◇DAYS OF NIGHTMARE 4
柳井桐竹さま作


「どうしてこんなことになっちゃったのよ・・・?」
あかねは、ベッドの中で先ほどまでの乱馬との諍いを思い返していた。
きっかけは些細なことの筈だった。
いつものように仲直りできる筈だった。
仲直りするつもりで乱馬を探して道場に向かった先で、乱馬がPちゃんをいじめているのが目に入って、思わず頭に血がのぼって・・・
気がついたら、許婚が解消されるまでの大ゲンカになっていた。
「乱馬の・・ばか・・・」
あかねは枕に顔をうずめながら、呟いてみた。
最早口癖とも言えるほど口にしている筈の言葉であるのに、今のあかねにはやけに重たく感じられた。
呟いたその目には、涙が浮かんでいた。
あかねの胸に去来する様々な思いと全く無関係に、夜は白々と更けていった―――






第4章 崩壊〜因果応報の末






「あかねー!朝ご飯できたわよー!早く降りてらっしゃい!」
あかねがようやくまどろみ始めた頃、階下からかすみの声が聞こえてきた。
「はーい」
あかねはとりあえず返事をして、ベッドから降りて着替えを始めた。
テンションは最悪だった。
寝不足以上に、昨夜の乱馬とのケンカがこたえていた。
(とりあえず、仲直りしなくちゃ)
「よし!」
それでも気合を入れなおして、あかねは居間へと降りていった。


食卓には、1人面子が欠けていた。
「乱馬・・・は?」
あかねは思わずそう呟いていた。
居てほしくもあり、そのくせ居てほしくもなかった人物が、そこにいなかった。
「乱馬なら、助っ人をしている部活の朝練があるからって、だいぶ前に家を出たわよ」
あかねの呟きに答えたのは、のどかだった。
(嘘だ!)
間髪入れず、あかねはそう感じた。
昨日まではそんなこと一言も言っていなかった。
理由は明白だ。
(何よ!せっかく仲直りしようと思ってたのに)
当然といえば当然のことなのであろうが、それでも乱馬に避けられたことはあかねに少なからずショックを与えた。
乱馬の態度にはもちろん、その態度にショックを受けた自分自身にも腹が立った。
(もおあんなヤツ知らない!)
あかねの不機嫌が更に増長しようとした、そのときだった。
「あかねちゃん!!」
「はい!」
突然呼びかけられていたことに気づいて、あわてて返したあかねの返事は、ものの見事に裏返っていた。
周りを見渡すと、のどかが心配そうにあかねの顔をみていた。
「どうしたの?何回呼んでも返事がなかったし・・・顔色も良くないみたいだけど大丈夫?」
「全然大丈夫です!ちょっと昨日、なかなか寝付けなかっただけですから」
「そ〜お?それならいいんだけど・・・」
それでも心配そうなのどかに、あかねはあわてて笑顔を取り繕った。
「ホントに大丈夫ですから!それより心配かけてごめんなさい、おばさま」
「何言ってるのよ。将来私の娘になるかもしれない人が」
「!」
普段なら他愛無い冗談で済まされるはずの発言だった。
それが、あかね自身信じられないほど、あかねの心に衝撃を与えた。
乱馬が言い出した許婚の解消は、自分が思っている以上に、あかねの心に傷を負わせていた。
思わず返事をできなかったあかねを、親父2人は照れととったらしい。
やれ祝言の仕切りなおしだと騒ぎ始めた。
「ごちそうさま」
のどかの心配そうな視線も、父親達の軽薄な態度も、精神的に不安定な今のあかねにとっては苦痛以外の何者でもなかった。
あかねはいたたまれなくなり、殆ど箸をつけないまま食事を切りあげて、家を出て行った。



