#2 秋風のディヴィジ


「乱馬がラブレター貰ったんだってよ…。」
「あかねと許婚解消するらしいぜ…。」
 悪事千里を走る…。兎角人の世は耳にした噂を広めたがるものだ。ことが色恋沙汰になると、咎を立てたがる。
 乱馬のラブレター騒動は、瞬く間にあちこちへ知れ渡ってしまた。

「ねえ、乱馬くん。噂の真相はどうなの?もう、そこら中の話題の種よ。」
 何処で聞き付けて来たのか、なびきがフイと部屋に入ってきた。
「うるせえーっ!関係ねえだろ…。たく、俺が何しようと。」
 床に寝そべりながら乱馬が憮然とした表情で答えた。
「もう…。まだ、あかねとドンパチやってるのね…。どうするのよ。ラブレターの彼女。」
 乱馬はうざったいとでも言いたげな表情をなびきに向けた。
「このままほっとく訳じゃあないでしょうね…。この子だって本気でしょうし…。」
 いつの間に取ったのか、なびきがラブレターの封を切って読み始めた。
 乱馬は取り返すでもなく、相変わらず寝転んだまま黙っている。
「まあ、いいわ。決めるのはあんた自身だものね。周りがとやかく言っても始まらないか…。でも、開いた口は早めに繕っとかないと、後で痛い目にあうわよ。現にお父さんたちだって黙っちゃいないだろうし…。」
 その通り。なびきがそう言い終わらないウチに早雲と玄馬が乱入してきた。
「ら、乱馬くんっ!!どう言う事だね…。」
「乱馬っ!!貴様何を考えとるっ!!」
 あかねとの婚儀を夢見ている二人の父親の剣幕は尋常ではない。早雲などは、顔面を精一杯部屋中に広げて、化け物状態になりながら浮遊させている。
「どうにも、こうにも、親父達には関係ねえよっ!ほっといてくれっ!!」
 乱馬はますますヘソを曲げて、プイッと横を向いてしまった。
「こりゃあダメだわ…。」 
 なびきが苦笑して、血相を変えて佇む父親をなだめた。
「そうね…乱馬くんとあかねちゃん、二人の問題になるから私達は黙っておいた方がいいでしょうね。」
 かすみが珍しく神妙に後ろから声を掛けた。
「お姉ちゃん…。あかねはどう?」
 なびきが聞くと、かすみは溜息を吐いて首を振るった。
「そうか…。あの子も頑固なところがあるからなあ…。」
 一人楽観しているのは、乱馬ののどかくらいだっただろう。凡そ乱馬の母、のどかには二人の揉め事など何処吹く風の些細な出来事にしか感じられなかったのだろうか。
「時がくれば解決するわよ。乱馬もあかねちゃんも頑なになっているだけで、心まで変わってしまった訳ではないわ。ちょっと時間がかかるかもしれないけれど…。」
 そう言ってさばさばしているところは流石と言っても良かろう。

 実際、乱馬はどうしたもとかと考えをあれこれ巡らせていた。
 貰ったラブレターには女の子の想いのありったけが感じられて、反古にしてしまうには心の呵責が重過ぎた。心が例えその子の上に無くっても、こういう恋文は厄介では有ったが嫌なものではなかった。いい加減と思われるかもしれないが、心を寄せてくれる異性がいるというだけで、なんだかいい気分になるものだ。
 何度も書き直した後のある便箋には、「日曜日、たとえ一度きりでもいいですから一緒にデートして下さい。」と懇願の文章が綴られていた。
 断わるにしても、やっぱり自分の口から言った方が、後腐れもないだろう…。
 乱馬はふっと溜息を吐きながら考えた。
 ただ、あかねがどう思うか…。
 彼の思考の中に「あかね」の存在の割合が占める領域は大きい。
 喧嘩さえしていなければ、もっとフリークに物事を考えられたのだろうが。あまつさえ夕食の時だって、ずっと黙ったまま視線を合わそうとしないのだ。ピリピリした空気が家族にも伝わって、美味しい筈のかすみとのどかの料理が味気なく感じた。

