◇花の雨
   2.気配
桜月さま作


 夕食は素晴らしい懐石料理の数々だった。美しく盛り付けられた食べるのも惜しい前菜から、この季節ならではの山菜の一品。刺身の盛り合わせに舌の上でとろけそうに柔らかい石焼のステーキ。そこで口直しのシャーベットにデザートへと続く。まさに、口で味わう至福の一時。
 「ほんとうに美味しいわねえ。」
 「九能ちゃんにおごらせた料理といい勝負かも…コースにして1万円コースってとこかな」
 「げへへ…満足じゃぁ…」
 皆、その口に広がる美酒と味に酔いしれていた。
 先ほどまでの緊迫した雰囲気とは反対にお気楽な天道家の性格「まあなんとかなるだろう」の精神で、今の楽しみを満喫している。
 玄馬と早雲、などは「妖怪が出たらこのわしが成敗してくれる」と言っていたのはどこへやら。あかねのことは忘れ去ったように酒に飲まれて早くも宴会モード突入といったところ。
 当然、渦中の乱馬とあかねは面白くない。
 (まぁーったく。これだから親父達は当てにならねえ。)
 乱馬は内心ぼやきながら、たけのこご飯をかきこんだ。あの様子ではもしあかねが何物かに襲われたとしても酔いが廻ってすぐに自分からダウンしてしまうのがオチだとスチャラカ3人衆に白い目を向ける。酒を飲んだり、腹いっぱい食べたりすると動きはもちろん、ものの気配を感じるといったことや、神経を研ぎ澄ますなんていうことは出来なくなってしまう。そんなことは格闘家でなくとも知っている常識だ。
 (結局、俺があいつを守ってやらなきゃな…最初からそのつもりだけどよ。けれど…)
 そう、けれどなのだ。うひゃひゃーっと馬鹿笑いしながら踊り出す元凶の3人を見ると、どの口で「妖怪はわしが成敗してくれる」とほざいたと叫んで口をギリギリとつねりあげたくなってしまう。先ほどから手がそうしたくてむずむずしているのだ。
 (ちくしょー。俺だって目一杯食いてえんだぞ…)
 普段の食事は普通の人の2〜3倍は当たり前の乱馬が、今は出された食事を抑えて腹7分目。滅多に食べることのできない美味しそうなご馳走だけに、目の前のそれらが恨めしく見えてくることこの上ない。
 「ったく…いい気なもんだぜ…」
 (一発、殴ってやろうか…こいつら…そうしたらスッキリするかもしんねえな…)
 物騒な考えを持って、一升瓶を抱えて踊っている3人を見やった時だった。
 「あら。乱馬君。もう食べないの?いつもより小食ね…」
 乱馬の小食を不信に思ったのかかすみが心配そうに尋ねた。乱馬が具合が悪いと思ったらしい。
 「あっ。俺はもういいです。かすみさん。大丈夫ですから。」
 「ふふっ。乱馬君にはまだまだ大事な仕事が残ってるものねえ。」
 慌てて答えた乱馬になびきがこの時とばかり口を挟んで、意味深な笑みを浮かべた。
 「な゛…べっ別に俺はもう腹いっぱいになっただけでいっ。////」
 ついムキになって言い返す乱馬。が、口とは裏腹に顔はうっすらと赤い。これでは図星ですと言わんばかりである。
