◆春霞
桜月さま作


 寒桜が風にそよそよと揺れた。ごく淡い桜色の寒桜。ふうわりと微かに甘い香を届けてくれるそれを見て少女は言ったのだ。きらきらと黒曜に輝く瞳で。
 「綺麗だね。」と
 乱馬は綺麗だと思った。ドキドキしながら綺麗だと思ったのだ。

 「たぁっ!」
 まだ、春とは名ばかりの肌寒い季節の夜。
 薄暗い天道道場にあかねの裂帛の気合が響いた。あかねのしなやかな体に纏った白い道着が舞い、格闘基本形の構えを取るたびにきらきらと飛び散る汗は、彼女の精悍さを際立たせる。
 道場の格子戸から差し込む幾筋もの月明かりと、蝋燭の明かりのみで行う天道流型稽古。
 あかねはこのほの明かりの中で行う型稽古が小さい頃から好きであった。
 どんなに落ち込むことがあってもこの稽古をすれば自然に心が静まり、平常心を保てるからだ。そして、自分自身を見つめ直し、鍛えることができる。
 だから、今も2時間ばかり夢中になってやっている。強くなりたいと願いながら。
 道場の戸の影に気配を絶ってひっそりと見つめているおさげの少年にも気付かずに…

 事の起こりは放課後だった。

 授業の終了チャイムが鳴り響くと共に、一斉に教室はざわざわとし始めた。女子生徒の歓声が響いたり、興奮した調子で男子生徒が話し合いながら相手を小突きあったり。
 3月14日のホワイトデーということもあって、誰もがどこか浮かれて、そわそわしているのだ。
 好きな女子にプレゼントを渡す男子生徒、お目当ての女子を教室の外へ呼び出す者、義理のキャンディーを配りまくる者、人それぞれ。
 そんな中で、天道あかねは朝からたくさんのプレゼントを貰っていた。クッキーやキャンディー、ぬいぐるみ、中には女の子の形をした藁人形など。
 挙句の果てには、「天道あかね!僕の熱い抱擁を受け取ってくれ」という懲りない九能まで。
 もちろん、これは「誰が受け取るか――!」というあかねの怒声付スペシャルパンチと共に却下されたことは言うまでも無い。
 乱馬はそんなあかねを傍らで見て、改めて彼女の人気に複雑な思いを抱いていた。
(ったくよ…可愛いからな。しょうがねぇけど…)
 そう。分かっているけど、自分以外の男子が近づくのは気に食わない。ムカムカする。要はヤキモチである。
 だから、今も机の上に頬をのせて手足をぐてっと伸ばしたりなんぞして、ふて腐れているのだ。
 「お前、大変だな。乱馬。あかねすごい人気だぞ」
 乱馬の胸中を見透かしたように悪友の大介が声をかけた。
 「油断すると、取られちまうな…」
 これまた、もう一人の悪友ひろしが脅すように言う。
 「ばっ馬鹿いってんじゃねぇ。」
 (そんなこと言われなくてもわかってらぁ。だから朝からプレゼント渡し損ねて焦ってんじゃねぇか)
 少しどもりながら不機嫌な顔で乱馬が抗戦した。
 本人は気にしてないふりをしているのだろうが、傍目からみて動揺しているのが一目瞭然。内心、穏やかでないのがバレバレである。
 そんな乱馬を尻目に悪友の大介とひろしが追い討ちをかけた。この二人、あかねのことでムキになる乱馬をからかうのが半分趣味と化している。
 「でもよ、女ってプレゼントに弱いらしいな。雑誌に書いてあったぜ。」
 (げっ。ほっほんとか…)
 「あぁ。俺もそれ読んだぜ。気に入ったプレゼント貰うと心が揺らぐってやつだろ」
 (うっ嘘だろ…冗談じゃねぇぞ…)
 「あれ本当らしいぜ。アンケート調査の結果だもんな…」
 二人は重々しく頷き合う。
 「どうするよ。乱馬。お前、その様子だとあかねにまだ渡してねぇだろ。お返し」
 興味深々といった感じで二人が乱馬の顔を覗き込む。結局のところ、乱馬があかねにプレゼントを渡すのか知りたいのだ。
 「あーうるせぇ!俺にはあかねが誰から貰おうと関係ねぇ。勝手にすりゃいいだろ」
 バンと机を両手で叩くとこの話は打ち切りだとばかりに乱馬は立ちあがった。一瞬、その勢いに皆が黙る。元来この少年は気が短い。
 しかも、今は朝の登校時にプレゼントを渡そうと思っていたのに、他の連中があかねを待ち伏せしていてプレゼントを渡し損ねたことが彼のイライラに拍車をかけている。
 「おい。あかね。帰ろうぜ。」
 ぶすっとした表情で乱馬が隣のあかねの席を振り返った。が、そこにはもう彼女の姿はなかった。
 (あれ?)
 教室を見まわして見るがやっぱり見あたらない。
 「あかねなら、先に帰ったわよ」
 ゆかがあかねを探すそぶりを見せた乱馬にそっけなく言った。
 「え゛?」
 「あかね。怒ったんじゃない?乱馬君。「関係ねぇって」大きな声で言ってたから。」
 あかねのもう一人の親友、さゆりが少し乱馬を非難するように会話に加わった。遠まわしにもう少し気を使えと彼女達は言っているのだ。
 「それに、他の女の子に義理とはいえキャンディーあげて抱きつかれていたし」
 ビクッ
 動揺する乱馬にゆかがさらに追い討ちをかける。
 彼女が言うように、先ほど乱馬は教室まで押しかけてきた右京とシャンプーに、強制的に約束させられていたキャンディーを渡したのだ。ヤキモチを妬いていたので半分ヤケになりながら…
 (なっなんだよ。あかねのやつ…やっぱ…抱きつかれたこと怒ったのか?)
 ばつが悪くなって乱馬は教室を早々に後にした。あかねが怒ったと聞いて慌てたこともあるが、心の片隅に引っかかるものがある。
 (いつものあかねなら俺を殴るはずだよな…)
 乱馬はあかねを追うために足を速めた。

