◇Blood Syndrome PART2
マルボロシガーさま作


家に戻っても乱馬とあかねは二人きりになった。
神経過敏に陥っている乱馬に無闇に刺激を与えないようにするためだ。
かと言って、一人にさせてはあかねを傷つけた罪の意識から、舌を噛み切ることだってあり得る。
だから、あかねの傷の手当てを乱馬にしてもらう、という名目を立てた。
ささいなことではあるが、今の乱馬にはこれ以上ないはっきりした生きるための目的だと思われた。
脱脂綿に消毒液をつけ、あかねの傷口に当てた。そこには、まだ乱馬の歯形が残っている。
「沁みるか?」
「平気よ・・・」
乱馬がうなだれて言った。
「あかねにこんなことしちまうなんて、俺、死んだほうがいいのかな・・・」
「な、なに言って・・・」
「お前に嫌われるくらいなら死んだほうがマシだ! もう終わりだ、最悪の人生だ! あかね、とどめを刺してくれよ。お前が『乱馬なんか大っ嫌い』と言ってくれたら思い残すことなく地獄への一本道を踏み出せるんだ」
あかねがぽろぽろと涙をこぼした。
自らの涙がますます乱馬を追い込むのだとわかっていたが、それでも泣かずにはいられなかった。
「・・・乱馬を、嫌いなわけ・・・ないじゃない・・・」
乱馬は嘲け笑って言った。
「嘘だね。お前はずーっと俺のことなんか屁とも思っちゃいなかった。俺に好意を持ったことなんて一度もなかったんだ。そりゃそうだよな、お前の悪口ばっかり言ってたんだから当たり前か。それに、何もしてないのに怪我させられちゃたまんねえよな。こんな奴が許婚なんて笑っちまうだろ?」
「落ち着いて、乱馬。あなたはいま、気が動転してるのよ。赤いものを見ちゃったから」
「赤いものを見たら気が動転する? じゃあこれは何だよ。現におれはあかねの血を見てるじゃねーか。これがお前には青色にでも見えるって言うのか? 俺はまともすぎるほどマトモだぜ」
乱馬が狂ったように早口でまくしたてる。
普段の彼を知る者でこれが正常だと言えるのは一人としていないだろう。
「違う。こんなの、乱馬じゃない・・・」
だが、彼女の頭の中にある乱馬も少しずつ姿を変えようとしていた。
事実、今では彼のことを考えるたびに悲しみに打ちひしがれた。乱馬への愛しい想いが恐怖に押され出したのだ。
そして、乱馬をこうさせた責任の一端、あるいはその全てを自分が背負っているのだと考えるとそら恐ろしい思いがした。

「失礼します」
乱馬の主治医である東風がなびきに連れられてやってきた。
もっとも、当人としては自分が医者にかかっているという意識などさらさらないのだが。
「あかねちゃん、無事だった?」
「ええ・・・。たいしたことないです」
それを聞くと、東風は今回の件の加害者へと目を向けた。
乱馬はこの訪問者に対し、明らかにいらいらした態度を示していた。
まさに独占欲の塊となり、誰だろうとあかねに触れようものならただではおかない、といった様子である。
「乱馬君、何を黙ってるんだい?」
その気持ちを東風が巧みにすかした。
「なんだよ」
「まだあかねちゃんの手当てが終わってないじゃないか。君の役目だろう?」
乱馬が舌を鳴らした。
「けっ、今からやろうと思ってたとこだよ」
そして、あかねの腕に慣れた手つきで包帯を巻いた。
「ありがと」
恐る恐るそう言ったあかねの言葉を乱馬は黙殺した。

