◇飛鳥幻想
第十六話 苦渋の選択
四十五、乱馬の迷い
良牙の逞しい腕が、あかねの腰へと回された。必死で抗うあかねだったが、生憎、術式の布陣で全く身体は微動だにしない。それでも、捕えられまいと必死で腰を左右にくねらせた。
動こうとするあかねを逃すまいと、良牙の両腕があかねの腰をがっしりと捕えた。
「やめてぇーっ!良牙君ーッ!」
あかねの絶叫が辺り一面に響き渡ったその刹那だった。
「あかねーっ!目を閉じて息を止めろ―っ!」
天上から響き渡る女声。女乱馬の声だった。
その声が届くや否や、頭上から勢いよく降り注いで来た水流。
バシャッ!
一気にぶっかけられたように流れ落ちて来た水。数秒滴り落ちると、フッと止んだ。その後はひたひたと水滴が天井からこぼれ落ちてきた。
「プギギギーッ!」
水を頭からかぶって、良牙の身体は一気に縮み、黒子豚へと変化を遂げた。
それで我に返ったのだろう。良牙は大慌てで乱馬の背中へと隠れた。
あかねに変身後の姿は見せられない。寸でのところで正気に戻った良牙は、咄嗟に身を隠したのだ。
「あらまあ…。」
円が丸い瞳を巡らせて、飛び込んで来た乱馬を見やった。
「残念だわ…。もう少しだったのに…。」
そう言いながら、ザッと後ろ側に飛んだ。
トン、と乱馬は円が描いた布陣の中へと降り立った。
「乱馬…。」
良牙と共に、水を浴びて濡れたあかねが、布陣に固定されたまま、すぐ傍に立つ乱馬を見上げた。
「間一髪だったみてーだな…。」
乱馬は助けたあかねを見やってホッと息を吐き出した。
「良牙君は?」
急に視界から消えた良牙の姿。それを訝って、あかねは乱馬へと問いかけた。
「奴なら今の水で正気に戻ったようだぜ。大慌てで亀の後ろ側に隠れやがった。」
と亀の方へと親指を指し示した。本当は自分の背中へと張り付いて隠れていたのだが、わざと亀の方へあかねの意識を誘導したのだ。
良牙が子豚に変身することは、あかねには内緒だ。鈍い彼女は、いまだに良牙が呪泉の被害者だということを知らないでいる。
「正気を失っていたとはいえ、おめーを襲いかけたんだ。こっ恥ずかしくて亀の後ろに隠れたんだろうさ…。」
そう言いながら、乱馬は子豚が見えないように、衣服の下へと隠した。そして、円を睨みつけた。
「円っ!てめーよくも、俺のあかねに…。」
女の姿であることを忘れて、円へとガンを飛ばした。女の姿をしていても、心は男である。
「へええ…やっぱり、あなたたち、できてるのねえ…。」
円がニヤッと笑った。
「てめー、許さねーっ!」
乱馬はグッと体内の気を高めると、円に向かって気砲を撃ち込んだ。
ドオンッ!
爆音と共に空間が震えた。
「ひょおおっ!乱暴な子ねえ…。でも、怒った顔も素敵だわ、乱馬ちゃん。」
煙の向こう側で円が笑っていた。どうやら、乱馬の気砲は当たらなかったようだ。いや、円の立っている場所まで飛ばせなかったようだ。
布陣の縁がバリヤーになったようで、そこで気が吹き飛ばされ消滅したようだ。
「無駄よ!乱馬ちゃん。あなたの気砲は当たらないわ。何故ならその布陣から外には攻撃はできないのよ…。」
「なら、布陣を出れば良いんだろ?」
乱馬は、当然のごとく、すぐさま布陣を出ようとしたが、見えない壁に阻まれた。
外側へは出られなかった。
「くっ!」
力いっぱい、押しても引いても、気を打っても、布陣の壁は揺るがない。まるで布陣の中へ閉じ込められているような感じだった。
「何で、外側へ出られねえ?」
「ふふふ、無駄よ。私の描いた術式の布陣ですもの…。」
余裕で笑っている円の身体が、すうっと上に浮かんだ。
「第一ステージはあんたたちの勝ちよ。残念だけど…時空の扉へ杭を打ち込めなかったわ。一応、未来は繋がったままよ…。」
ふっと円は笑った。本当に残念がっているようには見えない。
「でも、第二ステージは負けないわよ…。」
「第二ステージだあ?」
乱馬はキビッと円を睨んだ。
「ええ…。第二ステージ…。開幕は…そうねえ…石上麻呂が張った結界が解ける日没…そういうことになるわねえ…。」
ゆっくりと浮かび上がりながら円が言った。
「日没だあ?」
「ええ…。日没に、ここへいらっしゃい。無論、私と戦う気があるのなら…。」
「宣戦布告って訳か?」
「ええ…。でも…ここに来ても戦わ無くても良いわよ。」
「どう言う意味だ?」
「ここは時空の扉の空間。日没後にはここにも隠(なばり)の扉が出現するわ…。と共に、今は閉ざされている、現世への扉も、開くわ。」
「何だって?」
「つまり、私と戦わずに、日没後に開く時空の扉を通って、現世…平成へ逃げ帰ることもできるって選択肢もあるのよ…。尻尾巻いて逃げ帰っても良いのよ。」
円は乱馬たちを見下ろしながら言った。
「時空の扉…。」
「ええ…。そこの脇にある亀石の口は現世への時空の扉。この亀の口が開けば、平成へと帰れるわ。」
円の言葉を聞いて、乱馬の表情が変わった。
「てめー…何で、平成…俺たちの時代の名前を知ってやがる?」
と問い質した。
「あら…、簡単よそんなこと…。だって、私も平成から来たんですもの。」
円の言葉に乱馬は一瞬、凍りついた。
「おめー…現代人か?」
きびっと見つめ返す。
「そうよ…。覚えてないかしらねえ…。一度、あんたたちと会ってるのだけどねえ…。」
円が言った。
「乱馬、あいつの言ってることは本当よ!」
「あん?」
「良牙君とあんたが戦って、亀石を動かした時の事、覚えてる?」
あかねが話しかけた。
「ああ…。亀石が動いて焦っちまったあれだよな…。明日香村で…。」
「ええ…。あの時、若いカップルが傍に居たの覚えてる?」
「何となく覚えてるぜ…。地元の爺さんと若いカップルが居た…おい…まさか…。」
「その時の男の人の方が、円みたいよ!」
「何だとぉ?」
乱馬ははっしと円を見上げた。無論、すれ違っただけなので顔など細かいことは覚えていない。
が、円はあかねの言葉に深く頷いた。
「ご名答!あの時、私もあなたたちが亀石を動かすのをこの目で見たわ。もっとも、あなたたちが現れなければ、あの亀石は私たちが先に動かしていた筈なのにねえ…。」
円は憎々しげに言い放った。
「何でも、あんたと良牙君が先に亀石を動かしたから、あたしたちがこの世界へ召喚されちゃったようなことを、あいつ、さっき、喋ってくれたわ。」
