◆金木犀の鎮魂歌(レクイエム)


 乱馬画が早朝のロードワークから帰ってくると、既にあかねは家を出ていた。
 あかねのいない天道家の食卓は霞んで見える。
「あかねは?昨日あれからご飯を一口も食べていないのではないのかね?」
 起きたばかりの早雲が新聞紙を広げながら給仕をしているかすみに問い掛けた。
「ええ…。今日は用事ができたからってもう、着替えて出て行ったのよ。」
 かすみは茶碗を父に渡すと
「あ、そうだわっ!」
 と手を打って、おもむろに白い封筒を乱馬に差し出した。
 封筒の表には黒々と「欠席届」という文字が浮かび上がっていた。
「乱馬くん…。これ、お願いしていいかしら。」
「欠席ってあかね…が?」
 乱馬は意外な顔をして問い返した。
「ええ…。それと、乱馬くん…。」
 かすみは何かを乱馬に言おうとしたが、
「いいわ。私が頼むべきことではないわね…。お茶入れますね。」
 そう口を紡ぐと、かすみはポットを取りにお勝手の方へと下がって行った。

 昨晩、あかねに一本の電話が掛かってきた。夕食時にかかってきた受話器を受けてから、あかねは自分の部屋へ篭ってしまった。夕食の最中だったのに、あかねはそれから階下へはおりてこなかった。食べかけのお膳がずっと後に残っていたが、かすみが呼び掛けてもあかねは力なく
「要らないから…。」
 とドアの向こうから返事をするだけだった。
 電話の応対に出た、かすみはどうやら事情が飲み込めていたらしく、それ以上何も彼女に言わなかったし、家族にも何も話さないでいた。父親の早雲が大層気に留めてはいたものの、
「大丈夫よ…。」かすみはそう言って笑うだけだった。
 …何かあったな…
 乱馬は心の底では心配してみたものの、かすみが「大丈夫」というお墨付きを言い渡したので、それ以上深くは立ち入らなかった。天道家においては「かすみのお墨付き」には絶対的な価値があったからだ。それだけではなく、あかねが黙って部屋に閉じこもってしまった以上、許婚の乱馬でも取りつく島がなかったのである。

 かすみが言い出しかけて飲み込んだ言葉も気になったが、それ以上に「欠席届」という封筒の文字がやたらに大きく目に突き刺さってくる。
 …何だよ…あかねの奴…
 乱馬は面白なさげに呟いて、封筒を無造作に鞄に詰め込んだ。

