◇花の雨
   3.藤花乱舞
桜月さま作


「あかねっ」
 乱馬の叫びに月を見上げていた女が空にふわりと浮きながらゆっくり振り向いた。
 三日月が放つ青白い微かな月光が暗闇にぼうっと女の顔を淡く照らし出す。
 豊な黒髪がそれを受けて濡れたようにきらきらと光を放った。さわさわと庭の木々を吹いて渡ってきた湿った風が女の髪を撫でる様はぞくっとするほど美しい。まさに闇に咲く仇華だった。

「あかねを返してもらおうか…」
 乱馬は低い怒気の篭った声を発した。凄みのある声音。同時に目がすっと細められた。それだけで乱馬の気配がガラリと変わった。そこには普段の「少年」の気配は微塵も感じられない。ただ、愛しい少女を守るべく漲る闘気を静かに体から滲ませる男としての乱馬がいるだけだ。
 普通の人物ならば、その強い闘気に当って足が竦んでしまうだろう。が、女はそんな乱馬の様子も意に介さないようだった。逆に、
 …ソナタ…ウゴケルノカ…
乱馬が動けることに驚き、呟いた。どうやら自分の術が効かなかったことに驚いているらしい。女はふっと腕の中のぐったりしているあかねを見ると頷いた。
 …ソウカ…コノムスメノ…オモイビトカ…ヨホド、コノムスメノソウギョク、ツヨイラシイノ…コレナラバ…
 くっくっくっ
 女は不気味に笑うとあかねのふっくらした頬をその透き通るような白い手で撫でた。舌なめずりをして満足そうにあかねを撫でる。まるで乱馬は眼中に無いかのように。その様子に乱馬はぎょっとなった。
 あかねの瞳は見開かれたままで焦点が合っていない。
 乱馬のボルテージは一気に上がった。
「おい…てめえ…あかねに何をした……」
 腹の底から振り絞るような乱馬の低い声が暗闇に響いた。拳をきつく握り締める。それに呼応するようにざわっと庭の草木が揺れた。
 バシュッ
 乱馬の怒りの闘気に呼応し、彼を取り巻く藤の花びらが瞬時に消滅する。
 それでも女はちらっと乱馬をつまらないとでも言うかのように一瞥しただけだった。刹那、
 ビシッ。
 乱馬の闘気が渦巻き、見えない拳となって女に向かって放たれた。だが、女は微かに息をふうと吹いてその挑戦状をいとも簡単に受けとめた。
 …ワラワハ、フジノハナノセイレイ…「藤華」。…ニンゲンノブンザイデ…ワラワニタテツコウトイウノカ……
 薄闇の中で女の両目がギラリと光った。
「ほざけっ!上等じゃねえか。あかねは俺の大切な許婚だ。これ以上指1本触れさせやしねえっ。」
 ダンッ
 乱馬は畳をおもいっきり蹴って空に浮く藤華へ渾身の蹴りを繰り出した。しかし、彼女はあかねを両腕に抱えているにも関わらず、それをふわりと軽く受け流すと
 …イノチシラズナ…オロカモノヨ…
 次の攻撃を仕掛けようと向かってきた乱馬に長い黒髪を1本引き抜き鋭い息で吹きつけた。
 ビシビシッ
 不気味な音を立ててそれは藤のつるに変わった。たちまち、乱馬と藤華の間に生きた壁が立ち塞がる。
 藤華があかねを肩に担ぎ、左手をすっと挙げた。刹那、一斉に生きた触手と化した藤のつるが乱馬に襲いかかった。唸りをあげて乱馬の眼前につるの触手が迫る。
 チッ。乱馬は軽く舌打ちすると空でとんぼをきった。そのまま両手を畳につき一転して後方へ退く。見ると先ほどまで乱馬がいた空間は藤のつるの刃で薙ぎ払われていた。だが、ホッとするのもつかの間、続いて第2、第3の攻撃が考える余裕を与えず乱馬を次々と襲う。
(くそう…切りがねえ…)
「破―――っ!火中天津甘栗拳っ」
 鋭い気合を発して打ち出されるつるの軌道を読み、すべて打ち砕く。
 …クックックッ…スコシハ…デキルラシイノウ………
 そんな乱馬をまるで面白がっているかのように藤華は哄笑し、同時に微かに吊り上がった口元から甘い息を噴出した。ごうっと音を立てて闇に無数の薄紫の花びらが乱舞する。 瞬く間にまるで部屋全体が靄がかったようになった。暗闇の中、ぼうっと光る紫の花びらしか見えない。