あかねが乱馬に耳打ちした。
「そいつは本当か?」
乱馬は円へと声をかけた。
「まあ、そういうことね…。ここに至るまでは、いろいろあったんだけど…。」
「平成から流れて来て、文忌寸氏の名を語ってるって訳か…。」
乱馬が怒鳴った。麻呂爺さんが確かに言っていた。円はどこか得体の知れないところがあるという。忽然と文忌寸氏の中から浮かび上がった謎の青年だと。その謎が今のあかねの言葉で、解き明かされたような気がした。
「あら、文忌寸氏を偽って名乗ってる訳じゃないわよ…。平成の御世に生きていたけれど…私も文忌寸氏の末裔だもの…。」
ニッと円は笑った。
「文忌寸氏の血を受けているからこそ…呪術だって自在に扱えるわ。だから、ふふふ、、その私が術で日没に口を開いてあげるから、戦う意志がなければ、とっとと平成へお帰りなさいな…。」
乱馬たちの心を揺さぶるように円は笑いながら言った。
「でも…。」
一呼吸置いて、更に円は畳みかける。
「隠(いなば)の扉を私が通ってしまえば…平成の御世も変わっているかもしれない…けどね…。ふふふ、選ぶのはあなたたちの自由よ。留まるも、私と戦うも、平成へと逃げ帰るのも…。
日没までまだ少し時間があるから、良く考えなさいな…。
もっとも、私は乱馬ちゃんと再び逢いまみえたいわ。邪魔者を追いやって二人きりでね…。」
円はそう言いながら、遥か上方へと消えて行く。
「待ちやがれ―っ!」
乱馬が叫んだが、無駄だった。円が消えると、布陣から眩いばかりの光が立ちあがった。丸に何か幾何学模様が描き出された魔法陣のような布陣からだ。
パアッー、と光が乱馬とあかね、そして後ろ側にへばりついて隠れている黒豚良牙を飲み込むように光輝く。
その眩さに、思わず手を翳して目を閉じた。
カカッ!
光が白んで弾けた途端、辺りの景色が一変した。
乱馬が飛び込んだ場所。
「ここは?」
眩い光が消えたあと、視野が戻ったあかねが、辺りを見回しながら声を出した。布陣に固定されていた呪縛は解けたようで、乱馬の傍に一緒にその場所へ佇んでいた。
ふと、見上げると、尖った石のモニュメントの影があった。人の背ほどある巨石だ。
「俺が飛び込んだ場所だ。」
乱馬がフッと言葉を吐き出した。
「飛びん込んだ場所?」
「ああそうだ…。俺は腰の剣璽にここへ導かれて来たんだ…。」
乱馬は上空に開けた青空を見上げながら言った。
「剣璽?」
あかねが問いかけた。
「ああ…。この剣璽だよ…。」
腰に差した真布都の剣璽をあかねへと見せた。そこには、錆びた剣璽が一本、荒縄で巻きつけてあった。
「それが剣璽なの?」
「ああ…錆ついちまってるけどな…蘇我の…いや、物部の宝剣だそうだ…。」
錆ついて抜けそうも無い剣璽を撫でながら、苦笑いをした。
「これが…宝剣…。」
あかねはそう言って黙り込んだ。
「ああ…。俺は、この剣璽の不思議な力に導かれて、ここへ辿り着いたんだ。」
「ここへ…。」
乱馬はそう言いながら、目の前に立ちはだかるモニュメントの石を見上げた。
「この石に見覚えがねえか?」
乱馬はあかねに問いかけた。
飛鳥資料館で見た、卑猥な…いや、不可思議に尖がった巨石。
「この石って…確か、飛鳥資料館で見たわよねえ…。確か…。」
「須弥山(しゅみせん)…古代の宇宙観を現した石だって、なびきが説明してたあの石だよな…。」
「早乙女のおじ様が…男根とか言ってた…。」
二人はその石を見上げた。
飛鳥資料館にあったものは、本物を忠実に模したレプリカだということだった。石の傍には一目で人工物とわかる苑池があった。そして、須弥山の先端や脇に開いた穴から、ちょろちょろと水が滴り落ち、苑地へと注がれていた。
「…こんな使われ方をしてたんだ…この石って…。」
「良くみたら…なんか…卑猥な噴水みてーだな…。」
造った古代人が聞いたら目を剥きそうな言葉を思わず投げつける。
「で?乱馬はどうやって、あたしの居た場所へ来られたの?明らかにこの場所とあの布陣があった場所は繋がってないわよね…。」
首を傾げながらあかねが問いかけた。あの不気味な空間への入口など、どこを見渡しても見当たらなかった。
「この池に飛びこめって…剣璽に導かれた。」
佐留のことまで説明していたら話が長くなるから、そのことは伏せておいて、乱馬は手短に話した。
「池に飛び込めって?」
「ああ…。声がしたんだ…この剣璽からな…。で、こうやって、ザッブーンって飛び込んだんだ。。」
乱馬は池の脇で鼻をつまんで足から飛び込む真似をして見せた。
「そしたら、急に視界が変わって…良牙の奴がお前を襲ってるのが見えたんだ。ま、俺と一緒に水が落ちてくれて良かったぜ…。」
「どうして水が落ちたら良かったの?」
「そりゃあ…良牙が変身して…。」
と発しかけたところで、言葉を止めた。
「良牙君が変身?」
良牙の変身体質を知らないあかねは、円らな瞳を乱馬へと手向けたのと、慌てた良牙子豚が乱馬の背中へと噛みついたのは、殆ど同時だった。
「てーっ!痛えなっ!」
「どうしたの?」
急に怒声を張り上げた乱馬を、あかねが不思議そうに見やった。良牙は慌てて乱馬の背中へとまた潜り込む。
「あ…いや…。何でもねえ…。変な虫でもいるみてーだ…。とっとと、ここから立ち去ろうぜ。」
背中を隠しながら乱馬はあかねへと声をかけた。Pちゃんがここに居ることが知られるのも後々面倒だ。そう思った乱馬は、ぐいっと着物の下へ黒豚を押し込んだ。
「変な乱馬…。」
怪訝な顔をあかねは手向けたが、そこで会話を切った。
「そう言えば、良牙君は居ないわねえ…まだあの空間に閉じ込められたままなのかしら…。」
「ま、方向音痴のあいつのこった…。どうせ、またどっかからか、ひょっこり現れるんじゃねーのかな。」
パンパンと尻を払いながら、乱馬は言った。
「そうね…。」
「でも、あいつがおめーを襲いそうになるなんてよー。」
「円に操られてただけよ…。真面目な良牙君が素でそんなことはしないわ。」
あかねが言った。
「真面目ねえ…。たく、真面目ヅラの下は案外、助平なんじゃねーのか?」
「あら、ヤキモチ妬いてくれてるの?」
「そんなんじゃねーや!」
乱馬は吐きつけた。
「それより…これからどうするの?」
