◇絆(KIZUNA)


第二話 SIDE R


 山の空気は次第に冷たさを増して来る。
 奥へ行けば行くほど、秋は深くなる。そろそろ山は紅葉の支度を始めている。緑はどことなく深い色を失い、色が褪せ始める。たわわに実った山の果実は、冬の近いことを予感させる。あと数日もすれば木枯らしが吹き、山は燃え上がる真紅になるだろう。

「ねえ、そろそろ上がったら?」
 女性が声を掛けた。
「もうちょっと…。」
 野太い男の声。山の木々を相手に、激しく技を繰り出している。
「お父さまがお話があるって言ってたわ。」
 娘はそう声を張り上げた。
「わかったよ…。降りる。」
 男は、飛び移った高木から飛び降りた。
「たっ!」
 ボンっとはじける気玉。トンっと地面へと一瞬で降り立った。

「あーあ…。今朝繕ってあげたのに。もうこんなにボロボロにして。」
 白い道着には木の皮や草葉がたくさんこびり付いている。それだけではない。ところどころ、ほつけた痕が見て取れた。
 男の身体からは、光る汗が滲み出ている。だが、息一つ乱すことなく、汗を拭う。鎖骨にはうっすらと汗水が溜まっていた。
 逞しい身体つき。盛り上がった全身の筋肉。ほれぼれとするような引き締まった身体に、暫く女性は見惚れていたようだ。
 男は乱れた前髪をさっと手で掻き上げると、結んでいた髪の結い紐を解いた。バサっと垂れてくる長い髪。それを鷲掴みにすると、乱馬は再び、髪を上げて結った。
「私がやってあげましょうか?」
 女性がそう申し出たのを断わった。
「いいよ…。自分でやる。おまえにやらせたら、前みたいにおさげに結われっちまうからな。」
「何で?男がおさげにしたら、連髪っぽくていいじゃない。乱馬、似合うんだし。」
 悪戯っぽく笑う笑顔。
「あのなあ…。俺は男だ。おさげなんてできるかよ!」
「ダメえ?半分、女の子なのに、勿体無いな。」
「ダメだ!おさげにはしねえ!」
 そう言葉を切った。
「それよか…志乃。おやっさん、帰って来たんだろ?」
 さりげなく差し出されたタオルに乱馬は顔を埋めた。汗を拭うためだ。
「帰ってきたわ。それで、何か乱馬に話さなきゃならないことがあるから、呼んで来なさいって。」
「そっか…。なら、行くか。」

 早乙女乱馬、二十二歳。
 居候先だった天道家を飛び出して、もう四年半近く。
 散々全国を放浪した挙句、ここへ辿り着いた。とある山中の小さな村だ。そこで出会った、壮年の親父とその娘。
 飲まず食わずで山中を彷徨っていたときに、出会ってこの殺風景な山小屋へと連れて来られた。何でも、親父さんはとある武道家のなれの果てだという。とある地方都市に大きな道場を抱えていたが、つい、財産があるからと手を出した事業に失敗し、無一文になって放り出されたという。元来の武道家に立ち戻り、この厳しい山中で修業しながら自給自足の生活をはじめた。道場再建の夢を見ながらも、日夜鍛えこんでいるのだそうだ。
 始めは少しだけ滞在して辞する予定だった。
 だが、おやっさんの好意に甘え続けて二年になる。そう、彼はここへ食客として住み込んで修行するようになってしまったのである。修行にもってこいの切り立った崖や峰が聳え立つ。おやっさんが居るから稽古の相手にも不自由はしない。とてもいい環境であった。
 時々思い出したように、おやっさんは買出しに遠くの町や村にまで足を運ぶ。勿論、依頼されたら武道の講師にも出かける。
 今回、おやっさんは一週間ばかり家を空けた。

「おやっさん!」
 乱馬が問い掛けると、白髪交じりの浅黒い顔を向けた、壮年の男性。
「おうっ!乱馬か。今帰ったぞ。」
 どっかと下ろすリュックには、仕入れてきた食料や衣料がどっさりと入っていた。
「今回は長かったな…。」
 乱馬は隣りに腰掛ける。
「まあな。ちょっと寄り道してきたもんでな。それより…。まだ、何の進展もないのか。おまえたちは。」
 おやっさんは娘と乱馬を見比べる。
「ちょっと、お父さんっ!!」
 志乃の顔が真っ赤に染まる。抗議の声が小屋に響く。
「あのなあ…。おやっさん。俺はそんなチンケな男じゃねえぞ。」
「そろそろ深い関係になってくれてもいいと、ワシは思っておるんじゃがな。」
 そう言いながらからからと笑った。
「まあ、それはいいとして。」
 おやっさんは荷物を解きながら、乱馬に言った。
「実は、おまえさんの実家へ、志乃との結婚の承諾を貰いに行ってたんだ。」

