◇月と桜
   君への一言(乱馬視点)
桜月さま作


 薄紙を通したような柔らかな月光が、先ほどまで隠れていた雲の間から揺らめいて薄闇の中桜の花を淡く照らし出した。
 人里離れた山奥に1本だけひっそりと佇む樹齢百年は下らないであろう桜の古木。そのごつごつと節くれだった太い幹は年月を経てきた威厳に満ち、自然の凛とした強さを伺わせる。が、それとは対照的に身に纏う極薄いピンク色の花弁は平地の桜と違ってどこか清楚で可憐な感じを見る者に与えた。生命の持つ剛と柔の輝き。一瞬の刹那的なまでの美しさ。
 古来から中国でも武人は桜を愛でながらその下で鍛錬したり、剣舞を舞うことを好んだと言われるが、その桜の元で鍛錬する少年も例外ではなかった。
 (あいつにも見せてやりてえな…今度来る時は…)
 夜風に舞い降りる花びらの元で稽古をしていた乱馬はふと手を休めて桜を見上げた。
 可憐な花びらは揺らめく月明かりにほの白く反射してはふわりと舞い降りる。それはどこか幻想的で儚げですらあり…いやでも少年の心の片隅の少女を思い出させた。
 山篭りすると言った時、「私も一緒に鍛錬しようかな…」と寂しげに笑って言ったあかね。周りにいた連中の冷かしで旅立つ時はろくに言葉も掛けずに出てきてしまっていた。胸に疼きが残っているのはそのせいかもしれない。
 「こんなんだからあのスチャラカ親父に『詰めが甘い』なんて言われちまうんだな…」
 乱馬は一人ぼやきながらまぶたに浮かんだあかねの顔を振りきるようにまた稽古を再開した。一枚一枚の花弁を見極めるように次々と拳を繰り出していく。降りしきる花びらの手前で鋭い指先は微かな音を立てて正確に止まる。薄い可憐な花びら。それに触れてしまえば儚く砕け散るだろう。そんな無粋なことをする気はさらさらなかった。正確な間合いとスピードを見極めまるで桜の下で剣舞を舞うかのごとく乱馬はそのしなやかな筋肉のばねを生かして稽古を続けていく。
 「破―――っ!」
 最後に彼は裂帛の気合を発した。同時に薄闇に闘気を打ち放つ。地に散り積もっていた桜の花びらが乱馬の闘気に呼応するかのようにざぁっと見事に螺旋状に舞い上がった。
 春休みもあと3日か…
 乱馬は逆巻く花びらを見つめながらぼんやりと考えた。明日は下山予定日。今回はいつものようにギリギリまで修行はしないつもりだった。あかねに「せっかく2年に進級できたのに落第しちゃうわよ」と言われたからではないが、なにしろ春休みの宿題もまだ手付かずのままだし、1日くらいはあかねと過ごしたいというのが本音だった。
 帰ったら宿題を手伝ってくれと頼み込んだ乱馬におもいっきり眉を寄せてしかめっ面したあかねの顔を思い出して乱馬はクスリと笑った。
 帰ったらなんて声かけよう。出てくる時そっけなかった分優しい言葉の一つも掛けてやらねえと機嫌損ねるな…
「元気だったか?」がいいか…でもそれって、まるで俺があかねのことずっと気にしてたみたいに聞こえちまうな。
「よおっ!久しぶりだな。心配したか?・…」にするか。う〜ん。素直じゃないあかねはきっと「するわけないじゃない」と言うのは目に見えてるな…これは喧嘩への突入文句だ。ダメだ。なんか考えると以外に難しいもんだな…
 やっぱここは無難に「ただいま…」にするか。でも、あかねだけにただいまなんて言うのなんか…結婚してるみてえだな…
 「でえ――――っ!俺ってばなに考えてんだ!」
 乱馬は一人赤くなり頭をかきむしりながら叫んだ。ここがもし街中だったら、間違いなく彼は変態扱いされたに違いない。端から見れば、ぶつぶつと呟いたり、突然叫び出したりする様子は充分恐いものがある。しかし、幸いにもここは山の中。夜中叫ぼうが暴れようが誰に気がねをする必要はない。誰もいないのだから。いや、正確には考え事に夢中になる余り、忍び寄る気配に乱馬が気がつかなかっただけなのだが…
 後に乱馬はあかねにやり込められる原因となった「気配を感じ取ることができなかった」事を多いに後悔する羽目になる。けれども、今は乱馬は腕組みをして考え事に必死。そんなことを知る由もない。
 やっぱ自然に言えばおかしくねえよな。学校帰りの時かすみさんにいうように…しっ自然に言って…そうすればあいつも「お帰えりなさい」って出迎えてくれたりすっかも…そしたら俺が…
 「にやぁ〜!」
 そうにゃ〜っと言えば…
 「え゛っ????」
 突然の乱入者の声に乱馬は体を固くした。ぞくっと背中に悪寒が走る。恐る恐る乱馬は後ろを振り返った。いた。乱馬が最も恐れる生き物。猫。ちょこんと座って乱馬の方をじっと見てからそろりそろりと近づいてくる。
 「ひぃ…」
 乱馬は猫の動きと反対にじりっじりっと退いた。
 「ね゛ごぉ―――っ!よっ寄るなあぁぁぁ」
 途中へなへなと尻餅をついてしまった乱馬はそれでも猫を避けるべくずりずりと逃げる。が、無情にもお腹をすかした白猫は餌をねだるべく、標的に向かってジャンプした。
 「ぎぃぃぃっ―――――!」
 山奥に絶叫が響き渡り、乱馬の意識はぷつりと途絶えた。