あかねの問いかけに、乱馬は言った。
「一旦、真神の里まで戻るのが適切だろうぜ…。小治田宮は奴らに抑えられてるし…。日没までもう少し時間がある。」
乱馬はそう言うと、先に立って歩き出した。
「そうね…。甘樫丘って…どこになるんだろ…。ここから遠いのかしら。」
きょろきょろ見回すと、苑池のすぐ先に、朽ちかけた建物があった。瓦葺きだったようだが、屋根から瓦は全て取り除かれ、板葺屋根と土壁だけが残り無惨な姿を晒していた。
回りに浅い堀が取り巻いている。建物の中に、堀から水路が引きこまれている。不思議な建造物だった。
建物をくるりと廻ると、乱馬はふとその脇に立ち止った。
「どうしたの?急に立ち止まったりして…。」
あかねが声をかけると、乱馬はぽそっとあかねに問いかけた。
「何か、見覚えねーか?この場所…。」
辺りを見回して乱馬が言った。
「見覚え?」
あかねはきょろきょろと辺りを一瞥した。確かに何となく見覚えのある風景が辺りに開けていた。
「ここって…。」
「葛城皇子様が造った漏刻のあった場所じゃよ。」
傍で聞き覚えのある声がした。
ヒゲ面の小柄な老人がそこに立っていた。
「麻呂爺さん!」
乱馬が声をかけた。
ひょいっと身軽に麻呂爺さんは二人の前に現れた。
「漏刻…。確か、あたしたちの時代では「水落遺跡」って呼ばれてたわよね…。」
あかねが乱馬へと問いかけた。
「ってことは…。」
「ここからあたしたちは召喚されたのよ…。」
ゴオッと風が吹き抜けた。
振り返ると、須弥山の苑池が見えた。その向こうには天の香具山が見える。
建物の中に引き入れられた水路、それから、周りに廻らされた堀。確かに、二人が猿面男に召喚された場所と酷似していた。
「そうか…お主らはここから召喚されたのか…。」
静かに麻呂爺さんが吐き出した。
「ここは時を司る漏刻があった場所じゃからな…。それに…宝皇女様(皇極・斉明女帝)の造った須弥山もある…。大きな術を張り巡らせるのには絶好の場所じゃ。」
「そういや、なびきはどうした?」
乱馬が問いかけた。一緒に召喚されてきた天道家の次女なびきのことを思い出したのだ。
「一緒に居たのはなびきお姉ちゃんじゃなかったわ。円に襲われた時、一緒に居たお姉ちゃんは、目の前で消えてしまったの…。パンと弾けるような音と共にね…。」
「何だって?そいつは本当か?」
乱馬は驚いた。
「ほう…。なるほど…なびきちゃんは人では無かったのか。」
麻呂爺さんがフッと笑った。
「ええ…。お姉ちゃんが消えた時、ヒラヒラと人形の紙が舞い降りてきたわ。」
「人形の紙…。」
乱馬はハッとした。
「そうか…なびきちゃんは式神だったのか。」
乱馬の言を受けて、麻呂爺さんが吐き出した。
「円もそんなことを言ってた。誰かがはなった式神だって…。」
「まあ、良い…。なびきじゃなかったってことは、懸念が一つ減ったってことだよな…。」
乱馬が小さく吐き出した。なびきではなく式神だったということは、少なくともこの世界になびきは存在していないということだ。ということは、彼女を助ける手間も省けたということになる。これで動きやすくなったことは確かだった。
「でも、誰が何のために、なびきお姉ちゃんの式神を放ったのかしら…。」
あかねが首を傾げた。
「おまえさんたちを召喚した者が、気を利かせたんじゃろうよ。」
ポツンと麻呂爺さんが言った。
「お姉ちゃんを式神にしたことが気を利かせることになるの?」
あかねが問いかけた。
「あのなびきとかいう娘っ子、かなりの知識を持っておったではないか。式神は元にした人間を忠実に模すんじゃよ。つまり、元になった娘っ子は相当な知識を持っておったということじゃ。少なくとも、この時代について殆ど無知に近かったお主らを導いてくれておったろう?」
「そうね…あたしも乱馬も、お姉ちゃんほどの知識は無かったわ…。」
麻呂爺さんの言わんとしたこともあかねには頷けた。
「お主らを召喚した者の精一杯の術だったのかもしれんな…。本当はなびきちゃん本人も召喚したかったが、そこまでの力は無かった…のかもしれんが。」
「けっ!なびきは業突く張りだからな…。が召喚されてたらされてたで、後々面倒だから、式神で丁度良いって思ったんじゃねーのか?術をかけた奴はよう…。」
乱馬が吐き出した。
「ちょっと…そこまでお姉ちゃんのことこき下ろさなくても良いんじゃないの?」
あかねがムッとして乱馬を見た。
「おめーだって内心ホッとしてんじゃねーのか?あいつが居たら居たで、面倒なことが多いぜ?厄介女が一人いるだけでも、持て余してんだ…俺は。なびきまで居てみろ…。面倒見切れねえぞ…。」
「な…何ですって?厄介女って私のこと?」
「まあまあまあ…喧嘩は良しなされ…。」
しょうがないなあという顔で麻呂爺さんが乱馬とあかねの間に入って、止めた。
「で?爺さんはあれからどうしたんだ?」
「ワシか?桂ちゃんと差しで勝負したわい。」
「桂さんはどうした?」
「ワシと遣りあった後、いつの間にか居なくなったわい…大方、義法の手の者に促されて、小治田宮へ戻ったんじゃろうて…。」
「ふーん…ってことは、桂さんは、まだ奴らに操られているのか?」
「恐らくな…。まあ、手加減しながらやりあったから、大きな怪我はしておらんと思うよ。」
「桂さんとはあんまりやり合いたくねーな…。で?他にも誰か居るのか?」
漏刻のあった建物を指差した。建物の周りから、他の気も漂ってくる。それも、一つ二つではない。集団の気だ。敵意は無いらしく、殺気は無い。
「ああ…。真神の連中やら阿雅衆の連中が数名な…。桂ちゃんはともかく、夕べやりあった阿雅衆の連中は、今はこっちの味方じゃよ。」
「ってことは和解したのか?」
「和解…とまではいかんが、ワシが伊賀皇子(=大友皇子)様の遺言で動いていたことに一定の理解を示したんじゃろうよ…。」
「理解ねえ…。」
「それに阿雅衆は元飛鳥…つまり、阿射加国(あざかのくに)に関係している一族の末裔でもあるからな…。」
爺さんが言った。
「阿雅衆が阿射加の末裔だあ?」
「ああ…。飛鳥の支配権が大王家に委譲された後、飛鳥に居ることを潔しとしない阿射加国の民の一部は、伊賀や鈴鹿に移住したと言われておる。」
「ふーん…。」
