◇DAYS OF NIGHTMARE  3
柳井桐竹さま作


「ちっ、ココも閉まってやがる」
草木も眠る丑三つ時、天道家道場の前で乱馬は舌打ちをついていた。
「あとは・・・あいつの部屋、か」
そう呟いて、乱馬は2階にあるあかねの部屋の窓を見つめた―――






第3章 確執〜止まらない不協和音




さかのぼること数分前、帰宅した乱馬を迎えたのは鍵の掛けられた玄関だった。
「げっ、やっぱ閉まってる・・・」
川原で寝ていたため今が何時か正確には把握できていない乱馬だったが、帰ってくるまでの途上、家々の明かりの大半が消えていることからも、こうなっていることを覚悟はしていた。
「開いてるとこを探すか」
(さすがに戸を叩き壊すわけにもいかねーし)
そう呟いて、乱馬は開いている侵入口を探して裏口・窓とまわっていった。
が、普段の生活態度からは窺い知れないほど天道家の防犯意識はしっかりしているようだった。
母屋はもちろんのこと、離れにある道場の扉ですら南京錠で施錠されていたのだ。
そして冒頭の舌打ちへと話は戻るのである。



「どうすっかな・・・」
乱馬は迷っていた。
先ほどまでみていた夢のせいもあり、なんとなくあかねの部屋を深夜に侵入するのはためらわれる。
なびきの部屋に関しては近づくのも論外だ。
だからといって野宿するのもばかばかしい。
それらの考えの間で、乱馬は揺れ動いていた。
その時突然。

ぐぅ〜

自分の腹が派手に出した音で、乱馬は自分が夕食を食べていないことを思い出した。
「・・・確認だけでもしてみるか」
空腹には勝てなかったらしい。
乱馬はあかねの部屋の窓へと飛び上がった。

カラ―――
部屋の窓の鍵は開いていた。
「無用心なヤツ」
そう一人ごちると、乱馬は部屋に忍び込んだ。
乱馬がベッドに目をやると、あかねはそこで眠っていた。
(相変わらず、もの凄い寝相だぜ・・・)
そうは思ったものの。
その無用心な寝顔は、乱馬を見とれさせるに十分な魅力を持ったものだった。
(か、かわいい・・・って)
「何考えてんだよ、俺」
その呟きは、弱弱しいものだった。
あわててあかねから目をそらした乱馬は、未練を断ち切らんと強がりをぼそぼそと口にした。
「こ〜んな色気の無い女にかまってないでさっさと寝・・・」
その声は最後まで発せられることなく、途中で中断された。
「う・・うぅん・・・」
―――あかねが寝息をたてた瞬間に。


チッチッチッ・・・
あかねの部屋の時計の針が刻み続ける音が、硬直した乱馬の耳にやけに大きな音で飛び込んでくる。
(どどどどどど〜しろと)
乱馬の頭の中に浮かび上がっては消えつづける妄想群。
暗闇、誰もいない、2人きりの部屋。
乱馬の妄想はますます加速していく。
もはや妄想は、完全に禁断の領域へと達していた。
ついに乱馬の理性が、自分の妄想ゆえに臨界点を突破した。
(キ、キ、キスくらい良いよな?)
乱馬の顔が徐々にあかねの唇へと近づいていく。
その動きは、ギシギシと音を立てそうなほどぎこちない。
(あかねが窓の鍵閉めてないのがわりーんだからな)
不可抗力とはいえ、忍び込んだのは自分のくせに、愚にもつかない言い訳の類が乱馬の頭を駆け巡る。
暗闇の中やけに瑞々しくうつるあかねの唇。
その唇にクソ豚が触れていたことを思い出した瞬間、乱馬の心に黒い炎が燃え上がった。
(おおおお俺だってキスくらい)
唇と唇が触れ合うまで、数センチに迫っていく――