 ぴちゃん。
 「ん・…っ?」
 冷たい感触を額に感じて俺は目を開けた。真っ先に目に入ってきたのは雨に打たれた桜の花だった。
 「ここは?」記憶が一切途切れている。猫に飛びつかれたことまでは憶えているけれど。
がばっと起きあがると危うくバランスを崩しそうになった。どうやら桜の木の上で猫化して長い間雨に打たれていたらしい。
 「ちぇっ。ついてねえ。猫化しちまったってことは何日か経っちまったってことだよな」
 俺は急いで木から降りると荷物をまとめて女に変身してしまった体のまま下山した。予定の日程を過ぎても帰らないとなると心配症のあかねが心配するのは目に見えている。
 そぼ降る雨の中、俺は荷物を引きずるようにして道を急いだ。女になると非力になるから本当にこういう時は苦労する。力が普通の女とほとんど変わらなくなってしまうからだ。しかも、あの俺を襲った猫は、ちゃっかり俺の荷物から保存食を失敬したらしい。ほとほと憎たらしい猫だ。おかげで俺はすきっ腹を抱えて下山するはめになった。
 結局俺がふもとの駅についたのは昼を過ぎてしまっていた。俺は駅長室で湯を貰い、男に戻るついでに日めくりカレンダーに目をやった。あれから2日が過ぎていた。つまり、春休みはあと1日というわけだ。これじゃ、あかねとどこかにでかけるなんてことはできそうもない。宿題をかたずけるだけで手一杯になっちまう。
 予定は未定と言った奴がいるけれどまったくよく言ったもんだぜ。
 はぁと俺は溜息をつくとあかねに電話をするために公衆電話へと向かった。

Tru―Tru―。
 (早くでねえかな…電車が来ちまう…誰もいねえのか?)
 長く感じる呼び出し音に俺は焦りながらホームを見た。
ガチャッ
 「はいっ。もしもし天道です。」
 なつかしいあかねの声が俺の耳に響いた。急いで受話器を取ったらしくいつもより心なしか早口だ。きっと心配して俺からの電話を待ってたんじゃねえかなと思う。案の定、俺からの電話とわかるとあかねは一気に喧嘩腰の文句をぶつけてきた。けれど、それとは裏腹に声は涙声だ。
 (安心したんだよな。お前心配症だから。まったく相変わらず素直じゃねえよな。そんな涙声でまくしたてるんじゃねえよ。あーあ。やせ我慢してんだろ?早く会って喧嘩してえな。)
 俺は受話器であかねの声を聴いて早く帰りたいという気持ちが一気にこみ上げた。その時だった。
 「列車到着です。ご注意下さい。」
 小さな駅に駅員の声が響いた。どうやら列車が来たらしい。俺は急いであかねに帰宅予定の時間だけをいうと電話を切った。この電車を逃すと一時間以上は待たなければならない。
 後で喧嘩した時に分かったけど、この時の俺の言い方がぶっきらぼうでどうやらあかねはへそを曲げたらしい。難しいもんだよな。あいつに早く会いたい一心でそうなっちまったのによ。