 一方、あかねはいつもの帰り道、川辺をとぼとぼと一人重い足取りで歩いていた。
 「寒い。」
 時折、吹きつける冷たい風があかねの頬を突き刺し、彼女は体をふるっと震わせた。
 手袋で頬を覆ってみるがあまり効き目はない。
 いつも隣にいるはずの少年がいないだけで寒さが違うことをあかねは身をもって感じていた。
 何気ない日常の話題でも本当はどきどきしながら話す自分。その時の身体の温かさ。感覚。そして乱馬がいるだけで伝わってくる安堵感。すべてが違う。
 (あの時いつものように喧嘩すればよかったのかな)
 はぁと思わず、あかねの口から深い溜息が突いて出た。
 乱馬が右京達にキャンディーを渡すのを見た時、あかねはいつものようにヤキモチを妬いて、腹を立てた。
 「なによ!バレンタインデーのチョコは貰わなかったって言ってたくせに」
と本当は叫びたかったのだ。しかし、なにか人前で自分が乱馬を好きと公言するようで、思い留まった。
 勝気なあかねにとっては、自分から素直に「好き」を現すのは負けを認める様でちょっぴり悔しいと言う気持ちもあったから。
 その代わりに、帰り道でとっちめてやるんだから…なんて思っていたのだ。
 けれど、教室で乱馬が「関係ねぇ」と悪態をついた時、彼女は帰ろうという言葉を乱馬にかけそこなった。いや、かけることができなくなってしまった。
 そしていつもの彼女なら怒って乱馬を張り倒すくらいのことをしてのけるのだが、それもできなかった。代わりに浮かんできたのは『許婚だから』の言葉。
 だから、そのまま逃げるようにして教室を後にした。