「それでは、本題に入るけど――」
東風が言うと、あかねが肩を震わせた。
「まず、乱馬君はこの症状を自覚していなかったわけだね?」
「なんだよ、症状ってのは」
「よく、何らかの形で心にショックを受けた際にそれが心的外傷、いわゆるトラウマになってしまう。そして、そのショックを与えた対象――物・音・匂いなどに対して過剰な反応を示すことがあるんだ。君の場合は赤い色に対してだね」
「つまり、俺が病人だって言いたいのか?」
「君が病人だということを否定はしない。だが、病気は治るものだ。あくまでも憂うべきものはそれであって、君自身の性質には何の問題もない」
納得しない顔つきで乱馬は聞いていた。彼にとってはとにかく患者扱いされることが気に食わないのだ。
「それから、あかねちゃん」
「は、はい」
「どうしてこのことを乱馬君に伝えなかったの?」
「それは・・・」
言葉に詰まったあかねだが、今さらじたばたしてもしょうがないと思い、全て正直に話すことにした。
「乱馬を混乱させたくなかったからです。それに、その間に東風先生が治してくれると思ってましたから」
東風が一つ頭をかいた。
「うーん、僕を信頼してくれるのはありがたいんだけど、ちゃんと言わなきゃダメだよ。恐がらず、事前に乱馬君にきちんと説明しておけば防げたはずだから」
「すいません・・・」
不意に、乱馬が医者へ殴りかかった。
「てめえ! あかねが俺のためを思ってくれてたんだぞ! それに文句つけるたあいい根性じゃねえか!」
「やめなさいよ! あたしが悪かったんだから!」
二人がかりでどうにか乱馬の暴走を食い止める。その代償として東風の眼鏡が割れた。
「大丈夫ですか?」
「ふう、どうにかね。でも、下手に殻に閉じこもるよりもこのほうが元気があっていいよ。それにあかねちゃんは、自分が悪い、なんて気にする必要はないんだからね」
すると、興奮した乱馬が言い放った。
「てめーらみんなクソッタレだ! 偽善者ぶりやがって。俺さえいなきゃいいんだろ? それならそうとはっきり言えばいいじゃねえか!」
「偽善者でもなんでもかまわないけど、私は一度もそんなことを考えたことはないわ」
あかねが乱馬の目を覗き込むと、乱馬が頭を抱えてうめき出した。
「うわあああ!」
「ら、乱馬?」
「死にたくない、死にたくない、死にたくなんか・・・」
乱馬は念仏を唱えるようにぶつぶつと繰り返した。
「あかねと離れ離れになるなんてまっぴらだ!」
尋常でない状況であることはわかっていながらも、その言葉はあかねの胸に響いた。だからこそ、必死に平静を保とうとした。
しかし、乱馬は続けた。
「そうか! 俺はお前と心中すればいいんだよ。そしたらずっといっしょだ! 今は許婚でもあの世で結ばれるんだ。そこで子どもを作って俺たちの子孫が残るんだ! ははは、そうだ、そうだよ!」
「いやよ・・・。私は乱馬といっしょに生きたい」
「うるせえ! お前は俺の言うとおりにすればいいんだ!」
そう言ったあと、乱馬の目はゆっくりと閉じられた。
東風の指がツボを突き、乱馬を快楽に導いていた。

「ごめんね、乱馬君。今は眠っててもらうから」
東風の指示を待たずして、あかねがふとんを敷き乱馬を寝かせた。
人が変わったように穏やかな寝顔だった。
(ううん、これがいつもの乱馬だよね。私の大好きな・・・)
場が落ち着くと、再び東風があかねに問いかけた。
「乱馬君がこうなった原因になにか思い当たることはないかな?」
「・・・」
「僕としては、彼くらい芯の強い子が精神的に追い込まれるなんてよほどのことがあったんじゃないかと思うんだけどな」
それきり、長い間重い沈黙が続いた。東風も答えを強要することはない。
時計の針の音が十回、百回と数を重ねていった。
「あの・・・」
あかねがおもむろに口を開いた。
「なんだい?」
「ほ、本当に全部あたしのせいなんです! ごめんなさい!」
あかねは泣き伏せた。
「・・・どういうことか説明してもらえるかい? 落ち着いてからでいいから」
東風が喋っている間にも、あかねは何度も何度も涙を拭い、鼻をひきつらせた。
そして、あかねが途切れ途切れに小さな声で話の顛末を語り出した。