 そんな目の前でやり取りされるまるでゲームのような言葉の応酬合戦を聞きながら、のどかは穏やかな微笑みを浮かべていた。
 (この子も少しづつ成長している…)
 息子の照れの中に見え隠れする真摯な瞳。
 長年、格闘家玄馬の妻として夫を幾度と無く闘いに送り出してきたのどかは敏感にそれを感じ取っていた。
 (乱馬は…男として覚悟を決めている。)
 乱馬と再会した時は自分の息子に幼さを少し感じたのどかだが、それが今確実に変貌しつつあるように思えた。親ばかと思われるかもしれないが見ていて自分の息子ながら頼もしく見えてしまうのどかである。
 「乱馬…おにぎりを後で少し握ってもらっとくからね…」
 のどかの物静かな言葉に乱馬ははっと顔を上げた。一瞬目が合う。そしてしっかりと頷いた。
 (乱馬…大切な許婚のあかねちゃんを命がけで守るのは男であるあなたの役目。しっかりね…)
 母親からの暗黙の言葉に。
 (まぁ…この分じゃ襲うほうが避けていきそうだけどな…)
 乱馬は隣でむすっとしながら黙々とご飯を食べている許婚をちらっと見やった。
 彼女の背中から漂うどよどよとした怒りのオーラ。妖怪でなくても避けたくなってしまう雰囲気だ。とても声を掛けようなどという気が起きる状況ではない。
 ぱしんっ
 「ごちそうさま」
 そんな乱馬の心中を知ってか知らずか、あかねは箸を音を立てて置くと部屋を出ていった。


 晴れ渡った夜空に金色の三日月がぽっかりと浮かんでいた。
 日中は初夏の到来を告げる風が、夜は冷んやりとした心地よい春の名残の風に変わる5月。山の季節の移り変わりを肌で感じ取れる時期、むせ返るような新緑の香りと共に露天風呂につかれば最高の気分が味わえる。雄大な自然に囲まれた風呂ならではの特権だ。
 だが、あかねの心はそんな素晴らしい環境の中にいても冴えなかった。
 ちゃぽん
 (なによ…乱馬のやつ…)
 半分、顔を広い露天風呂に埋めながら呟く。妖怪退治の件が嫌なわけではない。あかねとて武道家の端くれである。スチャラカ3人衆の尻拭い的なこの妖怪退治もしょーがないとは思っている。問題は乱馬の言葉だった。
 「襲われるわけない・…かぁ」
 思わず溜息と共に呟きが出てしまう。喧嘩は日常的にしてきた二人だが仲が悪いというわけではない、と思ってきたあかねである。いや、むしろ一緒に暮らしてる内にあかね自身は乱馬の純粋さに後戻りできないほど今では惹かれているし、乱馬があかねにたま〜に見せてくれる不器用な優しさも彼の気持ちの現れと思っていた。
 (そりゃ、私だって…本心からじゃない、いつもの悪態だってわかってるけど…)
 そうは思ってもやっぱり、ショックなのだ。
 乱馬が今時珍しいほどの奥手ということあかねも充分知っている。そんな彼が家族の手前、大丈夫だ的な一言を言うとは思っていない。けれど、心の奥底ではそれをどこか期待してしまう自分がいる。だからこそ、拗ねたくもなるあかねだった。
 (別に…妖怪に襲われたいわけじゃないけど…乙女心ってものを少しは理解してくれてもいいじゃないっ。乱馬の鈍感!!)
