◇DAYS OF NIGHTMARE 6
柳井桐竹さま作


あかねは深夜の練馬を疾走していた。
小乃接骨院から目的地まで、大した距離があるわけではなかった。
あかねの脚力を以ってすれば、さして時間のかかる距離とはいえなかった。
それでも、その距離は、その時間は、あかねにとって、永遠とも思われる距離であり、時間であった。
あかねの頭の中では、つい先ほどの小乃接骨院での東風先生との会話の内容がリピートされていた。
それでも、足はあかねの意志とは無関係に、一定の速度で目的地へとひたすらに動いていた。
目的地である、猫飯店へと向かって―――





DAYS OF NIGHTMARE
     第6章 秘薬〜希望は戸惑いと共に





「乱馬クンと本気で向き合う覚悟はあるかい?」
東風先生の言葉に、あかねは即答することができなかった。
(乱馬と本気で向き合う・・・?)
いつだって乱馬とは、否、乱馬に限らず誰であろうと、あかねは真剣に向き合っていたつもりだった。
なおざりに人付き合いをできるほどあかねが器用な人間でないことは、東風先生もよく知っているはずだった。
それなのに。
「そ、それってどういう意味ですか?」
先生の問いは、あかねにとってあまりにも唐突すぎた。
戸惑うあかねに、先生は言葉を続けた。
「乱馬クンの心に踏み込む勇気があるかどうか、聞いてるんだよ」
その瞳から放たれる強い光は、依然緩まぬまま、あかねの眼を捉えていた。
(乱馬の心に踏み込む勇気?)
先生が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
「それと乱馬が目覚めないのと、関係があるんですか?」
「たぶん、ね」
東風先生の口調は、あかねに「たぶん」以上の「断定」を感じさせた。
(乱馬と本気で向き合う覚悟・・・)
怖い。
東風先生の言葉を本気で考えようとした瞬間、本能的にあかねはそう思った。
その恐怖がどこから来るのか分からなかったが、あかねの中の何かが、先生の言葉に即答することを拒んでいた。
思わず口から言葉がついて出た。
「乱馬は一体どうしちゃったんですか?」
その台詞は、無意識の逃げ口上だったのかもしれない。
(まずは、先生がなんで突然こんなことを尋ねたのか分からないと・・・)
あかねがそう考えた結果の言葉であったのは事実だった。
それでも、その思い以外の感情があかねの中に存在し、東風先生の言葉を考えるのを拒んでいたことに、あかねは気づいていなかった。
否、無意識のうちに無視していたのかもしれない。
東風先生は、あかねの問いに答えようとはしなかった。
あかねを見据えた東風先生は、あかねの目を覗き込んだまま、口を開いた。
「もう一度聞くよ、あかねちゃん。乱馬クンと本気で向き合う覚悟はあるかい?」
あかねを捉える鋭い眼光が、更に強くなったような気がした。
あかねは、その眼を直視することができなかった。
先生の視線から、目を逸らしてしまっていた。

