絆(KIZUNA)


 第一話 SIDE A


「待った?」
 青年は笑いかけながら歩み寄ってくる。
「ううん。今来たところよ。」
 娘はそう言って朗らかに笑った。
 本当はかなり待たされたのだが、そういう素振りは見せなかった。
 どこかまだ、少女っぽさが残っている横顔。決して大柄ではないが、引き締まった体つきから、何かスポーツをやっているような感を受ける。
「少し歩こう…。今日は時間がないんだ。直ぐに戻らなきゃならない。」
 青年は先に立って歩き出す。彼は上背があり、がっしりした骨格をしている。
 イルミネーションが街を揺らめく。秋の日は釣瓶落し。頬をかすめる風はそろそろ冷たくなってきた。青年はあかねの方をちらりと見ながら言葉を継いだ。
「ねえ、あかね。そろそろ、この前言ってたこと、真剣に考えて欲しいな…。」
 娘の肩がビクンと揺れた。
「もうそろそろ、潮時じゃないかな…。」
「でも…。」
「君の言いたいことはわかっている。でも、その「呪縛」から解き放たれてもいい頃じゃないか…と思ってさ。」
「そうね…。そろそろ、考えてもいい頃なのかもしれないわね。祐三さん。」
「そう来ると思ってね。ちょっと面白いものを仕入れてきたんだ。」
 そう言いながら青年は紙を出した。
「こ、これ…。」
「この武道大会で弾みをつけてから…、ってどうだろう…。」
 青年の目は鷹のそれに変わる。凛々しい瞳。武道家の目だ。
「僕が優勝したら…。」
「あら、あなたが優勝するとは限らないわよ。あたしだって強いんだから…。」
「なあに、決勝戦でぶつかったって負かしてやるさ…。僕が勝ったら…。結婚して欲しい。勿論、君の道場は僕が継ぐ。始めの約束どおり、僕が養子になってもいい。ね…。あかね。」
 降りてくる真摯な瞳に、圧倒されながら、あかねは静かに答えた。
「いいわ…。この武道大会が終わったら…。結婚…しましょう。」
 詰まりながら震える声で承諾した。
「やったーっ!そうと決まったら、修業だ。どんな相手にだって負けられないからね。勿論、君にも…。」
 青年は明るく笑った。
「じゃあ、ごめん。今日は僕の時間はここまでなんだ。そろそろ道場ヘ帰らなきゃ。弟子たちが待っているからね。君も卒論があるんだろ?ごめんね、これだけのためにわざわざ呼び出して。」
「ううん。いいの。あたしもあなたの声、聞きたかったから。」
「可愛いなあ…あかねは。」
 青年はそう言い置くと、あかねの額にキスをした。いつものように。
「いいかい?僕が優勝したら、勝利のキッス、その唇に貰うからね。」
 ウィンクするとだっと駆け出した。

 その背中を見送りながら、あかねはふうっと溜息を吐いた。長く伸びた髪。風がそっと撫ぜて通る。

(そうね…。あたしも、いい加減、新しい一歩を踏み出さないと…。無差別格闘天道流を継げないわよね…。)

 天道あかね、二十二歳の秋。
 大学四回生だ。そろそろ卒業論文の仕上げにかからなければならない時期にさしかかる。
 今しがた、言葉を交わしたのは、見合い相手の祐三。一年程前に、釣書が回ってきて、見合いした青年武道家。あかねに会って、相手が乗り気になった。
 何度か断わろうかと思ったが、人柄も良く、好青年。ゆっくり返事をしてくれればいいから、と、恋人でもない友達でもない関係を、一年間ずるずると続けてきた。決して、彼は無理強いしない。あかねにあった出来事を最初から吹き込まれていたのだろう。
「君の心から、許婚だった男の記憶が消えるまで、ゆっくりと待つよ。」
 と言ってくれた。