 (許婚か…乱馬は私のことどう思っているんだろう。)
 今までに何度、自問自答したであろう疑問があかねの胸に去来する。
 許嫁として乱馬と出会ってから、言いようも無いほど乱馬に惹かれていく自分。
 いつも側にいて困っている時には必ず手を差し伸べてくれる乱馬。
 乱馬も自分を大切にしてくれているとは薄々あかねも感じるのだが、言葉で言われたわけではない。好きな人にはっきりと言葉で気持ちを聞きたい…というのが乙女心だろう。
 ましてや、親同士が決めた「許婚」と言う言葉がいつもついて廻るのならなおさらだ。
 今日だってそうだ。
 「あかねはいいなぁ。許婚の乱馬君からもうお返し貰ったんでしょ?」
 と当然のように周りから言われたりするのだ。
 『許婚だから』
 いっそ、普通の関係で出会っていたらと何度思ったことか。
 けれど普通の出会いだったら乱馬は今のように側にいてくれた?
 堂々巡りの疑問が次から次へとあかねの頭に沸いては消える。恋に不安は付き物。あかねとて例外では無い。


 「乱馬の馬鹿。」
 そっと口癖になってしまった言葉を呟いてみる。
 (乱馬がハッキリしくれたらこんなに不安にならないのに…)
 「誰が馬鹿でぃ」
 突然声がした。
 横を見ると膨れっ面をした見なれた少年の顔がのぞきこんでいる。走ってきたのだろう。少年の顔はほんのりと上気していた。
 「乱馬…」
 「なに怒ってんだよ。可愛くねぇな。」
 「どうせ右京やシャンプー達みたいに可愛くないわよ!なによ。デレデレしちゃって」
 あかねは顔をフイッと背けて言い返した。勝気な彼女ならいつもだったら睨み付けて言い返すところだが、今日は乱馬の顔をまともに見ることができない。
 あかねの脳裏に嬉しそうに乱馬からキャンディーを受け取っていた二人の顔がチラついた。
 (可愛くない。そんなのわかっている。)
 わかっていてもどうしようもないのだ。
 「あんだとっ!誰がデレデレした!お前こそ、ニコニコしてたくさん受けとっていたじゃねぇか。そんなにキャンディーやクッキー食べると太るぞ。只でさえ寸胴なんだからな。」
 売り言葉に買い言葉だった。しかし、いつもの乱馬の悪態にあかねは過敏に反応した。
 普通だったら口の悪い乱馬の悪態と受け流すこともできるのだが、今日はナーバスな分余裕がない。
 「乱馬は私が誰から貰おうと関係ないんでしょ!だったらほっといてよ」
 (自分だけを見ていて欲しいくせに…嘘吐き)
 自分の口から突いて出てくる本心とは裏腹な言葉。悲しい嘘があかねの心に虚しく響き、彼女自身を突き刺しては傷つける。
 本当は右京やシャンプー達のように乱馬に甘えてみたいのだ。素直に自分の気持ちを伝えたいのだ…けれどできない。
 『許嫁』と言う言葉が立ち塞がってしまう。素直になりたいのに意固地になってしまう天邪鬼な自分。どうしようもないやるせなさが容赦無くあかねを襲う。
 「なんだよっそんなくだらねぇこと気にしてたのか。」
 乱馬は半ば呆れたように言った。だがそれが、火に油を注くことになってしまった。
 「なによっくだらない事って!」
 「関係ねぇわけないって言ってんだ。!あかねは俺の許嫁だろっっ」
 ムキになって叫ぶ乱馬にあかねはうつろに言った。
 「許嫁…。許嫁だから?親の決めた許嫁だから?」
 虚しくあかねの頭に『許嫁』の言葉が響く。
 パシッ
 乱馬の顔にあかねの平手が叩きつけられた。
 勢いで乱馬のおさげが揺れ、二人の間に一瞬の静寂が駆け抜ける。
 「乱馬になんか…私の気持ちわかんない…馬鹿っ」
 俯きながら涙声で言うあかねの肩が小刻みに震た。儚げな様子の彼女の顔を抑えた両手の狭間から涙が零れ落ちる。
 「おっおいっ」
 慌てた乱馬が声をかけようとした刹那、あかねは走り去った。
 後にはただ呆然と立ち尽くすおさげの少年が一人。走り去る少女の後姿を悲しげに見つめる。
 「わかんねぇよ……」
 乱馬は小さくなって行く後姿に向かって呟いた。
 「痛てぇ…な…」
 乱馬は痛みを確かめるように頬に手をやる。けれど、痛いのは頬でない。胸が締めつけられるように痛いのだ。
 頬を殴られたことよりも、何よりも不安に打ち震えていたあかねの肩を抱きしめてやることすらできない自分の胸が…せつなくて痛い。
 乱馬は痛みを堪えるために手をギュッと握り締めた。きつく、きつく握り締めて思った。
 いつまでも子供のままではいられない…そう思った。