「あ、あたしは・・・」
無理やり口を開いたあかねは、その先を続けることができなかった。
その体は小刻みに震えていた。
そんなあかねから視線を外した東風先生は、穏やかな口調であかねに話しかけた。
「ごめん、ちょっと性急だったね。
 乱馬クンが眠り始めてから一週間だったとしたら、あまり時間が残されていないだろうから、つい」
その眼からは、先ほどまでの強烈な力は失われていた。
常日頃の、人を包み込むような柔和な視線へと戻っていた。
しかし、あかねがその変化に気づくことはなかった。
「それって・・・」
穏やかに吐かれた先生の言葉が、あかねに乱馬を失うという恐怖を与えるに十分すぎるものだったからだ。
あかねの震えが大きくなったを見て、先生はあわてて言葉をつなげた。
「ごめんごめん。さしあたって手遅れだとかそういうわけじゃないと思うから安心して」
あかねの震えが収まったのを確認すると、先生はまじめな口調で話を続けた。
「ただ、僕の見立てが正しかったとしたら、そう多くの時間が残されているとは思えないんだ。
 これは僕達医術の司る分野じゃなさそうだから、なんとも言えないけどね」
「乱馬はどうして目覚めないんですか?」
いまいち的を得ない東風先生の話に、あかねの痺れが切れた。
先ほどと同じ問いを発したあかねに、今度は東風先生も口を開いた。
「“夢魔”・・・だと思う」
「むま?」
あかねの理解の届かない、聞きなれない単語だった。
「詳しいことは知らないけどね。人の心に憑依して、眠りのまま死へと引きずり込むっていわれている伝承の悪魔のことだよ」
「あ、悪魔って・・・」
あまりにも突拍子もない先生の説明は、鵜呑みに信じるには荒唐無稽すぎた。
仮にも名医と呼ばれる類の人間が、そんな非科学的なことをさらっと口にするのが、少し意外にも思った。
「まあ、信じられないのが普通だろうね。
 でも、世の中には常識じゃ考えられないような現象や存在もあるんだよ。
 あかねちゃんなら、なんとなく分かるんじゃないかな?」
目の前で眠っている許婚自体が、常識ではとても考えられない現象を引き起こす存在であるため、あかねは幸か不幸か先生の言葉をすんなり受け入れることができてしまった。
(女やパンダ、猫に変身できる人間がいるんだから、そりゃ悪魔がいたっておかしくはないけど・・・)
「なんで乱馬が悪魔に・・・?」
「さあ、僕はあくまで門外漢だからね。
 そもそも本当に夢魔かどうかも定かじゃないよ。
 むしろ、武道家であるあかねちゃんのお父さん達のほうが詳しいんじゃないかな?」
(お父さんやおじ様が・・・?)
確かに、古来より狐狸妖怪の類を退治するのも武道家の務めの一つであり、あの2人もそう公言して憚らない類の人間ではあったが。
あの2人がそういう存在に詳しいとは、あかねにはとても思えなかった。
心配そうな表情を浮かべるあかねを気にせず、先生は話を続けた。
「とにかく、これは僕の専門じゃなさそうだよ。
 誰か伝承とかそういった類の話に詳しい人を知らないかい?秘薬とか秘法とかに通じていればなお良いんだけど」
「伝承・・・秘薬・・・秘法・・・」
そういったものに詳しい身近な人で、まずあかねが思い浮かんだのは、齢300年とも500年とも言われる父親達の師匠の顔だった。
しかし。
(おじいさんに話したら、治るものまで治らなくなっちゃいそう・・・)
となると他には。
そう考えていたあかねに、とある人物の顔が思い浮かんだ。
「シャンプーのひいおばあさん・・・」
「そうか、あの人なら確かにそういうことに詳しいかもしれない」
「あたし、呼んできます!」
乱馬を目覚めさせられるかもしれないきっかけを見つけたあかねは、居ても立ってもいられなかった。
部屋を飛び出そうとしたあかねに、東風先生が慌てて声をかけた。
「そうだ!おばあさんに、もし“夢恋丸”を持っていたら、持ってきてくれないかって伝えてくれるかい?」
「むれんがん?」
「そう言えば分かると思うから」
「分かりました!“むれんがん”ですね!」
これ以上、あかねは逸る気持ちを抑えることができなかった。
「ちょ、ちょっと、あかねちゃん!?」
尚も何かを言っている東風先生の話を聞くこともなく、あかねは接骨院を飛び出していった。

取り残された東風先生が、苦笑いしながらポツリと呟いた言葉を、あかねは知らない。
「電話、したほうが早いような気がするんだけど、ね。まあ、いいか」



「こんな時間に、いったい何の用ね?」
全力疾走してたどり着いた猫飯店でまずあかねを迎えたのは、シャンプーの冷たい視線と声だった。
わずかな間で乱れた息を整えると、あかねは口を開いた。
「おばあさん、居る?」
そう言うあかねの声には、乱馬を目覚めさせられるかもしれないことへの、隠しきれない期待が滲み出ていた。
そんなあかねの妙に嬉しそうな様子が癇に障ったのか、シャンプーは一層冷たい声を発した。
「ひいばあちゃんに何の用ね?」
「乱馬のことで」
その言葉を聞いた瞬間、シャンプーの表情がかすかに動いた。
冷たい視線はかすかにも揺らごうとはしなかったが。
「・・・入るよろし」
そう言って、シャンプーは店内へとあかねを招き入れた。

