◆飛鳥幻想
第六話 夜見魂依媛
十六、麻呂爺さんとの昼下がり
「なー、爺さん、助平なこと、考えてねーだろーな?」
「何かして欲しいかのー?」
爺さんがにやりと笑った。
「して欲しい訳ないだろっ!変なことしたら、ただじゃおかねーぞ、じじいっ!」
真赤な顔をしながら、乱馬が爺さんへと吐きつける。
「変なことって何じゃろな?」
爺さんが笑った。
「たく…何で俺なんだ?」
乱馬が吐きつけた。
「何の考えなしにつきあえと言ったとでも思っておるのか?おぬしは。」
爺さんは寝そべりながら、座っている乱馬を見上げた。
「じゃ、何か、訳でもあって、俺を選んだとでも言うのかよ?」
「然り。」
爺さんは頷いた。その頷き方に、乱馬の方が、驚いた。
「おい…マジかよ…。」
「ああ、大真面目じゃ。…ほれ、行くぞ。」
そう言うと、爺さんは先導して屋敷を出た。
「お…おいっ!どっか行くのかよ?」
慌てて乱馬はそれに就き従う。
昨日の雨とは打って変わり、今日は、どんよりと曇っている。太陽の光は薄雲の上から射しこめている。
ここへ来て初めて屋敷の敷地の外へ 天の香具山の方向へと歩き出す。初めて歩く道の筈なのに、初めてのような気はしなかった。そう、埋蔵文化財資料室の周辺の現世の景色と、見事に折り重なったのだ。
(やっぱ、古代だなあ…。田畑もねーや…。ただの荒地じゃねーか。)
ただ、少し、現代と違っていたのは、香具山の南西に沼地があり、蒲(がま)のような水辺の植物が、おびただしく茂っていた。
爺さんは、身軽に、沼地の脇を歩いて行く。人の往来はそれなりにあるのだろう。水草に足を取られない渇いた道筋が、しっかりと天の香具山へ向かって付いていた。
「なあ、どこへ行くんだ?散歩か?」
乱馬は問いかけた。
「ちょっと、偵察じゃ。」
爺さんは言った。
「で、何で俺が付き人なんだ?そろそろ理由を聞かせてくれても良いだろう?」
乱馬は爺さんへと声をかけた。
「訳は後で話してやる。そら、先を急ぐぞ。」
爺さんは小走りになって駆けだした。
「おいっ!こらっ!待てーっ!」
「ほっほっほ、若いくせに情けないのう…ほれ、かけ足じゃ!」
(やっぱ、この爺さん、只者じゃねー!)
乱馬は眼を丸くしながら、爺さんを追いかけるように駆けだした。そう、年の頃はとっくに六十は越えているだろうに、老人の走りではなかった。それどころか、乱馬よりも早いのではないかと思わせた。
(八宝斎のじじいと比べても、劣ってねーぞ…。この走り方…。)
得体の知れ無さを感じながら、乱馬は爺さんを見失わないように必死で駆けた。
古代の田舎道を駆け抜ける。
アスファルトに慣れ親しんだ足腰での土の道は、数倍も疲れる。山での荒修行でわかっていることだったが、改めて走ってみると、いかに、現代社会が人をナマクラにさせるか、良くわかった。それに、数日ぶりの本格的なロードワークだ。足腰を鍛えることは基本中の基本だが、古代に生きている爺さんより劣っていると思わされるのは、勝ち気な乱馬にはたまらなく嫌であった。
二、三キロほど走ったろうか。
爺さんは足を止めた。
「もう、着いたのか?」
乱馬は息を切らせながら、爺さんに問いかけた。
「息があがっとるのー、情けない!」
爺さんは乱馬の様子を見ながら、高らかに笑った。
「うるせー!慣れない道を女の足で駆けたんだ!息だって切れるわいっ!」
乱馬は負け惜しみを言った。
目の前にあるのは、竪穴式住居の建ち並ぶ集落だった。
「この集落が、どーかしたのか?」
「感じぬか?何も…。」
そう言われて、じっと見つめる。ただの竪穴式住居が軒を連ねている。が、乱馬の瞳は、見るみる曇った。
何の気配も感じられなかったからだ。
「おい…ここって、まさか…。」
そう言いかけた乱馬を制して、爺さんが言った。
「そうじゃ。昨夜、襲われた邑じゃ。」
思わず、息を飲んだ。
「心配せんでも…躯(むくろ)はすでに片付けさせておるわい。」
そう言いながら、爺さんは乱馬に先立って、集落の門をくぐった。
大きな柱が二本、入口然として建てられてある。その柱の天辺には、鳥の形をした彫刻が施されている。
「これは、術者が施した、賽の神をまつった結界じゃ。じゃが、これくらいの結界など、無駄じゃったようじゃな…。」
爺さんはそいつを見上げながらため息を吐き出した。
それから、爺さんはひょいひょいと身軽に中へ入っていった。慌てて、乱馬もその後を追う。
砂塵が風にすくわれて、集落の前の中庭で舞っていた。生活の跡が生々しいくらいに残っているのに、誰も居ない静けさが不気味だった。今でも火をくべたら煮炊きできそうな竈に土器。それから飲み水が溜まった水瓶。蓄えられた米や野菜なども転がっている。
「本当に、誰も居ないんだな…。」
緊張気味に乱馬は辺りを見回した。
「ああ、犬の子一匹も居まい…。」
爺さんはじっと眼を凝らしていた。
「ちょっと、何も話しかけず、じっとしておれよ。」
そう言うと、爺さんは集落の中央へと進み出た。そして、狩衣の下から、数珠のように刺し貫いた勾玉の首飾りを、さっと右手に翳して、何やら呪文をかなえ始めた。
乱馬は、建物の片隅で、じっと爺さんの成す術を眺めていた。
ザザザと爺さんの呪文に合わせて、風が吹き立つ。竜巻のように、グルグルと落ち葉を掻き集めて、砂塵が舞い始めた。
「な…何だ?」
砂塵はやがて、ゴオオッと音を発てて、縦横無尽に集落内を走り回る。まるで小さな竜巻が舞い上がっているように見えた。が、他にも何か感じた。チラチラと青白い光のようなものが、行き交う。それは、人の姿のようにも見える。
「なるほどな…。やはり…予想どおりか…。」
爺さんの表情がみるみる暗くなる。
「何が予想どおりなんだ?」
乱馬はもういいだろうと、口火を切った。
「この集落の人々が、生きたまま魂を抜きとられた様が浮き上がったが…おぬしには見えなんだか?」
そう爺さんが言った。
「見えるか、そんなもんっ!俺には竜巻と青白い光がチラチラっとしか見えなかったっつーのっ!」
「ほう…。人の発した気の軌跡が片鱗だけでも見えたのか…。ということは…おぬし、気技を使えるのじゃな?」
「話の脈絡が良く見えねーが…。気技は使えるぜ。打ってみようか?」
と乱馬が言った。
「いや…打たずともよい。わしらがここに居ることは、あまり知られては不味いからのう…。それに…気技は疲れが残る。その時がくれば、存分に、ぶっ放してもらうことにもなるやもしれぬから…気の無駄遣いはやめておいた方が賢明じゃ。」
「何か、よくわかんねーが…。わかった。…けど、結構でっかい気弾を打てるぜ。」
自信たっぷりと乱馬は言った。
「期待しとるぞ。」
爺さんはにやりと笑った。
「この集落の住人たちはどうなったんでい?」
「死滅したな…残念ながら。遺体を数えたら三十数体あったそうじゃ。」
「死滅…。」
「さっきも言ったように、生きたまま魂を抜かれて、事切れておったんじゃよ…。ワシが来たときには既に遅かったわい。」
「生きたまま魂を抜く…ねえ。魂を扱える稚媛様を連れてくれば、元に戻せそうなものじゃねーか。」
乱馬は、そう言いながら、とある考えが浮かんだ。
「おい…まさか…。この行状に稚媛が絡んでるなんてことは、無えだろーな?」
「さあなあ…。それは、今夜、明らかになろうて…。」
爺さんは言った。
「今夜だあ?」
「恐らく、今夜も稚媛様は檜隈女王様と共に、宮を抜け出られるじゃろう。」
「あん?」
「お二人は、前皇の妃だった竈門娘様の臨終に立ち会われる。」
爺さんは難しい顔を浮かべながら答えた。
「臨終に立ち会う…ねえ…。何でそんなことするんだ?」
「嬪号をはく奪されたにせよ、前皇の妃だった御方の「魂送りの儀」じゃからな…。何より、不比等の奴め、祟りが怖いんじゃろうて…。」
「祟り?」
「ああ。今朝もなびきちゃんが説明しとったろ?竈門娘様と刀子娘様は、それぞれ、首皇子様の東宮を確たるものにするために、藤原不比等によって、後宮から遠ざけられたようなものじゃからなあ…。」
「あん?」
「早い話、竈門娘様も刀子娘様も、権力闘争の犠牲者よ…。不比等の奴め、何がなんでも首皇子様に皇位を回すために、いろいろ、難癖をつけて、後宮から竈門娘様と刀子娘様を追いだしたのじゃよ…。首皇子以外に皇位が流れれば、藤原氏にとっては一大事じゃでなあ…。」
「…なるほどねえ…。邪魔者は追い出せってか…。」