「阿雅衆の連中にとっても、隠(いなば)は無関係ではないのじゃよ…。円や義法の好きにはさせられんでな…。真神、阿雅衆…そしてワシ…とまあ、それぞれの事情を抱えて、思い思いにここへ集結して、最終決戦に向けて、英気を養っておるところじゃ。」
爺さんは吐き出した。
「最終決戦…か。」
乱馬の表情が硬くなった。
「日没まで、四、五時間ってところだな。」
ぬっと良牙が顔を出した。どうやら、湯を手に入れてそれを浴びて黒子豚から人間に戻ったようだ。
「ほう…もう一人、異世界から召喚された奴がおったのか。」
麻呂爺さんが目を見張った。
「ああ…俺たちの仲間だ。こいつは良牙って言うんだ。」
乱馬が良牙を紹介した。
「変わった獣の臭いが漂ってくるぜ…こいつ。」
ひょっこりと浅人も顔を出した。
「浅人、おめーも居たのか。」
乱馬が話しかけるのもお構いなしで、浅人はクンクンと良牙の匂いを嗅いでいる。子豚の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
「し、失礼なっ!俺は獣じゃねーぞ!」
焦って良牙が怒鳴った。
「そーかな…。変わった匂いを身にまとってるぜ…。人間とは明らかに違う別の生物の匂いだ。」
「浅人は狼に変身できるからな…。鼻は利くぜ。」
そっ気なく乱馬が言った。
が、良牙はそれ以上その話題には触れたくなかったのだろう。乱馬や浅人の言は無視して、あかねへと振り返った。
「さっきはすまなかった…。あかねさん。」
そう言いながら、頭を下げる。
「気にしてないわ…円に操られていたんだもの。」
あかねが微笑んだ。
「たく…そんなにあっさり許しちまって良いのかよー。」
その微笑みに、少し乱馬が不機嫌になった。面白なさげにブツブツ言った。
「女の腐った奴みたいなこと言うなよ。あかねさんが許してくれたんだ。」
ぱああっと良牙の顔がほころんだ。
「女の腐った奴みたいだってのは、余計だぜ!で?最終決戦へ向けて、何か策でもあるのかよ?じじい。」
乱馬は麻呂爺さんへと向き直った。
「特に無いわい…。」
「特に無いだあ?」
乱馬が呆れて問い返した。
「相手は得体の知れぬ陰陽術を使役するでな…。ま、いずれにしても一筋縄ではいくまいよ…。小治田宮は奴らの手に落ちている。首皇子様も安宿媛様も…稚媛様も奴らの手中じゃしのう…。」
「あ…そうか…。」
あかねは頷いた。
「ノープランかよ…。…ったく。」
乱馬は黙り込んでしまった。
「日没と共に、ワシの結界は解ける…。それからじゃな、事態が動くのは。で?円の奴は何か言っておったか?」
「日没に再び対戦する気みたいです…。多分、須弥山から辿れば隠(いなば)の扉が開く場所へ行けると思うんですけど…。」
「だろうな…。乱馬の奴はあっちの池から、あの空間へ飛び込んで来たみてーだし…。」
乱馬たちの話を横で聞いていた良牙も頷く。
真布都の剣璽に導かれるまま、無我夢中で飛び込んだ須弥山の苑池の下に、あの空間は広がっていた。乱馬は確かにそう言っていた。
「なるほど…時空の扉は、須弥山から辿れるのか…。」
麻呂爺さんは二人の話を聞きながら頷いた。
「池を突破口として、そこから攻め居れば良いんじゃねーのか?」
良牙が提案した。普通に考えると、それが妙案だろう。
が、麻呂爺さんは首を横に振りながら言った。
「いや、時空の空間へ辿れるのは、客人として召喚されたおぬしたち、三人だけじゃよ。」
「え?」
意外な言葉に、あかねは麻呂爺さんを見やった。
「時空の空間へ辿れるのは、一度、そこを通った者のみじゃ。つまり、未来から来たお主ら三人しか通れんよ。じゃから、ワシらには辿れん。」
麻呂爺さんは残念そうに言った。
「そうなんですか?」
「ああ…。時空の空間はそれ自体が術式じゃからのう…。言わば、お主ら以外は部外者じゃ。」
「爺さんでも辿れねーのか?」
乱馬が問いかけた。
「ああ…無理じゃな。」
「いやにあっさりと言うじゃねーか。」
不機嫌そうに乱馬が吐き捨てた。
「まあ、そう言うな。あの空間を操っているのが円だとしたら…敵方も円くらいしか入れんよ。」
と麻呂が言った。
「稚媛はどうなんでい?夜見媛なら入れるんじゃねーのか?」
乱馬が間髪入れず問い質した。
「さあのう…。稚媛様はどうなるか、ワシにはわからん。」
「たく…無責任すぎねーか?」
乱馬は麻呂爺さんを睨んだ。
「仕方なかろう?稚媛様のツクヨミの能力がいかがなものか、ワシとてつかみ切れんのじゃから。」
「まあまあ…いずれにしても、敵方もこっちも、部外者はその空間へは入れないってことだろ?俺たちが頑張れば良いんじゃねーか。」
と良牙が間に入った。
「俺たちが頑張るしかねーのか…。この時代の危機なのによー。」
納得がいかないという顔を乱馬は手向けた。
「ま、円との闘いはお主らに任せるしかなかろうな…。で、ワシらは小治田宮を奪取せねばならんしのう…。ワシの作った結界を破って、奴らが何をたくらんでおるのか…。そっちを潰さねばなるまい?外の世界はワシらが、内の世界はおぬしらが頑張るしかないのう。」
麻呂爺さんの言うとおりだった。
「ま、各々、割り当てられた場所で全力を尽くして戦う…それが最善の策なんだろうさ。」
良牙が腕を組みながら頷いた。
「たく…それじゃあ、無策だって言ってるようなもんだろうが…。」
そう吐き捨てると、乱馬はすいっとその場を離れた。
「どこへ行くの?」
「男に戻るんだよ!いつまでも女で居られるかっ!それに一服ついてくるよ!夕べだって殆ど寝てねーんだ!」
ずかずかと建物の中へと入って行った。
「何、不機嫌こいてんのかしら…乱馬の奴。」
その後ろ姿を見送りながらあかねがフウッと溜め息を吐き出した。
「ふっ!見苦しいヤキモチ妬きやがって…。」
良牙も吐きつけた。
「最終決戦を前に、考えたいことでもあるんじゃろうて…。」
目を細めながら麻呂爺さんが言った。
「あいつが考え事なんかするのかよー。」
良牙がそれに反応した。
「それはそれとして…。おまえさんたちも決戦に備えて、身体を休めておかねば、存分に戦えまいよ。」
麻呂爺さんはそう言い置くと、乱馬の消えた方へと入って行った。
それっきり、乱馬も麻呂爺さんも、あかねたちの方へは出て来なかった。
