雨の日のイヴ
冬の雨。
朝からどんより雲っていたけれど、遂に泣き出してしまった空。
身体だけではなく、心まで冷え切ってしまいそうな冷たい雨。
傘も差さずに歩いていく。
街行く人が不思議そうに振り返って行く。
着ていた秋色のセーターもフレアスカートも、濡れそぼって輝きを失う。多分、涙も一緒に流れ出している。
あてどなく彷徨う女性(ひと)は、ある場所へと自然に足を向けていた。
わかってる…。
ただのわがままだと。
彼に非はないのだと…。
でも…。
乙女心が冷たい雨に千切れていく。
クリスマスイブ。
恋人たちの夜。
やっとお互いに取れた休日。
乱馬は大切な試合が立て続けに混んでいて、あかねのことよりも、ずっともう一人の恋人、「格闘技」に夢中だった。あかねはあかねで仕事のプロジェクトが立て込んでいて、会社に缶詰状態。
同じ屋根の下に暮らしていても、この頃は、互いのスケジュールに追われてしまって、言葉すらまともに交わせない状態が続いていた。
それぞれ所持している携帯にメールを打ち込んでも、ただ、不器用な事務的なやり取りがあるだけで、どのくらい「恋人らしい会話」を交わしていなかったろうか。
着信に愛用している耳慣れたJポップス。ポロロンとメールの着信を奏でる。
小さな液晶窓を覗いてみると知ったアドレス。
『イブには休みが取れそうだ。おまえはどうだ?』
ふっと緩む頬。
『イブは予定を開けているわ。』
とすぐに返信。
『久しぶりに二人で逢おうか。』
短いやり取りが何通か続いて、決まったイブのデート。
凡そ「現代的」という言葉からはかけ離れたこの青年は、携帯を持っていてもメールすらなかなか送信してこない。
「ったく、せっかくの機能なんだから、受信ばかりじゃなくて、自分の連絡用にも使ったらいいのに…。あんたの携帯って、自分に掛かってくる仕事の連絡以外は使う気ないの?」と、暗に妹に定期連絡入れなさいと、二番目の姉のなびきは、乱馬にいつも警告している。
「俺は願わくば携帯なんか欲しくねえんだよ。面倒くせえし…。てめえが、マネージメントするのに必要だって契約させたから、嫌々持ってるだけでいっ!」
そう吐き出すことが多々である。
実際、自分からコンタクトを取ることは、滅多にない。いや、皆無であろう。
あかねの場合はそれなりに使いこなしている。友人たちとやりとりしたり。たわいない日常の中に携帯電話は溶け込んでいた。
でも、乱馬に送るのは、これまたメール一本でも気を使ってしまう。
試合に集中したい時が多い彼に、無下に連絡する訳にもいかないからだ。
下手に送ると集中が途切れてしまうことがあるかもしれない。
「メール一本くらい、後で開いてもらえればいいんだから、送ってもいいじゃない。」
と姉に突付かれるが、あかねもまた自分の恋には不器用な娘。用もないのにメールするのは、どうしても躊躇してしまう。
「遠慮ばっかりしてると、誰かに乱馬君をさらっていかれちゃうわよ。」
と呆れ顔のお節介焼きな友人が気を揉むほどだ。
そんな感じだったから、久しぶりの伝言メールはちょっとわくわくした。
前日は天皇誕生日の祝日を返上して休日出勤。タクシーで深夜帰宅。
男女雇用均等法が叫ばれて、女の子だって深夜労働することがあるというもの。若いからと甘えてはいられない。
とにかく、今の自分は、イブを自分のために確保すること。それにかかっていた。
上司が良く頑張るなあと呆れ顔だったが、イブだけは譲れない。その一心で、仕事に立ち向かった。
とにかく場所なんか何処でも良かった。
乱馬と逢えたら。
この頃は、互いに生活している家の中でですらすれ違いの生活が多かった。乱馬は遠征が多くなっていたし、あかねは帰宅がまちまち。
二人とも「ご飯を食べて風呂に入って寝る」それだけの場所に成り下がりつつあったからだ。
それだけに、乱馬が誘ってくれたイブの夜は楽しみで仕方がない。そんなあかねだった。