「竈門娘様など、後宮を下がられてからは、臥せってしまわれるようになって…。このままじゃと、祟り神にでもなると不比等の奴めも思ったんじゃろうなあ…。でなければ、自ら嬪号をはく奪した者の「魂送りの儀」に、わざわざ檜隈女王様など行かせぬよ。」
「檜隈女王様が行ったら、どうだってんだ?」
「檜隈女王様は、臨終に際して、竈門娘様の魂が、荒ぶる魂にならぬように、見送るのが役目なのじゃよ。それ相応の力を持った巫(かむろみ)は、魂を黄泉に正しく送れる。きちんと魂送りできれば、祟り神にはならぬと言われておるからのう…。」
「檜隈女王様の巫女仕事に、稚媛様が付き合っている理由は何だ?」
「檜隈女王様は、稚媛様の力を買っておられてのう…。己の後進にしようと、手塩にかけて育てられておるのじゃよ。じゃから、魂送りされるときは、常に稚媛様を伴っておられるんじゃよ。」
と爺さんは言った。
「ま、細かいことは良いや…それより…祟りねえ…。この時代にも祟りっていう考え方があったのか?確か、古代には祟りとか怨霊とか言った信仰は無かったって、聞いたんだけど…。」
乱馬が尋ねると、麻呂爺さんは笑った。
「ほっほっほ。お主らの世界では、祟りとか恐れとか怨みとか妬み、つらみ、そういった人間の裏感情は無くなっておるのか?」
と逆に爺さんに尋ねられた。
「いや…。無くなっちゃいねーよ。」
「ほれ、何百年経とうが、人間の本質は変わらんよ。じゃから、この時代にも、そういった禍々しい気は充満しておる。」
麻呂爺さんは話した。
「人間の裏側は、古代でも現代でも、変わらねーか…。」
乱馬はぽそっと吐きだした。
「なあ…。一体全体、魂送りってのは何なんだ?俺には、イメージできねーんだが…。」
と乱馬が尋ねた。
「まあ、簡単に言えば、死にかけた者から、魂を体から抜き取る儀式じゃな…。」
にっと爺さんが笑った。
「おいっ!魂送りってーのは、まんま、あの世へ魂を送るってことなのかよ…。」
「そういうことじゃ。」
「生きた人間から魂を抜く儀式なんだろ?何か、邑を襲った奴とやってることは同じじゃないのか?」
乱馬の顔が少し険しくなった。魂を抜くということは、殺すと同義なのではないかと、一瞬、嫌な考えが過(よ)ぎったからだ。
「なに、臨終間際の力尽きかけた魂を、汚さぬように抜き取るだけじゃ。殺すのと同義ではないわい。」
乱馬の考えを読んだかのように、爺さんが答えた。
「そもそも、何でそんな儀式をするんだ?死ぬまでほっときゃ、良いじゃねーか。」
「死ぬまでほっとけば、荒ぶる魂となり、首皇子様や藤原氏に仇を成すかもしれぬからのう…。恨みを残しそうな魂は、臨終の時に、ちゃんと処理せねば、ちと厄介でなあ…。」
「あん?」
「恨みを残したまま魂が抜ければ、あら大変。末代まで呪ってやるー…ってな感じかのう…。」
爺さんはおどけて見せた。
「何だそれ?」
良くわからないという顔を乱馬が手向けた。その顔を見ながら、爺さんが尋ねた。
「もしかして、おぬしたちの世界では、魂送りは廃れてしまっておるのか…。」
「廃れたというより、んな儀式なんか、聞いた事ねーよ…。魂送りなんて始めて聞いたぜ。、ああ。葬式…弔いごとはちゃんとやるけどな。」
と乱馬が率直に答えた。
「魂送りをする巫(かむろみ)は居ないのか?」
爺さんは眼を丸くした。信じられないと言わんばかりに。
「いねーよ。」
きっぱりと言った。
「陰陽師や巫女は活躍しとらんのか?」
「巫女さんは居るけど、陰陽師は知らねーな…。居るかもしれないが、公的人間には居ないよ。あくまで民間信仰の中でのくくりになるだろうな…。
それに巫女さんだって…神社の札やお守りの売り子さんみたいなものだし…せいぜい、神主さんの補助とか、祭で舞を踊るくらいなもんじゃねーかな。
というか、巫女さんって葬送の儀式には通常、顔を出さねーからな。葬式は神職者じゃなくって、葬儀屋や寺の坊主が仕切るってのが、俺たちの時代の常識みたいなもんだしな…。ま、坊主も死者のために、迷わず成仏しろって御経を読みあげるから、その、弔いの祀りと無関係じゃねーだろーが…。
占いとかまじないとか…絶滅したわけじゃねーが、そういう非科学的な迷信より、科学の方が重んじられる世界になってるんだよ。俺たちの世界は…。」
「科学…?聞き慣れぬ言葉じゃな。」
「だろーな…。文明は千三百年の間にかなり進化してるぜ…。空を飛ぶ、飛行機って乗り物だってあるんだからよー。」
「ふむ…よーわからんが…。まあ、良いわ。時に、皇尊(すめらみこと)はどうじゃ?大王(おおきみ)家はまだ続いておるのかの?」
「続いてるぜ…。皇尊(すめらみこと)じゃなくって、俺たちは、「天皇陛下」って呼んでるが。」
「てんのう…そうか、大海人皇子様が言い始めた大王を表す言葉が定着しておるのか…。」
爺さんが苦笑いした。諸説あるが、天皇という言葉を好んで最初に使い始めたのは「大海人皇子」つまり「天武天皇」が最初ではないかと言われている。
「で?平城京はどうじゃ?まだ都として機能しているのかの?」
「平城京は都の跡しか残ってねー。」
「では、都はどうなっておるのじゃ?また、飛鳥に戻ったのか?」
「俺たちの時代の都は、東京って言うんだ。東の京って書いて、東京。」
「東京?はて…聞いたことも無いのう…。」
「ああ。富士山よりもずっと東に位置する大都会だよ。」
「あの火吹き山、不死の山よりも東に都が遷ったじゃとー?不死の山より向こうなど蛮国に等しい、粛慎(みしはせ)の蝦夷地じゃぞ。」
爺さんは驚きの声をあげた。
「鎌倉時代辺りから政治の中央は富士山より東側へ遷ったんだぜ…。鎌倉時代は一一九二(イイクニ)年成立だから、えっと、ここの時代が七一〇年前後として、ざっと三百年後になるかな。もっとも、都は百五十年くらい前まで、京都…奈良よりちょっとばかり北の平安京にあったけど。俺たちの時代から百五十年ほど前の明治維新後は天皇家もこぞって東京へ出てきて、その後日本の首都は東京でおさまってる。東京には、一千万人以上の人々が暮らしてるんだぜ。
それに、富士山が火を吹いていたのは過去の話で、今の富士山は火は吹いてねー。」
乱馬が得意げに言った。
「一千万人以上!おおお、倭国はそんなにも栄えておるのか…。」
麻呂爺さんは目を輝かせた。
「まあ、栄えてるっちゃあ栄えてるのかな…。その代わり、藤原京は全部、更地になっちまって、見る影もねーぜ…。」
ポツンと乱馬が言った。
「それは今も同じじゃよ。ほら、ここから、藤原京が望めるじゃろう?」
そう言いながら、爺さんは北を指差した。
「え…。あれが藤原京なのか?」
乱馬はハッとして見渡した。廃墟が広がっているかと思ったら、閑散とした野原がそこには広がっていたのだった。
「あの都には、もう、人は住んでいないのか?」
という乱馬の問いかけに、爺さんは頷いた。
「ああ。住んでいないどころか、建物も殆ど残っておらんじゃろ?。」
「おい、つい三年ほど前までここに都があったんだろ?閑散としすぎてねーか?建物、全部、倒しちまったのか?」
と乱馬が問いかけると、爺さんは答えた。
「建物は全て解体して平城京へ運び出してしまったわい。」
「解体しただあ?また、何で?」
「当然じゃ。建物を建てるために、新たに木切り出してくるとなると、かなりの労力が必要になるからのう。解体して移転する方が手っ取り早くて、楽じゃろーうが。」
爺さんが言った言葉を受けて、乱馬は頷いた。
「そういや、藤原京と平城京の間には運河を設けて、水路、木材なんかを運んだって…。平城京は藤原京の建物をそのまま移転させたエコな都だったって、歴史の先公が授業で言ってたような記憶があるな…夢うつつできいてたからあんまり詳しいことは覚えてねーが…。」
実際、藤原京から平城京へ向けて掘られた運河が発掘されている。平城京の建物は藤原京から移して建てたものが多かったといわれている。
藤原京も平城京もきれいさっぱり、条里の後がなくなり、田畑に埋もれてしまったのも、ごっそりと建物ごと移動させてしまったせいだと言う学者もいるのだ。
「そもそも、何で、藤原京を捨てたんだ?勿体無えっ!」
と乱馬が吐き出した。
「新しい都を造る労力だって馬鹿にならないだろうに…。」
「仕方あるまい…。遷都は、前皇の言によってすすめられたんじゃから…。災いを回避するため…に…。」