「あれ〜、乱馬クンは?」
「・・・知らないわよ」
これで17人目だった。
たまに1人で登校するとこれだった。
登校中・下駄箱・廊下・そして教室でと、あかねはひっきりなしに乱馬の所在を尋ねられていた。
尋ねられる度ごとに、あかねの神経は逆撫でされた。
「知らないってあんた乱馬クンの許婚でしょ?」
「・・・だからって、どうしてあたしが乱馬の行動を逐一把握してるって考えるわけ?」
昨日許婚は解消されたとは、どうしても言えなかった。
言いたくもなかった。
口に出すと、昨日のケンカが現実としてあかねに忍び寄ってきて、自分のことを苦しめる。
とても強がってなんかいられなくなる。
そんな気がした。
「な〜に?まだケンカしてるの?」
「・・・・・・」
「ホント飽きないわね、あんたらも」
(好きでケンカしてるワケじゃない)
あかねのかすかな表情の変化に全く気づくことなく、その女子はあかねにとどめを刺した。
「ま、意地張るのも大概にしとかないと、その内乱馬クンに振られちゃうよ」
乱馬とケンカしているときは、しばしば言われている台詞のはずだった。
それが、そう受け取れなかった。
聞き慣れているはずの台詞が、あかねに絶望感を想起させた。
言うだけ言って、その女子はあかねから離れていった。

「おはよ、あかね。ところで乱馬クンは?」
18人目はさゆりだった。
「・・・・・・知らないわよ」
その後、登校してきたさゆりやゆか達と、朝礼が始まるまで談笑していたあかねだったが、どこか上の空だった。
ちらちらと、自分の席の隣の空席に目を遣っていた。


あかねより先に家を出たはずのその席の主がようやく教室に入ってきたのは、朝礼が始まる寸前のことだった。
席に着くまでに、その主があかねの方に目を遣ることはなかった。
朝礼が始まった後も、彼は決して隣席に眼を向けなかった。



あっというまに時は過ぎて放課後。
あかねは一人でぼんやり下校していた。
乱馬はというと、一人でさっさと下校してしまっていた。
結局、あかねは学校にいる間中、乱馬と話をするきっかけをつかむことができなかった。
乱馬は、明らかにあかねのことを避けているようだった。
顔を合わせることさえ拒んでいるような感じだった。
一度だけ目が合いかけたが、そのときは思わず目を逸らしてしまっていた。
どこかで、「なに眼を逸らしてやがんでい!?」なんて乱馬が言ってくれるのを期待していた。
それが、何も言わないまま、乱馬は無視をし続けてきたのだ。
そんな乱馬の態度に、あかねは怒り以上に衝撃の感さえ覚えた。
許婚の解消も普段のケンカの延長に過ぎないと、どこかで考えていた。
きっかけさえつかめれば、いつものように仲直りができるものだと、どこかで高をくくっていた。
が、乱馬の態度は今回のケンカがそんな生易しいものではないことを如実に示していた。
それでもあかねは、なぜ乱馬が今回に限ってそんなに怒っているのか、その原因が全く理解できなかった。
(なんなのよ・・・一体)
(いつもどおりのケンカのはずなのに・・・)
色々なことをとりとめもなく考えていたあかねは、自分が本来の通学路から外れた道を歩いていることに全く気がつかなかった。
「あかねちゃん?」
呼びかけられた声にふと我に返ると、目の前に接骨医の小乃東風先生が、怪訝そうな顔で立っていた。
「どうしたんだい?こんな所で」
「え?あ、東風先生、お久しぶりです」
「そういえば久しぶりだね、あかねちゃんと会うのも。ところで、どうしてこんな所に、あかねちゃんがいるんだい?」
「へ?」
あわててあたりを見渡すと、そこは見覚えのない通り。
「え、え〜と・・あれ?どこですか??ここ・・・」
「隣町だよ。あかねちゃんの家からみたら」
「ええ!?」
「で、何でこんな所にいるんだい?」
「いえ、あの、その・・・」
わたわたと動揺しているあかねを見て、東風先生もなにか思いついたらしい。
「もしかして、ぼんやり考え事でもして歩いてた、とか?」
「・・・・・・あはは」
照れ隠しに笑いを貼り付けながら、真っ赤になるあかね。
そんなあかねの様子を見て、東風先生も苦笑いを浮かべた。
「あかねちゃんらしいね」
「・・・どういう意味ですか?それ」
想いを断ち切ったとはいえ、初恋の人にそんなことを言われたあかねの胸中は、穏やかならぬものであったらしい。
言葉のニュアンスに、微妙に棘が含まれている。
それに気づいたのか、東風先生はあわてて言葉を続けた。
「ごめんごめん。思い込んだら一直線のあかねちゃんらしいっていうだけで、特に深い意味はないよ」
「なんだか微妙にフォローになってない気もするんですけど・・・」
「そうかな?あかねちゃんらしくて、かわいいって思うんだけど」
東風先生の「かわいい」の発言を聞いた瞬間、あかねの頭に反響したのは無神経な許婚の口癖ともいえる「かわいくねえっ」の言葉だった。
毎日のように、否、毎日耳にするその言葉を、今日は聞いていないことに、ふとあかねは気づいた。
(何であんなヤツのことを今考えなくちゃならないのよ)
強がってはみても、あかね自身今更の感は否めなかった。
(そういえば、今朝から口もきいてないな)
東風先生と会話していたことも忘れて、あかねの気持ちはどんどん沈んでいった。
東風先生は、突如黙り込んだあかねを不審に思ったらしい。
「どうしたんだい?」
心配げな表情で話しかけてきた。
東風先生と会話していたことを思い出したあかねは、あわてて言葉をつなげた。
「な、なんでもないです。ところで、なんで東風先生はこんな所に?」
幾分わざとらしい話題転換を図ったあかね。
「ちょっとこの近くに往診に行っててね。
 それよりどうしたんだい?なんだか元気がないようだけど。
 顔色もあんまり良くないし。
 何か悩み事があるんなら、僕でよかったら相談に乗るけど?」
「いいえ!悪いですよ、そんなの」
「気にしなくていいよ、この後は休診になってるし。
 なんだったら病院のほうに寄ってくかい?
 あかねちゃんと話をするのも久しぶりだし」
なんとなく、乱馬がいるだろう家にこのまま帰りたくなかったあかねは、悪いとは思いながらも東風先生の提案に乗ることにした。
東風先生なら、何か解決策を考えてくれるかもしれないという淡い期待もあった。
「じゃあ、すいません」
「いいよ、そんなに気を遣わなくて」
2人は小乃接骨院へと向かっていった。