(あれから、五年近くなるのね…。)
 あかねは、ふうっと空を見上げた。
 許婚の乱馬と別れて四年半になる。
 いつもの喧嘩から発展して入った亀裂。売り言葉に買い言葉のような押し問答の末、彼は天道家を出ていった。当然、結ばれると思っていた父親たちの困惑を他所に、彼は天道家を出たのだ。
 どこでどう狂ってしまったのか。元は些細な痴話喧嘩であったはずなのに。
 振ったとか振られたとか、そういった下賤なことではなかった。
 八宝斎が示した無差別格闘流の奥伝を、天道家、早乙女家、そのどちらが継ぐかということが発端だったのである。
 丁度、高校を卒業するかしないかの頃合だった。まだ互いに恋愛には不器用で、思ったことを口にできるほど大人になっていなかった、天邪鬼な頃。
 八宝斎がどういう目的であの「奥義伝書」を出してきたのかどうかは、今となってはわからない。父親たちは高校を卒業すると共の祝言を願っていた。二人が一緒になるということは、天道流と早乙女流が一つになるということを暗に示している。
 この「奥義伝書」、父たちの時代には、次世代に譲るということで、相殺になったという曰く付きのものであったらしい。
 八宝斎の元で修行を積んだ二人は固い友情で結ばれており、いつか、二人の流派でもある天道流と早乙女流を一つにしたいという願いを持ち続けていたのだ。
 早雲が八宝斎へ弟子入りする遥か前から、天道流は存在していた。古(いにしえ)の昔より、武道一般を司る武士の一門。それが天道家でもあった。先祖から代々に受け継がれてきた家宝の家系図を見渡しても、容易にそれは想像がつく。
 また、早乙女家も然りであった。スチャラカな放浪生活を続けている早乙女玄馬は、己の一門のことなど億尾にも出さなかったが、のどかがチラリとそんなことを口にしたことがあると、あかねの姉のなびきがこっそりと教えてくれたことがある。いや、なびきのことだから、興味本位で「早乙女家」のことについて、調べてみたのかもしれない。なびきならそのくらいのことを突き止める手腕はあるだろう。
 二つの家の流派とはまた別のところに綿々と古代より伝わってきた、それが「無差別格闘流」である。誰がこの型の武道を始めたのか、今となっては詳(つまび)らかではないが、かの剣豪、宮本武蔵も実は密かにこの流儀の恩恵を受けていたというらしいから、かなりの正統性のある「奥義伝書」であるに違いなかった。それを、何故、八宝斎が所持しているかは謎に包まれている。だが、あの妖怪爺さんは、性格こそひん曲がり、スケベ心と邪悪の権化のように言われているが、確かに、武道にかけては並々ならぬ超力(ちから)を持っている。
「ワシも、そろそろ「奥義伝書」を若いもの譲って、もっと気ままに生きて行きたいからのう…ほっほっほ。」
 などと嘯(うそぶ)いた。
 玄馬と早雲と、どちらかがそれを譲り受けると言う話がずっと以前にも沸き起こったらしいのだが、互いに譲り合って決められなかった。
 力は拮抗していた二人の大親友。だが、しかし、
「おぬしらの未熟な力では、この奥義伝書を引き受けるには役不足かも知れぬな。おぬしらの次の代に譲ってもワシは一向に構わんよ。気長にやってくれ。」
 と八宝斎も敢えて決めようとはしなかったらしい。
 この「奥義伝書」を一つに迎合させて末世に伝えるために、そもそも、乱馬とあかね、二人の婚儀の本当の目的があったと知らされたのは、風林館高校卒業間際だったのだ。
『二人で、手を取り合って伝承しなさい。』
 とあっさりと決め付けた父親たちへの二人の精一杯の抵抗だったのかもしれない。些細な言い争いから「俺が」「あたしが」という自我が目覚めた。どちらも熱すると後を引かない強情者。譲渡という言葉も和合という言葉も、あの頃の二人は持ち合わせていなかったのである。
 親たちに愛情を弄ばれて果てた哀しい許婚たちであった。

『「奥義伝書」は流派の祖からの一子相伝。だから、早乙女流の嫡男の俺が譲り受ける。』
『違うわ!無差別格闘流の正統派は天道流よ。だから、あたしが譲り受けるわ。』
 二人の父の目の前で展開した、奥伝争い。
 どちらも、奥伝を譲り受ける正統性があった。
 
『わかった…。いずれはっきりさせよう。どちらが「奥義伝書」を継ぐか。俺は此処を出る。それまでは、元の持ち主の爺に預けておく。』
『いいわ。勝手に出て行きなさいな。どうせあたしたちは親同士が勝手に決めた許婚ですもの。あんたなんか居なくたって!』
『俺だって、おめえみたいな可愛くねえ女は願い下げだっ!』