だが、順調に事が運んでいても、何らかの邪魔が入る。それがこのカップルの宿命に近かった。
『ごめん、約束守れなくなっちまった。』
と伝言メールが入る。
『どうして?』
猜疑心であかねは打ち返す。
『どうしても今日中に済まさなきゃならない用事が出来ちまって。埋め合わせはするからさ。』
『わかった。』
と、それだけを打ち込む。手は震えていた。
その後もいくつかメールの着信はあったようだが、すっかり気を落としていた彼女には、何も聞こえなかったらしい。
いや、無意識のうちに、携帯の電源を切っていたようだ。
頭でわかろうとしても、思考が拒否をする。そんな感情が一気に駆け巡り始める。
「何で?」「どうして?」
彼と出逢って、どれだけこの言葉を積み上げてきたろうか。
急に暇になったイブの夜ほど、惨めなものはない。
あかねは彼と待ち合わせた場所から離れて、あてどなく大都会の街中を歩き始めていた。
道行く人々は、皆、それぞれのイブを満喫する用意か、足繁くうごめいている。晴れていればまだ暮れなずむには時間がある。
今年のイブは雨天のせいで、まだ夕暮れ時に達していないのに、少し薄暗い午後。
ショウウインドウに映る、いつもよりお洒落した自分が滑稽に見える。
交差点。信号を待ちながら傘を振る。と、視線の先に信じられない光景が飛び込んできた。
「乱馬?」
そう思ってはっとした。
目の先に居る、おさげの上背の青年は、嬉しそうに一つ傘の下、綺麗な女性と颯爽と歩いているのが目に入ったからだ。
心が大きく揺れ始める。
乱馬は傘を女性へと差しかけ、空いた手には大きなテディベアのぬいぐるみを抱えている。幸せそうに微笑みながら。
己の見知らぬ若い女性と一つ傘の下で歩く許婚。
あまつさえ、その事実だけでも衝撃的なのに、彼はとある貴金属店へその女性と一緒に入って行くではないか。
頭を上から何かで叩きつけられたような気がした。
格闘技で色んな技を一度に相手から連続して喰らったような、そんなダメージ。
見間違いであって欲しい。
そんな想いが交錯し始める。
しかし、黒いコートに揺れるお下げ。何より身体から発する「気」は彼の物だった。
「何で?」「どうして?」
あかねの中で何かが弾けとんだような気がした。
誘っておいて、断って。そして別の女の人と一緒に楽しそうに歩いている。
それが何を意味するのか。痛いほど心に突き刺してくるのである。
ややあって、乱馬は女性と連れ立って、店から出てきた。
傘を差し出して再び相合傘。
と、遠巻きに彼と視線があった。
「えっ?」
離れていたのに、そんな彼の声が聞こえたような気がする。
そのまま、雨振る中を駆け出していた。
赤い傘を投げ出したままに。
何故逃げたのか。自分でもわからない。
ただ、情けなかった。
乱馬の心変わりよりも、それに気が付かないでいた自分に。
「あかねっ!待てよっ!!」
後ろでそんな乱馬の怒声が聞こえたような気もするけれど、そんなことはお構い無しに走った。
足には少なからず自信がある。それに、人ごみは彼から己を遠ざけてくれる格好の障害物だった。
いや、実際はそんなことを思う暇もなかったろう。。
とにかく、彼から逃れたい。彼が自分との約束を投げ打って他の女性とイブを過ごそうとしていた、その事実から逃れたかった。
たまらず、通路を小走りして、持っていた定期で改札を潜り抜け、地下鉄に乗車していた。
カタン、カタンと電車は揺れだし、駅を出た。そのまま虚ろな瞳で真っ暗闇を見る。ひたすらに都心から離れたかった。
このまま家にも帰れない。
千切れた心を抱いたまま、当てどなくさ迷って、気が付くと見慣れた木立の石段を上がっていた。傘は落としてしまい、そのまま濡れた身体。心まで冷えていく。
それでも構わず、苔むした石段を上がりきる。と、そこには、玉砂利の静かな空間が開けていた。そろそろ夕闇が本格的に迫って来ている。閉門前の墓所。
