#6 カノン


「てめえっ!あかねっ!いきなり何しやがるっ!」
 突然浴びせ掛けられた熱湯に乱馬は猛然とあかねに抗議の言葉を投げつけた。
「何よ…猫、猫って怖がってたくせに。だから、元に戻してあげてんでしょ?感謝されこそすれ、抗議される謂れはないわっ!」
 あかねも負けじと言葉を返す。
「何が気を利かせただ…この、あばずれ女っ!」
「何よっ!変態男っ!」
「あんだと?俺の変身は体質だっ!変態じゃあねえっ!」
「同じことじゃない…。鼻の下伸ばしちゃって。」
「おめえだって、ベタベタしてるじゃねえかっ!」
 二人は溜まっていたウップンを晴らすように、喧嘩を始めた。こうなってくると止める手立ては無い。いつのまにか剣兄妹が傍に来ていたことさえも気がつかなかった。
「何よっ!シャンプーやうっちゃんまで巻き込んじゃってさ。」
「ヤキモチやくのもいい加減にしろよ!」
 「誰があんたなんかにヤキモチなんかやくもんですかっ!」
 あかねも乱馬も互いの顔を真っ赤にしながら言葉を投げ合う。
「あの…。」
 卓也が痺れを切らして離し掛けた。
「お二人って知り合いなんですか?」
 麻衣子も意外そうに顔を向けている。
 乱馬とあかねは、はっとした表情を浮かべて、そのまま黙ってしまった。
「何だ・・それならそうと、言ってくれればいいのに…。」
 卓也は白い歯を見せて笑った。
「あかねさんも風林館の生徒だって言ってたから、知り合いだったとしても不思議じゃあありませんよね。」
 麻衣子も同調した。
 乱馬とあかねはバツが悪そうに、顔を叛けた。まさか、同じ屋根の下に住む「許婚同志」ということを言える雰囲気ではなかった。
「さあ、デートの続きっ!楽しもう、楽しもうっ!」
 卓也はそう言って、あかねの肩に手を置いた。
 乱馬はその様子を見てムッとした。が、彼の傍にも、また、麻衣子が微笑んでいた。
 乱馬もあかねもそれぞれの意志とは裏腹に、気の無いデートを続ける羽目に陥っていた。互いのパートナーの密着度に心中はとても穏やかではいられない。決して穏やかに楽しめる筈も無く、苦虫を潰したような感情を心に押し込めて地獄のような時間を過ごした。
 卓也も麻衣子も屈託が無く、良く笑いよく喋った。二人には、それがまた、苦痛の種であった。
 ティーカップに乗り、ゴーカートに乗り、ジェットコースターに乗り、空飛ぶ絨緞に乗り、回転ブランコに乗り…。
 これが、二人きりの時間ならどんなに楽しいだろうと、互いの心ではそんな本音が零れていたが、億尾にも出さずに悶々とダブルデートを続けていた。
 
 卓也も麻衣子も人懐っこい性格をしており、饒舌で親切だった。
 あかねも乱馬も互いに、彼らを騙しているような後ろめたさを感じない訳でもなかった。
 あかねはた卓也に愛想笑いをして、その場を乗り切ろうとしていた。乱馬との重苦しい共有の時間を少しでも和らげようと彼女なりに必死だったのだ。
 乱馬は乱馬で、そんなあかねの姿が、自分へのあてつけのように思えてならず、仏頂面を決めこむ。
 ちぐはぐな二人のメロディーは虚しく秋の青空に響いていた。
 同じ旋律をなぞりながらも、決して同化しないカノンのように…。追いかけっこ。

 夕方近くなって、日が傾き始めた頃に、卓也がそっと言った。
「ぼちぼちそれぞれ別れて過ごしてもいいかな…。僕はあかねさんと、麻衣子は乱馬くんと。どう?」
 乱馬とあかねの顔が一瞬だったが、引き攣った。
 どんな状況下においても、互いの許婚を他の異性と二人きりに出来るものではない。乱馬は乱馬の、あかねはあかねのそれぞれの想いが逆走し始める。
 だが、どこまでいっても不器用な二人は、互いの心の内をなかなか見せようとはしないのだった。
 
 結局、卓也と麻衣子に押しきられるままに、乱馬とあかねは「別離」を強いられることになった。

「じゃあ、後で出口で会おうっ!」
 そう言ってお互い別れ出す。
 あかねは卓也にエスコートされながらも、ときめかない自分を感じていた。
 卓也が気に入るとか気に入らないとかいった問題ではないのだ。そう、自分の傍にいて欲しいのは、卓也じゃない。乱馬なのだ。
 夕なずんでゆく、園内を歩きながら、あかねは口を閉ざしていった。
 卓也はそんなあかねを見てそっと言葉を返した。
「あかねさん…。どう?これからもずっとこうやって僕と会ってくれないかな?」
 卓也は優しげにあかねに向き直る。
 あかねは卓也を見上げた。
「あたしは…。あたしには…。」
 乱馬という許婚がいる。そう、どんなに優柔不断で素っ気がなくても、彼を置いて以外の男の子と付合う気持ちはさらさらない。
 はっきりと断わろうと向き直った途端、あかねたちの前に数人の男たちが詰め寄って来る気配を感じた。

「いい気なもんだな…。おまえさんたちよぉ…。」
 背後から突然、低い声が響いてきた。
「き、君達は…。」
 卓也の顔が一瞬曇った。
「おうさ…覚えていてくれたようだな…。」
「この前は随分いたぶってくれたじゃねえか…。お兄さんよう。」
「あの時の不良グループの…。」
 あかねも卓也に同調し目を見張った。そう、目の前に現れた男たちは、卓也と知り合うきっかけを作った、商店街の不良たちだった。



つづく




カノン
音楽用語。輪唱のこと。
同じフレーズを何小節か遅れで追い掛けてゆく演奏形態。
有名な曲としてはパッフェルベルの「カノン」。
これは3台のヴァイオリンが2小節遅れで同じフレーズを追い掛けています。私も何回か演奏したことがあります…ヴァイオリンでも、なんとか弾ける数少ない私のレパートリー曲。
弦楽合奏で演奏するときこの曲のヴィオラは地獄です。ずっとピチカートで弦を弾いてます…途中で何処を弾いているかわからなくなるような楽譜です…。チェロはもっと地獄かな…同じ2小節を延々と繰り返すから。


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