「なんと!夢魔じゃと!?」
あかねの話を聞いたシャンプーの曾祖母・コロンの細い目は、皿のように開かれていた。
「東風先生はそう言ってました。ただ、確証がないから、そういうことに詳しそうなおばあさんにも診てほしいって」
「夢魔って何あるか?」
横で話を聞いていたシャンプーが口を挟んできた。
「とり憑いた者に悪夢を見せ続けることで心を弱らせ、その者の心を喰らうと言われておる悪魔よ。
 とり憑いた者を弱らせるためには、眠っているときに悪夢を見せるだけでなく、目覚めているときでさえ、幻覚・幻聴などあらゆる手管を遣うと伝えられておる。
 憑依した者の“心の闇”を増幅し、己の存在意義を見失わせ、生きる気力を根こそぎ奪い取りおる。
 地域によっては悪夢そのものと捉えておる所もあるくらい、恐ろしい存在よ」
さすがにあの八宝斉と渡り合う老婆だけあるといおうか。
コロンの説明は、東風先生のそれよりはるかに詳しいものだった。
あかねはコロンの話に、体が震えだすのを感じていた。
(そんなのにとり憑かれていたのに、気づいてあげられなかったなんて!)
自分の鈍さに愕然とした。
(乱馬を助けなくちゃ!)
心の底から、そう思った。
コロンは口を休めることなく、話を続けた。
「夢魔に憑かれた者は眠るのを拒むようになる。眠ると悪夢に苦しみことになるからの。
 それでも、人は眠らないわけにはいかない生物じゃ。
 そうして肉体的に弱らせると同時に、夢の中で心の一番弱い部分を責めたておる」
「でも、乱馬にそんな様子なかったね!」
シャンプーが声をあげた。
あかねが呟いた。
「乱馬、ここ最近、ずっと寝不足だったわ」
「!」
あかねの呟きを聞いて、シャンプーは黙り込んだ。
唇を噛みしめるその表情には、怒りとも悲しみともつかない感情が滲み出ている。
コロンは、そんなシャンプーを一瞥すると、やおら口を開いた。
「婿殿の強さじゃな。知られておらぬ己の弱みは、決して晒そうとせん。
 今回ばかりは、それが裏目に出たようじゃがの・・・あかね、お主が気づいたのも、最も近くに居たからじゃろう」
コロンの言うとおりだと、あかねは思った。
寝不足に気づいていたはずなのに、つまらない意地を張って、何の手も打たなかった自分が情けなかった。


暗くなった場の雰囲気を断ち切るかのように、コロンが口を開いた。
「とにかく、ここで話しておってもどうしようもない。まずは婿殿のところへ案内せい」
コロンがそう言い、杖を持って立ち上がったところで、あかねは東風先生からの伝言を思い出した。
「東風先生が、もし持っていたら“むれんがん”を持ってきて欲しいって言ってました」
「夢恋丸じゃと?」
いぶかしげな表情を浮かべたコロンに、あかねが尋ねた。
「無いんですか?」
「あるにはあるが・・・」
そう言って何事かを考えだしたコロン。
「東風先生というと・・・婿殿が初めてムースと決闘した時に、総身猫舌のツボを破ったあの医師か?」
「はい。この辺じゃ名医って評判の先生です」
(そう言えば、おばあさんと先生ってあの時しか会ってなかったっけ?)
あかねも、いまひとつその辺の記憶は曖昧だった。
シャンプーが口を挟んだ。
「初めて日本に来たとき、下宿させてもらた先生ね」
「ふむ・・・」
尚もいぶかしげな顔のコロンだったが、やがて顔をあげた。
「まあ良い。全ては婿殿の様態を診てからの話じゃ。
 あかねよ。夢恋丸を取ってくるゆえ、しばらく待っておれ」
「わたしも乱馬のところに行くね!」
シャンプーだった。
「シャンプーも?」
そう問うたのは、あかねではなくコロンだった。
「夫の危機に妻が起つ、これ当然的行為ね」
どこまでもゴーイングマイウェイなシャンプーだった。
あかねは、シャンプーの言葉にささくれ立った自分の感情にあえて気づかないふりをした。
(今は緊急事態なんだから・・・)
自分に、そう言い聞かせた。
コロンはというと。
「・・・まあ、良い」
一言そう言うと、夢恋丸を探すために奥の部屋へと引っ込んでいった。
(なんで?)
どこかシャンプーを連れて行くのを嫌がっている感のあるコロンに、あかねは疑問を禁じえなかった。
(何をおいても、絶対に連れて行くと思ってたんだけどな)
普段から、隙あらば乱馬とシャンプーをくっつけようとしているとは、とても思えない態度だった。