 「弱虫…」
 あかねはぽつりと呟き、その言葉を打ち砕くかのように鋭い右拳をシュッと前に繰り出した。
 小さい頃から天道流の技を父早雲に叩き込まれて来た自分。道場の跡取娘として当然のことと受け入れて来た。そのために厳しい修行にも耐えて、大会でもそれなりの結果を残した。自分よりも年上の体格のいい少年を投げ飛ばしたりもして周りからは強いと評判になった。
 だから、今まで自分は強いと思っていた。強いと思い込んでいたのだ。

 「あかね。強さと弱さは表裏一体なんだよ。」
 それはセピア色に包まれた記憶。
 母親を亡くした時。毎日寂しがって泣きじゃくっていた幼いあかねに早雲が言ったことがある。
 「ひっひょう・・り・・いっ・たい?」
 「あかねにはまだこの言葉は難しい…な。強さも弱さも一緒ってこと…だ。だから、今は泣いていても、いつかは強くなって笑えるようになる。あかねも。」

言われた時はあかねには幼すぎて言葉の意味もわからなかったが、今やっと理解した気がした。

 右京やシャンプーに抱いた嫉妬心。
 許婚だからいつも側にいてくれるんじゃないかという不安。猜疑心。
 私だけを見ていて欲しい…という『独占欲』という名の我侭。
 どれも自分が乱馬を好きになればなるほど大きくなって…心が揺れた。
 弱い自分を受け入れられずに自分自身から目を逸らして逃げた。
 だから乱馬をまともに見ることができなかったのだ。
 早雲の言った言葉を理解した今ならわかる。
 人を好きになれば強くも弱くもなるのだ…人間は。そして、弱い自分を受け入れることが出来た時、初めてしなやかな真の強さが生まれる。
 「お前の母さんは病気がちで体は弱かったが、優しくてそれでいてすごく強かったんだぞ…あかねもお母さんのように育つといいな。」
 自分を優しい目で諭した早雲の言葉が鮮やかに蘇る。

 「たぁ!」
 激しい気合を発し、最後の型を取り終えるとあかねはゆっくりと息を吐いて荒い息を整えた。
 徐々に体の力が抜け心も静まって行く。流した汗がひんやりと心地よい。