 俺は電車に乗ると空腹を少しでも紛らわせるためにさっそく眠る事にした。この方法は小さい頃、飯に関しては幼い俺に対してもこれっぽっちも容赦しない親父に無理やり覚えさせられたものだ。
 あの頃は飯を奪われてひもじい思いをした時なんか、毎日のようにあったもんな…団子を奪われた時。おにぎりを掠め取られた時。肉まんを横取りされた時・…きりがねえな…ふっ今度仕返ししてやるか…そんなことを考えながら俺はウトウトと浅い眠りに入った。
 1時間ぐらい寝たのかもしれない。俺が目覚めた時は結構単線の電車も人が乗っていて、俺の向かい合わせの席にも年老いた老夫婦が仲良く座りながらお弁当を広げていた。
 ぎゅるぎゅる〜。
 (げっやべえ。聞こえちまったかな。もうひと眠りすっか。…)
 どうやら、情けないことに俺は美味しそうなお弁当の匂いにつられて目覚めてしまったらしい。いい訳じゃねえけど、でも本当に2日間飯抜きだったからしょーがなかったんだ。自然に体が反応しちまったわけで…
 ぎゅるぎゅる鳴るお腹を抑えこむように俺が眠くもない目を無理やり閉じようとした時だった。
 「あの…よかったら食べませんか?若い人の口に合うかどうかわからないですけど…」
 お婆さんがおずおずと差し出してきたおいなりさんを見て俺はビックリした。見ず知らずの人にこんなに優しくしてもらうのは初めてだった。となりのおじいさんを見るとにこにこしながらこっくりと頷いている。俺はその好意に甘えることにした。
 「いいんですか?」
 「ええ。つい、昔の癖で作りすぎてしまってねえ。今はそんなに食べれないのに。この人はおいなりさんが大好きで昔よくたくさん作ったものだから…癖って恐いものですねえ。」
 「なに言っとるんじゃ。この婆さんは。わしゃ、若い時に負けないくらいいっぱい食べたぞ。お前が作りすぎるからじゃ。遠慮せずに食べてくだされ。おいなりさんだけは美味いんじゃ。わしが保証する。なにしろそこに惚れたんじゃからな。」
 「なに言ってんですか。恥かしいじゃないですか。」
 お婆さんは照れておじいさんの肩を軽く叩いた。その様子がなんとも言えなく微笑ましい。仲がいいんだな…俺は二人のやりとりをみてそう思った。
 おいなりさんはそんな二人のように優しい味がした。薄味の煮含めたあげとご飯のバランスが絶妙で、口に含むと山の香が広がる。お腹がすいていたからってわけじゃなく本当に美味しかった。
 「うっうまい…!あっすごく美味しいです。」
 つい言葉を漏らした俺におじいさんは満足した様子で
 「そうじゃろっ!君は味がわかるの。」
と言って豪快に笑った。
 「よかったら、全部食べてくださいな。残ってもどうしようもないから」
 「はっはい。ありがとうございます。」
 俺は遠慮なく全部のおいなりさんを平らげた。本当はあかねに持って帰ってやりたいけれどまさかそれはできない。
 「あの…これの中身…香がよくってすごく美味しかったんですけど…」
 「あら…気付いてくれたのね。嬉しいわ。ごはんの酢飯に自分で作っておいた柚子酢を使っているの。いろいろ試してみたんだけど中の山菜に一番合ってる気がして。私はおいなりさんを作っておじいさんは山に山菜や柚子を取りに行くのが役目。今では夫婦共同作業なのよ。おかしなもんで、一人で作っていた時より自分で言うのもなんだけど美味しくなった気がするんですよ…」
 お婆さんはにこにこしながら答えてくれた。
 夫婦で作り上げてきた家庭の味。だから優しい味がしたんだな…
 「あっあの料理がすごく下手でも…大丈夫かな…?作れるようになれますか…」
 呟くように俺が聞くと今度はおじいさんがその言葉を聞きつけて言った。
 「はっはっは。君はもしかして料理下手な彼女がいるのぅ?」
 ぼんっ
 俺が顔を爆発させたように上気したことは言うまでもない。
 「ほほう。図星じゃの。」
 「おじいさん。若い人をからかうもんじゃありませんよ。」
 お婆さんは釘をさしてから俺に向かって言った。
 「大丈夫。だって、私もすごく料理下手だったんだもの。」
 「え゛っ…こんなにおいなりさん美味しいのに…」
 「そう。おいなりさんはこのおじいさんと知り合った時に、一つだけでもいいから、美味しく作れるものが欲しくて…頑張ったものなんだけど…でも、やっぱり急にはうまくならなくてねえ…」
 「いや、初めてのデートのおいなりさんも美味しかったんじゃぞ。」おじいさんはほんのり頬を染めながら頑固に言い張った。
 「ふふっ。おじいさんはこんなこと言っているけど、最初は美味しいものとは程遠くて…けれど、この人、一生懸命私の作るおいなりさんを文句も言わないで食べてくれたんですよ…それがすごく嬉しくてねえ。もっと頑張るようになって…だから大丈夫ですよ。あなたが相手を大切に想っているなら。」
 お婆さんは遠い目をして昔を振り返っているようだった。それを横で見つめるおじいさんは、なんて優しい目をしているんだろう。二人で一緒に歩んできた確かな絆。それが滲み出ていた。
 (俺もいつかあかねとこんな風になりてえな…それまでにあかねの手料理を何回も食わなきゃなんねえと思うと正直恐わいもんがあるけど…しょうーがねえか…)
 もしかしたら、そんな俺の気持ちを察したのかもしれない。二人が電車を降りる時に俺がお礼を言うと、すれ違いざまにおじいさんが俺に向かってぼそっと呟いた。
 「いいか…若いの。胃袋だけは鍛えなきゃだめだぞ…それが秘訣じゃ!」
 (結局そういうことになるのか…やっぱし。)
 おじいさんはニタリと笑って俺の肩をポンと叩くと
 「おいっ。婆さん。待つんじゃ!」
 先に歩き出したお婆さんを追いかけて手を繋ぎながら歩き出して行った。