通い慣れた道筋を通り、ある墓標の前で止る。
「天道家之墓」。そう記された御影石。
「お母さん!」
何故、ここへ来てしまったのか。自分でもわからなかったが、気が付けば足が自然にここへ向いていた。
雨脚が再び速くなり、身体が容赦なく冷たい水に打たれていく。頬を伝うのは雨だけではなかった。一緒に涙も溢れてきた。
花も持っていない、勿論、水桶も柄杓(ひしゃく)も線香も持っていない。
無我夢中で喧騒を逃れて、辿り着いた、母の終の住処。
生きていれば心の傷を優しく癒してくれただろう、その人に、すがるように泣き濡れる。
とめどなく溢れ出る、悲しみを、あかねはただ、今は亡き母へと、己の感情の全てを預けるように泣き崩れた。
ざあざあと降り続く雨の音。暫くそこへうずくまるように佇んでいた。
どのくらい、そこでそうしていたのだろう。
涙が一通り流れてしまい、少し冷静さを取り戻した時、ふっと、後ろで誰かの気配を感じる。
今まで濡れていた雨水が急に頬にも肩にも当たらなくなった。
誰かが黙って傘をさしかけていた。
「馬鹿…。」
背後で聞きなれた声が聞こえた。
その声に凍りそうになり、そこからだっと再び駆け出そうとして、手を強く引っ張られた。
「放してよっ!」
そう叫ぶと
「駄目だ。放さない…。放したらおまえ、またどこかへ駆け出して行くつもりだろう?」
困ったような怒ったような光の瞳がこちらを見詰めている。その強い輝きに、つい視線を外してしまう。
「何で付いてきたのよ。」
「許婚をほっておけるかよ!訳も訊かずに飛び出しちまいやがって…。」
「訳って何よ…。イブをすっぽかした言い訳でも聞かせてくれるの?」
口調は激しくなる。
「すっぽかしてなんかいねえよ…。たく、おまえさあ、ずっと携帯に全然出なかったろう。電源、切っちまってたのかよう…。」
言い返せないでそのまま無言で見返す。
「とにかく、携帯の電源入れてみな…。」
そう言って苦笑いしている乱馬。
「ほら、早く…。」
急かされて仕方なく鞄から携帯を取り出して電源を入れる。と、見慣れた液晶画面に着信記録。ピッと親指で弾いてみると、あった。
いくつかの着信記録とその最後に連なる一本のメール。
『少し遅れるけど、待ち合わせの場所で待っとけ。乱馬。』
メールにはそう打ち出されていた。
「どういうこと?」
小さく尋ねる。
「どういうこともねえよ…。文字通りだよ。雑誌の取材が思ったよりも長引きそうだったんで、一度はキャンセル入れたんだけど、なびきが手を回してくれて、早めに終われたんだ。で、やっぱり待っててもらおうと思って、再度コンタクト取ろうとしたんだよ。」
少し険しい顔で言われた。
「じゃあ、さっきの女の人は誰なのよ。」
「女の人?ああ…。美代子さんのことかよう。」
「あの人…乱馬の新しい彼女なの?」
その問い掛けに、乱馬の目はみるみる大きく見開いた。
「あん?」
「だから…。彼女なんでしょっ!」
溜まらずに言い捨てた。
「あほ!許婚の居る俺に彼女もクソもねえだろうが!最近ずっとお世話になってるスタイリストさんだよ。」
「嘘。じゃあ何であんな店に居たのよ…。」
だんだん口調が激しくなるその問い掛けに、はああっと乱馬の長い溜息が漏れる。
「おまえなあ…。やっぱ、勝手に誤解してんだろっ!!」
「誤解って何よ。真実じゃないの?」
「あんなあ…。美代子さんにはこれ買うのに付き合って貰ったんだよっ!ほれっ!」
乱馬はさっと何やら小さな紙袋をあかねに渡した。
「何よ、これ。」
「訊くより先に、開けてみな。」
ちょっとふてくされた声が後ろ側でした。
「でも…。」
「だから、俺が職業柄洗練された美代子さんのセンスを頼みに、おめえへのクリスマスプレゼント買ってたんだよ。さっきはよう!」
「え?」
あかねの目に少し光が戻った。
