◇颱風少年

第五話 髪は長いお友だち


一、

 通学路。川沿いの住宅街を抜ける道。見慣れた風景の筈だが、随分いつもと違っているように思える。
 それは女に変化していることによる、目の高さの違いによるものも大きいかもしれない。いつもなら、あかねを見下ろしながら、駆け抜けるフェンス。そのあかねが居ないということも、気持ちに張り合いをなくしているのかもしれない。

「おや?乱馬君、今日は一人かい?」
 開院の準備がてら、道端を箒で掃除していた東風に声をかけられた。
「あ、東風先生。うん。あかねの奴、ちょっと体調崩してて、今日は休みなんだ。」
 と軽く受け流す。いくら親しい先生とはいえ、本当のことを言ってどうなるものでもなかったからだ。
「元気印のあかねちゃんが体調不良ねえ…風邪か何かかい?そりゃあ、お大事にって伝えておいてね。」
「ああ。」
「…それに、珍しいね。乱馬君が女の子の格好して登校してるなんて…。」
 そら、来た。と思った。
「ああ、これねえ…。ちょっと女になって修行しなきゃなんねーことがあってさー。不本意だけど、暫く女で居なくちゃなんねーんだ。」
 と口からでまかせ言って切り抜けた。
「ふーん…。力のセーブについての修行か何かかい?」
「まー、そんなところだよ。せっかく女に変身できるんなら、それもフル活用して修行するのもたまには面白いかとも思ってさー。」
「熱心だねえ…。相変わらず。」
「じゃっ!行ってきまーす!」
 と小乃接骨院を通り過ぎた。が、ホッとする間もなく。道端で出会う、登校途中の風林館高校生たちに、いちいち不思議な瞳を浴びせかけられた。

「おっはよー!乱馬…あれ?おまえ、一人か?」
 道すがら出合った同級生たちに、声をかけられる。
「そーいや、珍しいな、あかねと一緒じゃないなんて。」
「ホントだ。おまえ、一人か?」
 異口同音、取り巻いたクラスメイトは、皆、最初はあかねの不在を珍しがってくる。
「風邪気味なんだとよー。今日は休むってさー。」
 と不機嫌に答える。まずはあかねの事があって、それから何で女の格好をしているのか…と取り沙汰される。
「あかねが風邪で欠席かあ…珍しいよな…。相当、たちが悪い風邪なんだな。」
「馬鹿は風邪ひかん、っちゅうのに…。」
「あかねは馬鹿じゃないからな…。」
 元気印のあかねが欠席となると、一様に、不思議でたまらないらしい。
「ところで、おまえ、何で女の格好してるんだ?」
「修行のためだよ!」
 とこれまた不機嫌に答え返す。
「女の格好で修行?何の?」
「俺にもいろいろあんだよー!女の俺の体質も生かして修行しろとか親父が言うから、それに渋々従ってやってんだ!」
「ふーん…それも珍しいなあ…。乱馬、女の格好でいるの嫌いだった筈なのに…。」
「仕方ねーだろ!」
 辟易とするほど、あちこちから飛んでくる野次馬たちの声。
「ほーお、修行かあ…。俺たちにはわかんねー世界だからなー。」
 大介やひろしたちも、わかったようなわからないような口を利く。
「せっかく、あかねが居らんのやから、放課後、男の格好でうちとデートせえへん?」
 と右京がいきなり畳み掛けてきた。
「あ、いや。遠慮しとくぜ。」
「何でや?いい機会やん!うち、男の乱ちゃんの方がええわ!」
「だから、修行中だっつーのっ!」
 と誤魔化す。いくら右京でも、ハゲ頭をさらす気はない。
「修行?そんなん、後でやったらええんちゃうのん?」
「良いから、俺のことはほっておいてくれ!」
 納得いかないという顔を、右京が手向けるのも無理はない。彼女にとってみれば、あかねが居ないのは好都合だ。ここで少しでも己と乱馬との関係を進めておきたいと、願うのが乙女心だろう。

 同級生たちの好奇の目をかいくぐって、とにかく、今日一日を女のまま切り抜ける。それが最大の使命のようにも思えた。こそこそと、あちらこちらから、女の己を指差す人影があったが、この場合、仕方がないと、諦めた。

