◇DAYS OF NIGHTMARE   5
柳井桐竹さま作


目覚めない少年


やっと気づいた本当の気持ち

動かない少年

総身を貫く喪失感

笑わない少年

初めて知った絶望・虚無

応えない少年

とめどなく迸る後悔


コレガホントウノ『アクム』ナンダ―――






第5章 後悔〜永えの絶望、泡沫の希望





「いい加減起きなさいよ、乱馬」
天道家早乙女一家寝室にて。
あかねが、眠り続ける乱馬に弱弱しく呟いた。
呟くあかねの瞳からは、その快活な性格を象徴するかのような、いつもの力強い輝きが失われていた。
その顔にかすかに刻まれたやつれが、眼の下にくっきり浮かび上がっているクマが、あかねの憔悴を感じさせた。

悪夢の事故から、既に一週間が経過していた。
大型トラックとの接触という大事故にもかかわらず、あかねは、ほぼ無傷の状態で助かっていた。
事故直後に軽い脳震盪を起こして失神してしまったのと、どこかで道路にでも接触したのか、額にすり傷程度の怪我を負い、多少出血しただけで済んでいた。
とっさに乱馬が、その身を挺してかばってくれたおかげだった。
あかねをかばった乱馬自身にも、目立った外傷は見つからなかった。
強靭を通り越して、最早化け物じみたといっても差し支えないその肉体(診察担当医談)と、奇跡的な強運の賜物だった。
しかし。
事故発生以来この一週間、乱馬は昏々と眠り続けたまま、目覚める兆候を全く示さなかったのだ。
脳波等にも、全く異常が見受けられなかったにもかかわらずだ。
事故当初に搬入された病院の医師達も、全くお手上げといった状態で、処置の施しようがなかった。
そのため、家族のたっての願いもあり、目覚めぬ乱馬の身柄は3日前から天道家に移されていた。

「ふぅ」
眠り続ける乱馬から眼をそらし、あかねは小さくため息をついた。
こんな風に、眠る乱馬の枕元で話しかけていても、全くの無駄であることは自覚していた。
それでも、無駄と知りつつも、あかねは何かをせずにはいられなかった。
乱馬がこうなってしまったのも、全部自分のせいだとあかねは考えていた。
(あたしが交差点を飛び出したりしたから・・・)
どうすることもできない自分が、ひどくもどかしく感じられた。
呪泉洞での乱馬の気持ちが、痛いほど理解できた。
(自分を犠牲にして助けてもらっても、全然嬉しくない)
うつろなあかねの瞳から、涙が一筋零れ落ちた。