そのとき、あかねの唇から言の葉が零れ落ちた。
「・・乱馬の・・ばか・・・」
ビクウッ!
全身の毛という毛が総毛立つのと同時に、乱馬の体がズザッとあかねから飛び離れた。
「なななななななんにもしてねえぞ!俺は!!」
あかねの反応を見ずに必死の弁明を展開する乱馬。
体が勝手に土下座までしている。
あかねからの天誅がこないことをふと不思議に思った乱馬が、あかねの顔を覗き込んでみると・・・
(ね、寝てやがる)
なにが起きていたのか全く認識していない寝顔を見て、乱馬の全身からガクッと力が抜けていった。
途端、先ほどまでの一連の行動が馬鹿みたいに思えてきた。
(ファーストキスくらいきちんと決めるべきだよな)
乱馬の中で、猫騒動での一連の事件(※コミックス5巻参照)はキスとしてカウントされてないらしい。
とにかく、そう思い至った乱馬はあかねの部屋からようやく出て行った。
「はぁ、俺ってばなんて優しい許婚なんだろう」
なんて呟きながら。
・・・どの辺が優しい許婚なのだろうか?



「なーんも残ってねぇじゃねえか!」
あかねの部屋を出てから数分後。
乱馬は冷蔵庫の中身を見てうなっていた。
部屋を出た瞬間鳴った腹の虫に、乱馬の足は自然に台所へと向いていた。
天道家で一番摂食量の多い自分がいなかったのだから、なにがしか夕飯の残りがあるだろうという乱馬の算段は、ものの見事に裏切られていた。
あればあるだけのものを食べるのが、天道家の食生活らしい。
冷蔵庫には、数時間後には朝食に化けるであろう食材しか残っていなかった。
「‘残してある’アレしかねーのかよ・・・」
そう言って乱馬は、台所のテーブルの上に鎮座している3つの‘白い塊’を見やって、大きくため息をついた。
「これ喰えってのか?・・・」
握りこぶし大のその‘ブツ’は形容し難いかたちをしていた。
あえて言うならば球形に近いのだろうが、表面の数多くの隆起・そして10個の陥没がその物体を表現不可能な造形物に化さしめている。
構成要素はどうやら米粒らしい。
乱馬にとって、製作者は明白だった。
「おにぎり、なんだろうな・・・」
3つのうちの1つを手に取った乱馬は複雑な目をして呟いた。
乱馬曰くの‘おにぎり’は、その表面の大半がペーストにされていた。
それはさながら乾燥したフエキ糊の態で・・・。
「どんな握力してんだよ・・・」
乱馬のその感想は至極当然のものであろう。
(ご飯のまま、置いといてくれれば・・・)
ありがた迷惑という単語が、乱馬の頭を掠めた。
ふと時計を見ると、時刻は午前3時過ぎ。
「朝飯まであと4時間ちょっとってトコか・・・」
空腹をこらえるか“糊”を口にするか、微妙なラインといったところだ。
「我慢すっか・・・」
ふと乱馬の脳裏に、製作者の怒っているくせにどこか悲しげな表情がよぎった。
「なんで俺があいつに気ぃ遣わなきゃいけねぇんだよ!」
そう一人ごちる乱馬の腹は決まったようだった。
「あぁ〜俺ってばなんて優しいヤツなんだろう」
覚悟を据えても、身体のほうは拒絶反応を起こし、必死に抵抗している。
「おにぎりで“隠し味”はありえねぇし・・・腹壊すってのもまずありえねぇ・・・よな・・・」
身体を納得させるために、あえて“当たり前”のことを口に出してみる。
「ええぃ!こうなりゃヤケだ!!」
そう言うや否や、乱馬は気合一番‘おにぎり’にかぶりついた―――

グチュッ―――なんとも言い難い口当たり・・・
ザリッ―――砂のような微妙な感触・・・
なによりその味は―――
「甘ぇ・・・」
乱馬は思い切り顔をしかめた。
「ま、この量で塩使われるよりはマシ、か・・・“隠し味”もなさそうだし・・・」
普段の脳天突き抜ける強烈な痛みを感じないことに感謝しつつ、乱馬は砂糖たっぷりの“おにぎり”3つを完食した。
優しい自分に対する自画自賛と、おにぎりひとつまともにつくれない許婚への悪態を、ぶつぶつ呟きながら。
(後で一応、礼・・言っとくか・・・?)
珍しいことこの上ない、殊勝な考えを抱きつつ。