「おおお!そこを行くのは、おさげの女あーっ!」
 校門では、案の定、九能に襲われた。いつもなら、あかねを待ち侘びていたようだが、先に目に入った「おさげの女」へと駆け寄って来たのだ。
「これぞ、天のめぐり合わせ!おさげの女ぁーっ!いざ、熱い抱擁を!」
 九能は、ドドドッと雪崩れ込むように両手を広げて走りこんできた。
「うげっ!気色悪いーっ!あっちへ行けーっ!」
 ドカッといつもの如く、足蹴にする。サッカーボールよろしく、九能は空へと高く舞い上がる。
「おおお、熱いぞー!おさげの女あーっ!」
 九能は声を張り上げながら、遥か虚空へ飛ばされて見えなくなる。
 ハアハアと肩で息をしながら、九能を見送る乱馬。
「たく…。ただでさえ女の格好は嫌だってーのに、うっとうしい!」
 そうだ。女の格好で居る限り、九能は何度でも襲い掛かってくるだろう。そう思っただけで、身の毛がよだった。
「九能が嫌やったら、素直に男に戻った方がええんとちゃう?」
 教室へ入ると、まだ諦めていないのか、右京が語りかけてくる。
「いや…これも修行のうちだから…。」
 と、その場を収めようとする。
「うちは、男の乱ちゃんの方が好きや!」
 どこから持って来たのか、右京は手にはやかんを握り締めていた。勿論、やかんからは、湯気が立ち昇っている。
「ちょっと、待て!ウっちゃん。」
 たじたじっと後ろへ下がる。
「そんなもの、教室でぶちまけたら、水浸しになるぜ…。」
「別に、拭いたら同じやん!」
「でも…。」
「嫌がることなんかあらへんやん!男に戻るだけなんやから!ここは力づくでも男に戻して、楽しい一日を過ごそうや!」
 右京にしてみたら、恋のライバルあかねの不在は千載一遇のチャンス到来と思ったのも無理はあるまい。こうと決めたらテコでも変えぬ強い決意と共に、乱馬を男へと戻そうとする。乱馬にしてみれば、迷惑千万。いらぬ御節介の他でもなかった。
「頼む…そっとしておいてくれーっ!」
「何を訳のわからんこと言うてんねん!」
 最早、右京を止めることは不可能だった。

「やめーいっ!」
 叫び声と共に、ばっしゃとかけられる「非業のお湯」。

 湯をかぶることにより出現した男乱馬。が、いつもと様子が違う。
「乱ちゃん…。」
 やかんを持ったまま、右京が目を見開いたまま、呆然と立ち尽くす。
 右京だけではなく、教室の中に居たクラスメイトの面前に、晒しだされたハゲ頭。

「乱馬…おまえ…。」
「その頭…。」
 口々にクラスメイトたちが指差して、目を留める。
 暫し、沈黙があり、それがどっと笑いの輪に変わるまで、そう時間はかからなかった。
 波打つように、教室中で笑い声が起こった。
 男子も女子も、そこに居た者全て、乱馬の頭に釘付けになり、轟々と笑い声がこだまする。笑われる乱馬には耐えがたき屈辱であった。
 それに更なる引導を渡したのは、就業前に教室へ来ていた、担任のひな子先生だった。
「早乙女君…。その頭…。」
 円らな瞳を巡らせるや、手足をバタバタさせて、告知がてら廊下を走り出す。
「きゃははははー早乙女君の頭、ハゲー、ハゲー、ハゲ頭ーっ!」
 教師としては問題発言、問題行動なのであろうが、そんなことがひなちゃん先生に通用する筈も無いし、誰も非難を口にだにしないだろう。
「早乙女君の頭、ハゲ頭ー!」
 そう触れ回りながら、廊下をジグザグ走行し始めたから、始末が悪い。
「やめろー!ハゲ、言うなーっ!」
 思わず叫んで乱馬も教室から飛び出していた。乱馬も既に、理性を失っていた。
 すれ違う者、すれ違う者、全てが乱馬の頭にぎょっとし、笑い出す。頭を隠そうとするが、かえってそれが目立たせる結果となっていた。
 