からっ。
突然背後から聞こえてきた物音に、あかねのもの思いは中断された。
あわてて涙をぬぐってあかねが振り返ると、部屋の入口にのどかが立っていた。
「もう学校に行く時間よ、あかねちゃん」
のどかが声をかけてきた。
「おばさま・・・」
乱馬が事故にあってからも、のどかのあかねへの接し方がわずかにでも変化することはなかった。
あまつさえ、乱馬のことで憔悴するあかねを励ましてくれてさえいた。
そんなのどかの態度に、あかねはありがたさを感じる以上に、一層の罪悪感を掻きたてられていた。
事故以来、まともにのどかの顔を直視することができなかった。
「心配することないわよ。ただ眠っているだけだって、お医者様も言ってらしたじゃないの」
「・・・」
あかねを慰めるために吐かれたのどかの言葉に、あかねは応えることができなかった。
「どうして・・・」
(あたしを責めないんですか?)
その思いを、あかねは完全に口にすることができなかった。
常時携帯している日本刀で、斬り捨てられてもおかしくはない。
あかねはそう思っていた。
あかねが呟いた不十分な言葉に含まれている底意を、のどかは完全に理解できたらしい。
おもむろに口を開いた。
「あかねちゃんが気にすることないのよ?乱馬が自分の意志でやったことなんだから」
「それでも!」
(あたしが飛び出したりしなかったら!)
そう思っていたあかねの声は、自然かん高いものになっていた。
のどかは、そんなあかねに目を遣った後、乱馬のほうに視線を移し、言葉を続けた。
「この子が事故の瞬間なにを考えていたのかは、この子にしか分からない。
 でもね、あかねちゃんが自分を責めて苦しんでいるのを知ったら、この子は絶対に喜ばないわ。
 これだけは、この子の親として間違いなく言えることよ。あかねちゃんもそう思うでしょ?」
「・・・」
微笑んでそう言うのどかの言葉を、ありがたいとも思った。間違ってもいないと、頭では理解できた。
それでも、あかねの感情は、事故が自分のせいだと訴えていた。
全ての元凶が自分であるという疑いようのない事実が、あかねの心を引き裂かんばかりに苦しめていた。
自分で自分を許すことができなかった。
のどかの心の強さ・大きさが、信じられなかった。
その大きな優しさゆえに、あかねは一層自分を許すことができなくなっていた。
精神的に追い詰められているあかねに、のどかに返すべき言葉を見出せと言うのは無理な話だった。
あかねにとって気まずい静寂が部屋に訪れた。
その時。
「あかね、早く出ないと遅刻するわよ!」
玄関口のほうから、姉・なびきの声が聞こえてきた。
「あら、引き止めちゃってごめんなさいね」
のどかが本当に申し訳なさそうに謝ってきた。
「そんな!こっちこそ・・・」
あかねは「いってきます」とのどかに言い残して、部屋から出ていった。
なびきの催促に救われたと、わずかにでも感じた自分に自己嫌悪しながら。



あっというまに時は過ぎて放課後、あかねはとぼとぼと帰り道を歩んでいた。

事故が起こって以来、あかねにとって学校は、板書される文字を機械的に書き写しているうちに、気がつけば終わっているという状態だった。
友人達も気を遣ってくれているのか、あかねをそっとしておいてくれていた。
そんな友人達の優しさも、あかねに自分がしでかしてしまったことの重大さを想起させていた。

ぼんやり歩いていたあかねは、前方から黒髪をなびかせた少女が自転車に乗って、こちらに向かってきていることに気づいた。
後ろには、同じく岡持ちを抱えて自転車に乗っている、長髪の眼鏡の少年が付き従っている。
片手が岡持ちでふさがった状態であるにもかかわらず、その少女は手にした岡持ちを揺らすことさえなく、器用にあかねの眼前に自転車を停車させた。
「シャンプー・・・」
その少女・シャンプーは冷たい目であかねを見据えていた。
シャンプーが口を開いた。
「お前のせいで乱馬があんな目にあったというのに、のん気に学校なんかに通てるあるか?」
放たれたその声は、ひどく冷たいニュアンスを含んでいた。


事故が起こった当日、乱馬が搬入された病院に駆けつけたシャンプーは、ベッドに横たわっている乱馬を見るや、開口一番、その横で呆然としていたあかねのことを責め立てた。
その勢いは、周りの制止がなかったならば、あかねのことを殴りかねないほどのものだった。
連れ立ってきたムースを中心とした周囲の人間のとりなしで、その場はなんとか事なきを得たのだが、その日以来、シャンプーはあかねに対して、それ以外の一切の感情を失くしたかのような冷たい憎悪を向けていた。
あかねはあかねで、それを当然のこととして受け入れていた。