(乱馬に謝ろう。謝って、乱馬と向き合いたい。許嫁としてでなく、一人の普通の女の子として見てもらえるように…)
 今なら素直になれる…あかねはそう思った。

 「相手してくれねぇか」
 突然聴きなれた声が道場に響いた。
 あかねが振返ると、そこにはおさげの少年が戸口に持たれかかり、腕組みをして見ていた。少々その形の良い眉をしかめながら。
 「乱馬…」(やっぱり、怒っているよね…)
 「手加減なしだからな…いくぜ」
 いつになく眼光の鋭い乱馬を見てあかねは緊張した。格闘家のそれ。いつものように、優しさを秘めた瞳は感じられない。
(乱馬本気だ)
 あかねは覚悟を決めて構えを取った。それを合図に乱馬があかねにしかける。
 次々と繰り出される鋭い拳。風を切る音と共に寸でのところであかねは躱わしていく。天道流と早乙女流の対稽古。元の流派は一緒だから基本型の構えは同じ。けれど、どちらも格闘流派なので破壊力が凄い。それこそ、拳をまともに食らったらただでは済まない。
 だからこそ、対稽古はお互いを信頼し合わなければできないのだ。相手の一挙一動を読み、相手の立場に立って行動しなければ紙一重で拳を躱わすことはできない。
 「「たぁ!」」
 二人の気合が重なる。と同時に最後の型に向けてあかねは乱馬の足払いの型を受ける構えを取った。蹴り出される乱馬の足を受けようとした刹那、
ズルッ
(しまった!足が)
 思った瞬間には見事乱馬の足払いを受け、あかねは空中に舞い上がっていた。長時間稽古をやっていたせいか、足が汗で滑ってしまったのだ。充分な体制で受身を取れなかった
分、乱馬の技の衝撃をまともに食らってしまった。
(叩きつけられる!)
 道場の床が眼前に迫ってあかねは覚悟を決めた。わずに体制を立て直して受身を取ろうと試みるが間に合わない。体を固くして目を閉じる。
 トスン
 衝撃はあかねを襲わなかった。軽い音と共に体が柔らかい感触に包まれている。
 そっとあかねが目を開けるといつもの乱馬の優しい瞳と出会った。すべてを包み込んでくれるあかねが大好きな暖かい瞳だ。
…???…
 よくよく見るとあかねは乱馬の腕にすっぽりと横抱きにされて納まっていた。
 「らっ乱馬。/////」
 (ちょっちょっと…)
 かぁと一気に顔が熱くなる。じたばたするが身動きが取れない。乱馬がしっかりとあかねの身動きを封じているのだ。
 「ヤキモチ妬きの弱虫」
 ぽそりと乱馬はあかねの耳元で囁いた。ちょっぴり意地悪な響きのあるそれは、すべてお見通しと言ったニュアンスがある。
 (乱馬わかってくれてる…)
 その一言であかねは、乱馬が不安に駆られた自分を感じとったからこそ、対稽古をしたのだろうと察した。
 不器用な少年なりの「信頼している」の言葉。
 (あかねももっと俺を信じろ)そんな言葉があかねには聞こえたような気がした。
 「意地悪…/////」
 あかねは呟き、居たたまれなくなって顔を赤くしながら俯いた。
 どう考えても勝ち目は無い。ちょっぴり悔しいけど核心を突かれているのだから。
 「まぁ俺もお前のこと言えねぇけどな…////」
 (えっ?それって乱馬も妬いていたってこと?)
 乱馬はあかねを抱きかかえたまま道場の縁側まで歩くと、そっとあかねを下ろし自分も隣に腰掛けた。
 そしてごそごそとポケットから何かを取り出す。
 あかねの前に取り出されたもの。それはちょっと包みがくしゃっとしてしまっていたが、可愛いピンク色のリボンが掛かっていた。ホワイトデーのプレゼントらしい。
 「ほっほら…今の稽古でちょっとくしゃくしゃになっちまったけどな…」
 乱馬は顔を紅に染めていい訳をしながらあかねに手渡した。
 (嘘つき…)
 ずっとポケットに入れていたのだろう。この恥ずかしがり屋の少年は。でなければ、朝からポケットに手を突っ込んでそわそわするわけないのだ。
 不安に陥って見えなかったものが薄いベールが取り払われるようにあかねに見え始めた。
 「ごめん…乱馬……」
 そっと乱馬の頬を触ってみる。あかねに打たれた所は少し熱をもって腫れているようだった。なにしろ、力いっぱい引っ叩いてしまったのだ。
 しかし、それも乱馬の顔がみるみる耳まで爆発しそうなほど赤くなったことで分からな
くなってしまったが…
 「そっそんなことより、開けてみろよ。それ」
 乱馬はぎしっと筋肉を強張らせてあかねが手にしている包みを指差した。
 「うん…」」
 そっとリボンを解いて取り出してみる。
 「綺麗…」
 あかねは思わずほうと溜息をつくように呟いた。
 あかねの手の中で淡く輝くもの。それは淡い桜色の髪飾りだった。桜の花びらを模(かたど)ってある。
 (この間、庭先で乱馬と一緒に見た朝露に濡れた寒桜みたい…)
 それはほんの咲き始めだったが、これから来る春を精一杯知らせるように、朝露をきらきらと輝かせて咲いていたのだ。
 そして、寒桜は今、そよ風に揺れながら二人の目の前で満開に咲き誇っている。
 あかねはその時、自分の好きな寒桜が咲いたのが嬉しくて、乱馬に「綺麗だね」と何度も言ってしまったこと思い出した。まるで、子供のようにはしゃいでいた自分は今思い出
すだけでも恥ずかしい。
 (乱馬憶えていてくれたんだ…)
 じわりとあかねの瞳に涙が込み上げる。
 日常の些細な出来事の中で、二人一緒に過ごした瞬間(とき)を愛しい人が大切に心に刻んでいてくれた幸せ。その優しさ。
 乱馬の暖かさがあかねの胸に染み入る。
 乱馬はこんなに優しく包んでくれるのに。何を不安がる必要があるんだろう。
 出会いが許嫁としてであっても、関係無いのだ。
 出会ってから乱馬と少しずつ育んできた絆が確かにあるのだから。
 何よりも大切なのは乱馬を好きという気持ちなのだ。
 我慢していた涙がぽろりとあかねの瞳から零れ落ちた。想いが涙となってきらきら光っては止めど無く零れ落ちる。
 「ばっ馬鹿。泣くな。ったく泣き虫だな。一日に何回泣く気だよ」
 涙を溢れさせたあかねを見て慌てながら乱馬は言った。どうして良いのか分からず、手をさ迷わせる。彼はあかねの涙にはめっぽう弱い。
 「だって…嬉しいんだもん…」
 「あ゛――ったく。ほら」
 乱馬はあかねの手から髪飾りを取ると彼女の柔らかな黒髪につけてやった。
 淡い桜色の髪飾りが月明かりにきらきらと反射しあかねの黒髪に映える。