「ホワット?」
 廊下を歩いていた九能校長が色眼鏡を持ちながら、振向く。
「ハハハ、ミスター早乙女乱馬ー!ユア・ヘッド・イズ・ハゲ!ハゲ、ツルッパゲ!」
 これまた、もんどりうって笑い出す校長。

「み、見るなーっ!どちくしょーっ!」
 
 耐えがたき、屈辱だった。




二、

 人目を避けるように、校舎の脇の水のみ場へ。そのまま頭から水をぶっかぶる。
 女に変身することによって、再び、髪の毛はフサフサと頭に広がりだす。荒い息を静めながら、ホッと一息。
 災難であった。大衆の目にさらされてしまった、男乱馬のハゲ頭。
「ちくしょー!何で俺がこんな目に…。」
 自ずと涙目になっていた。
 もう、教室へ戻る気力は無い。戻ったところで、笑い者にされるだけだ。

「どう?その頭への悔しさ、かなり腸(はらわた)に響きましたこと?」
 いつの間に、学校へやってきたのか、マーナがすっと顔を出した。
「マーナ…。」
 乱馬は困惑気味に顔を上げた。
「ああ、地獄を見るほど、腸に響いたぜ。」
 乱馬は、はき捨てるように言った。
「ならば、参りましょうか?」
 マーナは乱馬へと手を差し伸べた。
「参るって…どこへ?」
「そんなの、決まっていますわ。修行場です。」

 その声と共に、足元がぐらつく感覚に襲われた。

「行きますわよ!」
 マーナの声と共に、そのまま、地面がすっぱ抜けたように、ゴボッと音をたてて崩れ落ちる。

「うわあああーっ!」
 続いて、暗き地面の底へと落ちていく感覚。
 目の前の風景が物凄い勢いで飛び始めたようにも思えた。

 どのくらい、地の底へと落下し続けていたのか。

 気がつくと、荒涼たるごつごつとした石が転がる地面へと、へたばって座り込んでいた。

「こ、ここは…?」

「冥界との境目ですわ。日本の国の言葉で言うと、賽の河原…。」
 マーナの声が傍で凛と響いた。

「賽の河原だって?」
 ぎょっとして、マーナの方へと向き直った。
「ええ、そうですわ。ほら、あれ…。」
 マーナは、ぐっと先の方向を、指差した。
「そなたの国では、三途の川と言っている、冥府と今生の境の大河ですわ。」
 マーナの指の先に、轟々と音を立てながら流れる広い河があった。どす黒い泥水が流れる、薄気味悪い大河だった。

「三途の川って…。思わず渡りたくなるような、綺麗な川だと思ってたけど…。殺風景なんだな。」
 と、思わず、変な感想を述べてしまう。

「そりゃ、そうですわ。まだ、あなたの命は尽きていませんもの…。この川を渡る今際(いまわ)ではありませぬから、殺風景に見えて当たり前ですわ。それに、ここは渡り場ではありませんもの。」
「渡り場?」
「死人が渡って行く場所は、ここより、もっと上流ですわ。この川、死人には美しき川に見えますのよ。荒涼と見えるのでしたら、安心なさいませ。あなたの命はまだまだ尽きては居ない証拠ですわ。」
「笑えない冗談だな…。」
 乱馬はボソッと吐き出した。
「で?何でこんな物騒な場所へ来たんだ?」
「修行のために決まっていますわ。これから、ここにて、あなたには「迦楼羅焔竜破(かるらえんりゅうは)」を習得する修行をしていただきますわ。」
「迦楼羅焔竜破だあ?」
「ええ…。我らが朱雀族にとっての最大奥義にして、恐らく、ラージャ様を倒すのに、一番有効かつ、確実な大技。」
「どんな、技なんだ?」
「百聞は一見にしかずですわね…。もうじき、見られますわ。」
 ふふっと、マーナが笑った。
「それから、私の傍から離れてはなりませぬよ。結界を張りますから。」
 そういうと、マーナはトンと地面へ手をくっつける。と、地面の辺りから、光る気があふれ出した。どうやら、これが気のようだ。
「これで、相手に気付かれることはありませんわ。」