沈黙が走る2人の間に、背後から眼鏡の少年・ムースが口を挟んできた。
「いくらなんでも言いすぎではないか?シャンプー・・・」
「ムースは黙ってるね!」
尚も何か言いたげなムースだったが、シャンプーのその一言で完全に黙り込んだ。
「乱馬が目覚めなくなた原因作ったのは、あかね、お前ね」
「・・・」
シャンプーの言葉に、あかねが言い返せる要素は何一つなかった。
「どう責任取る?」
「・・・」
どうしようもなかった。
(あんたに言われたくないわよ・・・)
胸に湧きあがるシャンプーに対する微かな反発も、乱馬が目覚めないという厳然たる事実の前ではいかんともし難かった。
シャンプーの言うことは、少なくともあかねの中では、全て事実なのだから。
「なんとか言ったらどうね」
「・・・」
ただ黙ってシャンプーの非難を受け入れる。
あかねには、そうする以外、シャンプーの気持ちに向き合うどの様な術も持ち合わせていなかった。
ひたすら黙り込んでいたあかねに、シャンプーが口を開いた。
「お前に、乱馬の許婚でいる資格なんてないね」
そうはきすてると、シャンプーは自転車を駆って遠ざかっていった。

残されたムースがやおら口を開いた。
「気にすることないだ、天道あかね。シャンプーも気が動転しているだけじゃ」
「ムース・・・」
「シャンプーは本気であんな態度が取れる女じゃない」
「・・・ありがと」
「お前のために言っているのではないだ、シャンプーの名誉のためじゃ」
あかねの呟きに、ムースがぶっきらぼうに言った。
顔が微かに赤らんでいるのだから、本音だけでなく、照れ隠しも幾分入っているのだろう。
「なんでおらが貴様をなぐさめなくちゃならんのだ、本来なら早乙女乱馬の仕事であろうに。ましてや、おらは出前の途中――」
ぶつぶつ呟いていたムースが、そこで突然硬直した。
「あー!シャンプーと出前の途中だったんじゃ!!」
そう叫ぶや否や、ムースはあわてて自転車に飛び乗った。
「では、天道あかね。再見!」
あわててそう言い残すと、ムースは一陣の風となって去っていった。
「シャンプー!おらを置いていくなーー!!」
遠くから聞こえてくる絶叫に、あかねは思わず苦笑してしまっていた。
それでも、その苦笑には少なからず翳が含まれていた。



もう日も沈もうかという時刻。
人気のない公園のベンチに、一人ぽつねんと座るあかねの姿があった。
あかねの目の前で沈みゆく夕陽は、夜の到来を拒むかのような強烈な紅色を放っていた。
その昏くも鮮やかな光に照らされたあかねは、一種幻想的な雰囲気さえ醸し出していた。
そんな自分はおろか、沈みゆく陽の光にすら意識を向けていなかったあかねが、ひたすらに物思いに沈んでいたのも、その雰囲気を引き立てる一因となっていたのかもしれない。
『お前のせいで乱馬があんな目にあった』
茜色の夕陽に照らされているあかねの頭の中で、シャンプーの言葉がリフレインされていた。
(言われなくても分かってる・・・)
(全部あたしのせいだ)
(あたしが交差点を飛び出したりしなかったら・・・)
(それ以前に、あそこまで逆上しなかったら・・・)
『どう責任取る?』
どうすればいいのか、あかねにも分からなかった。
ただひたすらに、自分がしでかしてしまったことに後悔する。
これ以外に、あかねの脳は正常に機能してくれなかった。
慙愧の念に囚われていたあかねに、ふと東風先生の言葉が思い出された。
『ケンカした後の仲直りは、素直に仲直りしたいって気持ちを示せれば、大抵はうまくいくものなんだけどね』
「どうして、素直になれなかったのよ・・・」
これほど、自分で自分が嫌になったことはなかった。
こみ上げてくる涙を、あかねは必死に押さえ込んでいた。
茜色だった夕空は、いつの間にか暗い夜へと移り変わっていた。
あかねは、自己嫌悪と絶望のどん底に沈みつつあった。
なにもかもがイヤになっていた。