「たく、おまえは話も何も聞かずに飛び出しちまって…。元々おめえにやるために買ったんだから、とっとと開けりゃいいんだよっ!」
照れ隠しなのか、ぶっきら棒になる言葉。
促されるままに、がさがさと不器用な手が包みを開いていく。と、小さな箱が飛び出してきた。ブロンズの小箱が現れた。
かっぱと開くと、中から綺麗な小さな粒の輝きが幾つもある指輪が見えた。
「これ、あたしに?」
小さな声が問いかけてきた。こくんと揺れる乱馬の頭。
「ホントにあたしに?」
その問い掛けに、乱馬は言った。
「給料の三分の一にも満たないし、屑ダイヤばかりのちゃちい物かも知れねえけど…。あ、サイズはなびきに訊いたんだ。高くついたけどな。だからおめえにぴったり合う筈だぜ。」
あかねはじっと、その指輪を見詰めたまま動かなかった。
「ほら…。貸せ。俺がはめてやる。」
傘を器用に肩にかけると、乱馬はあかねから指輪を取り上げて、左手を握った。それから傘の柄を囲うように、小首を傾げてゆっくりと、その指輪をあかねの薬指へと差し入れる。
「おお…。やっぱ、なびきに訊いて正解だったよな。ぴったりじゃん。高くついたけどな…。」
また高くついたを強調した。
「今まで自分で稼いだ金でおまえに何も買ってやったことねえもんな…。今回奮発したわけだが…。」
何故か乱馬はそう言ったまま黙ってしまった。あかねの涙に気がついたからだ。
「たく、この泣き虫め!」
大きな手がわっしとあかねの頭を掴んだ。
困惑しながらも受け止める大きな胸。不器用な少年は、確実に大人の男性へと成長を遂げていた。恥ずかしがらずに、包み込む優しさをいつの間にか身に付けていたのだ。
あかねはただ、抱きとめられた腕に埋もれて、肩を震わせて泣いていた。
「ごめんなさい。…ありがとう、乱馬。」
小さくそう聞こえた。傘を持っていた彼は、そのまま無空いた手であかねを包む。
「あーあ…。あかねの母ちゃんの墓前で…。ま、いいか。一緒に聞いて貰っても。」
「一緒に聞いて貰うって?」
「これだからなあ…。おまえは。その指輪、何も意味がねえわけないんだからな!」
乱馬が少し声を荒げた。
「意味?指輪の…。」
「すっとぼけもいい加減にしとけよ。」
「へ?」
「…あんなあ。俺がせっかく左薬指にはめてやったのに…わかんねえのか。このニブチン!」
「何よそんな言い方っ!左手の薬指がどうしたって…。左手の薬指。」
はっとして見上げた。
「そういうこと…。そろそろ許婚にけじめつけておこうと思っただけ。」
「けじめ?」
真っ赤な顔がそこにあった。心なしか身体が固まっている彼。でも、力を振り絞って、あかねをぐいっと抱き寄せた。
「早乙女乱馬は天道あかねと共に、これからの人生を歩きたい!!」
一気に叫ぶように言い切った。
「それって…。」
「プロポーズだ!馬鹿っ!」
「乱馬っ!」
その言葉を言い終わらないうちに、だっと飛び込んできたあかね。
「あかねの母ちゃんにも、他のご先祖様にも聞かれただろうしな…。幸せにしてやらねえとバチが当たるよな…。共に同じ墓に入るまで…
いや、墓の下でもずっと一緒だからな。」
「もう、ムードがないんだからあっ!」
「仕方ねえだろ!場所が場所なんだからあっ!」
冷たい雨はいつのまにか白いふわふわに変わっていた
可憐に舞い上がる。純白の花嫁を祝福するかのように綿雪になって。
そして白い世界へと変えていく頃、そっと優しかった人の名が刻まれた石碑の前で愛を誓う二人が居た。
ただ、静かなる浄夜への帳がゆっくりと降りて来る。
完
駄作の見本(笑
2003年暮作品…ファイル整理していて見つけました。
某所へ隠していたのですが、気付いた方いらっしゃいました?隠した当人も忘れていましたので…(汗
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