あかねは良牙と共に、建物の軒先で腰を下ろした。真神の里の者たちがやって来て、兵糧を分けてくれたのを、お腹へとおさめた。腹が減っては戦は出来ない。
来るべき決戦に向けて、少しでも体力を蓄えなければいけない。あかねも良牙ともどもそう思っていた。
が、乱馬のことも気になっていた。何故、急に不機嫌になってしまったのか。
複雑な青年の心情など、到底あかねには理解ができなかったのである。
瓦屋根は剥がされ、朽ちかけているとはいえ、さすがに大王家の専制支配のための重要な施設だっただけのことはある。柱に使われている木は見事だったし、土壁も落ち始めているとはいえ、頑強に作られてある。
そのまま移転しても良かったろうに、何故か骨格だけ残された前時代の建物。漏刻の置かれた場所らしかった。
平城京へ遷都されるまでは、現役で稼働していたのだろう。周囲に張り巡らされた堀から建物の中へ引き込まれた水路は、チョロチョロとまだ音をたてて流れている。
板敷の床には畳など敷かれてはいないが、横になって休むには丁度良いあんばいだった。幾つか区切ってある部屋には、思い思いに真神や阿雅衆の兵士たちがつかの間の休息を取っていた。
「たく…おまえさんはわかり易い奴じゃのう。」
ごろりと仰向けに手枕で寝転がっていた乱馬に、麻呂爺さんは吐きつけた。
「うるせーよ!」
乱馬は余計な事は言うなと背中で訴えるように、コロンと寝返りを打った。
「迷っておるんじゃろ?このままではあかねちゃんを危険にさらしてしまうと…。」
それに対する乱馬の返答は無かった。
図星だった。ここに共に居る以上、あかねを巻きこむことは目に見えていた。
正直迷っていたのだ。
その感情が態度にまで露呈していた。
急に不機嫌になったのも、その感情の揺れを持て余してのことだった。
「まだまだ蒼いのう…。」
人生経験が豊富な分、若い青年の心情が手に取るようにわかるのだろう。
「……。」
爺さんの問いかけにも、無言で考え込んでいた。
円が時空の扉の前で言っていたことが、心のどこかに引っかかっていた。
(あいつ…意味深な御託を並べやがって…。)
『選ぶのはあなたたちの自由よ。留まるも、私と戦うも、平成へと逃げ帰るのも…。
日没までまだ少し時間があるから、良く考えなさいな…。
もっとも、私は乱馬ちゃんと再び逢いまみえたいわ。邪魔者を追いやって二人きりでね…。』
乱馬の脳裏で円の言葉が幾度も繰り返される。
この場所へあかねを残したとしても、危険が回避されるわけではない。
安全だと思っていた小治田宮も真神の里も万全な場所ではなかった。現にあかねは二度さらわれた。一度目は真神の手によって、二度目は円の手によって捕えられた。共に己のせいで、危険にさらしてしまったではないか。
かと言って、自分に同行させるのも気が引けた。
円は不気味な存在だった。どんな汚い術を使って、闘いを挑んでくるかも予想できない。あかねを盾にすることも考えられる。
これは命を賭した闘いになる。
だからと言って、乱馬から離れることをあかねは良しとはしないだろう。勝気なあかねのことだ。乱馬が命じても聞く耳は持つまい。共に闘うことを迷わず選ぶだろう。
「案外、お主の中では、この戦いをどう進めるのか、決まっておるのではないのか?」
麻呂爺さんは乱馬へと問いかけた。
(そうだ…とっくに、決まってるんだ…。だけど…。)
考えれば考えるほど、わからなくなることが多すぎた。
文忌寸円のこと。こいつの存在は不気味で大きい。いや、円のだけではない。
柿本佐留。今、乱馬の腰にある真布都の剣璽の中にちゃっかり収まっているこの得体の知れない亡霊的存在。こいつのことも謎だった。
(いずれにしても…円か佐留か…どっちかが俺たちの召喚に深く関わってることは間違いがねーんだ。
佐留のじじいも亀石のことを言ってやがったし…。
っていうか、亀石のところで円と会ってるなら、もう一人居た、女性はどうしたんだ?どうして影がねえ?
ここに存在しないのか…それとも、存在自体が消えてなくなっちまったのか…。)
考えれば考えるほど、深みにはまる命題。
寝返りを打った時、胸元からはらりと何かがこぼれ落ちた。ハッとしてそれを手に持った…。それは、なびきが水落遺跡で見せた占い師の写真だった。幸運の御利益にあやかるため、持ち歩いているというプロマイド写真だった。
何の気なしにそれを見て、ハッとなった…。
「こ…これは…。」
写真を持つ手が微かに震えた。
「まさか…円の奴って…。」
ぎゅうっと拳を握りしめて、眼を閉じる。拳の中には、あかねと交換した紅い勾玉が鈍い光を放っていた。
四十六、日没
そろそろ日没が迫って来ている。
二上山の方へ彼岸の太陽は入り始めた。あと数十分もすれば、西の山の稜線へと太陽はずっぽりと姿を隠してしまうだろう。
闘いの準備をするためか、一人、二人、館の中で惰眠を貪っていた真神や阿雅衆の猛者たちが外へと立ちあがって行く。
どのくらい、拳を握りしめたまま、そこへ転がってじっとしていたろうか。
乱馬はゆっくりと床から身を起こした。
「どうやら、結論は出たようじゃな…。」
脇から麻呂爺さんが声をかけてきた。
「まーな…。」
素っ気なく返答を返した。
「迷いは無いな?」
確認するように爺さんは乱馬へと問いかけた。
「ああ…、多分…。」
まだどこかで迷っている…そんな雰囲気の言葉を投げかけた。
建物の中は薄暗かったが、外はまだ明るかった。陽が傾きかけていて、浅い春の夕は少し冷え始めていた。風はまだどことなく冷気を含んでいる。
闘いを前に緊張しているのだろう。得も言えぬ高揚感があちこちから漂っていた。武器を手入れする者、腹ごなしをする者、歓談する者。様々であったが、猛者たちの瞳はギラギラと殺気を孕んでいる。
その中にあかねは居た。
どこからか調達してもらったのだろう。筒状のズボンをはいていた。そして、白い鉢巻を頭へと巻きつけている。武の女神。そんな雰囲気があかねの周りに漂っていた。
その美しさに、思わずハッと歩みを止めた。
猛者たちと交わす会話の中に輝く笑顔。その神々しさをそのままそこへ留めたい。
そんな欲望に捕われた。
暫しあかねに見惚れて足を止めたが、フッと息を一つ吐き出して、再び歩み始めた。
その気配を察したのだろう。
「乱馬…。」
