◆秋雨
「ほら、傘持ってきてよかったでしょう…。」
いきなりの雨にあかねが勝ち誇ったように乱馬に言った。
「うるせえよ…。たく…。」
乱馬は苦笑しながらも、窓の外をし切りに眺めた。朝は晴れていたのに、昼前頃から曇り始めた。そして低く垂れ下がった雲間から雨が落ち始めた。
降出しは、つんと雨の匂いがする。地面が湿気る瞬間の濡れる匂いだ。
あれよあれよという間に、本降りになりはじめる。6時間目が終了する頃にはすっかり雨足も速くなり始めていた。
下駄箱には、傘がなく途方に暮れる生徒たちがタムロする。
その脇をあかねが通り抜けようとすると、ゆかとさゆりが困った顔をする。
「どうしたの?」
あかねが問うと
「うん、傘がないから濡れて行くしかないなって…。」
「私も傘を持ってくれば良かったなあ…。」
あかねは暫し思案していたが
「じゃあ、これ使いなさいよ。」
と言って自分の持って来た傘を二人に差し出した。
「でも、それじゃああかねが…。」
ゆかが躊躇いながら言葉を返すと
「いいわ。なびきお姉ちゃんと一緒に帰るから…。持って行っていいわよ。」
あかねが答える。出掛けに、かすみから傘を渡されたとき、姉のなびきも持っていたことを思い出したからだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて…。借りるわね。」
「サンキュー、あかね。」
クラスメイト達は口々にお礼を言って、下駄箱を後にした。
あかねはしばらく姉のなびきを待っていたが、なかなか現れなかった。
「先に帰っちゃったかなあ…。」
あかねはチラッと後ろを見返しながら、姉を待ったが、一向に埒があかなかった。
「おお、天道あかね。傘を持っていないのか?ならば、この僕と一緒に帰ろうか?」
九能が話し掛けてきた。
「いいです…。わたしはなびきお姉ちゃんと帰るから。」
やんわりとした口調で、でもキッパリと断わりを入れた。
「天道なびきはとっくの昔に帰ったぞ…。あてにしてもダメなのではないか?ならばやはりこの僕と…。」
九能が口元で微笑みながら言った。
そのとき後ろから声が掛かる。
「いいんだよ…あかねにはこの傘があるから…。」
そう言って黒い蝙蝠傘を差し出したのは乱馬だった。
「おまえ、あかねくんといちゃつきながら帰るのか?」
九能が激高し掛けるのを制しながら
「あほっ!俺は別の傘で帰るんでい…。」
「そうや、ウチの傘で帰るんやで…。」
後ろから右京が嬉しそうに言い放った。
「ならば、良い…また今度、一緒に帰ろうぞ…。」
九能は一応納得したのか、あっさりと引き下がって帰って行った。
「ほれっ!持って行けよ…。」
乱馬は無造作に傘をあかねの鼻先へと突き出した。
「何よ…それ…。」
あかねは複雑な思いで乱馬を見返した。やはり右京と帰る気でいるのか…
「乱ちゃん、そんならウチの傘へ…帰りがけにお好み焼きおごったるさかい…。」
「そりゃあ、ありがてえな…。」
お好み焼きの誘惑からか、乱馬が右京の申し入れを受けようとした途端、岡持ちを下げたシャンプーが現れた。
「乱馬ぁ…傘持って来たか?どうせ持ってないあるな…私出前の帰り。送って行くからこの傘に入るよろし…。」
どうやら、みんな考えることは一つらしい。
「ウチが先に声かけたんや…この泥棒猫っ!」
右京の罵声が響く。そして、いつものように乱馬をめぐる小競り合いをはじめた二人の少女たち。
あかねは愁傷な溜息を吐いた。
そして、差し出されたままの乱馬の傘を右手で払いのけると、そのまま、玄関を出ようとした。
「おい…。」
乱馬はあかねの肩を引いて留めた。
「何よ…いいわよ。シャンプーとでも右京とでも、好きなように帰りなさい。私は先に帰るから…。」
あかねは目先を乱馬に向けないで乱馬を振りきって前へ進もうとした。
「傘は持っていかねえのか?…折角、人が気をまわしてやってるのに…。」