「で、どうしたんだい?」
接骨院の一室で、お茶を淹れながら東風先生があかねに話しかけた。
「・・・・・・」
「なにか言いづらいことなのかい?」
うつむいていすに腰掛けているあかねを見やることなく、茶を淹れる手を休めないまま、東風先生は続けた。
「・・・乱馬とケンカしちゃったんです」
あかねが顔を上げることなく、ポツリと呟いた。
「そう。それで?」
お茶をあかねに手渡しながら、東風先生は続きを促す。
お茶を渡したその足で、今度は窓を開けにかかった東風先生。
「ありがとうございます」と小声で言ってから、渡されたお茶を見つめたまま、あかねは再び呟いた。
「・・・乱馬に許婚解消されちゃったんです」
「そうなんだ」
窓を開け終え、あかねの真正面のいすに座りこんだ東風先生。
東風先生のほうを見やることなく、あかねは続けた。
「・・・今朝から一度も話してないんです。完全に無視されちゃって・・・」
そこで東風先生が口を挟んだ。
「どうして乱馬クンはそこまで怒ったのかな?」
「わかんないんです」
お茶を持つあかねの手は震えていた。
「いつもどおりのケンカのはずなのに・・・乱馬がPちゃんいじめてるのを見て、カッとなって、言い合いになって、乱馬張り倒しちゃって・・・」
あかねはその先を続けることができなかった。
手の震えは大きくなっている。
東風先生も、無理にその先を促すことはしなかった。
2人の間に沈黙が訪れた。
その間、あかねは高ぶった感情が徐々に静まっていくのを感じていた。
あかねの手の震えが治まってきた頃、ようやく東風先生が口を開いた。
「それで、あかねちゃんはどうしたいのかな?」
途端、感情が再び高まっていくのを、あかねははっきり感じた。
まんじりとも動くことができなかった。
答えは決まっている。
それでも、どうしてもその答えを口にすることはできなかった。
あかねは、自分の意地っ張りがつくづく嫌になっていた。
あかねをまっすぐ見ていた東風先生は、かすかに苦笑いを浮かべた後、小さくため息をついて言葉を発した。
「質問を変えようか。あかねちゃんはこのまま乱馬クンとケンカしていても、なんともないのかい?」
それでも、あかねが動くことはなかった。
そんなあかねの様子を特に気にすることもなく、東風先生は言葉を続ける。
「仲直りできないままでいて、乱馬クンにあかねちゃん以外の恋人や許婚ができたときに、心からそれを祝福できるかい?」
あかねの体がビクッと震えた。
思わずあかねは、乱馬が自分を置いて他の誰かとどこか遠くへ行ってしまうのを想像してしまっていた。
(そんなの、絶対にイヤ)
無意識のうちに、あかねは首を強く横に振っていた。
先生は、そんなあかねに優しく微笑みかけた。
「じゃあ何とか仲直りして、元の鞘に収まるしかないよね」
あかねは初めて顔をあげ、あかねに微笑みかけている先生のほうを見た後、こくんと小さく首を縦に振った。