 
 あかねがいない通学路は無味乾燥の世界を歩いているようでつまらなかった。いつもは見下ろすあかねの姿。時には喧嘩しながら、時には時間を気にして走りながら行く朝の光の中。あかねのいない空白。どこからともなく香ってくる金木犀に、突き抜けるような秋の青空は一層高く感じられた。
「おはようっ!あれっ?あかねは?」
 寄って来るクラスメイト達は口を一様にあかねの不在を訝しがった。
「知らねえよ…。」
 乱馬は不機嫌そうに問い掛けに答えてゆく。
「風邪でもひいたか?」
「知らねえったら…。」
 本当に知らされていないので、そう答えるしかない自分がもどかしかった。
「早乙女ーっ!!あかねくんはどうした?一緒じゃあないのか?」
 校門前では九能がいつものように木刀を振り回しながら絡んできた。
「うるせえーっ!」
 そう叫ぶと一撃で粉砕した。
 …あーっ!どいつもこいつも、あかねがいないだけで何で俺がこんな気分に苛まれないといけねえんだよっ!!…
 乱馬のイライラは教室に着くころには頂点に達していた。
「おはよう、乱馬くん。あ…あかね…やっぱり休んじゃったんだ。」
 ゆかが一人きりで教室に入ってきた乱馬を見咎めながら問いかけてきた。
『やっぱり』という言葉に反応した乱馬はゆかの顔を見返した。
「どういうことだ?おまえ、なんか知ってるのか?」
 乱馬は次の瞬間、ゆかに問い掛けていた。今朝から、いや昨夜からずっとわだかまっていた謎に辟易していた彼は、ゆかに真相を問い質した。
「あれ?乱馬くん…あかねの傍で慰めてあげてたんじゃあないの?」
 ゆかが意外そうな顔をした。
「あん?」
 乱馬はゆかの言葉の意味が見えてこず、思わず訊き返していた。
「あかねね、中学の時に可愛がっていた後輩が死んじゃったのよ…。」
 え…?
 乱馬はゆかの言葉に耳を疑った。頭を揺さぶられるような衝撃的な言葉だったからだ。
 ゆかは、とうとうとあかねの不在について語り始めた。
 彼女の話によると、あかねは中学時代、陸上部に所属しており、その運動神経の良さから都内でもかなりのレベルまで走れた中距離スプリンターだったらしい。運動神経抜群のあかねは引き手数多の人気者だったが、必須だった中学時代の部活は個人技に重きを置いていた「陸上」を選んだと言う。走り込むことは、武道でも合い通じるところがある。あかねのいた中学には女子の武道系の部が剣道以外になかったため、彼女は自ずと陸上を選んでいたという。
 その中においても、並以上の運動能力を発揮していた彼女は、女性徒、特に後輩からの信頼も厚く、人気者だった。
「彼女、人望も厚くてね、中でも、ちいちゃんて呼ばれてた可愛い子がいてね、その子がとってもあかねのこと慕ってたのよ。天道先輩天道先輩って。人懐っこい子でね、いつもあかねにくっついてたの。あかねも「ちいちゃん」て呼んで可愛がってたわ。一つ年下でね、相談なんかにも時々乗ってたんじゃないかしら。あかねって乱馬くんも知っての通り、姉御肌的なところも持っているから。何より優しいし…。高校は風林館じゃなくて陸上部の強いところを選らんで進学したし、家も郊外へ引っ越しちゃったから、最近はご無沙汰してたみたいだけど。・・でもね、昨日、陸上部の後輩から連絡があってね、ちいちゃんが昨日の朝練習中に倒れて、そのまま亡くなったって…。」
 ゆかも同じ陸上部に所属していた関係で、同じ電話を受けたという。
「あかね、ちいちゃんのこと可愛がってたからね…だからお葬式に行ったのね…。少し遠い町に越して行ったって訊いたから…。」
 乱馬は話を聞いているうちに、昨日からのあかねの豹変がこれでやっと理解できた。確かに何かに耐えているような素振りだったし、強がりのあかねのことだ。家族たちに余計な心配かけたくなかったか、涙を見せたくなかったから、部屋に閉じこもったり、朝早く出掛けてしまったりしたのだろう。
 しかし、謎が解けると、なんだか虚しくなってゆく自分を感じ始めていた乱馬だった。

 …なんで、俺に黙ってたんだ…

 別に言ってもらったからといって、慰められることができたのか疑問は残ったが、蚊帳の外に放り出された疎外感が乱馬を襲っていた。

 …俺ってあいつにとってどんな存在なんだろう…

 ぽっかり空いたあかねの席を横目で眺めながら、乱馬は一日、落ちつかない時間を過ごした。
 頼られている…と思っていたのはただの己惚れで、実際のところあかねは自分に対して何も期待していないのではないか。猜疑心とも遣り切れない怒りともつかない感情のわだかまりが脳裏へ湧き出してはぐるぐると駆け巡った。
 クラスメイトの雑談の中で、ようやくあかねの身の周りに起った異変を知らされた。それまでは、何も知らずに来た。きっとあいつのことだから、昨夜はまんじりともせず、泣き腫らして一晩を過ごしたに違いない。なのに俺ときたら…。