 と、川の上流の方に、ほんのりと光が差し込めてきた。
 いや、よくよく目を凝らせば、光ではない。焔のような真っ赤な色だ。

「おあつらえ向きに、来ましたわ…。それ、その岩陰に身を潜めて、その目を良く見開いて、ご覧遊ばせ。」
 マーナに手招きされるままに、乱馬は岩陰へと身を潜めた。相手に察せられぬように、息を潜め、こっそりと岩陰から空を眺める。
 
 ゴウゴウとおどろおどろしい怪音を響かせながら、人間の三倍くらいの大きさはあろうかという大きな鳥が、空を舞いながら近づいてくる。
「あれは…。」
「あれは、迦楼羅鳥人(かるらちょうじん)ですわ。」
 顔は人間、いや、赤鬼のような風体。肌は赤黒く、目も真っ赤に血走っている。口は迫り出し、まさに鳥のクチバシの形をしていた。それも、猛禽類(もうきんるい)の鷹や鷲のように先が鋭く尖っている。
 胴体と手は人間だったが、足は猛禽類の趾(あしゆび)そのものであった。空を飛ぶために、当然のように翼も背中から生えている。これも、鷹のようなまだらな茶系の色をしていた。手には修験者が持つような錫丈(しゃくじょう)を持っている。
 そう、明らかに異形な姿。
 そいつは、口や身体中から真っ赤な焔を靡かせ、悠々と空を渡って行く。
 と、対岸の川原に何か見つけたのか、空で止まると、じっと水面を見ながら視点を定めた。そして、くわっと恐ろしい瞳を見開くと、電光石火、水面に向かって錫丈を突き立てた。

「グワアアアア!」

 今度は、水中から、悲鳴とも取れる怒声が響き渡り、一匹の黒蛇が飛び出してきた。それも、並みの大きさではない。迦楼羅を何重にも巻き上げそうなくらい大きな「ウワバミ(大蛇)」であった。
 大蛇は迦楼羅目掛けて、猛然と襲い掛かる。

 空へ止まっていた迦楼羅は、ぐっと身体中の気を充満させたように見えた。
 と、水柱と共に、焔の竜巻が彼を中心に沸き起こる。水柱をも引き込み、焔の竜巻はあっという間に、大蛇を飲み込んだ。

「グエエエエエ!」
 焔に飲み込まれながら、大蛇は呻き声を上げた。それは、まさに、断末魔の雄叫びだったのだろう。大蛇の身体から白い煙が焔と共に競りあがった。やがて焔は激しさを収め、ぐったりとした大蛇の真ん中を、迦楼羅は錫杖で貫き通す。

 ドスッ!

 少し離れた場所で眺めていた乱馬の耳元にも、その、嫌な音は鳴り響いた。
 最早、大蛇はピクリともしない。
 迦楼羅は「我、得たり。」というような満足げな微笑を浮かべると、錫杖にさしたまま、再び、大空を悠々と飛び去っていく。
 ボタボタと大蛇は刺された辺りからどす黒い液体を下の川に流しながら、迦楼羅に連れ去られて行く。

 視界から迦楼羅が消え去ってしまうまで、乱馬は微動だにできなかった。
 迦楼羅の姿が完全に視界から消え去って、初めて、ドサッと、地面にへたり込んで、傍で一緒に見上げていたマーナに声をかけた。