天井をぼんやり眺めながら考え倦んでいると、突然扉が開き、Pちゃんが飛び込んできた。
 乱馬を見るなり物凄い勢いで飛びかかってきた。
「てててっ!何しやがるっ!このブタ野郎っ!!」
 乱馬はヒズメ攻撃を加えてくるPちゃんを必死で牽制する。
「ブヒーっ!ブブブヒヒヒ――ッ」
 Pちゃんは攻撃を弛めようとしない。絶えかねた乱馬は部屋を出て、風呂場へ走った。Pちゃんはそれを遅れまじと駆けてついて来る。
 乱暴に風呂場のドアを開けると、乱馬は続いて入って来たPちゃんの首根っこを掴まえると、ザブンと湯船に投げつけた。
「ぶひひーっ!じゃ、わかんねえんだよっ!ちゃんと人間に戻って喋れっ!」
 湯船から良牙がにゅっと姿を現わした。
「乱馬っ!貴様…。」
 良牙は尋常ではないくらい怒りに燃えている。
 乱馬のチャイナ服を摘み上げると、勢い込んで話し出した。
「おまえ…。どういうことだっ!」
「まあ、落ちつけ…良牙…。ここじゃあなんだから俺の部屋へ来いっ!着替えこれでも使って…。」
 自分の下着を投げつけると、乱馬はやれやれという表情を良牙に向けた。
「乱馬…。おまえ、ラブレター貰ったって本当か?」
 良牙は乱馬に投げられた下着を着ながら話し出す。
「ちぇっ!あかねの奴、おまえに話したのかよ。」
 乱馬は口を尖らせながら呟く。
「ああ。Pちゃんになった俺にとうとうと話してくれたぜ。いろんなこと。」
「それで、おまえは怒ってるって訳か…。」
 乱馬はやれやれという表情をしながら良牙を見た。
「バカッ!それくらいのことなら俺だってこんなに怒らんわいっ!第一、おまえが他の女に乗り換えたら、好都合じゃあねえか…。」
「イヤにはっきり言いやがるなあ…。」
 乱馬は苦笑しながら良牙をしげしげ眺めた。
「おまえと学校で別れたあと、あかねさんの身の上に何が起こったと思う?お、俺はその件で貴様に用があるんだっ!!」
 良牙は顔を真っ赤にしながら乱馬を見返した。
「あん?」
 乱馬は良牙の意図することが汲み取れずに、素っ頓狂な声を出した。
 そこへ玄馬パンダがひょいと顔を出した。大方風呂に入りに来たのだろう。
「まあいい…。ここじゃなんだから、こっちへ来いっ!」
 乱馬は良牙を引き摺りながら風呂場を出た。
『よー、良牙くん。元気か?』
 玄馬パンダは振り向きざまに看板を掲げたが、乱馬は
「見りゃわかんだろっ!元気モリモリだぜっ!」
 乱馬は良牙を急き立てるようにその場を去っていった。
『なんだ?まっいいか・・・。』
 お気楽な玄馬パンダは言葉の代わりにそう看板に書き足して二人を見送った。