 水面に浮かんでは消える乱馬の姿をあかねは手ですくって打ち消した。何回こんなことを繰り返しただろう。もう口の悪いあんなやつのことなんか考えない…と反すうする気持ちが湧けば湧くほど面影が浮かんで容易に消えてくれない。
 (もう…)
 「乱馬の馬鹿あぁぁ――!」
  びくっ
 突然あかねが発した絶叫。それはさながらエコーが掛かったように木々を突き抜けぐわぁんぐわぁんと辺りに木霊し、空気を振動させて茂みの中に佇む一つの影をも震わせた。ひっそりと女風呂を囲う茂みに佇む一つの影。いうまでもなく、悪態を吐かれた当の本人…乱馬である。
 (なっなんだ?あかねのやつ。まだ怒ってやがんのか?ったくせっかく人がこうして心配してやってんのに…馬鹿だとぉ?可愛くねえなっ。)
 膨れっ面になりながらぼそぼそと毒づく。が、本心とは裏腹な言葉というのは自分自身自覚してるだけに少々情けない。はっきり言ってしまえば、ぼこぼこに殴られようが、悪態を吐かれようが、そこは彼女に惚れた弱み。内心あかねが心配でしょうーがないという気持は抑えきれない。
 家族の手前、あかねが怒るような悪態を吐いた乱馬だったが、実のところあかねと自分の間には呪泉洞の件以来、確かな絆があると確信していた。
 あの時。極限の状態でお互いの素直な気持ちに触れ合い確かめ合えた瞬間。それは乱馬の心の奥底に静かにしっかりと今でも息づいている。だから…
 (…あかねが襲われないわけねえ。俺は…)
 一人自分の考えた言葉に赤面しながら乱馬は俯いた。ずっと心の底で大切に育んできた想い。それがあるからこそ、なんか俺って報われてねえよなぁ…と半分愚痴りながらも茂みに身を潜めて辺りの気配を油断なく先ほどから探っていたりするのだ。
 なのに…今の叫びはねえだろ…
 ちぇーっ。少しは俺の気持ちもわかれよなーっ…とやさぐれつつ、乱馬は座り込みながら木々から垣間見える月を見上げた。
 夜空には淡い三日月。
 素直になりきれない揺れる想い…そんな二人の気持ちを映し出すかのように三日月は柔らかい月光を静かに降り注ぐ。
 切ない想いを抱えた二人に…
 星を宿した露光る草花に…
 そして…闇に咲く妖艶な藤の花に…


 どれくらい時間が経っただろうか。突然変化は訪れた。
 しんと静まり返る闇の中、乱馬の周りの木々や草むらがさわさわと音を立てて揺れた。
 …クスクスクス…
 人間には聞こえない笑い声。しっとりと湿った風がそよいで渡ってくる。
 ピクリ
 乱馬の肌がそれを捉えた。
 違和感。同時に乱馬の五感にざわっと触れる感覚が走った。人間の気配とは異なった何か。続いてかさかさっと茂みを移動する小さな影。乱馬は躊躇することなくそれを追った。


 がさがさっ
 突然目の前の岩風呂を囲む茂みが音を立てて揺れた。
 それが岩風呂の大きな御影石に寄り添いながら、答えの出るわけのない思考の波にたゆたうあかねを現実に引き戻した。
 (妖怪?…)
 あかねの顔に緊張が走る。風呂の隅に寄り、手桶をいつでも投げつけられるように手に取った。微かな邪気があかねに押し寄せてくる。幸い、露天風呂はあかね以外誰もいない。あかねは用心深く風呂の中で身構えた。刹那、
 どびゅっ
茂みから黒い影が飛び出した。不気味な声を発して。
 「げへへへ〜♪あっかねちゃわーん。わしが妖怪から守ってあげるぅ!」
 目の前に現れたのは…妖怪ではなかった。いや、一種の妖怪か…八宝菜だった。酒に酔っているのか、八宝菜はろれつが廻っていない。
 とはいっても、そこはエロ妖怪。その動きはとても齢100歳を超えているとは思えないほど俊敏である。油断すれば痛い目を見る。用心深く身構えながらあかねは冷たく言い放った。