一度横になったものの、どうしても眠れなかったし、また眠りたくもなかった乱馬は道場で汗を流していた。
道場の鍵は、いつもの場所においてあったものを拝借していた。
基本の型稽古をしているに過ぎなかったが、その動きは傍から見れば美しいとさえ表現できるほど見事なものだった。
並の人間ならば、流れるようなその動きの中に、隙を見出すことはできないであろう。
しかし、当事者である乱馬自身にとっては、不本意極まりないものにすぎなかった。
「くそっ!集中しろ!」
ともすれば散漫になってしまう気を引き締めようと、乱馬は必死で体を動かしていた。

本気で体を動かしている間は、全てを忘れることができるはずだった。
それでも乱馬は、昨日の『出来事』を忘れることはできなかった。
良牙の野郎に微笑むあかね。
キスするあかね。
フラッシュバックするそれらの光景は、共に乱馬から集中力を奪っていった。
しかし、なによりも集中力を削ぐ原因となっていたのは、ほかならぬ夢の内容だった。
(あいつ・・俺のこと・・・好きでいてくれてるんじゃないってのか・・・?)
気を研ぎ澄まして雑念を払おうとする乱馬をあざ笑うかのように、その思いは乱馬の中で大きくなっていった。
「ええぃ!くそっ!!」
見えない思いを振り切るかのように、乱馬が拳を繰り出そうとしたその瞬間―――

《カッコ悪いわね》

「誰だっ!!」
どこからともなく、突如聞こえてきた《声》に乱馬は振り返った。
振り返ったその先で佇んでいたのは、あかねだった・・・


「おはよ」
気まずい沈黙を破ったのは、あかねのほうからだった。
「・・・なんか用か?」
返す乱馬は不機嫌そのものだった。
「別に・・・用がなかったら道場に来るなとでも言うの?」
「ああ。気が散るからどっか行っててくれ」
取り付く島のない乱馬の態度に、あかねはカチンときたらしい。
「何よその態度!大体『気が散る』ってたいして集中してなかったってのに、よくそんなこと言えるわね!」
怒りを含んだ声で、そう言った。
あかねも女とはいえ一端の格闘家。
普段見慣れている乱馬の動きから、その気の在り様を読むくらい造作もないことだろう。
しかし、知らずにとはいえ、その原因に図星を突かれた乱馬の動揺は大きなものだった。
「!誰のせいだと思ってんだよ!!」
思わずそう口走ってしまった乱馬。
「何よ!あたしのせいにするわけ!?」
「余計な口出ししてきたのはそっちじゃねぇか!」
「何の話よ!?」
(てんめぇ、人のことカッコ悪いなんて言って今更とぼける気か!?)
あかね以外に誰もいないという状況から、先ほどの発言の主は、あかね以外にまずありえないはずだった。
それでも、全く話がわからないという感じでとぼけようとしているあかねの態度に、乱馬は完全に頭に血が上った。
「あーそうですか!今更とぼける気かよ!?」
「だから何をよ!?」
「べーつーに!」
「言いたいことあるんならハッキリ言いなさいよ!!」
「じゃあ言わしてもらうぜ!俺が集中してない?
 へっ!あんな砂糖糊つくって喰わせた原因がよくそんなこと言うぜ!!
 あれでおにぎりのつもりか?」
「!!」
(!何言ってんだよ、俺!!)
売り言葉に買い言葉の中で思わずついてでた暴言に、乱馬は激しく後悔した。
次の瞬間。

パン!