 3時間後、俺は西武線の駅に降り立った。外は激しい雨。本降りになっていた。この雨雲じゃ、当分止みそうもない。俺はずぶ濡れになるのを覚悟しながら駅の階段を降りた。
 「え゛っ…」
 ドキン。俺の胸が鳴った。改札口に見なれたショートカットの少女。きょろきょろ人ごみの方を見ているせいで、階段の端にいる俺には気がつかないようだけど間違いなくあかねだ。
 (あいつ待ってたのか…)
 俺はこっそりあかねに気付かれないように反対側の階段を利用して、あかねの背後に廻った。胸がドキンドキンと脈打ち始めている。まぁ10日ぶりだからな…無理もねえか…
 俺はすぅと息を吸いこむと吐き出した。
 「あかねっ!」
 声を掛けるとあかねはぼーっとして振り向いた。
 
 雨の中、あかねと歩くのは妙に心地よかった。雨と新緑の香が立ち込める中、ゆっくりあかねの歩調に合わせて歩く。それはそれで、結構風情があった。加えて、さっきまで挨拶代わりの喧嘩でまくし立てていたあかねも今は妙に大人しい。
 (雨の日も捨てたもんじゃねえかも…)
 現金にも俺は腕に触れるあかねの華奢な肩先を意識しながらそう思った。まぁ根本的には雨が嫌いというのは変わらねえと思うけど。
 (でも、まさか怒っているわけじゃねえよな…)
 俺はあまりにも大人しいあかねにちょっぴり不安を感じて横顔を盗み見た。柔らかな表情。頬をほんのり染めて微笑んでいる。別に怒っているわけじゃなさそうだ。こんな時に考えた言葉を言えばいいのかもしれない。
 けれど、情けないことに先日あかねに言う言葉をあれだけ考えていたにもかかわらず、俺の頭に浮かんでくるのは『ただいま』の言葉ひとつだけ。
 (まったく情ねえよなぁ。猫化までしちまって散々な目にあったってのに。でもいいか…要は気持ちが伝わればいいんだし…)
 そう、いつも俺はあかねの側に戻ってくるってことが伝わればいい。
 目の前の路地を曲がればもう天道家ももう目と鼻の先。
 俺の頭に手と手を繋いで歩いて行った老夫婦の後姿が浮かんだ。そして、お婆さんが言った言葉が心の中で響く。
 「相手のことを大切に想っているなら大丈夫よ。」
 その言葉が内心ドギマギしていた俺を後押しした。
 (あかね…お前にいっぱい話したいことがたくさんあるんだ。桜が幻想的でどんなに綺麗だったかとか。今度お前と一緒に見に行きたいってこと。電車で出会った老夫婦がどんなに素敵だったかとか。10日間会えなかった分すべてお前にぶつけたい。だから、最初の言葉は「ただいま」から始めるかんな。今日だけじゃなくて、これから離れる時はずっと…)
 俺は息を静かに整えた。そしてその一言を紡ぐために俺はあかねに向かって…・








 桜と月が大好きで…先日吉野山の桜の花びらが舞い散るのを見た時に、月光と桜吹雪とその下で稽古する乱馬の姿を書きたいなぁと思って書いた作品です。
 でも、やっぱり風景描写って難しいです。


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