 「まったく懲りないおじいさんだわねっ。毎度毎度。簀巻きにされたいわけ?」
 「ひっひどい。あかねちゃん。そのつれない物言い。冷たい乱馬に代わってわしが守ってあげようというに。」
 「おじいさんに守ってもらわなくたって結構っ!自分の身くらい自分で守れるわ。おじいさんの方がよっぽど邪悪じゃない。」
 「え〜ん。しくしく。あかねちゃんの意地悪ぅ。わしは傷ついちゃったぞお…でもその胸で慰めてくれたら許そう!!げへへー♪」
 あかねが手桶を投げつけるべく振りかぶった時。
 「待ちやがれこのエロじじいっ!」
 怒声が響き茂みをかき分け、乱馬が飛び出してきた。が、どこかその姿はボロッとして、着ているチャイナ服も焼け焦げだらけである。どうやら痛い目を見たらしい。
 「おのれ、乱馬、弟子の分際で師匠の甘味な楽しみを邪魔するとは。食らえ八宝大華輪!」
 「けっ。二度と同じ手を食うかよっ!必殺八宝大華輪返しっ」
 乱馬は投げつけられた花火を側にあった手桶で受けるとそのまま八宝菜に投げ返した。
 同時に花火を食らって怯んだ八宝菜に飛びつき湯船に叩きつける。
 ばしゃっ。ぶくぶくぶく。
 乱馬に足で踏みつけられあえなく八宝菜は湯船に沈んだ。
 「八宝菜敗れたり。じじいの考える事はお見通しでいっ!!ざまぁ見やがれ。エロ妖怪!!」
 得意満面でふんぞり返る乱馬。が、その満面の笑みもあかねの一言で儚く消えた。
 「で?あんたは何してんの。乱馬・…」
 あかねの問いに
 「へ?なっ何ってお前…俺は…」
 お前を助けてやったんじゃねえかと答えようとしてはっとした。自分もチャイナ服姿ではあるが、あかねと同じ露天風呂につかっている。
 茂みの向こうで微かな邪気を感じて様子を探っていた乱馬である。他意はない。が、小さな黒装束に身を包んだ八宝菜があかねの入浴を襲おうとしているのを見つけて、取り押さえようとしたところ、必殺技を食らった。で、怒りに我を忘れた結果、一緒に飛びこんでしまったという乱馬にしてみれば不慮の事故。けれど、そんな事情をあかねは知る由もない。
 「おっおいっ!まさかお前…」
 もっもしかして…疑ってるのかとこの時になって初めて乱馬は気がついた。よくよく見るとあかねの顔が皮肉っぽく引きつっている。しかも視線は射るように冷たく、口調も極寒の烈風のごとく厳しい。ちらっと上目遣いで見て確認するまでもなく…怒っている。
 「ばっ馬鹿っ。これは邪気を感じてだな/////誰が、お前の寸胴を喜んで覗くかよっ!!」
 乱馬は手をばたばたと振って必死になって弁明した。エロじじいと一緒にされたんじゃたまんねえという気持ちが多分にある。しかし、人は得てして頭が真っ白になる時というものは余計な一言を言うことが多い。それも本人が気付かない内に…
 ぶちっ
 その一言であかねの思考回路が切れた。
 「だったらいつまでもそうやって女風呂にいるんじゃないって言ってるのよ!とっとと男風呂にいかんかいっ!ていっ」
 おもむろに側に気を失って湯船にぷかぷか浮かびあがってきた八宝菜を引っつかむと、あかねは二人をを特大木槌で垣根の向こう側、男風呂の方へと勢い良く投げ飛ばした。
 どしゃっ。
 「痛ててて…どちくちょー。俺が何したってんでいっ。もう頼まれたって助けてやんねえからなっ。この強暴女。あかねのバカヤロー。」
 「ええ。結構ですよーだ。妖怪くらい私一人で充分だわっ!まっ襲われるわけないけど…私達仲が悪いんだから!!ふんっ」
 ぴしゃり
 もう聞く耳もたないわっとでも言うかのように、戸が勢いよく閉められる。
 「あーそうかい。そうかいっ。ちくしょー!!人の気も知らねえでっっ。可愛くねえ!」