「あいつは何だったんだ?」
「迦楼羅が狩りをしていたのよ。」
「狩りだあ?」
「ええ。迦楼羅の食料は、ナーガだもの。」
「ナーガ?」
「蛇や竜の類よ。」
「うげ…あんな、えぐい物、食うのかよ…。」
 乱馬は思わず胸を撫で下ろしていた。
「あら、美味(びみ)らしいですわよ。」
 にっとマーナが笑って見せた。
「それより…。ちゃんとその目に収めましたこと?」
「目に収めるって何をだ?」
「迦楼羅がナーガに仕掛けた技ですわ。」
「技?あの、竜巻みてえなのか?」
 コクンとマーナは頷きながら言った。
「そうですわ。これから、あなたにあの技を覚えていただかねばなりませぬもの。イメージだけでは捉えられませんから、実地をお見せしたのですわ。」
「あ、あの技を覚えるだあ?」
 思わず、声を荒げていた。
「ええ、そうですわ。名づけて「迦楼羅焔竜破(かるらえんりゅうは)」。その技を使えなければ、ラージャ様には勝てませんわ。」
「迦楼羅焔竜破…。」
「ラージャ様は蒼竜、つまり竜族の王子。竜の天敵は迦楼羅鳥人ですの。さっき見たように、迦楼羅は蛇や竜を食料としていますもの…。」
「…おい。まさか、竜を倒すために、迦楼羅の技を会得しろって…そういうことか?」
「はい。その、まさかですわ。」
 にんまりとマーナは微笑んだ。
「あんな、壮絶な技、どうやって会得しろってんだ?」
「つべこべ言いませんの!それとも、そなた、己の許婚をラージャ様に寝取られてしまってもよろしいとでも?」
「う…。」
 マーナの明白な言葉に、思わず、ぐっと言葉が詰まった。
 あかねはラージャというガキの手に落ちている。しかも、戦いに敗れれば、あのこ憎たらしいガキはあかねを嫁にすると宣言した。
「このままでは、あなたの許婚はラージャ様の嫁に…。」
 マーナの言葉から、あらぬ妄想が乱馬の頭をグルグルと巡り始める。
 クソガキラージャがあかねに甘える構図。薄衣、いや、下着姿…裸体もチラチラ…。
 ブンブンと頭を横に振り、己の妄想を振り切ると、
「わかったよ!迦楼羅焔竜破でも何でも会得してやらあっ!」
 ぎゅううっと拳を握り締めた。
「その意気ですわ。では、決意が固まりましたところで…。」
 マーナは、口元に親指と人差し指を当て、空に向けて、口笛をピュウっと吹いた。