 実際、良牙の持ち込んできた話は乱馬にとっても一大事には違いなかった。
 良牙が変身したPちゃんにあかねがいろんな出来事を語って聞かせてくれたのだという。
 それによれば、級友たちと学校帰りに立ち寄った商店街の奥で、不良グループに絡まれてしまったという。モチロンあかねの武道の腕前を持ってすればそん所そこらのチンピラ高校生たちなど、問題外なのだろうが。たまたま居合せた大学生に助けられたらしい。彼もまた、武道を嗜んでおり、あかねの目の前で不良達を粉砕していったそうだ。
「で、それがどうしたんだよ…。」
 乱馬は畳の上に座り込んで良牙を覗きこむ。
「おまえは呑気だなあ…。その男があかねに交際を迫ったらどうするんだよ。」
「あん?」
「だから、その男、あかねさんに一目惚れしたらしい…。」
「まさか…あんな不器用でかわいくねえ女なんかに一目惚れする奴がいるわけねえだえろう。」
 乱馬は軽くいなした。俄かに良牙の話が信じられなかったからだ。
「かわいくねえ…なんてうそぶいているのはおめえくらいのもんだろうが…。あかねさんは可愛いぜ。それになんだ。そいつ、今度の土曜日に一度でもいいからデートに誘っちまったらしい…。」
「どれがどうしたっていうんだよ…。」
 乱馬は何だというような顔をした。あかねがそんなものを受けるはずはない。当然乱馬はそう思った。彼女が雰囲気に流されるような軽い女ではないからだ。
「だから、おまえは脳天気なんだよ…。」
 良牙はやれやれといった表情を乱馬に向けて続けた。
「おまえ…なあちっとは深刻に考えろっ。あかねさん…こともあろうにそのデートの申し出を受けたんだぜ…。」
 乱馬にとっては晴天の霹靂。さっと血の気が顔から引いてゆくのが自分でもわかった。
 一瞬思考が止まった。
「ま、まさか…。」
 少し間を置いて、口を開いた。
 乱馬は良牙の言葉に明かに動揺し始めていた。
「俺もあかねさんらしくない軽薄な行動だと思ったんだ。それで、Pちゃんとしてあかねさんの心の内をずっと聞いてやっていれば…おまえ…。ラブレター貰ったっていうじゃねえかっ!えっ!わかってんのか…。その意味が。」
 良牙は悔しそうに乱馬に詰め寄る。
「おまえなあ…。最近ずっとあかねさんのことほったらかしにしてたんじゃあねえのか?え?心替りしたとか…。冷たくあしらったとか…。」
「アホ抜かせっ!俺がそんな…。」
 と言いかけて乱馬は黙ってしまった。良牙に心の内を打ち明けてどうするという防衛本能が働いたのだ。
「別にいいじゃねえか…あかねがその気なら…。」
 乱馬はボソッと言い放った。
「乱馬、てめえ…本気でそんなこと言ってるのか?あかねさんはおまえの許婚だろう?」
 良牙がにじり寄って問い詰めた。
「うるせえ…許婚ったって親が勝手に決めただけで…。あかねが何処の誰と付合おうと、それはあかね自身が決めることだろう?そいつとデートするっていうのも、あかねの意志ならガタガタ言ったところで仕方ねえじゃねえか…。」
 乱馬は良牙に向かって冷たく言い放った。それは良牙にではなく、まさに自分自身に向かって解き放った言葉だったのかもしれない。
「おまえ…あかねさんが他の誰かに持っていかれても平気なんだな?」
 良牙は険しい表情を乱馬に向けた。
「だから、持って行かれるもなにも…俺たち二人の間には何もないんだから…。」
 乱馬は答える。
 そうなのだ…。「許婚」とは言っても、確たる愛の証を持っている訳ではない。いつも一緒にいるくらいで、愛の言葉を直接、あかねに囁きかけたこともない。勿論、あかねの気持ちを確認した訳でもない。
 つかず離れず…ただ傍にいる。そんな関係に甘んじてきた。
 手の届くところにあかねが居て、そして自分も居てやって…。時々見せるお互いの気持ちの片鱗にドキドキするくらいで…。
 確証がなくてもそれで良いと思っていた。いつでも手を伸ばせばあかねの心に触れることができると思っていたから。確認しなくても大丈夫だと思っていたから。あかねの愛を疑うことなど出会ってそして好きになってからこの方考えたこともなかった。勿論、自分の愛も揺らぐことはないと思っていた。
 でも、それは只の思いこみなのかもしれない…そんな不安が急に乱馬を駆りたて始めた。
「おまえの気持ちはわかった。」
 良牙は憮然として立ちあがった。
「これだけは言っておく。俺は、見知らぬ男にあかねさんを持って行かれるのは釈然としねえ…。俺なりに行動を起こす。」 
「ああ、それはおまえの自由だ。俺がとやかく言うことじゃねえからな…。」
 乱馬は後ろをくるりと向いたまま良牙に言葉を投げつける。
「もっと自分自身に素直にならねえと…後悔するぜ・・乱馬。」
 良牙はそれだけを言い含めるとガラリと窓を開けた。風がすっと吹き込んでくる。
 良牙は乱馬を一瞥して、開けた窓から身を乗り出し立ち去った。

『素直にって言ったって・・・』
 良牙の気配が消えてからも、乱馬はずっと動かずに胡座を組んでいた。
 あかねの笑顔を自分の前から消し去ることなど考えたこともなかった。他の男のために微笑みかけるあかねなんて…。絶えられないことはわかっていた。わかってはいたが…。
『そいつとデートするっていうのも、あかねの意志ならガタガタ言ったところで仕方ねえじゃねえか…。』
 良牙に言い放った言葉が頭の中を巡るように反芻し始める。
 あかねがPちゃんに向かって囁いたことだから、多分本当のことだろう。Pちゃんの正体が良牙だと知らないあかねは、気軽な話し相手として心を吐き出すことがあるらしい。自分で確かめても良かったが、今の雰囲気では聞き辛い。聞いたところで「あんたには関係ないでしょうっ!」というキツイ言葉が返ってくるのが関の山だ。一度そうだと決めた以上、テコでも変えないのがあかねである。また、乱馬自身も優しく止めだてするほど器用な男ではなかった。

 良牙が去った後の窓辺から、秋の夜の冷気がさーっと流れ込んできた。
 あかねと自分の間に吹き始めた秋風。
「ちぇっ!いいさ…おまえがその気なら・・俺だって…。」
 乱馬は無造作に机に投げていた例のピンクの封筒を握り締めた。
 それは初めて己自身の中の揺らめきを覚えた瞬間だったのかもしれない。



つづく




ディヴィジ(divisi)
音楽用語。
一つの楽器群を2つ以上のグループに分けて演奏させる形体の指示用語。
特に弦楽器群への分奏指示に多く使われます。
オーケストラの弦楽器ではアウト奏者(舞台の客席側奏者)が上部、イン奏者(舞台の中央側)が下部を引き分けるのが基本となっています。

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