「間違いないの・・・夢魔じゃ」
夜半の東風接骨院。
5分以上乱馬を観察した末に、コロンが結論を下した。
黙ってその様子を横で見ていた東風先生が口を開いた。
「そうでしょうね・・・乱馬クンが倒れる直前の頃に、あかねちゃんから聞いた乱馬クンの行動の矛盾も、それなら説明がつきます。何より__ 」
先生の話をコロンがさえぎった。
「婿殿の体から発しておる邪気が、それを示しておる・・・であろう?」
そう言ったコロンの表情は、固さを含んでいた。
「ええ」
「邪気?」
2人の会話に、あかねが思わず口を挟んだ。
(邪気なんて感じないじゃない?)
シャンプーも同様だったらしい。
不思議そうな表情をしている。
「感じ取れないのも無理は無い。婿殿の体の奥底から、ごくごく微少に漏れ出ておる程度じゃからの。
 夢魔が先天的に有しておる邪気じゃ」
「先生、そんなのまで分かるんですか?」
「うん。まあ、ちょっとだけだけどね」
あかねも、東風先生が相当の腕の持ち主であることはもともと察してはいたが、まさか気の流れを読むことができるとは思ってもいなかった。
あかね自身、本気で東風先生が闘うところを見たことが無かったので、あかねにとってその強さは未知数のものだった。
「ちょっとって・・・」
尚も話を続けようとしたあかねに、シャンプーが声をあげた。
「そんなこと、どうでもいいね!今は乱馬をどうやって助けるかが問題ね!」
そう言うシャンプーの表情には、幾分かの悔しさが見え隠れしていた。
女だてら、並の男以上の腕を有していることへの自信とプライドが傷つけられたのかもしれない。
シャンプーの表情に眼を細めたコロンが、東風先生のほうへ向き直って、口を開いた。
「さて、どうするつもりかの?」
細められたその瞳には、挑むような色が含まれていた。


先生は、かすかに笑みを浮かべ、言い放った。
「・・・夢恋丸ですよ」
その言葉を聞いた途端、コロンは目を見開いた。
「婿殿の夢に入り込むつもりか!?」
「ええ」
「無謀じゃ!どれほど危険なことか分かっておるのか!?
 婿殿の“闇”に捉われたら、どうしようもなくなるぞ!!?」
「そのときは、そのときです」
そう言い切った東風先生に、コロンは黙り込んだ。
あかねは、2人がなにを言っているのかさっぱり理解できなかった。
シャンプーについてもそれは同様だったらしい。
「どういう意味ね?」
幾分いらだった顔で、そう尋ねた。
答えたのは東風先生だった。
「おばあさんに持ってきてもらった丸薬は、夢恋丸といってね。
 対になっているこの2つの丸薬を飲んだ者同士が、夢を共有できる秘薬なんだよ」
「・・・」
コロンは黙って先生の話を聴いていた。
その表情は完璧な無表情だった。
「今、乱馬クンの心は、夢魔によって創られる悪夢に囚われた状態にあるって言えば、分かりやすいかな?
 その悪夢の中で、夢魔は乱馬クンの“心の闇”を増幅して、乱馬クンを追い詰めている。
 夢恋丸を使って、その夢の中に入り込むことで__ 」
シャンプーが叫んだ。
「乱馬を助けるあるな!」
「ご名答、シャンプーちゃん」
「だたら、すぐに乱馬にそれ飲ませるよろし!わたしが夢魔を倒して、乱馬助けてくるね!」
瞬間、あかねの顔が引きつった。
シャンプーが乱馬を助けることが、どうにも納得できなかった。
それでも。
あかねは、自分が乱馬の夢に踏み込むとは、どうしても言えなかった。
(乱馬の“心の闇”・・・?)
それが何かは分からないが、自分がそれに向き合うことに、とめどない恐怖を感じた。
ふと横に眼を遣ると、コロンが意気込むシャンプーを黙って見ていた。
あかねは、その瞳にかすかな憐憫が浮かんでいるような気がした。

東風先生があかねに話しかけてきた。
「あかねちゃんはどうする?」
「え。シャ、シャンプーが行くって言ってるんなら、それでいいんじゃないですか」
あかねは思わずそう答えていた。
答えた瞬間、強烈な後悔と自責があかねを襲った。
「あかねも良いって言ってるね!早速乱馬を助けに行くある!」
真っ先に反応したのは、やはりシャンプーだった。
「そもそも、乱馬がこんな目に遭う直接の原因を作たのは、あかねね!
 そんな人間に、乱馬の心を覗く資格ない!」
「!」
「本当にそれで良いのかい?」
(良くなんかない!でも・・・)
シャンプーの言葉も確かに一理あった。
それでも、あかねが躊躇う一番の要因は。
紛れもなく、乱馬の心に触れることへの、乱馬に拒絶されることへの恐怖だった。
「・・・」
あかねは、あかねを見つめてくる東風先生の眼を正視することができなかった。
そんなあかねをじっと見つめていた先生だったが、やがて顔をあげて、コロンのほうを向いて声をかけた。
「ちょっと、あかねちゃんと2人で話してきてもいいですか?」
コロンの答えは、あかねには理解できないものだった。
「・・・それは、わしに語れと言うことかの?」
「・・・できれば」
そう言って、先生はあかねを促した。
「少しだけ話をしようか」


あかねを連れて部屋を出て行く東風先生の背中を、コロンは苦い顔をして見つめていた―――――



つづく




作者さまより





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