不機嫌に去ってしまった彼を見つけて、あかねは複雑な表情を手向けた。湯を浴びたのか、男の姿に戻っていた。
また池の中へと入るだろうから、男に戻っても仕方が無かったろうが…。それでも、男の姿の彼を認めると、少し笑顔になった。
その笑顔を断ち切るように、声をかけてきた。
「あかね…。ちょっと面貸せ…。話がある。」
乱馬はあかねを人気が無い方へと誘った。いや、人気があっても、乱馬のいつもと違う雰囲気に気押されたのだろう。その場に居た男たちはスッと立ち退いて行った。
傍に居た良牙すら乱馬へと場を譲って二人の視界から消えた。
「話があるって?」
疑問を投げかけながら、あかねは乱馬の顔を見上げた。
真っ直ぐに見下ろして来る漆黒の瞳。その澄んだ輝きに、一瞬、心が熱くなった。
…やっぱり男の乱馬が好い。
素直にそう思えた。逞しい腕も、厚い胸板も、精悍な顔立ちも…全てが好みに思えた。
「勾玉を交換しておこうと思って…。」
意外な言葉が乱馬の口からこぼれた。
「勾玉って…。」
今更どうしたの?とでも問いたげに、きびすを返す。と、乱馬の逞しい右腕があかねの胸元に伸びて来た。そして、あかねの胸元にかかっていた勾玉を紐ごとスッとすくい上げた。あかねの短い髪が、サラッと音をたてて揺れた。
それから、自分の胸元にかかっていた紅い勾玉をあかねの首へとそっと通した。
柔らかなあかねの髪の毛が手に当たる。
「元々、この黒いのが俺んのだし…。それに、俺が買ったその紅いのを俺の生きた証として、おめえに持っていて欲しいんだ。」
乱馬の「らしくない言葉」に、思わず、えっと問いかけようとしたが、その唇は彼の唇によって遮られてしまった。
ふわっと降りて来た熱い唇。
あかねの動きが驚きで一瞬止まった。
その刹那を、乱馬は決して見逃さなかった。
ズブッ!と音がして、みぞおちに拳を一発当てられた。
あかねの身体がガクンと揺れた。
「乱馬…どうして…。」
一度大きく見開かれたあかねの瞳。そこから光が消えた。
「ごめん…。こうすることしか思いつかなかったんだ…。」
そう言葉を継ぎながら、乱馬は求心力を奪われて、崩れ落ちて来る細い身体を、両手で抱きしめた。
トクン、トクンと聞こえて来る乱馬の心臓の鼓動を耳に、あかねの意識は遠のいていった。
完全に力が抜け落ちたことを確認すると、うなだれたあかねの身体を、お嬢様抱きにする。そして、ゆっくりと唇を重ねていった。
「乱馬の…うそつき…。」
合わせたあかねの唇から、そんな非難の言葉がこぼれてくるような気がした。
「ああ…俺はうそつきさ…。でも、おめーを愛する気持ちに偽りはねえ…。だから、お別れだ…あかね。」
合わせた唇でそう囁きかけた。
「乱馬…てめえ…。」
陰から良牙のきつい声が響いた。
「良牙か…。」
あかねを抱えたまま、乱馬は良牙へと対した。
今の一部始終を見つめていたのだろう。良牙の気が怒りに震えていることを感じ取っていた。あかねを抱えていなければ、襲いかかってきたろう。
あかねを傷つけることは良牙にはできないので、寸でで堪えている…そんな気配だ漂っていた。
「乱馬、貴様、どういうつもりで、あかねさんを…。」
ギュッと拳を握りしめたまま、良牙は乱馬を睨みつけた。
「どういうつもりも…見たまんまだよ。」
眉間一つ動かさず、乱馬は良牙へと声をかけた。
「散々迷った末の決断だよ…。これ以上、あかねを危険にさらしたくねえってな…。」
静かに乱馬は対峙した。
「その結果がこれか?」
良牙は更に畳みかける。
「ああ…。言い訳はしねえ…。」
眠るように閉ざされたあかねの瞳。それを眺めながら乱馬は続けた。
「良牙…一つ頼まれてくれねーか。」
「頼む?てめーが俺に何を頼むってんだ?」
良牙は更に声を荒げた。
「頼むっ!あかねを現代へ…平成へ連れて帰ってくれ!」
「乱馬…てめー…。」
乱馬が何を決意して、あかねを強襲したのか、やっと良牙は理解したようだった。驚いたように、乱馬を見やった。
「俺は円と戦わなけりゃなんねー。奴を野放しにしてはおけねーからな…。それに、奴の狙いは世の中を根底からひっくり返すことにあると見た…。
あいつの正体は…こいつだ。」
そう言いながら、懐から一枚のラミネート写真を良牙へ向けて投げつけた。
「何だ?これ…。おまえ、いつから男の写真、持ち歩くようになったんだ?」
写真を拾い上げながら良牙が言った。
「その男に見覚えがねえか?」
乱馬は良牙に叩きつけた。
「あん?」
そう言いながら写真を覗きこんだ良牙の顔つきが変わった。
「こ…こいつ!俺を拉致してこっちの世界へ連れて来やがった男じゃねーか!間違いねえー!ふざけたサングラス野郎だ!」
と吐き出した。
「やっぱりな…。」
乱馬は吐き出した。
「何でこんな写真をてめーが持ってやがんだ?」
良牙が息を荒らげた。
「落ちつけよ!これは俺んじゃねーよ…。」
「貴様のでなかったら誰のもんだ?」
「なびきだよ…。あかねの姉の…。何でも物すげえ占い師の敏腕マネージャで、こいつの生写真を持ってると、御利益があるんだそうだ。」
乱馬は言った。
「御利益があるだあ?ざけんなよっ!」
「だから、御利益があるって俺が言ってる訳じゃねーぜ…。それから、グラサンかけてっから良くわかんねーかもしれねーけど…。顔の輪郭、誰かに似てねーか?」
「あん?」
良牙はもう一度写真へと眼をやった。
「さっき、あの空間で、生意気言ってた野郎に似てねーか?」
良牙の目が再びつり上がって見開かれた。
「確かに!奴だ!似てる!アゴの辺りなんかそっくりだ!」
「やっぱりな…。文忌寸円…こいつはその写真の男だ。この写真の男も…確か、マドカとか言ってたしな…。」
上着に差し出した写真を仕舞い込みながら、乱馬は再び良牙を見つめた。
「もう一度言う…。俺は奴と戦う…。奴はそれを望んでやがる。何かの決着を俺とつけるつもりで煽って来やがったんだ。
だけど…これ以上こいつを…あかねを巻き込みたくねえんだ…。
頼む!あかねと一緒に平成へ帰ってくれ!亀石の時空の扉が開いたら…。」
あかねを抱いたまま、乱馬は良牙へと頭を垂れた。
その時だった。
「もうじき日が沈むぞ!闘いの時じゃ!」
「小治田宮へ行くぞ!義法や円の好きにさせてたまるか!」
「首様や安宿媛様を救い出せ!」