そのとき。
「あかねちゃん?」
あかねが顔をあげると、東風先生の怪訝そうな表情が目に飛び込んできた。
「東風先生・・・」
その顔を見た瞬間、あかねの中から何かが込み上げてきた。
幼い妹が、どうしようもなくつらいときに、身近な何でもできる兄に縋りついてしまう。
そんな感情に似ていたのかもしれない。
「どうしたんだい?乱馬クンと仲直りできなかったのかい?」
優しく微笑む東風先生を見つめているうちに、心の奥からつきあがる何かを、あかねは堪えきることができなかった。
あかねの視界の中で、東風先生の姿がぼやけていく。
「乱馬が・・・乱馬がぁ!」
気がつくと、あかねは先生の胸に飛び込んでいた。
もう、大粒の涙をこらえることはできなかった。
乱馬が事故に遭って以来、初めてあかねが人前で見せた涙だった。


「あたしのせいなんです・・・」
ひとしきり泣いて気が静まってきたあかねが、東風先生にぽつりぽつりと事情を話しはじめた。
依然涙もとまらず、しゃくりあげつつではあるが。
それでも、あかねはなにかに憑かれたかのように懸命に話しはじめた。
「乱馬が、ヒック、目覚めないんです。東風先生と、ヒック、別れたあと、乱馬とケンカして、あたしが、ヒック、交差点飛び出して。乱馬が、あたしをかばって。お医者さまも原因不明だって。もう一週間も、ヒック、眠り続けたままで。あたしが、ヒック、交差点を飛び出したりしなかったら。素直になってたら・・・」
まるで要領を得ていない説明だったが、それでも東風先生は先生なりになんとか理解したらしい。
「乱馬クンが事故に遭って、目覚めないってことかい?」
あかねはこくりと頷いた。
「で、担当した医師によると、原因不明だと」
そこで先生は話を止め、しばらく考え込んだ。
あかねが泣き止むのを確認すると、東風先生はやおら口を開いた。
「ちょっと診させてもらってもいいかな?」
公園の街灯の光が反射したのか、眼鏡の奥の瞳がキラリと光ってみえた。



それから小一時間後。
眠れる乱馬の身柄は、自室の布団から東風接骨院のベッドへと移されていた。
東風先生自身は、そのまま公園から天道家へと向かうつもりでいたが、それはあかねによって丁重に断られていた。
理由は明白だが、東風先生はそれを認識していないだろう。
(かすみおねえちゃんがいる家で、東風先生に乱馬を診察してもらうわけにはいかない!)
あかねの切実な思いが、東風先生の天道家往診を止めさせていた。
「・・・」
真剣な表情で乱馬を診断する東風先生。
そんな先生を、あかねは見守ることしかできなかった。
東風先生がなにか原因を見つけてくれることを祈ることしか、あかねにはできなかった。
眠ったままの乱馬を触診していた先生が、手を休め、隣のあかねに対して口を開いた。
「事故に遭ったのは確か一週間前だよね?」
「はい」
「それ以前のこと、なにか覚えてないかな?」
「え?」
東風先生の質問の趣旨が、あかねには理解できなかった。
「事故に遭う前に、乱馬クンになにか普段と異なるところはなかったかい?」
(事故に遭う前・・・)
あかねは必死に記憶の糸を手繰ってみた。
「些細なことでもいいよ」
東風先生が付け加えた。
そのとき。
「・・・寝不足」
ひとつの要素にたどり着いたあかねは、無意識のうちに呟いていた。
「乱馬、ここ数週間ずっと寝不足みたいでした。普段はめちゃくちゃ寝つきが良いヤツの筈なのに」
「寝不足・・・反動のような睡眠・・・一連の言動・・・乱馬クンから漂う気・・・まさか!」
「心当たりがあるんですか!?」
あかねは思わず腰を浮かしていた。
東風先生はあかねの声などまるで聞こえていないかのようだった。
ひたすら自分の考えに没頭していた。



どれくらいの時が経ったのだろうか。
東風先生がぽつりと呟いた。
「これも、ひとつのきっかけ、か」
「え?先生、今なんて」
東風先生の呟きを聞き取れなかったあかねが聞き返した。
先生はその問いに答えることなく、眼差しをあげると、あかねを見据えて口を開いた。


「乱馬クンと本気で向き合う覚悟はあるかい?」

その瞳には、怖いくらいの光が宿っていた―――――



つづく




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