爺さんがボソッと吐き出した。
それを聞きつけて、乱馬が問いかける。
「災いだあ?」
乱馬の問いかけに、爺さんはしまったという顔をした。
どうやら、何か理由がある様子だった。
「もしかして…。俺たちがこの時代へ召喚されたことと、関係あんのか…?」
乱馬は爺さんに詰め寄った。
「さあのう…。」
「その言い方、てめー何か知ってるだろ?説明しやがれ。何で俺たち三人はこの時代へ召喚されたんだ?」
「残念じゃが、わからん!」
爺さんは、そう言ったきり押し黙った。
「何でだ?」
乱馬が詰め寄ると、
「お主に説明できるくらいに、ワシもまだ全容を把握しきれとらんのでな…。」
爺さんはくるりと背を向けた。そして、そのまま無言で集落を出るべく賽の神の祀ってある方向へと歩きだした。
「おいっ!はぐらかそうって魂胆かよっ!」
責め立てる乱馬に、爺さんは言った。
「じゃからー、まだ、ワシにもわからんことが多すぎるのじゃ。この集落を滅っした者たちも、その目的も…。まだまだ調べねばならぬことがたくさんあるんじゃよ…。わかったら教えてやるから心配するな。それより…これ以上の長居は無用じゃ、帰るぞ。」
と爺さんは乱馬を促した。
「ちょっと、待てーっ!ちゃんと説明しろっ!」
追いすがる乱馬を振り切って、爺さんは再び、早足でもと来た道を辿り始める。
「おぬし…。宮へ帰っても、今見たことや知ったことは、誰にも、何も言うなよ。」
としたり顔で乱馬へと言葉を振った。
「あん?」
「あかねちゃんやなびきちゃんを危険にまきこみたくなかったら、尋ねられても、何も言うな。」
「今度は脅しか?じじいっ!」
「ま、そうとってもらってもかまわぬが…。それから…。おぬし…。」
「何だよ?」
「今夜も、ワシにつき合え!」
爺さんは言い放った。
「付き合えって?」
「決まっとろう?檜隈女王様たちをこっそりと付けるんじゃ。」
「!」
その言葉に、乱馬はハッとした。
恐らく、爺さんは、今話したことを確かめるべく、何かの行動を起こすつもりなのだ。瞬時にそう理解した。
「さてと、せっかくじゃ、ワシの屋敷で昼寝して行くかのー。」
「じじいの家だあ?」
「ああ、この近くにある。付いて来いっ!」
爺さんはニッと笑うと、乱馬を促した。
確かに、爺さんの屋敷は、そこからそう遠くはなかった。
こじんまりとした、板葺の館であった。決して建てつけも悪くは無く、手入れも行き届いている風だった。
板門を入り、前庭からさらに奥に母屋があった。
爺さんは、乱馬を伴って、館の中へと入り、藁で編んだ円座へと、どさっと腰を下ろした。
「ほれ、突っ立ってないで、おぬしも適当なところに座れっ!」
と乱馬を誘う。
「スケベなことしようとか思ってねーだろーな?」
半信半疑の瞳で、爺さんをチラリと見る。
「そうじゃのー、おぬし、確かに、良い身体をしておるのー!」
乱馬の豊満な胸を舐めるように見る。そして、さわさわと右手で乱馬の胸を触った。
「こらーっ!この助平じじいっ!何しやがるっ!てめーいい加減にしねーとっ…。」
ぞわっときた乱馬が拳を突き上げかけたとき、爺さんが言った。
「これが、ニセの女体とは、実に勿体無いっ!」
と爺さんが残念そうに吐き出した。
「!!」
乱馬の振りあげた拳が、そのまま頭上で止まった。
「ほう…図星か。」
爺さんはにやりと意味深な笑みを手向けた。
「てめー、何でそれを!」
乱馬は爺さんを思い切り睨み返していた。
「ほっほっほ。昨夜、からふろでひと悶着あったろう?女官が風呂に男が居たとな…。それでピンと来たんじゃ。湯を浴びて変身したということは、乱馬…おぬし、さては、呪泉にはまったな?」
爺さんが笑った。どうやら、麻呂爺さんは、呪泉郷の呪いのことは、聞き知っている様子だった。
「あー、そーだよっ!悪いかっ!」
乱馬が顔を真っ赤にしながら、爺さんを睨み返した。
「で?どっちが本当の姿だ?男か?それとも、女か?」
爺さんはたたみかけるように問いかけて来た。
「男だよ。」
乱馬はムスッとしながら言った。
「なるぼど、娘溺泉辺りにでも溺れたか。」
「ああ、そうだ。娘溺泉に溺れた。」
乱馬は乱暴に吐きだした。
「なるほどのう…それで、女に変身できるのか…。噂には聞いておったが…。にしても…。」
爺さんは、カカカと笑いながら言った。
「呪泉に溺れた間抜けな人間を、生まれて初めて会うたわっ。」
「うるせー!間抜けで悪かったな!」
乱馬は怒鳴りながら答える。
「無論、わかっているとは思うが…このことは、宮の他の誰にも知られぬようにな。」
と爺さんは真顔で言った。
「ああ、わかってるよ。男子禁制なんだろ?」
「それもあるが…できるだけ、お主の生来の姿を知られぬ方がこっちにも都合がよいしな。」
「都合?」
乱馬はいぶかりながら、爺さんを見やった。
「もっとも、一部の連中は、お主が男じゃということに気付いておるやもしれぬがな…。」
「円…とかいう奴のことか?」
「…まあ、奴は雲をつかむような輩なので、どこまで気づいておるかはワシにもわからんがな…。稚媛様辺りは、悟っておるやもしれぬな。」
「稚媛は巫だからか?」
「ああ…まあな。」
爺さんは黙った。
「一番、気をつけて欲しいのは、桂ちゃんだな。」
とポツンと言った。
「桂さん?」
「ああ…。彼女は、今一つ、正体がつかめんところがあるでな。」
「桂さんって、爺さんの部下じゃねーのか?」
きょとんと、乱馬が問い質した。
「ワシの部下のようで部下ではない。」
「あん?」
「陰陽術の修行をつけてやってくれと、頼まれたでなあ…。それに、本当の名前も、出身地も、わからぬことが多いんじゃよ。」
「わからないことが多いだあ?そんな奴を弟子として傍に侍らせてんのか?爺さんは。」
呆れた顔を乱馬は手向ける。
「仕方なかろう。桂ちゃんを託した奴は、ただ、修行をさせてやってくれ…とだけ言い残して、姿を消したからのう…。」
「行方不明ねえ…。それが本当なら、…確かに、不審なことだらけだな…。」
「まあ、そんなで、桂ちゃんには、絶対に正体がばれんように、お願いするぞ。」
爺さんは乱馬に念を押した。
「わかったよ…。で?俺をわざわざここへ呼んだのは、何なんだ?」
「小治田宮じゃと、いろいろ目があるからのう…。昼寝一つするにも、気を使おう?とにかく。ワシも、夕べは殆んど寝ておらぬ。じゃから、疲れておるんじゃ。」
爺さんはそう言うと、ゴロンと横になった。
「ほれ、おまえさんも寝ておけよ。徹夜は辛いぞ。小治田宮は落ち着けぬが、ここだと短時間で熟睡できる。お主にも上質の睡眠を分けてやろうと、ここへ招いたんじゃよ。ありがたく、思え。」
「んな事言ったってよー。眠くも無いのに…寝ろっつわれても…。」
「じゃ、安眠の香を焚きこめてやろうか。」
そう言いながら、手を叩くと、どこからともなく召使風の中年女性が現れて、スッと香炉を枕元へ置いた。
甘い香りのするお香だった。その煙を嗅いでいるうちに、だんだんと眠くなる。
「これ、初めてこの世界で夜を迎えた時に焚いてた奴じゃねーか?」
「ああ、小治田宮にも安眠香は置いてあったのう…。」
まったりとした甘ったるい香り。その香りを嗅ぐうちに、睡眠の淵へと誘われているようにも思えた。穏やかな春の昼下がり。
「催眠薬でも混ぜてあるんじゃねーのか?」
「ほっほっほ。遥か唐から取り寄せたお香じゃからのー。この館なら大丈夫じゃ。安心して眠れ。乱馬よ。」
爺さんはふわあっとあくびを一つ。横になったまま伸びあがると、そのまま、瞳を閉じる。
「たく…。本当に得体の知れねーじじいだぜ。」
乱馬も襲い来る眠気には勝てず、そのまま、眠りの淵へと身を任せて行った。
午後の幸せな惰眠を貪る。この後、修羅場になるなど、知る由もなかった。
十七、紀寺へ
「で?あんたは、ずっとお爺ちゃんの家で枕並べて、昼寝してたの?」
呆れたと言わんばかりに、あかねが乱馬を見返した。
「ああ…。何か、俺までぐっすりと…。」
頭をボリボリ掻きながら、乱馬はあかねに言った。
乱馬とて、昨夜何者かに襲われた邑を偵察に行ったことは、爺さんに口止めされていたので話せない。そこで、後半の事実だけをさらりと話したのだった。
香具山近くの爺さんの小さな蔀屋で仮眠してきたということだけをかいつまんで話した。
「何か、変なことされなかった?」
疑りの目を手向けながら、問いかけてくる。