場に似つかわしくないほど小気味良い音が、乱馬の頬から響いた。
「誰があんたに食べろって言ったワケ!?乱馬のばかっ!!」
そう叫ぶように言うなり、あかねは道場から走り去って行った。
目を真っ赤に潤ませて・・・
「・・・・・・」
一人道場に残された乱馬は、あかねに張られた頬を押さえたまま、呆然と立ち尽くしていた。



冷戦は、乱馬が予想した以上に長引いていた。
朝食時はもちろん授業中・休み時間も、2人は口をきくことはおろか、目線をあわすことすらお互い避けあっていた。
そのくせ視線はお互いのことを追っているのだから、この2人の意地っ張りも大概で。
(勝手にやってくれ)
男女を問わずクラスメートの大半が、2人の間で吹きすさぶ絶対零度のブリザードを呆れながら傍観していた。
2人のケンカをこれ幸いと、なけなしの勇気を振り絞って果敢にあかねに話しかけようとしたクラスメート約1名は、あかねの不機嫌100%の冷たい視線に凍りつき、乱馬の怒りのこもった刺すような視線に粉々に砕かれて、再起不能な精神状態に追い込まれてしまっていた。
その鬱憤を、わら人形にぶつけている彼の姿は、見る者全てに哀愁と不気味さを感じさせた。
それでも、そんな彼に同情してくれる優しいクラスメートの存在は皆無だった。



時は過ぎて夕方。
公園の松の木の下で、1人の男がぶつぶつと何事かを呟いていた。
その様子は怪しい以外のどの様にも表現しえないものであり、道行く人の大半が不審げな面持ちでその男を見ていた。
じろじろ彼を見つめる好奇心旺盛な我が子を、そっと叱りつけている母親の姿も見受けられる。
が、周りのそんな様子にも全く気づかずに、その男・早乙女乱馬は自分の考えに没頭していた。
「ごめんな、あかね。俺が悪かった」
「・・・けどどう考えてもお前も悪い!!」
「だからどうしてもとお前が頭を下げるなら、仲直りを考えてやらんでもないぜ?」
「・・・・・・」
「・・・これじゃ仲直りはできないよな」
「はぁ〜〜」
放課後から延々とこれを繰り返し呟いていた乱馬は、もう何百度目になるかも分からないため息を盛大についた。
「そもそもなんで俺があいつに謝んなくちゃいけねぇんだよ!!」
周りの奇異の視線に気づかずに、思いっきり不快気にそうはきすてた乱馬。
その瞬間、乱馬の脳裏にフラッシュバックする、真っ赤に目を潤ませたあかねの姿。
「・・・・・・」
「ごめん。俺が悪かった」
やっと本格的に謝る気になったらしい。
「・・・けどどう考えてもお前も悪い!!」
・・・そうでもなかったようだ。
乱馬が自分のやっていることの不毛さにようやく気づいたときには、日もとっぷり暮れていた・・・