 娘と乱馬の動きが固まった。

「お父さん!勝手な事…。」

「何が勝手なもんか。志乃。おまえの気持ちはとっくに固まっているんだろ?なあ、乱馬。親ばかだと思って笑われるかもしれねえが…。志乃と一緒になって、我が道場の再興を手伝ってはくれんか?」
「またあ。そんなこと、乱馬さんには迷惑よ!」
「そうかな…。乱馬くんは立派な武道家になって立身するのが夢なんだろ?」
 真っ直ぐな、だが、野太い瞳が乱馬を捉えた。
「だったら、迷うことはない。志乃は最高の相手だと思うぜ…。」
「何が最高よ…。あたしは武道一般、何も教え込まれなかったし、才能も才覚も無いわ。」
「だが、おまえには、内助の功があろう。料理だって一人前にこなせる。器量だっていい。何に於いても、いい尻しているだろうが。」
 そう言いながらおやっさんは娘の尻をバンとひとつ叩いた。
「乱馬くんが、ここに食客になったのは何かの縁だ。頼む。そろそろこいつと身を固めてくれはしまいか。」
 おやっさんは頭を床にこすりつけた。

「頭を上げてくださいよ、おやっさん。そんな、俺なんか婿に迎えることなんか…。」
「嫌か?俺がこんなに頭を下げているのに…。」
 憂いを帯びた目がうるうると乱馬を見つめた。
「嫌とかそういった問題じゃなくって、俺みたいな半分女を引き摺った中途半端な野郎は…。」
「志乃?おまえはどうなんだ?半分、呪いのせいで女になってる乱馬くんのこと、おまえはどう思ってる?」
「あたしは…。嫌じゃないわ。ううん。乱馬さんさえ良かったら、此処にずっと居て、あたしと、その…所帯を持ってほしいって、ずっと思ってたわ。」
 最後の方は声が小さくなりながらも、しっかりと答えた。
「なあ、乱馬くん!頼むっ!」
 再び深々と頭を下げるおやっさんを見て、ふうっと乱馬は溜息を吐いた。
「そうだな…。そろそろ、俺も、己の身の振り方は考える潮時なのかもしれねえな。」
 ぽつんと言った。

「そうそう、君の親御さんにも頼んで来たんだ。」
 おやっさんの言葉に乱馬の顔が固くなった。
「おやっさん…。俺んところへ行ったのか?素性を調べて。」
「ああ、悪いとは思ったがな。一応、志乃のこともあるんで調べさせて貰ったよ。君、許婚が居たんだって?」
 乱馬の顔が強張った。志乃の顔もピクンと動いた。初めて訊く話であったからだ。
「ご両親から訊いた。その件なら大丈夫だ。君の元許婚の娘さんも、今はちゃんと相手が居られるそうだ。結婚を前提としたお付き合いなのだそうだ。正式な婚約も秒読みじゃろうとご両親もおっしゃっていた。だから…。」
 乱馬の瞳に一瞬影が射した。だが、おやっさんはその影を見抜くことなく、淡々と続けた。
「何も、不安材料はない。元の許婚のお嬢さんとて、ちゃんとした相手ができなすったし、乱馬くんが後ろめたい思いもしないだろう。だから…。」

 どのくらいの沈黙があったろうか。

「わかりました。俺とてずっとこのままここの状態でここに世話になっている訳にもいきませんね。良いでしょう。おやっさんの思うとおりに話を進めて貰って。」

「おおっ!承諾してくれるかっ!!」

 おやっさんはがばっと起き上がると、乱馬の肩をがっと抱いた。

「志乃っ!喜べっ!乱馬くんがその気になってくれたぞ!!」
「え、ええ、」
 少なからず、乱馬には許婚が居たという事実に衝撃を受けたのだろう。志乃の顔は強張っていた。
「そうと決まったら、これだ。乱馬くん。」
 おやっさんは唇が乾ききらないうちから、ハンピラの紙を乱馬の前に出した。
「これにまずは出場して、優勝してくれ。」
 