素直に乱馬への感情を出せたことが、あかねには不思議でならなかった。
(東風先生だからかな)
他の誰に同じことを聞かれても、首を縦に振ることなどできるはずもない。
真っ赤になって、必死で否定するだけだろう。
どんな悩みを打ち明けても、絶対からかったりしない。
真摯に受け止め、一緒に考えてくれる。
それが、あかねにとっての東風先生だった。
(そんな優しいところに一番惹かれてたんだろうな)
それでも東風先生に対する、あの切ない恋心が甦ることがないのも不思議だった。
(よりによって、東風先生に恋愛相談してるなんてね)
決して報われることのない想いを一人で抱え込み、苦しんでいた一年前には、想像もしていなかった現実だった。
(こういうふうになったのも、良くも悪くも乱馬のせいよね)
だからといって、東風先生とのこんな関係がイヤだとは思わない。
(乱馬も少しは先生を見習ってくれたらいいのに・・・)
あかねはそんなことを、ぼんやり考えていた。

「まずはケンカの原因について考えてみようか」
東風先生の声で、あかねは我に返った。
「乱馬クンが、えっと、Pちゃん、だっけ?」
「あ、あたしのペットの黒い子豚です」
「そう。そのPちゃんをいじめてるのを見てカッとなったって言っていたよね」
「はい」
「いじめてるって、乱馬クンは具体的にどうしようとしていたように見えたのかい?」
「乱馬が、Pちゃんに向かって『こんの豚ぁ!覚悟しやがれ!!』って叫んで・・・Pちゃんの首根っこ押さえつけて、蹴ろうとしてたんです」
「そのときあかねちゃんは乱馬クンになんて言ったのかな?」
「えーっと、『Pちゃんをいじめないで』だったと思います。でもその前に思わず手を挙げちゃって」
あかねも立派な年頃の乙女。
さすがに、特大ハンマーで乱馬を殴り倒したことを、具体的に口にするのはためらわれた。
「そっか。それで乱馬クンはなんて答えたんだい?」
東風先生も深くは追求しないまま、話を進めた。
「『男の勝負を邪魔するな』みたいなことだったと思います。でも、どう見てもPちゃんをいじめてるとしか思えなかったから・・・」
「まあ普通そう思うよね」
「そうですよね、やっぱり。その上Pちゃんを挑発して、怒らせて――」
「ちょっと待って」
東風先生が突然口をはさんだ。
「乱馬クン、具体的になんて言ったんだい?」
「え?『女の陰に隠れるな』みたいなこと言ってましたけど。それでPちゃんも怒ったみたいで、乱馬の腕に噛み付いたんです」
「怒って噛み付いたの?」
「ええ、たぶん。本当に頭の良い子なんです、Pちゃんは」
「それはすごいね」
そう言いながら先生は何かを考えているようだった。
「Pちゃんと乱馬クンは、以前から仲が悪かったのかい?」
「ええ、なんか乱馬は目の敵にしているみたいな感じで、よく追いかけまわしてます」
先生は黙り込んで、再び何かを考え始めた。
しばらくして、考えが一通りまとまったのか、先生は質問を再開した。
「まあ、いいか。とりあえず話の本筋には関係なさそうだし。それでその後どうなったの?」
「噛み付いたPちゃんを、乱馬が思い切り地面に叩きつけようとしたから、また頭に血が昇っちゃって・・・」
その先を言うのをためらっているあかねを見て、先生は言葉をつなげた。
「また手を挙げちゃったんだ」
「・・・はい」
あかねの頬が朱に染まった。
一拍置いて、先生は再び質問を始めた。
「それから?」
「逆上してたからよく覚えてないんですけど、言い合いし始めて、乱馬があたしに何か言って・・・」
「また怒っちゃったんだ」
「・・・・・・はい。とにかく、倒れこんだ乱馬が起き上がって・・・」
再びあかねの手が震え始めた。
先を読んだ東風先生が、言葉をつなげた。
「乱馬クンが許婚の解消を言い出したんだ?」
「・・・はい」
「具体的になんて言ったか聞いてもいいかな?」
「・・・『上等だ!!そっちがそのつもりなら喜んで許婚解消してやるぜ!!!』です・・・」
あかねが小さく呟いた。
この言葉だけは、鮮明にあかねの記憶に残っていた。
ケンカの中で、一番思い出したくない言葉として。
「ごめんね、つらいこと思い出させて」
東風先生が本当に申し訳なさそうにそう言った。
「いいえ、こっちこそ悩み聞いてもらっちゃって・・・」
そう言うあかねの声は、やはり震えていた。