乱馬が乱雑に言い放つと、
「大きなお世話だって言ってるのよ…。私はいいから、ほっといてっ!!」
「バカっ!そんなことしたらびしょ濡れになっちまうだろうが…。帰るんなら持って行けよ。」
「いいって言ってるでしょう…。」
「いいから、おまえだけでもさしていけ…。」
「いいってば…傘なんか要らないっ!」
あかねはだんだんヒステリックになっていく自分を悲しく思いながら、乱馬に向かって怒鳴った。意固地になっているのは、そう、右京やシャンプーへの嫉妬からなのだと、自分ではわかっていたが、感情の暴走は止まりそうになかった。一度言い出したことを引っ込めるほど長けた性格をしていない。このまま濡れて帰ったって構わない…。そう感情を追い立ててしまっていた。
乱馬もこなれたもので、あかねが一度言い出すとテコでも主張を曲げないことは良く見知っていた。口に出して「要らない」と言ってしまった以上、もうこいつは前言を覆さないだろう。そして、濡れたまま帰ってしまうだろう。たとえ理不尽な主張でも意地を張り倒すのだ。
そんな許婚を優しくカバーしてやる程余裕のない彼は、強行手段に出るしかない。意を決すると、黙ったままあかねの肩をぐいっと掴んで自分の傍に侍らせた。そして、大衆の面前で、事も無げに「帰るぞ…。」と一言低い声で唸って、ワンタッチを開くと雨の中へと一歩を踏み出した。
あかねは反論する余地もなく、肩を摘まれたまま、相合傘の状態で乱馬に無理矢理引っ張られて行く。
こうなると、取り残された右京とシャンプーは堪らない。後ろで何か怒鳴っていたようだが、雨の音にかき消されて、二人の耳元には届かなかった。
二人は黙ったまま、傘の下、黙々と家に向かって歩みを続けた。
端から見れば、恋人同志の相合傘。でも、実情は違っていた。
お互いムスッと唇を結んで、何一つ言葉を発しなかった。でも、乱馬が差し出した左手はしっかりとあかねの左肩を捉えていた。
女に変身するのを恐れる彼は、固くなりながらも、肩を窄め極めて不自然な体型で身を屈めて傘を差して帰路を急ぐ。あかねの身体の温もりを感じながらも、顔は明後日の方向へと向けていた。
あかねも、はじめは抵抗しようかと思いを巡らせていたが、いつになく、乱馬の腕が肩に食い込んでくるのを俊敏に感じ取っていた。口は頑なに閉ざされたまま、でも、悔しいが、心は少しずつ満たされてゆくのを感ずにはいられなかった。
…乱馬…また背が伸びたんだ…。
不埒(ふらち)にもそんなことを考えてしまったあかね。心なしか身体つきも精悍になったようだ。
…あかね…おまえの肩はこんなに小さくて頼りなかったっけ…
乱馬もひっそりと考え込んだ。左半身であかねを存分に意識していた。
…このままずっと守られて歩いていたい…
…このまま何処かへ連れ去ってしまいたい…
二人とも喧嘩中というシチュエーションなど、いつしか果ててしまった。
バラバラと滴り落ちる雨の滴は、傘下では遠い絵空事になりかけていた。
…わかってる。ホントは素直に自分を表現できないこと。さっき、一人で傘を差さずに帰りかけたのも、つまらない自尊心の背伸びだっていうことも…でも、乱馬も悪いのよ。はっきりしてくれないから。いつだって有耶無耶にはぐらかして、本当の気持ちの片鱗すら見せようとしない。だから私はあなたへの甘え方もわからない…
…わかってる。俺は不器用だから…ちゃんと心を表現してやれない。いつだって後先考えずに行動するおまえが危なっかしくって、俺がついててやらなきゃって思うのに…おまえだって悪いんだぜ。もっと素直なところ、いや、もっと積極的に甘えてくれたらいいのに。そしたらもっと優しくしてやれるのに…。
雨の滴は空の涙なのかもしれない。
素直になれない恋人達の流す涙。
水溜りに打ちつける雨の水音は二人の溜息なのかもしれない。
ピチャピチャと輪を描きながら広がる雨の溜息。