夕食時。
天道家の食卓には重苦しい沈黙が走っていた。
発信源は言うまでもなく乱馬とあかねの2人。
2人の間に漂う暗雲に、家族のうち2人はおろおろ、1人は心配顔、1人は完全無視、1人は全く認識していないという態だった。
時々出没するもう1人の家族(?)は、趣味の下着収集の旅に出たのであろうか、数日前から不在だった。
そんな家族達を無視して、乱馬は食事の間中、あかねとの仲直りのきっかけを探していた。
そんな中、食事も終わろうかという頃になって、完全無視を決め込んでいた1人がようやく口を開いた。
「あんたらが何でケンカしたのか知らないけどいい加減仲直りしたら?
 こっちも迷惑なのよね、食事中まで不機嫌全開でいられると」
「何よ、別にあたしは不機嫌なんかじゃありません」
そう言って、先ほどの姉の発言に同意のあいづちを示す2人を思いっきり睨みつけるあかね。
哀れなくらい動揺して泣き出した1人と、パンダに化けて誤魔化したもう1人を尻目に、あかねは続ける。
「別にケンカもしてないし」
(んだと?こっちは仲直りに必死に頭使ってるってのに)
その一言にカチンと来た乱馬は、思わず余計なことを口走ってしまった。
「そーそー、誰かさんが勝手に拗ねてるだけで」
「なんですってぇ〜」
(あちゃ、やっちまった)
そう思う内心とは裏腹に、余計な言葉を続けてしまうのが乱馬の悲しい性分。
「違うってのか?」
「あたしが何を拗ねなくちゃなんないワケ!?」
「俺はあかねが料理下手だと事実を口にしたまでだろーが!」
(そーじゃねーだろ!俺!!)
「だからあたしが拗ねてるって!?冗談じゃないわよ!
 なんであたしが、あんたなんかに何か言われて気にしなきゃいけないワケ!?」
(!!)
夢を見て以来、気にしていたことを思いっきり口にされ、乱馬は動揺した。
それでも口からは強がりがついてでる。
「俺が関係ねえってのか!?」
「当たり前じゃない!親同士が決めた許婚に過ぎないんだから!!」
「!?」
決定打を口にされ、さすがの乱馬も一瞬硬直した。
よくよく考えれば、2人のケンカではお馴染みの発言であるのだが、今の乱馬にそこに気づく精神的余裕はなかった。
乱馬が一瞬押し黙ったのを好機と、仲裁に入ったのがあかねの父・早雲。
「まあまあ、乱馬くんもあかねもまずは落ち着いて」
「「うるさい!!」」
哀れ、仲裁を図った優しい(?)父親は見事にハモった2人の声と視線に、再び恐れをなして硬直してしまった。
「ばっかじゃない?余計な口出しして」
今回のケンカの原因が、冷静な一言で早雲にとどめを刺す。
既に食事を終え、かすみの出したお茶を余裕の態度ですすっている。
もう1人の親父は、パンダのままで見て見ぬふり。
どこからともなく持ち出したボールで、戯れている。
「あなた」
そんなちゃらんぽらんなパンダに呆れ、やんわりたしなめるのどか。
たしなめるその手に握られた日本刀に気づき、パンダはあわてて立ち上がった。
その手には「ひとっ風呂浴びてこよう」と書かれたプラカードが、わざとらしく掲げられていた。
そんな周りの空気に、芸術的と言っていいほど全く気づかず、食後のお茶を入れて回るかすみ。
十人十色な反応を示しているそんな家族達を無視して、当事者達は睨みあいと罵りあいを繰り広げていた。



深夜。
乱馬は夜稽古に打ち込んでいた。
「ええい!くそっ!!」
裂帛(れっぱく)の気合とともに繰り出される拳には、気の迷いが含まれていた。
乱馬は、いつの頃からかあかねとはお互いがお互いを想いあっていると、どこかで考えていた。
告白こそまだできていないものの、どこかで気持ちは繋がりあっていると思っていた。
断じて認めたくはないが、呪泉洞での一件で、自分のあかねへの気持ちは伝わってしまったと感じていた。
あかねもそれを拒んではいない、と思っていた。
それが、昨日一日の「出来事」以来、乱馬はあかねの気持ちの所在を完全に見失っていた。
『だからあたしには関係ないって!あんなヤツ』
乱馬の脳裏に、昨日のあかねの“発言”の数々が甦っていく。
「あんなヤツで悪かったな!」
そう言いながら、上段蹴りを放つ乱馬。
『あたしって乱馬と居るの、つまんない』
「あ〜そうですか!こっちだってお断りだぜ!!」
流れるような動きで、そのまま裏拳に移行する。
『大好きだよ』
「へっ!勝手にしやがれ!!」
とどまることなく、次の攻撃態勢をつくりあげる。
『カッコ悪いわね』
「うるせぇうるせぇうるせぇうるせぇ!!!」
架空の敵に向かって火中天津甘栗拳。
『親同士が決めた許婚に過ぎないんだから!!』
「どちくしょぉ〜〜〜!!!!」
絶叫と共にファイナルラッシュ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
さすがの乱馬も、叫びながら攻撃動作をこなすのは体力を消耗するらしい。
乱馬は、乱れた呼吸を整えにかかった。
その時。