「そもそも乱馬クンは本当にPちゃんをいじめてたのかな?」
再び訪れた静寂を破ったのは、またしても東風先生だった。
「どういう意味ですか?」
「乱馬クンといじめがいまひとつ結びつかないんだよね」
「・・・?」
「確かに乱馬クンは強さを至上のものと考えてるところがあるとは思うけど・・・だからといって、自分より弱い相手に力をむやみに振るうようには見えないんだけどな」
「・・・」
「あかねちゃんはどう思う?」
「・・・あたしもそう思います」
あかねの知る限り、確かに乱馬は本当に自分より弱い者に対して、暴力に訴えて相手を屈服させたことは殆どなかった。
仮に手を出すとしても勝負・報復の場合が大半だった。
乱馬は乱馬なりに筋を通している感がある。
異常なほど手が早いので、一見そうは思えないが。
「でも、Pちゃんに関しては・・・」
「例外だと思うかい?」
「はい」
「そっか。まあとりあえずそれは置いとこう。
 ところであかねちゃん、さっき乱馬クンはPちゃんのこと『よく追いかけまわして』るって言ってたよね」
「はい」
「それって、乱馬クンがPちゃんに直接暴力を振るっているのをよく見かけた、というわけではないってことだよね?」
「それはそうですけど、でも・・・」
「『追いかける』ことと『暴力を振るう』こと、『いじめる』ことって必ずしも一緒じゃないよ」
「え?」
「つまり、『追いかける』という行為は必ずしも攻撃が目的で行われるわけじゃない、ってこと。例えば何かをさせないためにすることもあると思うんだけどな」
「・・・」
「もちろん乱馬クンがそうだと断定しているわけじゃないよ。
 でも乱馬クンの性格と考え合わせると、乱馬クンがPちゃんをいつも追いかけてるからって、それを100%全部いじめてるって考えるのは、ちょっと早計すぎるんじゃないかなって思うんだ。
 むしろ乱馬クンの行動に、何か理由があるって考えたほうが自然じゃないかい?」
「仮にそうだとしても、でも今回は__ 」
「そう。話を聞いている限りでは、今回に関してはどう考えても乱馬クンがPちゃんをいじめているようにしか思えないよね。
 首根っこ押さえつけて、それから蹴ろうとしてるんだから。
 でもそれってどういうことなんだろう?」
「・・・?」
「乱馬クンとPちゃんとの間で、そのときの関係が普通じゃなかった。
 つまり、今回のケンカの原因は“いつもどおり”じゃなかったってことを意味してるんじゃないかな?」
「!」