 激しい言葉の応酬の末、気がつくと、乱馬はあかねの目の前から消えていた。
 何も残さずに。
 当然、許婚の話は自然消滅になった。乱馬の父、玄馬ものどかも、天道家を出て久しい。
 また元の、父娘四人の静かな生活に戻っていたのである。
 自然、乱馬を取り巻くように集まった、シャンプーや右京も、乱馬の逐電と共に消えた。この地に住む必要性が無くなったのだ。各々、絶対に乱馬を見つけ出して己たちが嫁になると言葉を残して、何処かへ流れていった。
 騒々しかった日々は、もう、過去のものへと変わり始めていた。
 いつしか、あかねも乱馬の居ない生活に慣れた。
 心に空いた隙間を埋めるように、武道へと熱中した。「武道」が彼との仲を裂いてしまったにも関わらずである。
(もっと強くなりたい!乱馬よりも。高く飛びたい!無差別格闘流の「奥義伝書」は私が継ぐの。この道場と一緒に!)
 勝気な少女は、我を忘れて、修業へ没頭していったのである。
 いや、心の底のどこかに、乱馬と再びあいまみえ、拳を交わす日が来ることを知っていたからだろう。「奥儀伝書」が存在する限り、それをめぐって再び対峙する時が来る。それだけをよりどころに、あかねも修業に励んだのである。

 乱馬が家を出て、二年目が過ぎた或る日、早雲は一人の青年を連れてきた。早乙女玄馬に出会うずっと前から知り合いだったという、とある道場の三男坊。それが祐三であった。
 あかねより三つ年上の二十五才。男盛りだ。
 柔道、剣道、空手、合気道と、名の付く武道は全て網羅したと言う実力派。何より実直で優しい。アクの無い優しさに満ちている。
 武道家らしく、豪快な一面は持っているものの、無下にあかねにベタベタともしない。
 大方、父親の早雲や姉たちに、あかねの過去を吹き込まれているのであろう。
「僕は待つから…。そのくらいの気の長さは持ち合わせているつもりだよ。」
 とあっさりとしていた。
「君から、過去を忘れさせて、僕に惚れさせるくらいの自信はあるんだから。」
 乱馬とは違ったタイプのナルシストであった。
 始めは困惑していたものの、何かにつけそっと見守るように寄り添ってくる男に、あかねは少しずつ心を開き始めた。
 乱馬が居なくなってからも、あかねの周りは賑やかだった。十六歳の頃と同じように、あかねを取り巻く男連中が執拗に追いかけてくる。許婚がいなくなった途端、群がる男たち。それだけでもうんざりとしていたが、祐三と付き合い始めると、パタリとその求愛行動もなくなった。祐三が影で締めてくれていたに違いない。
 大切にされていると言う実感。

 でも…。祐三では物足りないと思うのは何故だろう。

 女々しい自分を薙ぎ払うように、あかねは首を横に振った。
「あたし、もっと強くならなくちゃ…。」
 勝気さは少女の頃と何ら変わらない。


 道場から母屋に戻ると、久しぶりに姉のなびきが来ていた。
「相変わらずね…。門限破ったりしない優等生なんだから、あかねは。」
「お姉ちゃん、何しに来たの?」
「だって…。お給料日前だもの。」
 と屈託無く笑って見せる。
 なびきは社会へ出ると共に、天道家を出ていた。自立というよりは、学生の頃から始めていたビジネスが忙しくなって、今は事務所兼住居の都心のマンションに暮らしている。時々こうやって、天道家へ帰ってくるのだ。
「お給料日前って…。払う側じゃない…お姉ちゃんは…。」
 小さいながらも従業員が何人か居る。新進気鋭の総合商社の女経営者。それが現在のなびきだ。
「あのね…。給料払う側だって、税金とかいろいろあるんだから、当然、給金制を取ってる訳。だから、あたしだって給料日前はいろいろと大変なのよ。やりくりが…。」
 そう言いながら台所でごそごそやっている。
「ちゃっかりしてるんだから…。」
「それよりあんた。聞いた?」
「何を?」
 エプロンを取ると、あかねはサッとつけた。最近は台所へも入るようになっていたあかねである。料理の腕も少しだけ進歩した。あの、殺人的な不味さからは次第に脚を洗いつつある。
「乱馬くんも婚約したんだってさ…。」

(え…?)