「男の嫉妬は見苦しいぞ」

突如聞こえてきた声に乱馬が振り返ってみると、道場の入り口に余裕綽々の表情の良牙が、腕を組んで壁に寄りかかって突っ立っていた。
その小面憎い顔を見た途端、ボルテージが急上昇していくのを感じた乱馬。
それでも、そのまま殴りかかるのはあまりにも見苦しい気がして、かろうじて踏みとどまった。
「なにが嫉妬だあ〜?」
「ふん。あかねさんが俺に大好きって言って、キスしてくれたのが悔しくてたまらないくせに、よく言うぜ」
ぴしっ。
乱馬の顔に怒りマークが浮かび上がる。
「はっ!豚の姿でペットとしてされたって惨めなだけだろ!」
ぴくっ。
乱馬の負け惜しみは、良牙のつぼを的確についたらしい。
薄ら笑いの上にくっきりと浮かび上がった青筋に、乱馬はそれを確信した。
ダメ押しとばかりに、とどめを刺しにかかる。
「あ〜あ、ホントに情けねえぜ。
 男としてみてもらってないのが確実になってても、いまだに二股続けるどっかの豚野郎は。
 おまけに豚の姿でキスされて、喜んでんだからな」
ごごごごご
良牙の体から、黒い闘気が迸(ほとばし)り始めた。
その瞳には、かすかに光るモノが浮かんでいる。
「ら〜ん〜ま〜」
怒り心頭まで、あと半歩といったところか。
「なんだよ?」
そんな良牙に、乱馬はこれ見よがしに頬を吊り上げた。
ぶち。
良牙の体から、何かが切れるような音が聞こえた。
乱馬は乱馬で、昨日の良牙(=Pちゃん)の言動に強烈な憤りを感じていた。
特にあかねとの仲を引き裂こうとした点に。
「やるってのか?」
「上等だ!」
「覚悟しやがれ!!」
「それはこっちの台詞だ!!」
こうして、深夜の乱闘がスタートした。



「隙ありっ!!」
一進一退の攻防の中、乱馬は良牙がさらした一瞬の隙を見逃さなかった。
隙のできた良牙の足元に、狙い過たず下段蹴りを放つ。
「くっ!」
かろうじてかわしたものの、バランスを崩した良牙は、道場の隅に置かれていたバケツに足をとられた。
「げっ!」
しかも、そのバケツになみなみと水が入っていたのだから、たまらない。
「ぶきっ!!」
つまずいた拍子にバケツを蹴倒してしまい、しこたまに水をかぶって豚に変身してしまった。
「へっ!ざまぁみやがれ!」
そう言って、変身して動揺した良牙、もといPちゃんを思いっきり踏みつける乱馬。
もともとこの男、勝つためには手段を選ばないところがあり、正々堂々といった武道家に必要な概念が若干欠如している。
ましてや今回は、良牙があかねと自分の仲を引き裂こうとしたと思っているため、良牙に対して強く屈折した感情を抱いていた。
そんなわけで、例え豚の姿になっていようとも、手加減することなど乱馬の頭に全くなかった。
「こんの豚ぁ!覚悟しやがれ!!」
首根っこを押さえつけたままそう言うなり、乱馬は思いっきり蹴りを入れようとした――