「何で乱馬クンがPちゃん相手にそこまでしたのかは分からない。
 でもそのときの乱馬クンの精神状態は普通じゃなかったと考えるほうが無難だろうな。
 例えば、イライラしてたとか、ガッカリしてたとか・・・
 とにかく普通じゃない気持ちでいるときは、些細なこと・普通のことであっても、それを普段とは異なった受け取り方をしてしまう。
 あかねちゃんも、それは経験があるんじゃないかな?」
経験があるどころの話ではなかった。
今朝からの一日を振り返るだけで、あかねにも思い当たる節が多々あった。
のどかの言葉、友人達の言葉・・・それだけではなく、今日一日の全てが普通に受けとめられなかった気がした。
「ふつうじゃないときは“いつもどおり”にケンカしたとしても、それを“いつもどおり”に受けとめるのは難しい。
 そもそもケンカをしてしまう事自体が、“いつもどおり”じゃないこと、コミュニケーションの乱れを示しているんだ。
 つもりにつもった感情の爆発――それがケンカなんだ。
 感情をお互いに開放する、その意味においては決してケンカも悪いものじゃないと僕は思う」
「ただ、感情を手加減することなくぶつけあう行為は、どうしてもお互いに気持ちの制御が難しくなる。
 多くの場合、思いもよらない言葉を口にしてしまったり、暴力を振るってしまったりして相手のことを傷つけてしまう。
 時にはそんな自分が嫌になって、自分自身も傷ついてしまうことがある。
 だから一般的にケンカは良いことだとされないんだ」
「あかねちゃんと乱馬クンのケンカは、普段は前者のものなんじゃないかな?
 ひどい事も言ったり、手をあげたりしたとしても、お互いが本当には傷つかない範囲で無意識にケンカしてるんじゃないかい?
 どこかでなんとなく、普段のケンカに居心地の良さを感じてはいないかい?」
東風先生の言葉に、異論・反論はあった。
乱馬の暴言が自分を傷つけていないとは、とても思えなかった。
それでも乱馬との普段のケンカに、あかねが居心地の悪さを感じていないのは事実だった。
あかねは先生の問いに、どうしても反論することができなかった。
「でも今回のケンカは、乱馬クンのほうに加減がきかなかったんだろう。
 だから、あかねちゃんのいつもの怒りに過敏に反応してしまった。
 その結果、“いつもどおり”のケンカのバランスが崩れてしまった。
 乱馬クンが必要以上に反応するから、あかねちゃんも必然的に必要以上に反応してしまって、いつも以上の大ゲンカになってしまう。
 そして、乱馬クンは勢いあまって許婚の解消を口にしてしまった。
 そんな可能性もあるんじゃないかな?」
「でも・・・乱馬は朝からあたしのこと無視してるんですよ。
 あたしといても、つまらないみたいですし・・・
 それって・・・もうあたしと許婚でいるのが、イヤだってことなんじゃ・・・」
あかね自身思いもかけなかったことが、口からこぼれ出ていた。
(それとも、これが一番の本音なの・・・かな?)
自分が本当はなにを考えているのか、望んでいるのかが分かったような気がした。
「それは僕には分からない。僕は乱馬クンじゃないからね。
 今僕が言ったことだって、単なる可能性のひとつに過ぎないんだから」
「・・・そうですよね」
「ただ、ひとつだけ乱馬クンの気持ちを推量できる要素があると思うんだ」
「・・・?」
「あかねちゃん、僕以外の誰かに許婚が解消されたことを言ったかい?」
「言ってません」
それがどうしたというのだろう。
「で、周りの誰かが許婚の解消の話を知っていたかい?」
「・・・たぶん誰も知らないと思います」
「それってどういうことなのか分かるかい?」
「?」
「乱馬クンも許婚の解消を言いふらしたりしていないってことだよね?」
「・・・」
「それってどうしてかな?」
「・・・」
「あかねちゃんはどうして誰にも言わなかったんだい?」
「・・・」
「あかねちゃんとおんなじことを考えて、乱馬クンも許婚の解消の話を黙っていたんじゃないのかな?」
「それって・・・」
(乱馬も許婚の解消を後悔してる?)
かすかながら、あかねは現在の状況に希望を見出した気がした。
「どうすれば、仲直り・・・できると思いますか?」
思わずあかねは尋ねていた。
「それは僕が口をさしはさむ問題じゃないよ。あかねちゃん自身が考えなくちゃ」
東風先生の答えは、あかねの予想通りのものだった。
答えに対する道筋は提示してくれても、答え自体はあかね自身に考えさせる。
それが、東風先生があかねの相談に乗る際の、昔からの明確なスタンスだった。
「まあ一般的に、ケンカした後の仲直りは、素直に仲直りしたいって気持ちを示せれば、大抵はうまくいくものなんだけどね」
「素直に気持ちを示す・・・」
(あたしにできるわけないじゃない・・・)
自分にとって最も縁遠いことを言われた気がしたあかねは、再び自分の気持ちが落ち込んでいくのを感じた。
開け放たれた窓のほうをちらりと向いた後、あかねのほうに顔を向けなおした東風先生が、ぽつりと呟いた。
「ほんとに乱馬クンのことが好きなんだね」
「な、何言ってるんですか先生!」
真っ赤になって慌てるあかねに対して、東風先生は「ごめん、ごめん」と笑いながら言った後、言葉を続けた。
「あかねちゃんなら、できるよ」
そう言った東風先生の顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。
そんな東風先生の顔を見ていたあかねが、かすかに顔を赤らめたまま、呟いた。
「・・・がんばってみます」
そう言って、あかねは何かを振り切るかのように微笑んだ。
かすかな自嘲が含まれたその微笑みは、どこか切なげに見えた。