「倭国を、日の本の国を守るんじゃ!」
猛者たちの声が響き渡る。
乱馬はゆっくりとあかねを地面へと下ろした。
その瞳は穏やかに優しげに揺れていた。命を賭けることを決意した益荒男(ますらお)の輝きに満ちていた。
「乱馬…おまえ…。」
その決意が揺るがないことを、良牙は悟っていた。何を言っても無駄だろう。
もう決めたことを、この男は覆さないだろう。
「わかった…。あかねさんのことは、俺に…俺に任せておけ。」
良牙も意を決して吐き出した。
「ありがとう…良牙。」
乱馬は一度、にっこりと微笑んで見せた。
そして、もう一度、あかねへと視線をやると、くるりと背を向け、そのまま全速力で駆けだしていた。目指すは、須弥山の池。
錆ついた剣璽を手に、一目散に駆けていく。
「ちぇっ!不器用な奴だぜ…。」
その背中を見送りながら良牙は吐きだしていた。
「たく…そのとおりじゃよ…。じゃが…。事はそう簡単にはいくまいよ。
」
すっくと麻呂爺さんが、良牙の脇に立っていた。
「爺さん…何時の間に…。」
ぎょっとして良牙が振り返った。
「ふふふ、本当に真っ直ぐな男じゃな…乱馬は。奴の長所は真っ直ぐすぎるというところじゃ。人を素直に信じすぎる…。」
麻呂爺さんは走り去る背中を追いながら、フッと笑った。
「長所?短所の間違いじゃねーのか?でも、良く分かったな…。俺が乱馬を裏切るってことを…。」
あかねを抱き上げながら良牙が笑った。
四十七、裏切り
乱馬は迷うことなく、須弥山に走り込むと、その苑池の縁に立った。
水がゆらゆらと揺れている。
あかねが良牙に襲われた時、剣璽の導きによって、この苑池に飛び込んだ。その時、水面が開き、少しの水と共に、下に広がる世界へと侵入できた。
今度も同じように上手く下の世界へ入りこめるかどうか。
保証は無かったが、ここへきて、後退する訳にはいかなかった。
「飛びこんだら女に変化しちまうな…。ポットなんか存在しえね古代だから、女になったら、男には戻れねえ…。」
水鏡に映る自分の姿を見ながら、少しばかり考え込んだ。
女に変化するということは、それだけ力が落ちるということだ。ざっと見積もって、腕力が二割ほど落ちる。その代り、体重が軽くなる分、二割ほどスピードは上がる。だが、瞬発力は無い。体力も少しばかり劣ってしまう。
女化する自分が恨めしかったが、躊躇などしていられなかった。
このまま放っておくと、円は確実に隠(いなば)の扉を開けてしまう。
扉を開けられると、どのような禍がこの国に降り注ぐか…実のところ、その影響がどこまで派生するかは未知数だった。が、麻呂爺さんや真神の真人(おじじ様)や佐留爺さんの話を総合すると、とてつもない禍が降り注ぐことは確実なようだ。
未来を揺るがしかねない危険な扉。
水面は早く飛び込めと、乱馬を誘わんばかりに揺れていた。
太陽は西に沈み、辺りは暗闇に包まれ始めている。小治田宮への総攻撃も始まったのだろう。風に乗って、狼の吠える声や、人間の唸り声が聞こえて来た。
(ぐずぐずしてたら、良牙があかねを連れて来るよな…。)
良牙が追い付けば、何しにあかねを沈め、彼に託したのか…意味を成さなくなる。
(とっとと飛び込んで…円と対峙しねーと…。)
ためらいを跳ねのけるように、息を大きく吸い込むと、乱馬は足からザブンと水面へと飛び込んだ。
ゆらゆらと水面が弾け、再び下の世界へと乱馬を誘う。
水飛沫と共に、女体へと身体は変化した。
腕も手も足も縮み、身体の線も丸くなる。
「はあっ!」
気合いを入れて、気砲を下方へ解き放ち、その反動で地面の底へと降り立った。
辺りは暗闇に包まれ、シンと静まり返っている。
さっきあかねを呪縛していた布陣は消え失せていたが、亀石が口を閉じたままそこにドンと佇んでいた。
「円ーっ!望み通り、来てやったぜーっ!」
声の限りに絶叫した。
「あらまあ…一人で来たの?」
亀石の上から、円がひょっこりと姿を現した。
「良牙って子もあかねって小娘も連れて来なかったのね。ふふふ、嬉しいわ。」
満面の笑顔を乱馬へと手向けた。
「勝負だっ!円っ!」
乱馬ははっしと睨みあげた。
「勝負?」
円は何を言い出すのとばかりに、乱馬へとはきつけていた。
「隠の扉は開かせねえー!覚悟しやがれっ!」
乱馬がいきり立った。そして、はっしと円を睨みつけると、攻撃態勢に入った。
「あらあら…。私は乱馬ちゃんと戦う気なんてさらさらないわよ。」
乱馬の先制攻撃を避けながら、円が笑った。
「何をふざけたことを!」
乱馬は気を溜めながら、円を見上げた。
「あなた傷つけるわけにはいかないもの。」
そう言うと、円は自在に亀石の上を逃げ惑った。バアンと円の傍で乱馬の気砲が弾ける。
「もう…しょうのない子ねえ…。仕方無いわ…。言ってもわかりそうにないから…。」
円はそう言うと、印を空で結んだ。そして、パチンと右の人差指と親指を鳴らした。
その瞬間だった。消えていた筈の布陣が地面に現れた。あかねを捕えていたものではない、別の新たな布陣だった。
「なっ!何だ?これはっ!」
布陣の描線から、緑の触手が這い上がって来た。そいつは乱馬の肢体を目掛けて、一瞬で競り上がる。避ける暇も無いほど、ぞわぞわと乱馬へと巻きついてきた。
「うわあっ!」
みるみるうちに、乱馬の肢体を絡め取り、動きを封じた。
「円っ!貴様、何のつもりで…。」
動きを封じられ、空に浮かんだ状態で乱馬は円を睨みつけた。
「言ったじゃない?こうでもしないと、あなたは私を攻撃し続けるでしょう?だから大人しくしてもらうの…。あなたを傷つけたら、元も子もないから。」
余裕の表情で笑いながら、円は亀石の上から笑っていた。
「クソっ!」
乱馬は気を体内で充満させた。気を放出して、呪縛を解こうと考えたのだ。
「ふふふ、無駄よ。あなたが気を使うことはお見通し…。そいつらは、気を好んで食うのよ。だから、気を充満させようとすると、返って活気付くわよ。」
円の言葉に反応するように、触手たちはズルズルと音をたてて、乱馬の発そうとした気を吸収していくではないか。
乱馬の身体から力が抜けた。
「こいつら…気を食らうのか!」
やばいと察した乱馬は、気を充満させるのを止めた。こうしないと、こいつらは、乱馬が気を失うまで気を貪り続けるだろう。
