敵として対峙する彼女が堪らなく愛しくなり始めていた。とうの昔に沈めてしまった、彼女への独占欲に再び火が点いたように思えた。

 対するあかねは、必死だった。少しでも気を抜くと、乱馬はすかさず激しく揺さぶりをかけてくる。その狡猾さは流石だと思った。
 準決勝まで相手にして来た奴らとは圧倒的にレベルが違う。多分、婚約者の祐三も、あっという間に彼に沈められたに違いあるまい。いや、今の実力は、祐三よりも己の方が上に居るのかもしれない。
 正直、祐三とはこれまでまともに打ち合ったことはなかった。道場で軽く手合わせすることはあったが、本気で遣りあった事はなかった。その必要性を感じられなかったからだ。彼の前では「武道家天道あかね」は形を潜めていた。何故かはわからない。祐三もとりたてて彼女の相手をしようと強くは望まなかった。彼自身もあかね自身も、武道家カップルでありながら、一番肝心なとことは避けて通ってきたのかもしれない。
 だから、こんなに闘うことで昂揚したのは、久しぶりだった。
 乱馬はあかねの強さを難なく引き出してくる。この熱い情熱。ずっと忘れたままいた。
 祐三が弱いという訳ではなだろうが、乱馬とは根本が違っていた。喩えるなら祐三はサラブレッドの強さ。対する乱馬は野性の、そう、飛竜の強さである。
 彼の勢いに飲まれそうになるのを堪えながら、打ち続ける。
 案の定、息が上がり始めた。
 己に不利な部分があるとすれば、それは、基礎体力の違い。哀しいかな男と女。
(でも、負けない。負けたくはない。)
 そう念じながら、必死で彼についてゆこうとする。動きが止まればそこで勝負は終わってしまう。 
 己は今、彼と共にある。全身全霊を傾けて直向に向かい合っている。この勝負という愛の語らいを、永劫に続けたいと、願い始めていた。
(少しでも長く彼と同じ時を過ごしたい。)
 無意識にそう希(こいねが)い始めていた。
 闘いが終われば、また、引き裂かれる。いや、互いに選んだ別の道へと進み始める。永遠に天道流と早乙女流は相和合することはないだろう。彼の血は別の女性を介して受け継がれてゆく。そして、己もまた…。
 彼を少しでもここへ、己の元へ留めるためには、闘い続けるしかなかった。
 求めているものは勝ちや負けではなかったのかもしれない。

 そう、最早、奥義伝書や勝敗などどうでも良かった。在るのは闘い続けたいという願望のみ。
 想いは全て浄化されてゆく。戦うことだけを運命付けられた二つの熱い魂だけが其処に在る。



 どのくらい闘いの時が流れたのであろうか。かなりの長さだったように思う。懸命に彼を追い、懸命に駆け、そして撃ち続ける。流れる汗も激しく上がり始めた息も、全てが愛しいと思える稀有の時間。永劫に続くと思われた空間。

 だが、体力は正直だった。

 あかねの動きが止まった。
 「限界」という言葉が脳裏を掠めた。
 足が縺れ込む。

 その一瞬の隙を、乱馬は逃がさなかった。
 あかねとの激しい攻防戦の間に、丹田へと溜め込んだ全身の闘気。それを、一気に放出させたのだった。
 乱馬の周りを包んでいた、闘気の渦が、激しい爆裂音と共に一気に降りて来た。そして、あかねを包括し、爆裂する。
 
「あ…。」 

 目の前の世界が、一瞬白んで潰えた。その一歩手前で、両手を大きく広げた。彼の気を全身で受けるために。
 避けようと思えば避けられた。だが、それは勝負を少しだけ先に送る足掻きに過ぎないだろう。あかねは瞬時にそれを悟った。
 なら、彼の最大的闘気を全て自分の体の中に取り込もうと思った。それが、彼に対する「天道あかね」としての最後の愛情表現であった。
 乱馬の放った気が、ゆっくりとあかねの身体を飲み込んでゆく。

(勝負はあった!やっぱりあんたには敵わなかった…。あんたに倒されるなら悔いはないわ!)

 空で悟り微笑んだ。
 このまま虚空へと投げ出されて沈んでゆく…。粉々に砕けても良い、そう思った瞬間。
 身体がふわっと浮き上がった。
 当然予測された次に来る筈の激しい衝撃が、終ぞ己の身の上には起こらなかった。
 恐る恐る開いた目に映し出されたのは、満面の笑みと柔らかな眼差し。

「俺の勝ちだ…。」

 すぐ傍らで声がした。
 不思議と悔しさは無かった。

「そうね…。あたしの負けよ…。」

 そう囁けたかどうか定かではない。朦朧とした混濁の中では、思考力は最早働かなかった。

 割れんばかりの歓声に、意識がふっと飲み込まれてゆく。
 
 受けた乱馬の気砲に、精も魂も尽き果て、そのまま眠るように、身体が沈んでゆく。薄らぼんやりと唇に感じた、柔らかな感触。

「乱馬…。」
 微かにその名を呼んだ。

 果てた。









 いつの頃からか、素直な自分が見い出せなくなっていた。
 あの時、少しだけ素直になれていたのなら、或いは大切なものは失わずに済んだのかもしれない。
 武道会は終わった。
 これで、もう、再び彼と見(まみ)えることはないだろう…。
 何故なら彼は、もう、別の女性を選んだのだから。

 白んだ意識の下で閉じた瞳から涙が零れ落ちた。



つづく




わっはっは…。ブロック準決勝の描写を省いてしまった邪悪…というか未熟な私をお許しください。


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