 暫く在って、空から何かが舞い降りて来た。
 良く目を凝らして見ると、それは人型をしている。さっき見た迦楼羅とは形相が少し違う鳥人が、トンと目の前に降り立った。

「これは、マーナ様。お久しぶりでございます。」
 白い鳥を象った鳥人の婆さんが、そこに立っていた。背中には白鳥のような白い羽、手足と胴体は人間。顔の中央にあるクチバシは幾分か、さっきの黒い迦楼羅とは違って柔らかな感じに見えた。が、異形の者であることは否めない。
「白眉(はくび)婆さん、久しぶりね。」
「こいつ、誰だ?おめーの知り合いか?」
 乱馬はマーナに向かって問いかけた。
「これ、久しぶりの再会の場面に横から口を出すな!」
 婆さんはいきなり、ポカンと持っていた木の杖で乱馬の頭を打ちつけた。
「痛っ!何しやがる!」
 頭を抑えながら、乱馬が婆さんをじろりと睨んだ。」
「ふふふ、婆さん、頼んでいた修験者はこの者じゃ。日本国からやって来た。」
 マーナは頭を抱えていた乱馬を、婆さんに目通しした。
「ほお?…修験者とは男だったのではないのかえ?」
 キョトンと婆さんは乱馬を見やった。
「ええ、そうですわ。」
 マーナはそう言うと、手をスパッと上に仰ぐように差し上げた。と、川原から水飛沫が上がり、乱馬を頭上から濡らした。
 勿論、冥界との境川の水は、何とぬるいお湯だった。それを浴びた乱馬の身体は、みるみると男へと変化を遂げた。しかも、髪の毛は無くなる。
「おおお、これはこれは…。」
 婆さんは目を細めた。
「こやつ、呪泉の娘溺泉に落ちた呆け者かえ…。」
「なっ!何だ。その呆け者っつーのはっ!」
 カチンと来た乱馬が思わず問い返していた。
「呪泉に落っこちるなど、呆け者と違ったら何と申すのじゃ?ぶわっはっはっは。」
 婆さんは腹を抱えて笑い出す。
「好きで落ちたんじゃねーやい!」
 乱馬はぶすっと頬を膨らませた。
「しかも…その頭の在り様。蒼龍国の王子にしてやられたと見える…。こりゃ、大間抜けじゃわい!」
「大間抜け…。」
 ずさっと乱馬の胸元に、婆さんの暴言が突き刺さった。
「で?こやつを鍛えたとして…勝算はあるのかえ?マーナちゃんよ。」
 婆さんはマーナを見やった。
「それは、修行次第かと…。そこそこ見込みはあると思います。」
「なるほどのう…。で、ワシらにこやつを鍛えろとな…。これ、ハゲ坊主。」
「お、俺はハゲ坊主じゃねえ!乱馬っつー名前がある!」
 ハゲという言葉に過剰に反応した乱馬が、反論した。
「ハゲ乱馬殿。」
「だから!ハゲ、言うなっつーのっ!」
「ほーっほっほ…。若いのう…。青臭いのう…。まあ良い。おぬし、本当にここで修行する覚悟はできておるのかえ?」
 にんまりと笑いながら婆さんは乱馬を見返した。
「あ、ああ。ラージャに勝たなきゃ、なんねー理由があるからな。」
「勝たなきゃならない理由ねえ…ということは、女がらみかえ?」
 婆さんは小指を立てて見せた。
 乱馬はそのまま黙り込む。当たっていたからだ。
「なるほど、好いた女を蒼龍国の王子に寝取られそうだ…そういうことか。」
「そうなの…。ラージャ様ったら、この者の許婚を空崖楼へ連れて上がったのですわ。私という許婚が居るにも関わらず…。」
 マーナが静かに付け加えた。
「マーナちゃんも、そういう蒼龍の王子の行動が、相当、頭にきておるのだな…。まあ、仕方の無いことかもしれぬが…。
 共に、このままだと、本意ではない事態に陥る…そういうことじゃな?」
 マーナも乱馬も、コクンと頷く。
「ほんに、そのラージャとかいう蒼龍王子、久々に骨のある男なのじゃなあ…。普通、成年式は通り一遍等に穏便に通り過ぎるのが常だったというに…。敢えて本意を曲げ、決闘を選ぶとは…。久方ぶりぞ。決闘で己の命運を占う如く、挑戦する王子は…。ワシが知っている限りでも、二人も居ないぞ。」
「まあ、そうなのでしょうけれど…。私には大迷惑ですわ。」
 マーナは、ハアアと長い溜息を吐き出した。
「それも、そなたが約言までにラージャ殿を捕まえられなかったこと、マーナちゃんの失態でもあろう?」
 にんまりと婆さんは笑った。
「白眉婆様は手厳しいですわね…。ま、事実だから仕方はありませぬが…。こやつが邪魔だてさえしなければ、捕まえられたものを…。」
 と恨めしそうに乱馬を見た
「その恨みったらしい瞳は何だ?だからぁー、俺は無実だっつーのっ!」
 乱馬がマーナを見返した。
「ま、ぐだぐだ言うていても始まらぬわい。どら、ワシらがこやつを鍛えて勝たせてやれば、全て丸く収まるのじゃろう?」
「ええ、お願いしますわ。ほら、乱馬、あなたもお願いなさい。」
「頼むぜ、婆さん。俺もこのままじゃ終わらせるつもりはねえ…。きっちりと借りは返さねえとな…。」
 乱馬も珍しく神妙な面持ちで、頭を垂れた。
「そうさなあ…。ま、暇つぶしにはなろうかのう…。満月まで後七日か…。ちと厳しい修行になるが、それで良いかの?」
 乱馬へと問いかけた。
「良いぜ、修行が大変なのは当たり前のことだろ!」
 と即答した。
「どのような試練にも耐える勇気と知恵、そして決意はあるのじゃろうな?」
 婆さんは乱馬を見下ろした。
「勿論だ。修行が一筋縄じゃいかねーのもわかってる。」
「良かろう…。じゃ、マーナちゃん。このハゲ坊主、一週間、ワシが預かってやる。おまえさんは白虎と一緒に、七日後にここへ迎えにおいで。」
「はい、くれぐれも、殺さぬ程度にお願いいたしますわ。」
 と物騒な言葉をさらっと言いのけた。
「ああ、任せておけ。では、参ろうかえ?ハゲ坊主。」
「だから…俺の名前は…。」
「悪い、悪い、ハゲ乱馬殿。」
「このー!いい加減にしろよ!ハゲ、言うなーっつーのっ!」
「つべこべ言わずに、一緒に来い!軽口など、叩いておる暇などないぞ!そうらっ!」
 そういうと共に、乱馬の背中に杖を引っ掛けると、そのまま、持ち上げた。
「うわっ!」
 手足をばたつかせながら、すいっと婆さんと共に空へと舞い上がる。
「後は白眉婆様に、全てをゆだねまする。乱馬殿、そちのその強肩に、許婚や私、そしてラージャ様と蒼龍国の行く末が定まるということをゆめゆめ忘れぬように!」
 マーナは、遠ざかる二人に向かって、そう叫んだ。
 