「抵抗は無駄だわよ…。大人しく、隠(いなば)の扉が開くのを待ちましょう…。あ…それから…。良牙って子もあかねって子も、ここまで入って来られないわよ。」
にんまりと円が笑った。
「何だって?そこから平成へ帰れるんじゃねーのか?」
「ええ、平成へは帰れるけど…。今頃、稚媛の餌食になっているんじゃないかしらねえ…。」
「稚媛の餌食だあ?まさかっ!」
「けしかけたわよ。だって、もう少し気が欲しいって昨夜から駄々をこねるんですもの。桂ちゃんも一緒だから…今頃は修羅場になっているわ。ふふふ、好い気味。」
円が呟いた。
「畜生!俺があかねたちと行動を別にすることがわかってて…貴様。」
はっしと睨みあげた。
「そんな怖い顔しないで…。ほら…。隠(いなば)への扉がそこに出現し始めたわ。
日没で結界が緩んだものね…。小治田宮でそろそろ、義法が術をかけ始めたのよ…。騙されてるってわからないままね…。」
全ては円の掌の上で事が回っているようだった。
「扉が開いたら、一緒に入りましょうね…乱馬ちゃん。」
円はそう言いながら、その時を待っているようだった。
「クソっ!あかねっ、あかねーっ!」
乱馬の声が虚しく時空の狭間へとこだました。
「あかねさんっ!」
その声にあかねは意識を取り戻した。
辺りは闇に包まれている。ところどころで松明の火がチラチラと揺れているのが見えた。
「あたし…乱馬に一発みぞおちに食らわされて…。」
そう言うなり、ガバッと跳ね起きた。
傍で揺れていたのは、乱馬ではなく良牙の顔だった。
「良牙君!」
あかねは身体を起こしながら、良牙の影を認めた。
「ねえ、良牙君ッ!乱馬は?あいつはどうしたの?」
せっついたあかねに、良牙は一言、言葉を投げた。
「あいつなら、一人で円のところへ行きましたよ。」
素っ気なく事実を伝えた。
「何ですってえー?」
それを聞くや、あかねのボルテージが一瞬で上がった。また、置き去りにされた。咄嗟に悟ったのだった。
「たく、乱馬の野郎…一人で突っ走りました。あかねさんを俺に託して。」
と大きく溜め息を吐いて見せる。
「冗談じゃないわー!乱馬の奴、どういうつもりでっ!」
あかねの鼻息は収まるどころか、ますます激しく燃え盛る。
「あやつはあやつなりに悩んだ結果、そういう事にしたんじゃろうて…。その気持は十分に汲んでやらねばのう…。」
後ろから麻呂爺さんがあかねを覗きこんできた。
「どんな気持ちを汲めっていうの?」
あかねは腹の虫が収まらないようだ。
「わからんかのう?愛する者を危険に晒したく無いんじゃよ…。」
愛する者と言われて、ハッとしたあかねは、怒りを一瞬止めた。
「思い当たる事があろう?あやつ、おまえさんを沈める前に、濃厚な愛情表現をしていったろうが…。」
そう。乱馬はみぞおちに一発入れる前に、確かに唇を奪ってきた。
「お…お爺さん、見てたんですか?」
慌てて問いかけた。
「ああ…一部始終見せて貰った。あやつ、意識を失ったおまえさんにも、もう一度口づけていたぞ、のう、良牙とやら。」
同意を良牙に求めた。
ということは、良牙も目の当たりにしたようだ。サアアッとあかねの顔に紅が差した。
「ああ…たく、見せつけてから、俺にあかねさんを託して行きましたよ、乱馬の野郎は。」
良牙はふうっと笑みを浮かべた。
「あ奴はあかねちゃんを平成へ連れ帰れと良牙に頼んでいたようじゃが…。」
「確かに、亀石を通って、平成へ帰るように託して行きましたけど…どうします?あかねさん。」
良牙と麻呂はあかねへと畳みかけた。乱馬の望み通り平成へ帰るかどうか、それをあかねに確かめているようだ。この勝気な跳ねっ返り娘にそんなことを問い質そうものなら、どんな返答が返ってくるか…全てを見越しての問いかけだった。
「決まってるわっ!はいそうですかって帰るもんですかっ!」
予想していたとおりにあかねは反応した。
ニヤリと良牙と麻呂爺さんは互いに小さく頷きあった。元々、そう言わせるように誘導しているようなものだ。当のあかねは気付いていない。
「じゃあ、あかねさん…。」
「あたしも乱馬のところへ行くわ!帰るなら一緒にって約束したの、あいつ、忘れてるみたいだし…。みぞおちに食らった一発を、あいつに返さなきゃ気が済まないわ!」
「じゃあ、決まりじゃのう…。」
麻呂爺さんは笑った。
「勿論、俺もあかねさんに協力しますよ。乱馬(あいつ)にとったら苦渋の選択だったんだろうけど…このまま奴の思うように事を運ぶのは俺にはどうも乗り気がしないんでね…。
麻呂爺さんに今までの経緯(いきさつ)をかいつまんで聞かせて貰ったけど…あまりにもキナ臭いことが多すぎる…。」
二人揃って、かなりの役者だ。
というのも、事態がこのまま平穏に終息するとは思えなかったのだ。乱馬の方が円の誘導に上手く乗せられているのではないかと、二人とも危惧していた。
何らかの理由で円は乱馬からあかねを遠ざけたのではないか…麻呂はそこまで穿った見方をしていた。いや、後ろ側であかねを焚きつけるように、佐留が手ぐすねを引いているよな気がしたのだ。でなければ、何のためにあかねがこの世界へ召喚されたのか意味を成さないような気がした。
(ワシの見解が正しければ…良牙と乱馬を召喚したのは円じゃが…あかねちゃんを召喚したのは佐留じゃ…。じゃから、ここであかねちゃんを平成へ帰すわけにはいかんのじゃよ…。悪いな…乱馬よ。
それに…おぬしを助けられるのはあかねちゃんだけだろうて…。彼女はおまえさんの女神なのじゃろう?)
「爺さん…。」
良牙の瞳が鋭く光った。
「何じゃ?」
麻呂はそれに対した。
「どうやら円の奴も、大人しく俺とあかねさんを平成へ追い帰そうとは思ってなかったみたいだぜ…。」
暗闇へと良牙は瞳を巡らせた。彼の野生の感は、キナ臭い客人の匂いを嗅ぎ分けたようだった。
「来るぜ…。死人の匂いをまとった客人が。」
と、良牙はあかねと麻呂へ向かって吐き出していた。
つづく
一之瀬的戯言
まだ結末までどう引っ張るか…考えあぐねながら書いています。
ちと複雑にプロットを絡めさせ過ぎたよなあ…。二十話くらいで形つけたいなあ…。
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