 (綺麗だな…)
 あの時、寒桜を一緒に見た時と同じだと乱馬は思った。
 桜色の柔らかな頬と花の蕾のような唇。思わず見とれて乱馬は言ってしまったのだ。
 綺麗だと…

 「乱馬…似合う?…」
 あかねの声で乱馬はハッと我に返った。
 「あったりめぇだ。俺があかねのために選んだんだ。似合わないわけねぇだろ」
 顔を赤くしてそっぽを向いて言う許婚にあかねは小さく頷く。
 「うん…ありがとう乱馬…」
 そう言ってあかねは少年の肩に寄り添いながら、瞳を閉じて囁いた。
 「乱馬…もう少しだけこのままでいてくれる?桜が綺麗だから。」
 (このまま…少しだけ甘えさせて…)
 返事の代わりにあかねの黒髪が、ぎこちない手つきで優しくそっと撫でられる。
 あかねは、それに心を満たされて瞳を閉じたままふわりと微笑んだ。
 (大好き…乱馬…)

 そよそよと夜風が満開の寒桜を揺らし、花びらがはらりと風に舞う。
 桜は少年に言った。
 「ねえ。綺麗でしょ。今度は私のこと目に入った?」
 少年は呟いた。
 「ああ。綺麗だ…」
 少年の言葉に桜は苦笑するかのように甘い香を漂わせた。
 桜は知っている。
 少年の瞳には傍らの少女の柔らかい微笑みしか映らないことを…
 なにしろ恋は盲目なのだ。いつの時代も。
 
 春の夜は、ゆっくりと優しく更けて行く。
 甘く…切なく…暖かく…
 寄り添う二人を包み込みながら。


作者さまより
 好きだからこそ揺れる心と少しづつ成長して行く二人を書きたかったんですが見事に自爆してしまいました。m(_)m(結局、痴話喧嘩の話だったりします)
 あかねはもんもんと落ち込んでいるし、乱馬は引っ叩かれちゃうし。悲惨すぎる…
 ちなみに「春霞」は言葉通り春に立つ霞のことですが、立ちこめる霞のように好きな相手の気持ちがわからなくなるという意味をこめて題名にしたんですが…どうしようもない駄文です。すみません。


 素直になれない許婚たちの心の葛藤が見事に描き出されていると思います。
 道場で対峙する二人のギリギリの攻防戦。
 すごく好きなシチュエーションの一つなので、読んでいて一人ほくそえんでしまいました。
 ・・・なんて、乱馬くんが優しいんだろう・・・
 不器用な二人の心がこっちにも流れてくるようで・・・。
 ゆったりとした流れの中で成長してゆく二人もまた素敵です。
 春はやっぱり、恋の季節なのでしょうか?
(一之瀬けいこ)

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