 手が止まった。
 頭がガンと一発殴られたような言葉だった。
「乱馬、帰って来たの?」
 震える手を止めながら、何も無い風を装う。なびきはそんな妹の様子がわかっているのか、あっさりと続けた。
「ここに来る途中で、早乙女のおじ様に、ぱったりと会ったのよ。その時に言ってたわ。良く事情はわからないらしいんだけど、乱馬君をとある田舎の道場の跡取りとして婿養子に迎えたいっていう話が舞い込んできたんだってさ。」
「ふーん…。」
 気のない素振りで答えたが、本当は心が掻き乱れてゆく。もう、忘れなきゃダメだ、と思った矢先の霹靂である。
 握った包丁で切る材料の粒が粗くなる。
「何か、乱馬君ったら、ここを出て放浪していた先のとある道場で腰を落ち着けたらしいのよね。そこできっと、あんたみたいな道場付きのお嬢さまと懇意になったのよ。…多分ね。まあ、あれだけ強いんだもの。どんな道場主だって咽喉から手が出るほど婿養子に欲しがるわよ。」
 無責任になびきは憶測を続けた。
 乱馬とて己と同じ歳。二十二歳。男盛りであろう。浮いた話の一つや二つ、舞い込んできても不思議では無い。
「早乙女家の方へ、最近、そんな連絡が先方からあったって、おじさま、歯切れ悪くおっしゃってたわ。」
「ふうん…。そっか…。乱馬もちゃんと恋愛してたんだ。」
 感慨深くあかねは吐き出した。
「ショック?」
 なびきはちらりとあかねを流し見た。
「別に…。」
 気のない返事。
 ショックじゃないと言えば嘘になる。
 乱馬が出てしまってからも、いつかここへ戻ってくるのではないかと、本当は少し期待していた。だから、祐三からの申し出にも一歩踏み出せない自分ではなかったのか。

 その夜、遅い夕食を摂った後、あかねは何かを決意するように、父と姉に言った。

「あたし、今度の無差別格闘武会に出ます。」
 早雲は黙ってそれを聞いた。
 もし、ここで否を唱えても、この跳ね返り娘は、出ると言って譲らないだろう。それに、早雲も直に玄馬から乱馬の一件は聞かされていた。
「ああ、わかった…。だが、あかね。この大会が終わったら、身の振り方を決めなさい。祐三くんへの返事だって、これ以上先延ばしにするのは、相手方にも失礼だよ。断わるにしても、結婚するにしても、それはおまえの意志で決めればよい。だが、物事にはケジメというものもあるのだからね。」
 静かにそう言い渡した。
「ええ、そのつもりよ。祐三さんとの結婚を決意するためにも、この武道会、どうしても出てみたいの。そして、自分の力を試すわ。独身最後の試合としてね。それが済めば、あたしは…。結婚します。」
「そうか…。それならもう何も言うまい。祐三くんでいいのだな?伴侶は…。」
 こくんと頷いたあかねに、早雲は一瞬、複雑な顔を見せた。

「無理しなくてもいいのに…。乱馬君のことも真相を確かめてからでも…。本当に真っ直ぐなんだから。あかねは。」

 なびきの呟きはあかねには聴こえなかった。

 庭先から甘い金木犀の匂いが流れてくる。

 
 翌日の朝、早く、あかねは天道家を出た。
 身支度は厳重に。一晩でテントや食料品をリュックに詰め込んだ。
 携帯電話の電源を入れ、親指で祐三への連絡メールを一本打ち終えると、それを机の中に仕舞った。勿論、電源も切ってしまってだ。
 文明からは程遠い、どこか静かなところへ修業へ出ようと思った。
 都会の喧騒の中では落ち着いて鍛錬することはできない。そう、思った。
 武道会までの数週間、野山へ籠る。そう決意していた。
 婦女子一人で山に籠るなど無茶な話ではあったが、そこまでしても集中したかった。
「卒論は、武道会が終わって、必死でやるわ。」
 あかねはぎゅっとリュックの紐を締めた。
 勿論、山へ籠る間は大学も自主休校だ。
 と、背後で人影が動いた。
「お父さん…。」
 父親がやはり支度をして出てきた。
「父さんも一緒に行くよ…。組む相手が居ないと、何かと不便だろうからな。」
「でも…。」
「何も言うな。武道会までの数日で、天道流の流儀を全ておまえに授けてやる。」
 この父もまた、武道家であった。
「無差別格闘流儀を名乗る、もっと以前の天道流の武道が何たるかを、全ておまえに伝えよう。」
 父は真っ直ぐに娘を見た。
「わかったわ…。お父さんがそこまで言ってくださるのなら…。」
 父と娘と。
「私の修業は、これまでとは違う厳しいものだ。覚悟だけはしておきなさい。」
 そう言い終ると早雲は、天道家の門戸を、内側から固く閉ざした。



つづく



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