 遥か向こうへ見えなくなると、ふうっと、思わせぶりな溜息を、吐き出した。

「さて…。乱馬殿は無事に戻って来られるか…。白眉の修行に、音を上げなければ良いが…。」
 少しばかり不安げな表情を浮かべたが、それも束の間。
「あまり思い悩んでも仕方あるまいよ。さて…わらわは天道家にて、一週間待つことにしましょうか…。果報は食って寝て待て…ですわ。」
 すっと、手を上に差し上げると、あら不思議。マーナの姿は賽の河原から、消えてなくなってしまった。


 一方、空飛ぶ乱馬といえば…。

「畜生。一体何だってんだーっ!」
 雄叫び声と共に、ぐんぐん引っ張り上げられていく乱馬。
「こらー!婆さん、何処へ連れて行く気だよー!」
「知れたこと。我が邑(むら)へに決まっておろう?美人がわんさかおるぞー。楽しい修行の始まりぞ!わっはっは。」
 婆さんは豪快に笑いながら乱馬の手を引いて飛び続ける。その速さたるや、ジェット機の翔ぶ様のようにも思えた。何より、空中高く引っ張られるまま飛んでいる故に、息をするのも苦しかった。もしかすると、空気が薄いのかもしれない。
 何より、頭の方がすこぶる涼しかった。いや、冷たく感じた。何分、今はつるっぱげ。頭皮に直接、上空の冷たい空気が当たるものだから、心まで冷え冷えとなってくるような気がした。
「婆さん、どこまで行くつもりだ?」
 薄い空気を吸い込みながら、乱馬は先を飛ぶ白眉婆さんに声をかけた。
「もうすぐじゃ。ほれ、あそこ。」
 婆さんは川沿いにある平野部を指差して見せた。そこには集落がある。
「あそこか?」
「おうさ…あの邑里で修行じゃ。」
 そう言いながら、婆さんは乱馬を引っ張ったまま、下降し始めた。
「さて、楽しくも苦しい修行の始まりじゃ…とその前に…。」
 婆さんは楽しそうに乱馬にそう言うと、山脇から流れいずる泉へと乱馬を投げ込んだ。
 
 ばっしゃーん!

 身体ごと泉に落っことされた乱馬は、みるみる女体に変化した。

「最初から男の姿じゃったら、身が持たぬだろうからなあ…。暫し、女の形で居るがええ。」
 婆さんは泉の水面から水浸しになって飛び出した女体乱馬を見ながら、大笑いで笑い転げた。

「一体、何だってんだよ!」
 ずぶ濡れになりながら、乱馬は婆さんを睨み上げた。

「まあ良い。そろそろ行くかの?」
 婆さんはふわっと空へ浮き上がり、水中から乱馬を引き上げると、再び飛び上がった。
「覚悟せよ。乱馬よ。生半可な修行ではないぞ。」
「わかってらー!んなの!」
「ははは、では行くぞ!」
 婆さんは愉快げに笑いながら、乱馬を邑里へと連れて入った。

 何故、女性の姿にされたのか、その理由は、後に思い知らされることになろうとは、このときの乱馬には予想すらつかなかった。
 とにかく、とんでもない修行の始まりだった。



つづく





 
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