「くっ…」
 同時に強い目眩が乱馬を襲った。
 長く、ここで闘えば親父達の二の舞になるな…乱馬はぎりっと奥歯を噛み締めてうめいた。
(ちくしょう…どこにいやがる…)
 早くあかねを助け出さないと…込み上げる焦燥感に苛立ちが募る。しかし、依然としてまったく気配が感じられない。藤の花の妖気を含んだきつい香りが乱馬の頭を霍乱させている。
「あかね…」
 ふと喧嘩した時の怒った顔が乱馬の脳裏に浮かんだ。
(こんな妖気に惑わされている場合じゃねえよな)
 乱馬はふうっと息を吐くと更に気を高めるために体の力を抜いた。両手をだらりと降ろし棒立ちになる。
「はあぁ…」
 低いうめき声ともつかない気合を乱馬は吐いた。そして丹田に気を集中していく。ざわりと乱馬のおさげが揺れた。同時に周りの空間も乱馬から発せられる気の影響で揺らめきはじめる。体中に漲る闘気。それが妖気を弾き返し、鈍ってた感覚を蘇らせ始めた。
 「無」に帰る。どんな格闘においてもそれが基本である。そして、一番困難なことでもあるのだ。
 乱馬の額に汗がじわりと滲んだ。ひっそりとした空間の中、危機感で神経がびりびりと震えるのを感じている。
(ちっ。襲ってくる機会を狙ってやがる…)
 と、その時だった。突如、乱馬の背後に殺気が凝縮されたかのように湧き上がった。
 ヒュン
 風を切る鋭い音。背後から襲う鋭い切っ先が乱馬の体に到達する一瞬前、足を踏み出し空を飛んだ。一気に軽い身のこなしで障子を突き破ってとんと庭先に着地する。不利な状況はなるべく避けねばならない。
 そんな乱馬の考えを見切っていたかのように暗闇から影が乱馬を追って飛び出してきた。しゅっと藤の花が作り出す妖(あやかし)の暗闇を稲妻が切り裂くように先の鋭いつるが突っ込んでくる。紙一重で躱わして、乱馬はそれを叩き折った。再度、また鋭い風が乱馬を追う。避けて打ち砕く。どれくらいそんな攻防が続いただろうか…
 さわさわ
 微かな衣擦れの音を乱馬の耳が捉えた。
「そこかっ!」
 どびゅっ
 乱馬は左足を軸にして右足を勢い良く蹴り上げた。鍛えられた筋肉が躍動し、獲物の位置を正確に捉えた。ビシッという当った感触が暗闇の中で足に伝わってきた。手応え充分というわけではないが、相手のどこかに掠ったらしい。
 が、同時に乱馬の頬もなにかが掠め、つうっとなま温かい感覚が頬から首筋へと伝わった。
「チッ…」
 乱馬は頬から滴り落ちる血をビッと乱暴に指で拭った。相打ちである。
(紙一重で躱わしたと思ったのに…思ったより感覚が鈍ってやがるな…)
 …オノレ…ヒメノカオニ…キズヲツケルトハ…ユルサヌ…
「けっ。姫だかなんだか知しらねえがなっ。800歳の年食った妖怪ばばあが今更、顔を気にしたってしょーがねえだろっ。」
 乱馬はいつもの口の悪さに輪を掛けたような悪態で応酬した。あかねにこんなことを言ったら即、強烈な蹴りが飛んでくるところだ。
 乱馬はじっと暗闇の中で相手の反応を待った。そこには女なら…という想いがある。
「……」
 ゴゴゴッ…
 突然、強い妖気が動いた。
 怒りは闘気や妖気を凝縮させる。時としてそれは自分に有利に働く時もあれば、相手に自分の居場所を抑えきれない気配で教えてしまうという弱点もある。今の乱馬がまさにそれだった。あかねの危機となると感情が抑えきれなくなってしまう分、自分は不利だと乱馬は自覚していた。未熟さ。それを充分理解した上で闘わなければ勝ち目はない。
(引っかかりやがった…)
 暗闇にごうっと風が物凄い勢いで吹き荒れ藤の花びらが逆巻き始めた。同時に強い妖気が1箇所に凝縮し始め、姿を形作る。
 ……クチノワルイコゾウ…コウカイスルガヨイ…ジャマハダレニモサセヌ…
 淡い光を放って姿を隠していた藤華が暗闇に浮かび上がった。怒りに身を震わせている藤華が…射るような鋭い視線で乱馬を貫く。
 今まで感じたこともない凄まじい妖気に乱馬の喉がゴクリと鳴った。