「それが…。全く、何もしなかったんだよなー。あの爺さん。」
乱馬がボソッと話した。
そうなのだ。あれから、家に連れて行かれ、中で昼ごはんを御馳走になり、そのまま昼寝タイムに突入した。いぶかる乱馬に、今夜は夜を徹することになるかもしれぬと、昼寝を強要されたのである。
添い寝も強要されたが、オッパイを触られることもなかったし、パンツを覗かれることもなかった。
もっとも、乱馬の正体を知ってしまった爺さんだから、何もしなかったのかもしれないが、事実、爺さんは無心に眠り続けていただけだった。つい、乱馬もつられて一緒に眠り出した。
部屋の中では、怪しげなお香がたき込められていたので、それに反応して眠気を誘われたのだ。
二人、枕を並べて、惰眠を貪る。乱馬が目を覚ますと、爺さんは既に起き上がっていて、一言、「帰るぞ。」と言われただけだったのだ。
時間にして昼寝したのは、三時間くらいだろうか。
「何か、あんただけ、すっきりした顔して…。ちょっとずるいわ。」
とあかねが言った。
「あたしなんか、暇を持て余して、持て余して…。」
「で?草ひきやってたのか?」
床に並べられた草の山を見て、乱馬が目を丸くした。
「ええ…。春先には食べられる草や薬草になる草がたくさん芽吹くんだって…。宮の周りにあるのを教えてもらいながら、安宿媛様と共に、屋敷の周りで摘んできたのよ。」
とあかねは得意げに言った。
「安宿媛様も一緒だったのかよ…。首皇子様と稚媛様は?」
「稚媛様は、夕べの外出でぐっすりお休みになってらしたし…。首皇子様は館から出られないらしくって…。で、安宿媛様があまりにも暇を持て余していらしたから、桂さんが見かねて一緒に連れ出したのよ。」
「食草や薬草ねえ…には見えないただの草なんだけど…。」
あかねが摘んできた草を手に取りながら、乱馬がそんなことを言った。
「失礼しちゃうわねっ!そんなこと言ってると、料理してあげないんだから。」
「料理って…まさか…おまえ…。」
料理という言葉をあかねの口から聞いて、乱馬は固まった。
「今夜はあかねさんがお膳を手伝ってくださるっておっしゃってるんですよ、乱馬さん。」
桂が横から声をかけた。
「手伝う?おまえが?」
ぎょっとしてあかねを見ると、コクンと頭が縦に揺れた。と、乱馬は続けて、桂へ向けて吐き出していた。
「やめろっ!頼むから、あかねに料理させるのは!」
「それってどういう意味よっ!」
カチンときたあかねが乱馬を睨みつける。
「おめーの料理は、不味い上に、安心、安全から程遠い。悪いこと言わねーから、桂さん、こいつに料理させるなんて、殺人的行為はやめてくれっ!」
とたたみかけた。
「何ですってえ?」
あかねがその言葉に目くじらを立てる。
「だって、そうじゃねーか!俺は何度、死にかけたと思ってるんだ?毎度毎度、得体の知れないもの食わせやがって!出所がわかってる馴染みの食材であの腕なんだぜ!見知らぬ草とか使って料理なんかされた日にゃ、命がいくつあっても足りねー!」
「あー、その暴言、もう、我慢できないっ!」
あかねが腕をまくしあげた。
「俺は責任持たないぜ!安宿媛様や稚媛様や首皇子様がおっ死んだらどうすんだ?おまえっ!歴史を変えることになるんだぜ?」
「そんな、大げさな。」
と桂が笑った。
「大丈夫ですよ。私がお教えしましたし、さっと茹でて、塩で味をととのえるだけの簡単な薬草料理ですから…。」
桂が言った。
「だから、その簡単なのが、こいつにかかったら物凄いことになるんだよ!」
「はあ…。」
「悪いことは言わない。死人出す前に、無謀なことはやめた方が…。」
その言葉に、あかねは乱馬の頭をポカンと一発張り倒した。
「うるさいっ!文句言うなら、作った物を、食べてからにしてちょうだいっ!」
あかねは、そう吐き捨てると、さっさと、調理場の方へと、入って行った。
「乱馬さん。ご心配には及びません。私もついていますから。」
そう言いながら、桂はあかねに続いて奥へ消えて行った。
「おい…胃腸薬なんて、持ってねーんだぞ…。」
乱馬は、はああっと大きな溜め息を吐き出した。
「で?どうやったら、こんな料理にしあがんだ?おいっ!」
できあがった皿を見ながら、乱馬が、ある意味、感嘆していた。
目の前にある、あかねの作った料理は、どす黒い。
「ちょっと、茹で過ぎただけよ。」
あかねが言い切った。
「なあ、茹で過ぎだけで、ここまで色が黒くなるか、普通…緑色がくすむ程度だぜ…。」
箸にかからないほど、ボロボロになっていた。最早、それが草だったという原型すら留めていない。葉緑素はどこへやら。
「しょうゆで煮たって、ここまで色付かねーぞ!」
持った先、ボロボロと崩壊していく。
「じゃあ、失礼して、お毒見を…。」
毒見係の女官なのだろうか。一人の女官があかねの作った料理を、一つまみ取った。
「あー、食うなっ!」
止めに入った乱馬だが、女官はパクンと食べていた。
「う…。」
そのまま、固まった。丸い奥の瞳は、大きく開かれたまま息も止まる。
カラン、コロン…、そのまま白目を剥いた。
「言わんこっちゃねー。だから、やめとけって言ったんだ。」
ふうううっと乱馬がため息を吐き出す。
「一瞬、黄泉の国が見えたような気がします…。」
一呼吸開けて、正気に戻った女官が、そう感想を述べる。
「あの…やっぱり不味かったですか?」
あかねが恐る恐る問いかけると、
「旨い不味いという観念からは、超越したものがあって…。最早、常人の域を超えていますわ。奥が深い!」
褒めているのか、貶しているのか、良く分からない感想を述べた。
「おやおや。なかなか面白げな料理だねえ。私も一口。」
どこからともなく現れた、円が通りすがりに、ひょいっと手を伸ばした。
「おー、これはとっても、黄泉な味!」
そう言ったまま、悶絶する。
そして、数秒後、息を吹き返した。
「凄い!息も詰まる、驚異の暴力的料理!とても面白いものを食させていただきました。首様にご報告することが一つ、出来ました!」
とスキップしながら、円はどこかへと通り過ぎて行った。
「何なんだ?ありゃ…。」
口をぽっかりと開けたまま、乱馬は円を見送る。と、今度は桂がひょいっと手を伸ばしてきた。
「どら…私も失礼して…。」
「あっ!こらっ!桂さんっ!」
勿論、乱馬は引き留めにかかったが、桂はあかねの作った物体を口へ放り込んでいた。
「うぐ…。」
そう言ったまま、桂もまた、白眼をむいて動作を止めた。
彼女も静止すること数十秒。
「本当…黄泉の国の入口が見えましたわ…。」
と桂は感想を述べた。
「それって…。死にかけたっつーことだろがっ!」
汗をかきながら、乱馬が言った。
「乱馬さんもいかがです?黄泉の国の味。」
「いや、遠慮しとく。毎度、嫌というほど、臨死体験してっから…。」
桂にすすめられたが、乱馬は固く辞退申し上げる。
「臨死体験って…。大げさな…。」
あかねが言うと、
「だったら、一度、食ってみなっ!」
そう言って、乱馬は箸を掴み、あかねの口へと放り込む。
「う…。」
あかねもそのまま、固まった。制止すること数十秒。
「ほんと…あたし、凄いもの、作っちゃったわ…。」
と訳のわからない感想を述べている。
「……。たく。おまえというやつは…。ある意味、奇跡の料理人だな…。」
ヤレヤレと乱馬は大きなため息を吐き出した。
「にしても…なびきが居ないのは、当然として…じじいの奴も、居ねーな。」
と辺りを見回した。が、添い寝以降、爺さんの姿は館になかった。
「麻呂様なら、今夜の準備をしてくるとか言って、出て行かれましたよ。勘の鋭い方ですからねえ…。あかねさんの料理からお逃げになったのかも…。」
と桂が笑った。
「逃げたのか…。たく…。」
そう吐き出した乱馬だったが、桂の言葉じりを捕らえて、あかねが問いかけてきた。普段は鈍いあかねも、古代社会に放り出されたことで、少し耳も鋭くなっていたようだった。
「今夜って?何のこと?」
「ええ、乱馬さんとご一緒に、麻呂様と所用で出かけられるとか、言ってましたが…。」
桂の言葉に、あかねが声を荒げた。
「えーっ!どこへ行くの?」
「その…何だ、昨日、妖か何かに襲われた邑ってのがあったろ?そこへ調べに行くからついて来いって言われたんだ。」
と咄嗟に口から出まかせを言った。
檜隈女王と稚媛に同行するとは言えなかったからだ。もし、訊かれたら、そう答えろと、あらかじめ、爺さんに言い含められていた。