その瞬間、乱馬の後頭部に強烈な鈍痛がひびいた。
「!!」
突如襲った衝撃に耐え切れず、乱馬は後頭部を押さえてうずくまった。
朦朧としかかる頭に、聞き慣れた怒声が飛び込んでくる。
「Pちゃんに乱暴しないでっていつも言ってるでしょ!!」
発信源を見上げると、巨大ハンマーを握り締めたあかねが、憤怒の形相で仁王立ちしていた。
Pちゃん、もとい良牙をかばいにかかったあかねの行動に、乱馬は逆上した。
「てめえ!男の勝負を邪魔してんじゃねえ!!」
「なにが男の勝負よ!Pちゃんいじめてるだけじゃないっ!!」
いつの間にやらあかねの腕の中にちゃっかりおさまっていたPちゃんは、あかねの一言にかなり傷ついたらしい。
涙目でぷるぷる震えている。
その姿は、あかねにとっては、乱馬にいじめられて泣いているようにしか見えなかったらしい。
「ほら!可哀想に、こんなに震えてるじゃない!!」
そう言って、あかねはPちゃんをぎゅっと抱きしめた。
途端、Pちゃんの顔がほんのり赤くなったのを、乱馬は見逃さなかった。
そんなPちゃんの姿は、乱馬の目には、負けそうになって女の陰に隠れている無様な姿に映っていた。
それだけならば呆れるだけのことに過ぎないが、乱馬にとっての問題は、P助があかねの胸の・・・もとい腕の中にいて、しかも顔を赤らめているという事実だった。
「こんの豚ぁ〜!女の陰にコソコソ隠れやがって!汚えぞ!!」
怒りとヤキモチが交雑した乱馬の一言は、良牙のプライドをいたく傷つけたらしい。
あかねの腕を振り払って、豚の姿のまま、乱馬に向かって飛びかかってきた。
そして、やおら乱馬の二の腕に噛み付いた。
「上等だ!この豚っ!」
二の腕に走る痛みで頭に血をのぼらせた乱馬が、自分の腕からPちゃんをひっぺがし、そのまま地面に叩きつけようと腕を振りかぶった。
結果、がら空きになった乱馬の顔面に、今度はあかねの拳がめり込んだ。
「Pちゃんをいじめるな!!」
乱馬の顔に拳をめり込ませたまま、あかねの罵声が再びとぶ。
それでも、乱馬に懲りる気配は全くない。
「豚が先に手ぇだしてきたんじゃねえか!」
「あんたがいじめるからでしょうが!!」
「うるせえ!この凶暴女!!」
めしゃ。
「誰が凶暴女よ!!」
声より先に手が出ているあかね。
「どー考えても凶暴じゃねえか!」
「何よ!あんたが悪いんじゃない!!」
「俺のどこが悪いってんだよ!?」
「全部じゃない!!そもそもPちゃんにヤキモチ妬いてどうすんのよ!?馬っ鹿じゃない!!?」
「んだと!?誰がおめーみてーなかわいくねえ女にヤキモチ妬くかってんだよ!」
「なんですってぇ〜〜!?」
「『誰がおめーみてーなかわいくねえ女にヤキモチ妬くかってんだよ!』って言ったんだよ!!」
「いちいち言い直すな!!」
ばきい。
間髪いれずに、大上段から全力で振りかぶられたハンマーが乱馬の脳天に叩き込まれる。
あまりの衝撃に耐え切れず、乱馬は倒れこんだ。
次の瞬間。
昇天しかかった意識に、《声》が飛び込んできた。

《もぉ〜我慢できない!許婚解消してやるっ!!》

乱馬の中で、何かが切れた。
「上等だ!!そっちがそのつもりなら喜んで許婚解消してやるぜ!!!」
無意識のうちにそう叫んでいた。
(今何言った!?俺!!)
はっと我に返った途端、後悔の念が乱馬に襲いかかった。
あかねはというと、驚愕の表情を浮かべている。
「何だあ?今更謝ろうってのか??」
内心の思いとは裏腹に、口をついてでたのは、こんな言葉だった。
次のあかねの反応は目に見えていた。
「!冗談じゃないわよ!?あんたみたいなくされ外道と縁が切れて、こっちこそせいせいするわ!!」
もう、後には引けなかった。
(あかねが悪いんだぞ!)
乱馬の意志とは無関係に、口が勝手に暴言を吐き出していた。
「かわいくねえっ!その台詞そのまんまおめーに返してやる!この料理下手凶暴女!!」

バシッ!

2度目となる平手打ちだった。
「だいっ嫌い」
あかねは、足元でおろおろしていたPちゃんを抱きかかえると、そうはきすてて道場から走り去っていった。
乱馬は見てしまった。
その瞳から一筋の涙が零れ落ちていったのを・・・


「・・・・・・」
(どうしてこうなっちまうんだよ・・・)
一人道場に残された乱馬は、あかねに張られた頬を押さえたまま、呆然と立ち尽くしていた―――――


つづく




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