巻八 都忘れ

一、

「まだ全て終わったわけじゃねえ・・・。」
 乱馬はそう言いながら目の前で蠢く邪神を見据えた。
「奴を封じねえと、幕は引けねえ。」
 静かにそう言い放った。
 あかね姫は闇の中に蠢く、その悪しき物体を見た。おどろおどろしく動き回るその本体はずっと後ろの闇の中にある。それが、もぞもぞと不気味な音をたてながらこちらへと少しずつ動いてくる。
「どうするの?」
 あかね姫は恐る恐る乱馬を見上げてそう言った。
「あれを封じる方法はただ一つ。誰かが結界を中からはらねえといけねえんだ。」
 乱馬は淡々とそう言い放った。
「結界・・・。」
 あかね姫はぎゅっと手を握り締めた。強靭な闇を遮断するためには、再び強力な結界を張らなければならない。
 「自己犠牲」
 そういう言葉が脳裏を掠めた。
 と、乱馬はふっと表情を緩めた。
「あかね姫・・・。ごめん・・・。本当の姿を隠して俺はおまえの前に居た。これが俺の本来の姿だ。嘘偽りのねえ・・・。」
 あかね姫はこくんと頷いた。
 乱馬との楽しかった少女の日々のことが走馬灯のように脳裏へと駆け上がる。そして、恋焦がれた早乙女の君のことも全てが彷彿と湧き上がってきた。
「やっと本当の口でおまえに言える・・・。嘘偽りのない言葉を、本当の声で・・・。」
 乱馬はやおらあかね姫を抱き寄せた。
 
「俺はおまえを・・・。愛してる。出合ったときからずっと・・・。想ってきた。」
「早乙女の君・・・。ううん、乱馬・・・。あたしもずっと前から・・・。」

 二つの魂がやっとここに出会えた。
 夢にまで見たあかね姫をやっとこの腕の中に収められる。それだけで乱馬は満足だった。
「あかね姫・・・。出会えて良かった・・・。」
 そう言うと乱馬はたっとあかね姫の身体を離した。
「待って、乱馬。」
 あかね姫はぎゅっと彼の着物を引っ張った。
「俺は行かなくちゃならねえ・・・。」
「分かってる。乱馬、あの邪神を葬るために闇へと身を投じる気でしょ?」
 乱馬はそれには答えないでじっとあかね姫を見詰め返した。
「私も行くわ・・・。」
「そればダメだっ!」
「どうして?」
「斎宮がこちらの世界に居なければ、完全に闇は閉じられない・・・。」
「でも・・・。」
 乱馬は静かに続けた。
「聞き分けろ・・・。あかね姫。おまえは斎宮だ。最後までその任務を忘れちゃいけねえ・・・。」
 邪神がごおおんと音を立てながらこちらへと牙を向けて近づいてくるのが見えた。
 乱馬はあかね姫を再びぎゅっと抱き締めた。今生の別れ。そう思うと切なな涙が頬を伝わる。
「あの闇を葬ってもとの世界へ帰れ・・・。あかね姫。」
「乱馬!」
「聞き分けろっ!これが俺たちの運命。だから黙ってそれを受け入れるんだ。」
 うおおおんと唸る闇が微かに耳に届いた。
 最早一刻の猶予も無い。


「そんなんじゃ、諦められはしませぬぞ・・・。早乙女の君、いや乱馬。」


 抱き合う二人の先で俄かに声がした。
「東風・・・。」
 乱馬ははっと我に返って辺りを見回した。
「早乙女の君・・・。その役目は私が・・・。」
 そう言うとたっと東風はあかねがつきたてた玉串を地面から抜き去った。
「何を?」
 乱馬とあかね姫が声を発した時には、新たな結界が目の前に張られた。白いもやが目の前に広がる。
「東風っ!おめえ・・・。」
 