「あたしも行くーっ!」
そう言ったあかねに対して、乱馬は否を告げた。
「いや、ダメだ。おまえは留守番してろ。」
と間髪いれずに乱馬が言った。乱馬の野生の六感が、爺さんの同行することの危険性を察知していた。でないと、わざわざ、安眠の香をたきこめてまで、乱馬に睡眠など摂らせまい。
「何で?乱馬も行くならあたしも…。」
と言ったあかねを、乱馬は留める。
「駄目だ!どんな危険が待ってるかわかんねーからな。おまえじゃ、足手まといにしかならねー。おまえ昼寝してないじゃん。ずっと、草摘みしてたんだろ?」
「そりゃ、そーだけど…。」
「多分、夜通し、じじいに付き合うことになるだろうからな。おまえは、ここで留守番してろよ…。なびきも居るんだし…。」
乱馬の瞳が、いつもに増して真剣なので、あかねもそれ以上、我儘を通すことはできなかった。渋々、留守番を承知させられたのである。
「何か、ずるいわ…。」
食事の後、二人きりになると、あかねはすっきりしない顔で、ぼやき続けてた。
そんな膨れっ面のあかねに、乱馬は言い含めた。
「仕方ねーだろ?爺さんは俺しか連れていく気がねーんだし…。」
「何で、あんたなのよ…。」
「男に戻れるからだろ…。」
乱馬は小声で言った。
「男に戻るの?」
あかねが驚きの瞳を手向けた。
「大丈夫なの?男に戻って…。」
「ああ、爺さんも俺が男だってのは、お見通しだったようだしな。」
「お爺さんにばれたの?」
「いや、ばれたんじゃなくて、知ってたんだよ、あのじじい。やっぱ、タダものじゃねーや。で、俺に今夜、付き合えってさ…。」
「何のために、危険な場所へ行くのよ。」
「さーな。あれで、爺さんは藤原京の留守の司なんだろ?怪異現象とか事件とかあるのを役目上、見過ごせねーんじゃねーのか。ま、今夜は爺さんに付き合って来るわ。」
乱馬は気楽に言い放った。
もし、爺さんがあかねを連れて行くと言っても、おそらく乱馬は拒否したろう。武道家の感だが、危険な匂いがしたからだ。かなりの修羅場になるかもしれない。そう思ったのだ。そんな危険が渦巻くところにあかねを連れていく訳にはいかない。
「ちゃんと、戻ってくるわよね?」
「あったりまえだろ?こんな訳のわかんねー古代に、ドン臭い女一人残せるわけねーだろが…。」
と吐き出した。
「じゃ、約束。」
あかねは右手の小指を差し出した。
「たく…ガキじゃあるめーし…。」
「約束ったら約束っ!」
険しい瞳と語気に気圧されるように、乱馬は渋々、小指を絡めた。
「たく…女ってーのは良くわかんねーよな…。」
と吐き出した。
「今のあんたは、女の癖に。」
「女っつっても、格好だけで心の中身まで女になったんじゃねーっつーの!」
「はい、これっ!」
そう言って、あかねは首にぶら下げていた茜色の勾玉を乱馬に差し出した。飛鳥資料館で乱馬に買ってもらった勾玉だった。
「何だ?」
乱馬がキョトンとあかねを見つめると、
「あんたが戻ってきて、これを返してくれるように。」
あかねは顔を真っ赤にしながら答えた。
「たく…。そんなに信用ねーか、俺のこと…。」
乱馬はあかねから受け取ると同時に、己のポケットに突っ込んでいた勾玉も取り出した。
「じゃ、こいつをおまえに預けとくぜ。」
そう言って、黒い勾玉を手渡した。交換というわけだ。
「約束だからね。ちゃんと朝には戻ってきてよ。」
「ああ…。おまえこそ、他の人に迷惑かけんなよ。」
「それってどういう意味よ…。」
「間違っても厨房へ立つなっつーことだ。」
「乱馬の馬鹿っ!」
古代の夕日は暮れて行く。こうして、春まだ浅い、肌寒い天気の一日が終わった。
その日の夕方近く、稚媛様が、檜隈女王と共に、数名の連れの者を連れただけで館を出かけてしばらくたってから、麻呂爺さんと乱馬は宮を出た。
太陽は二上山の向こう側へと消えつつある。
「何か、変に気合が入ってたな…。」
先に出て行った一行を見送りながら、乱馬が評したくらいだ。
「恐らく、今夜、竈門娘様は確実に身罷(みまか)られると踏んでおられるのじゃろう…。」
「なるほどな…。だからあんなに殺気だってるのか。」
「魂抜きの儀に当たって、中へ入れるのは女性だけじゃしのー…。」
爺さんは笑った。
「なあ、桂さんってかなりの手練だろ?」
乱馬は、ふと尋ねた。
「ほう…。おぬし、どうしてそれを…。」
「いや…、組み手をやった訳じゃねーけど、あかねくらい…いや、それ以上に、強いんじゃねーのか?」
「ほっほっほ、確かに武人としての腕は確かじゃぞ。まあ、ワシもまともにやれば、どちらが勝つかわからぬくらいに、桂ちゃんは強いわい。」
「やっぱりな…。」
乱馬は頷いた。
「で?桂さんって、確か、爺さんの弟子だって言ってたよな?」
その問いかけに、しばらく、麻呂爺さんは考え込んだ。そして、おもむろに口を開くと、意外な言葉を吐きだした。
「ああそうじゃ。」
「素性も知らねーって…。」
「ああ、確かに彼女の素性は知らん。問いかけたこともあったが、やたらと己の素性は口にしたがらんでな。」
「何でだよ。」
「素性が知れるということは、術にはまり易いということを意味するでな。お互い、距離を取ることは当り前じゃからな。」
「ふーん…そういうものなのか。」
「ああ…。ワシは桂ちゃんの諱(いみな=本名)すら知らぬでな。出自も知らぬ…。まあ、大まかなところは、うっすらとは、見えてはおるがな。」
「調べたのか?」
「ふふふ、ワシも術師じゃからな。」
「で、桂さんを連れて来た奴ってのは誰だ?」
「古い友人じゃよ。」
「友人?」
「ああ、共に陰陽の道を究めようと切磋琢磨した古い友人じゃよ。名は柿本佐留という。どうじゃ?おぬしの時代に、柿本佐留(かきのもとのさる)という名前に聞き覚えはあるかの?」
と問いかけて来た。
「かきのもとのさる?うーん…猿じゃなくて柿本人麻呂なら知ってるけどよ。」
乱馬は答えた。
「柿本佐留は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の別名じゃが…。」
爺さんは苦笑いを浮かべながら言った。
「柿本人麻呂の別名?」
驚いて、乱馬が爺さんへと問いかけると、爺さんは答えた。
「もしかして、おぬし、柿本人麻呂の名は知っておるのか?」
「ああ。柿本人麻呂の名前くらいは、俺でも知ってるぜ。」
と得意げに答えた。
「ほお…。人麻呂の名を知っておるのか?あかねちゃんに馬鹿にされた知識しか持ち合わせぬおぬしでも…。」
「余計なお世話だっ!…柿本人麻呂ってのは…確か、「万葉集」にたくさん歌が残ってる万葉歌人の名前だ。」
「「萬葉集」とな…。あの言霊歌謡(ことだまかよう)がおまえさんたちの時代まで、遺されておるのか。」
今度は爺さんが目を見張った。
「ことだま?」
乱馬がきびすを返した。
「ああ。「萬葉」とは呪術の言霊(ことだま)ばかりを集めた言霊集じゃぞ。歌集などではないわい。」
「よくわかんねーが…。とにかく、いくつかの歌と共に、名前も残ってんだよ…。柿本人麻呂ってさ…。で?その佐留ってのと人麻呂ってのは同一人物だったのか?」
「ああ。人麻呂はいわば、宮廷歌人としての名で、佐留というのは、術者としての名じゃ。」
「へええ…。人麻呂に別名があったなんて、初めて聞いたぜ。」
「まあ、後の世に名が残るとすれば、歌人としての奴の方じゃというのもうなずけるわい。」
「何でだ?」
「人麻呂はいわば、奴の公的な表の顔じゃしのう…。人麻呂と佐留…どちらかが諱でどちらかがあざ名…いや、どちらもあざ名かもしれぬ…。ワシはおろか、誰も、奴の諱(いみな)は知らんのじゃ。」
と、ポソッと漏らした。
「諱はわかんねーのか…。で?…爺さんは、その柿本佐留って奴と親しかったのか?」
「まーな…。共に、術を磨き、競い合う仲じゃった。佐留も、優れた呪術師じゃったからのう…。」
「人麻呂が術師ねえ…。ピンとこねーな。」
乱馬が目を見張ると、爺さんはコクンと頭を垂れた。
「歌を自在に操った奴らしく、佐留は言霊の術に長けておったんじゃよ。」
「言霊の術?」
「ああ。歌の中に霊力を込めて解き放つ咒法…。それを言霊の術と言ったんじゃよ。」
「言霊ねえ…。」
「奴の歌はことごとく、言霊じゃぞ…。言祝(ことほ)ぎだけではなく、たくさんの挽歌(ばんか)も作っておる…。」
「挽歌ねえ…。人の死を悼(いた)む歌だっけ…。」