 
「ここは…」
 目覚めるとそこはひんやりとした暗闇の中だった。
(私、襲われて…)
 あかねは一瞬、考えを巡らせたが途中で記憶が途切れている。
きょろきょろと辺りを見まわしてみたが、人の気配は無い。あるのは静寂と混沌が支配する空間だけだ。
 気味悪い…そう思った時だった。
 ひゅるるる。
 初めてあかねの耳に音が飛びこんできた。
「笛…を誰かが吹いている…」
 どうやら近くではないらしい。遠くの方から微かに聞こえてくる。優しいがどこか哀愁に満ちた音色が暗闇の中から漂うようにあかねの元へと届いてくる。
(何処から聞こえてくるんだろう。)
 あかねは音色に誘われるようにそちらへ赴いて行った。
 早くこのねっとりとした暗闇から抜け出したいと思っていた。
 恐がりのあかねにとって、音の先に例え妖怪が待っていたとしても暗闇にいるよりはましという思いの方が強い。闇のうそ寒さと閉塞感はあかねにとって堪えがたいものがあった。乱馬が側にいないとなればなおさらだ。武道で鍛えたといってもそこはあかねとて年頃の少女である。
 不安と焦燥、恐怖感。ともすればこみ上げてくる感情に押し潰されそうになるのをあかねは必死で耐えた。耐えてゆっくりと歩く。しかし、いつ尽きるとも知れない暗闇はその圧迫感であかねの歩調を度々鈍らせた。
(乱馬…)
 とぼとぼと歩きながら、側にいて欲しい許婚の名を口に出してしまえばなおさら「一人」ということひしひしと感じてしまいそうであかねはぐっと堪えた。だが、瞳にこみ上げてくる雫はどうしようもない。
(いったいいつまで続くんだろ…恐い…)
 いつの間にかあかねは立ち止まってしまっていた。はたと後ろを振返って見る。誰もいない。
(まったくしょーがねえな…あかねは。恐がりで)
「えっ?乱馬?」
 乱馬の声を聞いた気がしてあかねは辺りを見まわした。だが、乱馬の姿はない。暗闇があかねを包み込むのみだけだ。けれど…その言葉にあかねは不安が薄らいで行く自分を感じていた。
 
(あっ。そうか…あの時、乱馬が…)
 それは、ゆかや大介達と近くの遊園地のお化け屋敷がリニューアルするということで行った時のことだった。度胸だめしということで一人ずつ入るという取り決めに渋々従ったあかねだったが、恐さのあまり一人迷ってしまい、佇んでしまったことがあった。そんな時、真っ先にあかねを見つけ出した乱馬が目の前でそっぽを向きながら手を差し出した時に言った言葉がそれだった。
「まったく、しょーがねえな。あかねは恐がりで…ったく歩かなきゃ状況は変わらねえだろっ…」
 恐がってなんかいないと強がるあかねの手を強引に引っ張って歩き出した乱馬の手は何よりも暖かくて。
 どうして自分の居場所がわかったのと聞いたあかねに
「あかねは俺の許婚だからな…」と当然のように顔を赤面させながら言った乱馬。何処にいても見つけ出すのは自分だと言われたようで嬉しかったのを思い出す。
 きっと今頃、異変を感じて必死に捜しているに違いない。いや、もしかしたら妖怪と闘っているかもしれない。あれだけの妖気を乱馬が見逃すはずはない。
(乱馬…大丈夫かな…)
 先ほどの不安とは裏腹に、今度は襲われた時の光景を思い出して別な心配が込み上げてきた。何しろ突然形も成さない敵から背後から襲われたのだ。反撃する隙がなかった。もし、あのまま相手が自分を殺す気でいたら…そう考えるとぞっとする。
 そして、何よりもあかねを不安にさせているのは…その時聞いた声音だった。気を失いながら聞いた冷たい凍てつくような笑い声。何事も容赦しないとでも言うような響…それを体が覚えている。
 両手で自分の体を抱きしめながらあかねは軽く頭を振って嫌な考えを追い払った。
(乱馬ならきっと…)
 自分の中にある乱馬への想いを噛み締めてあかねは拳を握り締めた。片手の平でぴしっと自分の頬を打って表情を引き締める。
 ここで佇んでいても何も変わりはしない。そう今は歩く他ないのだ。この闇の中に佇みたくなければ。音のほうに向かって。乱馬を信じて。


 暫く歩くと暗闇の中に微かに光が見えてきた。
「出口?…」
 さすがにほっとした。微かだった光はだんだん強くなる。そして、急に視界が開けた。
「眩しい…」
 突然暗闇から一気に視界が開け、あかねの目がくらんだ。耐えきれずに手をかざして光を遮る。
 暫くしてから閉じた瞳をゆっくりと開けた。指から漏れる光にだんだんと目が慣れてぼんやりとした視界が徐々にはっきりとしていく。
「人が…いる…」
 遠目に木立の下に二つに人影が見えた。どうやらそこから笛の音が聞こえてくるようだった。



つづく





あれれ。もう、涼しくなるというのに藤の花の小説を書いている狂い咲きの桜月です。(泣


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