開かれていた窓から見える茂みが、風のいたずらか、かすかに動いた。
東風先生はそちらのほうに眼を遣ると、苦笑いをもらした。
そして視線をあかねに戻すと、おもむろに言った。
「絶対、仲直りできるよ」
その確信した口調に、あかねが疑問を抱いた。
「どうしてですか?」
東風先生は、楽しそうにクスクス笑うだけで、決して答えようとはしなかった。



(がんばって仲直りしなくちゃ)
あかねが接骨院を辞してから数分後。
自分を励ましながら、あかねは乱馬のいる我が家へと向かっていた。
溜め込んでいた思いを東風先生に吐露して、あかねの気持ちは幾分軽やかになっていた。
それでも、そう簡単には自分が乱馬相手に素直になれないことも分かっていた。
(とりあえず、なんであそこまで怒ったのかはっきりさせないと)
仲直りそのものの仕方については全く思い浮かばないものの、糸口が見えただけでもずいぶん気分は軽くなっていた。
「よしっ!」
(がんばって仲直りするぞ!)
あかねが気合を入れたその瞬間。
「ずいぶん楽しそうじゃねえかよ」
背後から聞こえてきた声に、あかねがあわてて振り返ると、見慣れた赤いチャイナ服の少年が、あからさまに拗ねた表情で突っ立っていた。
「な、なんであんたがここにいるのよ?」
「わりーのかよ?」
思いもかけない乱馬の出現に、あかねは硬直してしまった。