 ポケットに手を突っ込んで一人歩くいつもの帰り道。子供達の集団が乱馬が歩く川辺リの塀の横を駆け抜けてゆく。昼と夜の時間が彼岸で逆転してから、夕暮れが早くなったように思えた。つい最近まで生暖かかった風が、半袖では冷たく感じられる。確実に季節は移ろいでゆく…。
 …練馬(ここ)へ流れて来て、いったい、どのくらいの日が経ったのだろう…
 乱馬はふと小乃接骨院の大きな看板が目に入った。
 ふさふさした長い髪を靡かせながら闊歩していたあかね。東風先生への想いを断ち切るように髪を短くしたあかね。その面影を追い求めるように、乱馬はそこで立ち止まった。川辺リから吹き上げてくる風が火照った頬を掠めてゆく。
 何気に見上げる川辺りの道の彼方(あなた)から、見慣れた影が一つ。ふらふらと定まらない歩みが乱馬の目を釘付けにした。
 ふらふらとさ迷うように歩く足並みには精気が感じられなかった。色褪せた影を地面に落し、糸が切れた操り人形のように憔悴しきった細い身体。
 …あかね…
 近づいてくる痛々しい許婚のうな垂れた姿に、さっきまで思いあぐねていた「わだかまり」は掻き消される。
 あかねは制服姿だった。
 塀の上からじっと見詰める二つの黒い瞳に気付く様子も無く、あかねはただ、地面を見詰めて家路を辿っている。すぐ傍に来たとき、軽トラックがごとごととあかねを追い越した。その追い風を真正面から受けても、あかねは固く閉ざした表情を変えることなく、俯いたままだった。
 乱馬も微動だにせず黙ってあかねを見下ろしていた。
 そのとき、雲間から顔を出した夕陽が、塀の上の少年の影を照らし出した。目を落して、虚ろに地面を眺めながら、歩いていたあかねは、照らし出された影に、驚いたように歩みを止めた。その影にはくっきりとおさげが写っている…。
 あかねは、ゆっくりと視線を上げてみた。
 
 そこには、黙ったまま、真っ直ぐに見下ろす、見慣れたおさげ髪の少年がいた。
 …乱馬…
 あかねの目は、大きく見開かれた。
「ばか…。」 
 乱馬は擦れた声であかねを呼んだ。優しい単語一つも言い出せず、空回りする「言の葉」。でも、その響きの中には温かい乱馬の息吹が感じられた。
 乱馬の言葉を聴いて、あかねの目からは、大粒の涙がぼたぼたと零れ落ち始めた。押さえ込んできた感情が、乱馬を前にして一斉に溢れ出したのだ。こうなることを予測して、あかねは乱馬と顔を合わせるのを昨日からずっと避けてきたのだった。自分が自分でいられなくなったとき、自分の感情がコントロールできなくなったとき、乱馬に甘えてしまう。人の死をそうやって凌ぐのは、何故か不浄なような気後れがあかねの中にあったのかもしれない。
 然しもう限界だった。もう流れ出した感情の起伏を止めることはできまい。
 塀の上からふわりと舞い降りてきた乱馬に、吸い込まれるように飛び込んでいった。
 声にならない嗚咽を身体じゅうから絞り出しながら、あかねは乱馬の広い胸に顔を埋めた。
 彼女に起きた悲しみが波動を追うように乱馬に伝わってきた。人の死の傷みは想像を絶するほど大きいものだ。あかねを慰めようとか、優しくしようなどといった感情は失せていた。あかねの複雑な心情が説明できないように、乱馬の感情もまた言葉では言い尽くせない激情をほとばしらせる。
「あかねの…ばか…。こんなになるまで我慢しやがって…。」
 乱馬はもう一度反芻するとように吐き捨てると、いつしか柔らかくあかねを胸に包み込んでいった。
「ちいちゃん…ちいちゃん……。」
 あかねも、その大きな胸の中で、我慢していた全ての感情をぶつけるように天へ返る人の名前を幾度も幾度も囁き続けた。

 二人を更に見守る者。
 小乃接骨院の窓から優しく見詰める、姉のかすみの眼差し…。彼女の横には骸骨標本と戯れる東風先生の影。
 辺りにはどこからともなく甘く金木犀の香りが漂ってきた。惜しむらく沈んだ一つの星の輝きを偲ぶように。



 完




 金木犀。この花は地味な橙色の小さな花ですが、どこで咲いているかわからずとも、傍に木はあるんだという匂いの存在感があります。花は目立たないので「謙虚」という花言葉になるそうです。
 この花の香りをかぐと、「秋」の訪れを実感する私です。
 奇しくもこの物語のプロットを組み上げていた日(2000年9月25日)、兄のクラスメイトのお姉さんが亡くなったという一本の連絡網が巡りました。
 私は直接存知上げませんが、16歳の若き命を白血病で散らされたそうです。合掌。


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