 乱馬が結界を抜けようとしたとき、強い力が彼を押し戻した。
「あなたはあかね姫と現世へ戻りなさい。結界は私が張ります。そして闇を永遠に封じ込めます。かすみ姫と共に。」
 東風はそう言いながら柔らかに微笑んだ。腕にはさっきまで八鬼に操られていたかすみ姫を抱いていた。
「かすみ姫は再び息を吹き返す事はありますまい。八鬼が滅んだ今、彼女もまた永遠の眠りにつくのです・・・。やっとめぐり合えた彼女と共に私はここへ残ります。それが陰陽師としての私の最後の務め。おぬしたちにはまだ未来がある。私やかすみ姫の分も、きっと幸せに。」
「東風っ!!」
 乱馬は声を限りに叫んだ。
「閉じよ、闇・・・。永遠に、結界を越えることなく。」
 東風はそう言うと、闇の向こうへと消えていった。
 広がっていた闇は面白いようにピタリと閉じられてゆく。
「東風ーっ!!」
 乱馬の声が虚しく辺りに響いた時、歪んでいた空間は、見慣れた白壁の部屋へと変化した。白木作りの庵へと立ち戻ったのである。

 さっきまで広がっていた闇はどこにも無く、ただ何の変哲も無い静かな斎宮の頓宮へと立ち戻ったのである。
 見回すと、天皇と九能皇子がばったりと傍へ倒れていた。
 あかね姫はぎゅっと目の前に佇む乱馬の腕にしがみ付いていた。

「今度こそ本当に終わったのか・・・。」

 乱馬がふっと息を吐いた。


二、

「終わった・・・。全て・・・闇は閉じた。」
 そう言いながら立ち上がったのは蹲っていた天皇自身であった。
「父君・・・。」
 あかねははっとして父皇を見上げた。
「朕なら大丈夫。この通りぴんぴんしておる。あかね姫・・・。」
 優しい眼差しを娘に手向けた。
「良かった・・・。」
 あかね姫は父皇へとすがるとさめざめと泣いた。緊張が一気に揺らいだのである。
「これこれ・・・。あかね姫・・・。」
 父皇はあかね姫へ微笑みを返すと表情を緩めた。
 乱馬はその隙に乗じてそこをこっそりと抜けようと後ずさった。と、父皇がそれを咎めた。
「待て・・・。早乙女の君。どこへ行くのだ?」
 乱馬はビクンとして立ち止まった。そして続けた。
「私は早乙女の君では最早ありませぬ。早乙女の君はあの館炎上の折に炎へと消えました。ここに居るのは盗賊の早乙女乱馬。ここはそのような狼藉者が参る所ではありませぬゆえ・・・。」
 乱馬は後ろ向きでそう言い放った。
「そうか・・・。そなた宮中へ留まる気はないのか・・・。」
 乱馬はこくんと頭を垂れた。
「それも良かろう・・・。が、あかね姫を置いてゆくことは罷りならぬ。」
 きっぱりと父皇は答えた。
 びくんと乱馬のおさげが揺れた。
「お父さま?」
 あかね姫は不思議そうに父皇を見上げた。
「あかね姫・・・。はどうだ?そなたも乱馬の傍に居たいのであろう?」
 父皇は目を細めてあかね姫を見やった。
「どんな苦労も、彼と一緒なら乗り越えられる・・・。そう思っています。」
 あかね姫はきっぱりと答えた。
「それでこそ、斎宮を勤め上げた我が皇女。」
「しかし、私は一介の盗賊であれば、斎宮とは・・・。」
「添えぬと言うのか?」
 天皇はきっと言葉を返した。
 乱馬は手をぎゅっと握って言葉を継いだ。
「俺とて、あかね姫を連れて行きたい、その気持ちはあります・・・。でも、これから俺が踏み出すのは未開の地。そんなところへ姫を連れてゆく訳には・・・。」
「いかぬと言うか・・・。あかね姫はどうじゃ?」
「許されるものなら、私はついて行きとうございます・・・。偽りのない気持ちです。」
「ならば、行けっ!」
「お父さま?」
 あかね姫はきょとんと父皇を見返した。
「早乙女の君、いや、早乙女乱馬。そなたの想い、しかと見せてもらった。そなたにはあかね姫が必要だろう・・・。あかね姫にもそなたが必要と見受けた。どのような地の果てでも二人なら越えられぬ関はあるまい。二人とも私の血を受けた者たちじゃ・・・。新しい世界を切る開くが良い。」
 天皇はそう言うと愉快そうに笑った。
「父上、でも、さすれば、斎宮が・・・。」
 乱馬はくるりと向きを変えると、天皇は涼しげに言った。
「構わぬ・・・。あかね姫は、いや、斎宮は、魔物との戦いに命を賭して我を守ってくれた。立派にその務めを果たして行方知れずに・・・。それで良いではないか・・・。」
「しかし・・・。」
「それとも何か。九能皇子のような者に易々と手渡すつもりか?」
 天皇は笑った。
「乱馬・・・。連れて行って。あたしを・・・。世の果てまで。」
 あかね姫はそう言うと、やおら手にしていた短剣を髪に押し当てた。
 はらりと髪の毛が床へと落ちた。
「あかね姫?」
 乱馬ははっとあかねを見返した。あかねの緑なす黒髪は見事に切り取られていた。
 強い姫だと乱馬は思った。と同時に、たまらなく愛しくなった。
「わかった・・・。一緒に来いっ!その代わり、音をあげても俺は知らねえからなっ!」
 乱馬はにっと笑ってあかねを見返した。
「うん!」
 あかね姫は最上の笑顔を乱馬に手向けた。