「棺(ひつぎ)を挽(ひ)く歌じゃ。」
「棺(ひつぎ)を挽(ひ)く?どこへ…?」
「埋葬する墓に決まっとろうが。その折に、謡(うた)われる死人へのはなむけの言霊歌(ことだまうた)じゃよ。それを墓挽(はかひ)き歌…挽歌(ばんか)というんじゃ。」
「挽歌ってそういう意味なのか…。」
「佐留…あやつは、特に魂依りが得意じゃったからな…。万葉の言霊集に、人の死に関わる挽歌がたくさん残されておるのではないか?この倭国(やまとのくに)は言霊の国だと、佐留の奴は良く言っておったものじゃよ。」
「あん?」
「言葉に霊力がこもっておるのじゃ。その霊力を自在に使うのが我ら陰陽師や呪術師の役目。その霊力は時には人を助け、時には人を陥れる。名前にも言霊が宿るのじゃよ。故に、易々と明かしてはならぬのじゃ。」
「…よくわかんねーが…。言葉に力が宿るってことか…。」
「奴くらいの術者になると、人を自在に操ることもできるんじゃよ。おぬしには、ちと、難しい話かのう…。」
「違えねー…。俺は頭で考えるより、身体で動くタイプの人間だからな。で?その佐留って奴は、今、どうしてるんだ?」
「さあな…。」
「さあなって…。」
「前にも言ったが…奴が姿を消して久しい。」
「何で、行方をくらませたんだ?」
「それもわからん…。三年ほど前になるかのう…。ある日、ぷっつりと消息を絶った。もし、奴が存命しておれば、或いは、おぬしらを元の世界へ返せるかもしれぬのじゃがな…。」
爺さんはそこで、一端、言葉を区切った。そして、付け加えるように言った。
「そうそう、檜隈女王様も言霊を扱われる能力に長けておられるのじゃぞ。」
「あん?」
「佐留も、檜隈女王様には、一目を置いておったからのう…。時折、皇室にはそういった女性が彗星の如く現れるんじゃ。たいていは斎宮となって伊勢に赴く…。」
「じゃあ、檜隈女王も斎宮になったのか?」
「いや…彼女は斎宮には選ばれなかった。」
「何でだ?」
「いろいろ事情があって…斎王にはなれんかった…それだけのことじゃ。」
「でも、檜隈女王ってーのは、すぐれた言霊使いだったんだろ?」
「ああ…。今際の魂を慰めることも得意な方でのう…。父君の高市皇子がお亡くなりになられた折に、檜隈女王様も、壮大な挽歌を詠まれて、父君の亡き魂を鎮めておられたからのう…。」
「高市皇子って?」
「天之中原沖真人尊皇(あまのなかはらおきのまひとのすめらみこと)の実質的な長子じゃ。」
「舌をかみそうな名前だな…。」
「皇子名は大海人皇子。」
「えっと、確か、天武天皇っつったっけな…。その長子か…。あれ?長子なのに即位しなかったのか?」
「母君の身分が低かったからな。」
「あん?」
「高市皇子様の母君は胸形君徳善という地方役人の娘じゃったからのう…。つまり…皇位を継ぐには、母親の身分が低かったんじゃよ。尊皇は血統が重要視される。じゃから、高市皇子は皇位とは無縁じゃったんじゃよ。皇位は大海人皇子様の正妃の鵜野讃良皇女(持統天皇)の一粒種、日並知皇子(ひなみしのみこ=草壁皇子)へ伝えられるのが、正当とみなされたんじゃ。」
「ふーん…。つまり、皇位に就くためには、母親の血統の良さが物を言うのか?」
「そういうことじゃな。…じゃが、皮肉なことに、鵜野讃良皇女との嫡子、日並知皇子様は短命じゃった。皇位を継ぐ前に身罷(みまか)られた。」
爺さんは遠い目で話しだした。
「何か、無常観が漂う話だな…。」
「悲劇はそれだけでは終わらなかった。」
「あん?」
「鵜野皇女は日並知皇子の皇子、珂瑠皇子(かるのみこ=文武天皇)に皇位を繋ぐために、自ら皇位に就かれた。そして、何とか成人した珂瑠皇子へ皇位を譲ったが…これまた短命じゃったんじゃ。」
「命が軽い皇子ってか…。洒落にもなんねーな。」
「日並知皇子が身罷られた時も、珂瑠皇子が身罷られた時も、佐留は荘厳な挽歌を作って魂を鎮めておるんじゃよ。挽歌には魂鎮めの言霊の咒法がこめられておるからのう…。奴は挽歌が得意中の得意でなあ…。他にも、いろいろな御方の挽歌を作って、魂鎮めしておるんじゃ。」
「へえ…。」
「それはさておき、珂瑠皇子様の嫡子の首様に皇位を継ぐために、日並知皇子の姉でもあり、珂瑠皇子の母でもある阿陪皇女が尊皇に立たれ、現在に至っておる。そう、今の大王様は、首様の祖母でもあらせられる阿倍皇女様なんじゃ。」
「あの、乳に興味があったスケベガキの婆さんかよ?」
「ほっほっほ、男子たるもの、おなごの身体に興味があって当たり前じゃろう?」
「たく…俺なんか触られそうになったんだぜ…あのスケベガキ…。」
「おぬしとて、健全な男子じゃったら、あかねちゃんの乳に興味があるのではないのか?触りたいと思うこともあろう?」
「あるか、あんなど貧乳!」
「ほおー。あかねちゃんの乳具合、何故知っとる?」
チラリと見る爺さんの視線に乱馬は思わず、ブンブンと首を横に振った。
「うるせー!人のことはほっとけっつーのっ!」
「おぬし…あかねちゃんに惚れとるな?」
「だああっ!それも関係ねーだろっ!」
つい、でかくなる声を、シーッと爺さんは抑えた。
「あんまりでかい声を出すな!いくら離れているとはいえ、檜隈女王たちに知られるのは不味い…。」
「あ…。」
乱馬はハッとして声を落とした。
「たく…。あかねのことは今は関係ねーっつーのっ!」
「ほっほっほ、まだまだ、青いのー。いずれにしても、日並知皇子、珂瑠皇子と共に短命じゃった…。そして…首様も決して丈夫ではないんじゃ。」
「あん?」
何が言いたいと、乱馬は爺さんを振りかえる。
「これが仕組まれたこととしたら…。」
「おいおい。どーいうことだ?」
意味がわからず、爺さんへと疑問を投げかけた。
「……。首様が宮へ参られたのも、少なからず、その辺りに関係しとるんじゃよ。」
「だから、わかるように説明しやがれっつーのっ!」
「首様は、呪いの咒法をかけられておられるようなんじゃ…。それも強固な…な…。」
「呪いだって?」
その言葉に乱馬は反応した。
「誰が何のために?そんなこと…。」
「順当に考えれば、首様が尊皇になられるのを拒む勢力…ということになろうかのう…。」
「対抗勢力ってことか?」
「じゃと思っておったのじゃが…。どうやら違うかもしれぬのう…。」
爺さんは黙ってしまった。
「はあ?何だそりゃ…。」
「現在調査中じゃ。」
「何か、曖昧な話だな。呪いとか咒法とか。非科学的な…。」
「おぬしとて、呪いを受けておる御身ではないか。」
爺さんにそう言われて、返す言葉に詰まった。
「う…。痛いとこ、つきやがる。確かに、俺の身体も呪われてはいるが…。で?誰が何のためにあのスケベ少年に呪いなんかかけやがったんだ?」
「それがわかれば苦労はせんわいっ!でも、まあ、皇位と関係しておるのは確かじゃろうな…。古の昔から大王家には、血塗られた覇権騒動は尽きぬ…。それはおまえさんとてわかるじゃろう?」
「皇位に就けなかった奴の恨み事とか、皇位につきたいと思う奴の目論見ってことか?」
「ああ。数多くの血が大王家には流されて来たからのう…。兄と弟が争ったり、己が腹の皇子を皇位に確実に就けるべく敵となり得る他腹の皇子を誅殺する…など…な。」
「皇位継承にはつきもののお家騒動か…。」
「最初はそう思っておったのじゃが…。どうやら、そんな単純な事ではないのかもしれん…。案外、首様から皇位を遠ざけるための呪いと、思わせるための策略なのかもしれぬ…。」
「あん?どういうことだ?」
「皇位継承争いに見せかけて、本当の目的は別にある…、ということじゃよ。」
「何で、そう思うんだ?」
「不審な点はいくつかるんじゃ。例えば、そなたたちが現れたこと、それから、稚媛様の力が、ここ最近で、急に強くなっていること…他にもいくつか…。」
そう言ったまま、爺さんは黙りこんだ。考えあぐねている様子だった。
「なあ…爺さんよー。昨日、乱入してきた、あのオカマ野郎…あいつは何者なんだ?」
「文忌寸円のことか。あいつも、陰陽寮の術者の一人じゃよ。それも凄腕のな…。」
「陰陽寮てーのは、どんな役目をしてるんだ?」
「暦を管理するのが主たる役目じゃな。」
「暦?」
「ああ。太陽や月、星の運行を読み解き、尊皇に進言する。ひいては、占いや陰陽術を探求し、国家に安寧をもたらす…まあ、そんな感じじゃな。」
「で?何で宮へ入るのを許したんだ?何か、招き入れたくないみたいな感じで接してたけどよー。」