「・・・で?」
気まずい沈黙を破ったのは、あかねのほうからだった。
「・・・んだよ?」
「なにをそんなに怒ってるわけ?」
「べーつーに」
依然、乱馬はあかねのほうを向こうとしなかった。
「あんたがPちゃんいじめてたのが、いけないんでしょうが」
「・・・」
「なんでそんなことしてたわけ?」
「・・・おめーには関係ねえ」
不機嫌全開な表情で、乱馬はそっぽ向いている。
その表情は、不機嫌のみならず、心ここにあらずといった感じで、人の話をまともに聞いていないのがひしひしと感じられた。
そんな乱馬の言い草や態度にカチンときたあかねだったが、とりあえず自分を押さえ込んで、話を続けた。
「関係ないことないでしょ。Pちゃんは、あたしのペットなんだから」
「・・・」
「なんか言ったらどうなのよ?」
「・・・うるせえ」
「うるせえってなによ!」
(こっちは必死で仲直りしようってがんばってるのに)
乱馬のあまりにも他人の気持ちを斟酌しない態度に、あかねは自分の我慢の限界が近づいてきているのを感じた。
「うるせえもんはうるせえんだよ!このおせっかい!!」
「なによその態度!?」
「だいたい俺とお前はもう何の関係もないはずだろ!」
「!」
動揺し、一気に黙り込んだあかねに対し、乱馬が追い討ちをかけてきた。
「なんだよ?そもそも、許婚の解消を言い出したのはそっちじゃねーか!?」
そう言った乱馬の声が拗ねていたのに、あかねは気づかなかった。
「なに言ってんのよ!?あんたが言い出したんじゃない!!」
乱馬の言いがかりに、限界に近づいていたあかねの我慢の糸が切れた。
もう既に、あかねの中で、仲直りのために素直になろうなどという気持ちは消し飛んでいた。
一方の乱馬も、あかねの言葉を受けて、ますます逆上していく様子を見せていた。
「今更とぼけるつもりか!?昨日だってそうだ!人のことカッコ悪いなんて言って、とぼけやがって!!」
「なにワケのわかんないこと言ってんのよ!?いいがかりもいい加減にしてよね!!」
あかねがそう言った途端、乱馬の顔がピクリと引きつった。
「ふざけんじゃねえ・・・」
震える声でそう呟いた乱馬が、絶叫した。
「そんなに東風先生がいいなら、さっさと告白しやがれってんだ!!!」
その乱馬の発言は、あかねにとって思いもよらないものだった。
「なんでそこで東風先生が出てくるのよ!?」
全く脈絡のない乱馬の発言に困惑しつつも、無意識のうちに、あかねは強気にそう切り返していた。
「けっ!それで隠してるつもりか!?かすみさんには勝てないからって、告白しないなんて、単なる逃げじゃねえか!!」
「自分のこと大棚の上に放り投げて、よく言うわね!!この優柔不断男!!!」
論点が明らかにずれていることは重々分かってはいたが、あまりの乱馬の言い草に、思わずあかねはそう口走っていた。
そもそも、なぜ乱馬が今更、東風先生へのあかねの過去の想いを蒸し返してきたのかが、あかねには理解できなかった。
乱馬は乱馬で、ますます意固地になっていっているようであった。
「だれが優柔不断だ!このずん胴凶暴女!!てめーみてーな女、東風先生どころかまともな嫁の貰い手すらできるわけねーよ!!!」
ただでさえ我慢の糸が切れていたあかねは、乱馬のこの台詞に完全に我を忘れた。
この時点で、許婚の解消の話は完全に忘れ去られて、既にいつもどおりのケンカに化していることすら気づかないほど、あかねは逆上していた。
(せっかくひとが仲直りしようって思ってたのに__ )
「乱馬の、ばかあ〜〜〜!!!」

どばっち〜〜〜ん

乱馬の頬を盛大に張り飛ばして、あかねは踵を返した。
そのまま乱馬の様子を省みることなく、家へと向かって走り出した。



完全に頭に血が昇っていたあかねは、周りの状況も、自分の行動も全く考慮していなかった。
自分が、交差点を飛び出していたことも。
飛び出した交差点で、大型トラックが直進していたことも。
あかねは全く気づいていなかった。
ただ、乱馬に対する怒りと悲しみだけが頭を占めていた。

「危ねえっ!!!」
誰かの叫び声と、急ブレーキの音が聞こえた。
あかねの視界の左隅に、トラックが飛び込んできた。
瞬間、誰かに体が抱きしめられたような感触と共に、あかねは自分の体が宙に舞い上がるのを感じた。

落下の感触は感じなかった。
なにが起きたのかを理解する前に、あかねの意識は失われていった。
薄れゆく意識の中、あかねは、聞き慣れた声が切羽詰った口調で、自分の名前を呼んでいるのが、聞こえたような気がした―――――



つづく




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