 人の気配がそこここで感じられ始めた。
「魔物に眠らされていた者どもが起き出してきたようだな。さあ、行くが良い。」
 天皇はそう言うと高らかに笑った。
「父上、またいつかお会いしましょう・・・。都がいつまでも健やかであるように。あかね、行くぞっ!」
 乱馬は別れを告げるとあかね姫を抱き上げた。
 二人は深々と頭を垂れて父皇に別れをした。今生の別れ。再び合間見えることはないだろう。
 そしてたっとまだ星が瞬く深い闇に消えた。
「若者に幸あれ・・・。」
 父皇は二人の立ち去った後を見てそう嘯いた。
 


「本当に良かったのか?あかね・・・。」
 乱馬はじっと腕に抱いた姫を見返した。
「後悔はしてないわ・・・。どこまでも一緒について行く。」
 短くなったあかね姫の髪に乱馬はそっと手を置いた。
「髪、こんなに切っちまって・・・。」
「いいの。これで。髪が長かったら邪魔だもの。斎宮だった茜子はもうこの世から消えたの。今日からあたしは「あかね」として生きる。乱馬と一緒に・・・。」
 嬉しそうに微笑んだ。
 清き斎宮としてではなく、これからは一人の女として乱馬と共に生きる。
 そう思うと不思議と心は澄み渡ってゆく。何処にも迷いはなかった。
「ずっと傍に居てね・・・。あたしはもう、帰る場所もなくなったのだから・・・。」
「おまえが帰るところはここだろ?この俺の腕の中・・・。それでいいじゃねえか・・・。」
 そう言ってそっと触れる唇。

 乱馬の逞しい腕は柔らかくあかねを包み込み、芳醇な世界へと誘う。
 その腕に抱かれながら、あかね姫は甘い吐息を囁く。
 有明の澄んだ空気の中で、やがて二人は一つに溶け合っていった・・・。





 どこかで鶏がトキを作った。
 真新しい朝を二人で迎える喜び。まだ火照る身体には情熱の初夜の余韻が漲る。
 あばら家の蔀へと差し込む朝の光は神々しく二人を照らし出した。二人は遥か東の空を拝み見た。


 乱馬は射しかける光の中で、深いくちずけを一つあかねと交わした。
 もう離しはしない・・・。彼は心であかね姫にそう伝えた。
 あかね姫は長い接吻から解放されると、清々しいまでの微笑を返した。
 見詰め合う真っ直ぐな瞳に真新しい太陽が昇った。

「行こう・・・。仲間たちが待ってる。」
「うん!」
 手を引いて二人は新しい光の中へと飛び出した。
 二人の歩む道端に、都忘れの紫色の花がそっと風に揺れていた。


 
 その後の二人を知るものは居ない。
 東国へ渡り武士集団を作ったとも、東海へ渡り海賊になったとも言われているが定かではない。
 ただ、後世へ残された斎宮寮の記録にはこう示されていた。

 「斎宮茜子、事故により退下」と。

 春を時めく、今は昔の恋物語。








参考文献
「日本書紀」岩波書店・日本古典文学大系 上巻・下巻
「続日本紀」岩波書店・新日本古典文学大系
「斎宮物語」明和町教育委員会発行
「古語辞典」角川書店
この他に、一昔ほど前に、歴史小説を書こうとして調べまわったメモの破片(笑


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