その要約はこうだ。
ある晩、家路についていたあかねが男に襲われかけた。
死に物狂いで抵抗するが、敵もなかなかしぶとい。
体力差から押されはじめ、とうとう体を押さえ込まれたと同時に、その重みから解放された。
乱馬だった。
彼は、バーミリオンのダウンジャケットを着たその男をひたすら殴り続けた。
あかねが止めに入るとようやく乱馬は我を取り戻した。
だが、そのとき乱馬から差し出せれた手を、あかねは拒んでしまった。
血で真っ赤に染まった拳への恐怖と、武道家として弱みを見せてしまった悔しさからだった。
いたたまれなくなったあかねは乱馬から逃げるように走り去った。
次の日の朝、あかねはどきどきしながら乱馬と顔を合わせた。
乱馬は、あかねを咎めることはせず、むしろ傷ついた彼女の心を気遣うように努めた。
嬉しかった。出来ることなら今すぐ彼の逞しいその腕とその胸に抱きしめられたいとあかねは思った。
その乱馬が、豹変した。
事の始まりは乱馬が着替えようとしたときだった。
お気に入りの赤いチャイナ服を目にしたとたん、乱馬は猛然と動かざる敵に襲い掛かった。
手で破り、歯で引き裂き、衣服の跡形もなくずたずたにしてしまった。
その騒ぎに駆けつけたあかねに向かって、殺戮のあとの満足げな殺し屋と化した乱馬が言った。
「お前、俺が嫌いなんだろ?」
その後の朝食で、乱馬は食卓に出されたトマトを一つ残らず壁に叩きつけ、潰した。
不気味な笑みを浮かべる乱馬。唖然とする一同、とりわけ悲しそうなかすみをよそに、あかねは全てを悟った。
あの男の朱い服、そして己の心の歪みだと。
それからは、極力赤い色を家から取り払い、なにかと理由をつけては乱馬を外に出さないようにしたというわけだ。

「なるほど・・・」
そう呟いた東風も、涙ながらに告白するあかねに掛ける言葉が見つからないのか、しばらく黙り込んだ。
その間にあらゆることを考え抜いたあげく、東風が言った。
「今は様子を見るしかないね。策を講じたとしてもこの状態じゃかえって危険だ」
「はい・・・」
「起きたときには正気に戻っているだろう。あかねちゃん、僕から君に言っておくことはただ一つ、乱馬君を不安にさせないことだ。できる限り彼のそばにいてあげてほしい」
こわばった顔をしているあかねを励ますように、東風は明るく続けた。
「なあに、特別なにかをしろというわけじゃないんだよ。君たちは許婚だしいっしょにいるのが当たり前なんだから、ね?」
あかねは頷いた。
「そうすればきっと少しずつ治っていくよ。もちろん僕もお手伝いするから」
事態を楽観視することは医者としてあってはならないことである。東風も本心で言ったわけではない。だが、今はあかねを元気づけるほうが先決だった。
「わかりました」
「うん、いい答えだ。それじゃ、僕はお暇するとしよう。なにかあったらいつでも連絡してね」
そう言うと東風は部屋を後にした。

乱馬はすーすーと静かに寝息を立てている。
「そばにいてあげなくちゃ・・・ね・・・」
あかねは乱馬のふとんの横にちょこんと座った。
震える手で乱馬の髪に触れる。そのままおでこ、まぶた、耳、鼻へ滑らせた。
その指が唇に達したとき、ゆっくりとその部分が開いた。
「あか・・・ね・・・」
あかねがさっと手を離した。飛び出しそうな心臓をなんとか静める。

「きらいに・・・なら・・・ない・・・で、くれ・・・」

お腹の底から熱いものが目頭に駆け上がってくるのをあかねは感じた。
乱馬に対する罪の重さと、愛。それが全てだった。
顔を濡らしたあかねが乱馬に顔を寄せ、その頬に口づけをした。
そのとき、乱馬の肌が自らと同じくらい温かいのをあかねは知った。 



  to be continued・・・




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