「まあな。円は文氏の者じゃしな…。」
「あん?」
「文氏の連中は、何を考えておるのか、ちとわからんところがあってのう…。文氏は渡来系の氏族じゃしな…。」
「渡来系?」
「ああ…。大陸から来た一族なんじゃよ。」
「大陸系ねえ…。いわゆる、帰化人って奴か。」
「かの百済のように、大陸の国が滅びると、その王族や貴族がこぞって倭国へ渡来し、そのまま住み着いてしまうことが古来より多々あるんじゃよ。文氏もそんな一族なんじゃよ。祖先は和邇(わに)氏と同族じゃと言われておる。」
「ワニ氏ねえ…。」
「ついでに言うと、佐留の一族、柿本氏も、和邇氏を始祖とした渡来系の家系じゃよ。」
「へええ…。サルとワニが同族なのかよ…。ややこしいな…。」
乱馬はそこで話を転換させた。
「じゃあ、何で、男を宮から遠ざけてるんだ?」
「それは、首様をお守りするにあたって、男性を近づけてはならぬという卜占がなされたからじゃ。」
「稚媛様お得意の占いかよ…。」
「ああ、稚媛様だけではない。他の陰陽寮の占術師も同じ卦を複数出した。」
「あん?」
「都に居る、陰陽寮の占術師じゃよ。現在、この国の占いや暦を一手に引き受けておる陰陽師集団じゃ。」
「何で、男を遠ざけるんだ?」
「首皇子にかけられた呪いを解放するためには、飛鳥に籠り、男から遠ざけよとな…。」
「あん?」
「じゃから、新京から古京へと来られたんじゃよ。そして、男を遠ざけておるんじゃ。」
「おい…。占いの結果で男を遠ざけているだけなのか?」
「そうじゃ?悪いかの?」
「悪いも何も…俺の理解の範疇は越えてるな…。まー。古代人と俺たち現代人じゃあ、思考の中枢が全く違うから仕方ねーんだろーが…。
まあ、良いや…。深く考えてもわかんねーからよ…。」
その話はそこで切った乱馬だった。が、返す言葉で他の疑問を爺さんにぶつけていた。
「あのよー、文忌寸円って、何で、オカマ…宦官なんかになったんだ?何かやらかして罰でも受けたのか?」
「特に、何も罰などは受けておらんよ。罪人は皇子様に近づくこともできまい…。奴が宦官になった理由は、ワシも詳しくは知らぬ。が、尊皇様の近習に仕え始めた二年ほど前に宦官になったと言われておるわい。」
「あん?」
「何せ、女の尊皇様じゃからのう。男盛りの者だと色々、厄介な事があるんじゃよ。」
「厄介なことねえ…。」
「大陸の国、唐では、後宮に仕える男は宦官にされるとも聞いたことがあるな。皇帝の女に手を出せぬように、あらかじめ、ちょん切る風習があると伝えきいたことがある。」
「後宮に仕える男は宦官ねえ…。おっかねー話だな。」
「さっきも言ったが、奴の一族、文氏(ふみし)はもともと大陸から来た渡来人の家系じゃからのう…。」
「文氏かあ…。」
「文氏は、道術に優れた人物をたくさん輩出している上、武術にも明るい。」
「道術?」
「まあ、陰陽道の元になった、道教の術師のことじゃよ。大陸系の陰陽術とでも言うかのう…。奴の一族の文智徳(ふみのちとこ)や文禰麻呂(ふみのねまろ)は、揃って、大海人皇子様や鵜野讃良皇女様という二人の尊皇に仕えた凄腕の術師じゃったんじゃよ。」
「ふーん…。円も麻呂爺さんみたいな、怪しい術を使うのか?」
「まあな…。文忌寸氏の方術も侮れぬ力を持っておるからのう…。円は文忌寸氏の直系ではなく、傍系氏族の出身らしいわい。円の詳しい家系はワシも知らぬ。」
「本家筋じゃねーのか?」
「ああ。文氏の頭目でもあった禰麻呂が奴の呪力の高さを気に入っておってなあ…。呪力の高さによって、本宗家に招き入れられたそうじゃよ。ワシも手を尽して、調べたが、実は、円の過去は、一切、謎に包まれておるんじゃ。
数年前…そうさなあ…三年ほど前かのう…、ある日突然、頭角を現し、文氏の上位へ躍り出た…。そんな感じかのう。」
「ふーん…。何か、キナ臭い野郎だな…。」
「ワシもそう思っておる。奴の出自も一族の家系も、謎なんじゃよ。或いは、何か、秘密があるのかもしれぬ。」
「円は結婚とかしてねーのか?」
たまらず、問いかけていた。
「禰麻呂が一族の女子をあてがおうとしたが、一切、女には手を出さなかったらしいわい。」
「ってことは…根っからの男色とか…。」
昨夜、言い寄られたことを俄かに思い出したのだ。あの時のことを思い出すと、鳥肌が立つ。
「さあな。心に決めた女子が居て、それと生き別れになったという噂もきいたことがあるが、どこまでが真実かはワシもわからん。不気味な存在であることだけは確かじゃよ。」
「不気味ねえ…。俺はあいつの容姿そのものが不気味だぜ…。カマっぽいし。」
乱馬は溜め息を吐きだした。
「それより…。お主、覚悟は良いか?」
「覚悟って?」
「事と次第によっては、命のやり取りをせねばならぬが…。」
「けっ!誰に物言ってやがるっ!こう見えても俺はなあ、命の修羅場をいくつか駆け抜けてきてんだぜー。呪泉洞の戦いとか数多くよー。」
「その手腕、期待しておるぞ。」
「ああ…。何かよくわかんねーが。乗り掛かった船だ…。任せとけっ!」
そう言って、胸をトンと叩いた。
連れて来られたところは、藤原廃京の中にある寺院の跡地のかたわらに建つ屋敷だった。
紀寺という、紀氏の氏寺があったらしい。建物の大方は、平城遷都と共に、寧良の都へとごっそり柱ごと移設してしまったので、ガランとしていたが、それでも、在京時代はかなりの権勢を誇っていたのだろう。さすがに前皇の妃を出した家だけある。
「あの屋敷か…。」
暗がりの中に、ポツンと現れた建物。瓦屋根の剥がされた跡のある板葺屋根の屋敷だった。
「何か…ぼんやりと光ってるな…。」
乱馬が指をさした。建物の周りが青白く輝き、少し浮き上がって見えたからだ。蛍光塗料やイルミネーションの技術などない古代なのに、この光り方は尋常ではない。
「おい、この時代には電灯なんて無い筈なのに、何だ?あの光は…。」
乱馬も気持ち悪がった。
「ふふふ、やはり、おまえにも見えるか…乱馬よ。あれは、結界が発する光じゃ。」
「結界?」
「そうじゃ。?ああして結界を施して、不浄の者たちの侵入を防いでおるのじゃよ。」
「不浄な者たちの侵入?」
乱馬がいぶかしげに問いかける。
「ああ。ここは元は寺院じゃったでなあ…。神の社(やしろ)同様、ああやって、結界を張って清めておるのじゃ。」
「神社ならわかるが、寺の結界なんて、あんまりピンと来ねーな…。」
「何も結界はここにだけに施してあるのではないぞ。おまえさんたちが滞在している「小治田宮」も、辺り一面、結界を施してある。ほれ、ここから見えよう?」
そう言いながら、今来た道を振り返った。
と、確かに、遥か向こうにぼんやりと青白く光る塊が確認できた。
「あそこが宮じゃ。あそこにも強靭な結界は張り巡らせてある。」
「そういや、奥の高床式建物の周りには、強烈な結界が張り巡らされてあるって、桂さんが言ってたな…。そこへは入るなとも言ってた…。なあ、何のためにわざわざ結界なんか張ってんだ?」
「それも、後でまとめて説明してやるわい。」
乱馬の問いかけに爺さんは答えた。
「また、それかよ…。」
「おっと、潜入前に、これを額に這っておけ。」
そう言いながら、爺さんは十センチ、五センチ四方くらいの白い紙きれを乱馬に渡した。
「何だ?これ…。」
怪訝な顔で問いかけると、
「気配を悟られぬためのお札じゃよ。結界を越えねばならんでなあ…。反応されても厄介じゃし。」
と爺さんはにやりと笑った。
「こんなので、結界が破れるのかよ…。」
爺さんの真似をしながら、額へとお札を張り付ける。あらかじめ、膠(にかわ)のような糊状のものが付けてあるようで、簡単に額に張り付けることができた。
「さて、ご覧。結界が薄い場所があそこにある。」
爺さんは館の周りを囲ってある板塀のうち、光が少し薄くなっている辺りを指さした。
「おい、あんな高いところを飛び越える気か?」
乱馬が驚いて爺さんを見返した。身の丈以上ある二メートルほどの塀だが、これを飛び越えるとなると、かなりの跳躍力や腕力が必要となるだろう。
「おぬし、あのくらい、飛び移れんのか?」
爺さんが意外そうに乱馬を顧みる。
「いや…俺はあのくらい、屁でもねえが…。爺さんは大丈夫なのか?」
「あのくらい、どうってことないわい!」
そう言うと、爺さんはスキップでもするかのように軽く塀へ飛びあがる。一瞬の出来事だった。