ならば、せめて、虚構で飾られた自尊心や猜疑心、嫉妬心をきれいさっぱり洗い流して欲しい…そう願わずにはいられない二人だった。
心の外側の遮蔽物を取り払ってしまえば、何のことはない、愛し合う素直な許婚同志の二人がいるのだ。
雨の中、続く沈黙にいたたまれなくなって、あかねは降参したように乱馬の胸の方へ上体を寄せた。乱馬の温もりは、冷たい雨の寂しさを紛らわすように暖かで和んだ。
身体を寄せてきたあかねに翻弄されるように、乱馬もまた、あかねの肩をもっと自分の方へと引き寄せた。頬に触れる髪の毛は柔らかでとてもいい匂いがした。
傘の中は暖かい心で満たされている空間に変わりつつあった。
傘を持つ右手があかねの頬に触れた。
気まずさから泳がせていた乱馬の視線は、自ずとあかねの方へと見向く。そして、あかねからは見えない位置にある瞳や口元は自然に笑みが広がった。少しだけ素直になったあかねを少しだけ優しい気持ちで包んでやれる優越感がこの上なく乱馬を幸せにしていた。
でも、その幸せは次の瞬間果てた。
トラックが轟音を靡かせて、大きな水溜りの傍を通り過ぎたからだ。
あかねの肩を見下ろしていた視線はいつしか低くなり、寄せていた頭は同じ高さへと変化を遂げる。そう、車輪水飛沫をマトモに受けてしまった乱馬は女へと変身してしまったのだった。
安堵の笑みは落胆のそれへと変わる。
「ごめん…。」
らんまは何故か、あかねに謝っていた。
…男のままずっとあかねとこうしていたかったのに…
謝罪のあとに続く言葉はぐっと咽喉の奥に飲み込まれた。
体質とはいえ、らんまは情けなかった。女に変化してしまっては肩を抱くこともできない。だから、肩を支えていた左手を離した。
「いいの…ありがとう。」
あかねも寂しげにくすっと笑った。
その笑顔に複雑な想いを描いたらんまは傘をそっとあかねの右手に握らせると外へ出た。
「らんま?」
突然の行為に目を丸くしたあかねが問い掛けると
「ここから先は濡れて行くよ。あとはおまえ一人が傘差して帰ればいいさ…。」
そう言いながら走り去ろうとしたのをあかねはぐっと引っ張って止めた。
「なら、あたしも…。」
と言い置くと、あかねは傘を窄めた。水が傘から滴り落ちてらんまの足元を濡らした。
「おいっ!」とらんまが制すると「いいの。」とあかねは言い切った。そして、周囲が不思議そうに振り返るのを気にもとめずに、雨の中を歩き出した。それから、あかねはらんまの細くなった腕をつかんだ。
「ね…たまには濡れて帰るのもいいじゃない…。」
あかねはらんまの手を握ると先に立って歩き出した。
「風邪ひいちまっても知らねえぞ…。」
らんまはそう言いながら雨の中で笑った。
「いいよ…らんまが看病してくれるんでしょ?」
あかねは制服をくるりと翻すと、雨の中を嬉しげに歩き始めた。らんまは後ろからその姿を見詰めると、楽しそうに笑った。
「いつか、完全な男の身体を取り戻したら、雨の中、存分に相合傘しような…。」
聞こえないくらいの小声で後ろから囁いた。
秋雨はしとしと空から降りてくる。
冷たい雨の滴…でも、今の二人には、心地良い。
そう、雨が二人の心を少しだけ綺麗に洗ってくれたから。
相合傘はおあずけ…でもいい。
ちょっとだけ素直な気持ちになれたから。
『傘、持ってきて良かった…。』
二人の心の囁きが、垂れこめた雨雲へとこだました。
完
一之瀬的戯言
変身体質の乱馬にとって雨って、きっとこんなふうに鬱陶しい存在なのでしょう。
記念的歳時記的短編の一作目…断わっておきますが、歳時記(だいありー)には「2000年〇月〇日」と記述がありますが、あく まで日記BBSの管理上についていた名残です。
なお、作者の私は筋金入りの雨女です。
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