 差し出された紙に書いてあったのは「無差別格闘武道大会」という活字。
「これは?」
 乱馬が武道家の目になった。格闘大会という文字に反応したのだ。
「何でも、一切合財の武道を網羅した、武道大会だそうだ。柔道、合気道、剣道、空手、その他なんでもありという老若男女入り乱れての日本一を決める大会だそうだ。来年開かれる、オリンピアードでの世界大会の予選も兼ねているそうだ。どうだ?腕に覚えのある君なら、優勝は固いと思うのだが…。優勝して、結婚に花を添えてはくれまいか?」
 乱馬は黙ってそのチラシを見ていたが、やおら口を開いた。
「いいでしょう。出ます。名を挙げるにも、自分の力を試すにも、格好の機会だから。」
「はーはっは。君なら優勝間違いなしじゃ。志乃、おまえの旦那さまは強いからのう…。では、祝言は、この武道大会で乱馬くんが優勝を果たしてすぐということでどうじゃろうか?否が応でも盛り上がろうぞ。」
「わかりました。おやっさんがそう思うなら、全てお任せします。」
 乱馬はそう言うと、外へと出て行った。

(あかねに伴侶ができたんだ。あの、不器用な寸胴女にも、春…か。)
 正直言って心が掻き乱れている。
 天道家を飛び出してきたのは、紛れも無いこの己自身の選択であったのにである。
(女々しいな…。俺って奴は。半分、女を引き摺っているままに…。)
 ふと脳裏に、ショートヘヤーの彼女が浮かんだ。いつも怒っているような顔が浮かんだ。
(この期に及んで浮かんできやがるのは、怒った顔、か…。可愛くねえ。)
 ふっと溜息が漏れた。
 結局は「好き」という言葉は空回りを続けた。彼女のところに戻れないと思って出てきたのに、今でも彼女を思い出すと千路に心が掻き乱れる。
 考えぬように修行に打ち込む己。でも、ふっと何気ない時に思い出すあの気の強い少女のあかね。
 己の意思で飛び出してきたのに。許婚という関係も何もかも捨てて。
 随分自分勝手だと思った。
 だが、彼女にも己以外の男ができたのだ。祝してやっても良い事なのだろうと頭では理解できた。親が決めた許婚という関係から逃れたかった己との葛藤。もう、過去の思い出とすることができる。それは、少なからずも予測できたことではなかったのか。
 あかねは耐えて待つ強い心も持っている。
 だが、時が流れすぎたのかもしれない。未だ、血路を見い出せずに、この山中でぐずぐずしている己のことなど、もうとっくの昔に忘れ去ったのかもしれない。
 正直寂しいような複雑な心境が彼を捉えていた。
 あかねを忘れたことは無い。だが忘れることを臨んだのは己だ。複雑な恋だった。
 ぎゅっと手を握り締めた。

 と、後ろで気配がした。

「乱馬…。無理してない?」
 志乃が後を追って出た。
 父親の半ば押し切ったような結婚話に、彼女なりに気を遣ったのであろう。
「何が?」
 乱馬は振り返りながら答えた。
「だって…。許婚って…。」
「終わったことだよ。」
 ポツンと吐き出すように乱馬が答えた。
 志乃には今更言ったところで過去は戻らない。そんな虚しい言葉の響きが聞こえてきたような気がする。
「いいの?本当に…。」
 志乃は不安げに乱馬を覗いた。
「良いも何も…。志乃は俺が伴侶じゃ嫌か?」
「ううん…。そんなことはないけど…。」
「だったら、いいんじゃねえか、それで。」
 こくんと頷く志乃に乱馬は言った。
「武道大会に優勝したら、改めて俺のほうから、おめえにきちんとプロポーズしてやるから。待ってな…。」
 それだけをポツンと。己に言い聞かせるように。
「優勝したら…。だね。待ってる。私、ちゃんと乱馬のプロポーズ待ってるから。」
 不安を薙ぎ倒すように、志乃はふっと笑顔を乱馬に向けた。
「俺、武道大会まで、山へ籠る…。雑念を消して、真摯に臨みたいんだ。悪いけど、おやっさんには上手く言っておいてくれよ…。」
 それから志乃の手を引いて、そっと手の甲に唇を当てた。
「こっから先は優勝してから…。改めて、だな。」
 真っ赤になりながら志乃が頷いた。
 此処へ来てからずっと己のことを見詰め続けて労わってくれた想いは、充分過ぎるほど彼にも伝わっていた。彼女なら、己の屈折した愛を、上手に受け入れてくれるだろう。己も変われるかもしれない。そう思った。
「じゃ、武道大会の日に改めて合おうぜ…。行って来る。」
 それだけを告げると乱馬は山の奥に向かって走り出した。手荷物も何も無いままに。野生児の彼には改めた用意など、山に籠るのに必要がないのである。さっと上着だけを取り出すと、駆け始めていたのである。

「行ってらっしゃい、乱馬…。許婚と何があったかは私は知らない。でも、山で忘れて帰ってきて。あなたが帰る場所は、私のところだって、そう思えるようになってきて…。私、待つから…。ずっと待つから。」

 志乃はそっと乱馬の背中に言葉を吐いていた。



つづく



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