「なっ、何だって?」
乱馬が驚いたくらいだ。
「早くしろ。先に行くぞ。」
爺さんは塀の上から乱馬を誘導する。置いて行かれては大変だ。乱馬も、さっと飛び上がって後に続く。身軽な女の姿だから、難無く飛び上がれた。
飛び上がるとあとは反対側へ飛び降りるだけ。
それも、難無くやってのける爺さん。
「よっこらせっと。」
と掛声はかけたものの、軽く地面へと着地する。
「この爺さん、俺が思ってる以上に身体能力も高いぜ…。」
乱馬が呟くように言った。
「まるで八宝斎のじじいや、珊璞の曾婆さんを見ているみてーだ…。とても、老人には見えねー…。」
乱馬の感じたとおり、麻呂爺さんの身体能力はとても老人のそれには見えなかった。本当に得体の知れない爺さんだと、乱馬は内心舌を巻いた。
屋敷は屋根のある垣根で周りを囲われ、煌々と焚き火が庭で燃えていた。
爺さんと乱馬の二人は、垣根の影へと身を潜めて、館の様子を伺う。
「予め言っておくが…。おぬし、これから起きることに関して、何人(なにびと)にも他言はならぬぞ。」
と爺さんが念を押してきた。
「あん?」
乱馬は何だと言わんばかりに、爺さんを見返した。
「桂ちゃんにも、それから、あかねちゃんとなびきちゃんにも、一切、他言は無用じゃ。ワシが適当に話を作って彼女らには話すから、おまえさんは適当にそれに合わせておれ。良いな?」
爺さんは念を押した。
「そうだな…。厄介事があかねたちに舞い込んで貰っても、困るしな…。」
乱馬は了解した。
「さて、一応、わしらは招かれざる客人じゃからのう…。心してかかれよ。」
「あい、わかった。」
乱馬は爺さんに続いて、館の中へと侵入した。
廊下は暗く、夜目に慣れるのに少し時間が要った。
じっと瞳を凝らし、耳を澄ます。稚媛が居るのは、女たちのすすり泣きのような呻き声が聞こえる方向だ。そこで、魂送りの儀式が行われているに違いない。
「こっちじゃ。」
爺さんは巧みに乱馬を誘導する。
「爺さん…もしかして、この屋敷の構造、知ってるのか?」
あまりの詳しさに、乱馬がそう問いかけた。
「勿論、知っとるわいっ!このワシを誰だと思っておる?」
「左のおっとっと…だったよな?」
「おっとっとではなく、おとどじゃ!大臣(おとど)!」
勝手知ったる他人の家…。そのような解釈がピッタリと来る。爺さんはひょいひょいと館内の奥へと入り込み、屋敷の主の横たわる部屋の近くの天井へと身を潜めた。
主の部屋のぐるりに結界を張り巡らせてあるのだろう。微かだが、結界の気が弧を作って部屋を囲んでいた。
「ほう…。ご丁寧に、ここにも結界が張ってあるか……。」
爺さんは結界を見つけると、そう吐き出した。
「何か結界っつーより、妖気が漂ってるようにも思うんだが…気のせいか?」
相槌を打ちながら乱馬は答えた。
「妖気…のう…。」
爺さんはにやりと笑った。
「ああ、凄え、妖気がむんむんとそっちの部屋から漂ってきやがる…。」
そう言いながら、隣の部屋の天井板へと視線を巡らせた。
隙間があいていて、そこから、下の部屋の燈火がチラチラと見える。
開け放たれた空間と同じだ。燈火と共に、人々の影がちらつき、人の泣き声や喚き声がすぐ傍でこぼれ、祈りの声もところどころに混じり、一種、異様な光景が繰り広げられていることは、容易に推測できた。
「何人くらい、中に居るんだ?」
と問いかけると、
「ざっと十人ほどかのう…。全て女性じゃぞ。」
爺さんが嬉しそうに答えた。
「女性ねえ…。ってことは、この館も男子禁制…か。」
「巫が女じゃからのう…。男は遠ざけるのが習わしじゃからのう…。」
そんな会話を交わす二人の下では、泣き声が大きくなったり、小さくなったり。わざとらしく、泣いているのではないかという大げさな泣き声も響いてくる。
古代では人が死ぬと、殯の宮にて腹這いして泣きわめいた「泣き女」という専門職が居たという記録を思わせるほど、勢い良く泣きわめく声が屋敷内を響き渡っていた。
「人の臨終の光景って、こんな感じなのか?この時代は…。」
「いつもこんな感じとは限らんよ…。こう、賑やかなのは、身分の高い人い御方じゃからな…。何しろ、前皇の妃だった御方じゃ。殿御魂は清く美しかろうて…。極上の部類に入る魂じゃ。引き留めたいというのも心情というもの…。」
「魂を引き留(とど)める?…抜き取るの間違いじゃねーのか?」
乱馬が尋ねた。
「魂依(たまより)は、何も魂を抜き取ることだけが目的ではないのじゃよ。魂を引き留(とど)めるために施すこともあるんじゃ。」
「あん?」
「魂依媛は、死に臨んだ者を正気づかせ、魂を死の淵から呼び戻す場合も魂依を行うのじゃよ。ま、大方の場合、彼女の力をもってしても、魂を引き留(とど)められず、仕方なく、綺麗に抜き去ることになるのじゃがのー。」
と、中の声がひと際、大きくなった。
「やはりこの様子じゃと…。魂は、引き留めてはおけぬ様子じゃのう……。」
溜息のような大きな息を、爺さんは吐き出す。
「…ってことは…。」
「その時が近いということじゃ…。このまま、何も起こらなければ、それが一番なのじゃが…。」
「できればそう願いたいね…。何が起きるのか、わかんねー以上、あんまり眼を覆いたくなるような光景には出っくわしたくねーからな…。」
「シッ!声がでかい。気取られてしまっては元も子もないぞ。」
「わかったよ。」
二人、だんまりを決め込んだ。
暫し、沈黙しながら、じっと乱馬は天井下の気を探りながら、爺さんの横に座っていた。
と、下の中の燈火が大きく揺らいだような気がした。
バタンと大きな音がしたかと思うと、人々の声が一気に湧きあがった。声というより、悲鳴に近かったかもしれない。
何かが中で起こった証拠だ。
「やはり、無事には終わらなんだか…。」
爺さんは、くわっと瞳を見開いた。
と、バタバタと音がして、女たちが叫ぶ。。
「いやああっ!」
「きゃあああっ!」
バタバタと矢継ぎ早に悲鳴が轟いて、中で人が倒れる気配がした。
たまらず、忍び込んだ隣の部屋の天井から、飛び込もうとする乱馬の背中を、ぐいっと爺さんは引き留める。
「これっ!闇雲に飛び込んではならぬっ!」
とても、爺さんの力だとは思えぬくらい強い力で、乱馬の肩を止めた。
「このまま、手をこまねいているのかよっ!」
乱馬の怒声に、爺さんは言った。
「やり方があると言っておるんじゃ!」
爺さんは喝を入れた。
「やり方だあ?」
「下手をこくと、おぬしも魂を抜かれるぞ。何しろ、相手は、魂依媛様じゃからのう…。」
爺さんの言葉に、乱馬の瞳は大きく見開かれた。
「おいっ!爺さん。今、何て言った?」
思わず、問い返していた。
「だから、相手は稚媛様じゃと言っておろう?」
爺さんの瞳は、真っ直ぐに乱馬を見据えていた。
つづく
ちょこっと解説
柿本人麻呂と柿本佐留
人麻呂は萬葉時代の代表的歌人で、同時代に佐留という人も消息があります。
同一人物説が結構根強いです。この作品では、同一人物として描いていきます。(最初は双子で書きだしていたのですが、辞めました…。物凄くプロットが煩雑になりそうだったので…。)
人麻呂の出自は謎に包まれています。いろいろな伝承がありまして、柿本佐留の別名が人麻呂という説も実際に存在しています。その死に関しても様々な憶測があり、名前を人から猿におとしめられて刑死した…などという説もあります。その折に作ったのが「いろは歌」だという巷説(こうせつ)もあります。
この創作の妄想源は、石上麻呂(ただの麻呂)、藤原不比等(ひとにあらず、又は、ひとしくあらず。)、柿本人麻呂(人)、柿本佐留(猿)、首皇子(御人)という名前の連想から思い立った話の展開したものでもあります。…そのプロットは諦めて辞めましたが…。不比等を登場させると、ややこしい話が一層、ややこしくなりそうだったので、バッサリと切り捨てました。
私的見解ですが、この時代の人の名前も、呪術や言霊と大いに関係づけられて名付けられたか、意図して伝えられたような気がします。
それから、「ヒトマロ」から「火止まる」という連想で、人麻呂を鎮火の神として祀る所もあるそうです。
本作では、佐留という名前の方が出現率が高くなるかと思います。
その理由は、作中の中で、追々と…。
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