 乱馬は手短にある手桶をばしっと投げつけぶうたれた。
 よりにもよって、人を痴漢扱いしやがって…俺が可哀想すぎるじゃねえか…とこの際、あかねの無事を確認するために露天風呂を一回だけ覗いて、湯船につかる許婚の白い肌にドキッとしたのは棚上げにしとく。
 そんな乱馬の心を知ってか知らずか、
 「でへへー。未熟者。」
元凶の八宝菜がすけべな笑みを浮かべながら乱馬に近づいてぼそっとささやいた。まさに火に油を注ぐといった行為だ。
 「なんだとー!元はと言えば俺が濡れ衣を着せられたのもお前のせいだろがっ!」
 「ほぉー。乱馬。貴様わしのこと言えるのかー?わしは見たんじゃっ。お前があかねちゃんのお風呂を覗いたのをっ!!」
 びしいっと決めつけるように乱馬を指差す八宝菜。その一言で、乱馬の脳裏に一瞬ちらっとあかねの眩しい白い肌が過った。
 「どわーっ//////」
 慌てて乱馬はぶんぶんと首を振り、そのあかねの姿を打ち消す。が、いくら奥手といってもそこは健康なお年頃の乱馬。顔がかぁっと爆発しそうなほど上気して体が熱くなった。
 「ほーれ。図星じゃあ!!」
 (ちっ違う。俺は湯船に人が入る音を聞いてからあかねかどうか確認したんだ。別にやましいことはしてねえ。)
 「ふっふざけんなじじい。てめえと一緒にするんじゃねえ。俺はなあ。お前と違って覗きなんて悪趣味はねえんだ!あれはあかねの無事を確かめるために…」
 「愚か者っ。素直にならぬかっ」
 ばしゃっ
 「づめでえ゛――!」
 「そーれ。わしの甘味な楽しみを邪魔したお仕置きじゃっ」
 水をぶっ掛けられて女に変身した乱馬の胸にすかさず八宝菜が飛びつきすりすりと頬擦りをした。懲りない老人である。
 「でぇーい。やめんかいっ!一回往生してこいっ!!」
どかっ
 乱馬の必殺の蹴りでエロ妖怪八宝菜が闇の星と化したのは言うまでも無い。


 時同じくして…
 乱馬が八宝菜と格闘していた頃。
 刻々と闇がその姿を現し始めていた。

 ざわざわざわ
 闇を突き抜けて渡る艶めいた一陣の風。それはあたかも辺りを探るかのように漆黒の闇を徘徊し、目的の場所へと辿り着いた。
 誰もいなくなった女露店風呂。
 そこに風が運んできた妖(あやかし)の花びらが一つふわりと舞い降りる。
 瞬間、その水面(みなも)に突如、小波(さざなみ)が立った。水面にゆらゆらと揺れる花。やがてそれは実体の無い女の顔を映し出した。
 …モウスコシデ…テニハイル…クスクス…
 囁かれる密やかな闇の声。
 先ほどまでいた少女の気配に満足したかのように
 とぷん
 微かな音を立ててそれは沈んだ。深く深く続く漆黒の闇へと戻るために…

 ひっそりとすべてを飲み込むように漂う静寂と闇の中、それは息を潜めて目覚める機会をじっと待っていた。闇が求める光。光があるからこそ闇が生まれる。
 時は訪れた。
 薄墨のような雲が掛かって暫くの間隠れていた月がまた顔を出して月光を降り注ぎ出した時に。
 木々の合間から漏れる一筋の微かな光。妖の者が目覚めるにはそれで充分だった。
 藤の木が月光に導かれて庭の片隅で淡い燐光を放ちはじめる。暗闇の中でぼうっと朧にその姿を浮き上がらせる妖花。同時に闇の帳を乱すかのようにその周りの空間が歪んだ。広がる薄紫の靄と漂う妖気。やがてそれは塊となって妖(あやかし)の者を生み出していく。


 どすっ。どすっ。
 「なによ。乱馬の馬鹿。寸胴だとぉ!!謝ったって許してやんないんだから」
 足音荒く、あかねは廊下を歩いた。古い飴色の木の廊下がその度にぎしぎしと悲鳴を上げる。
 素直になれない自分も腹立たしいが、それと同じ位、意固地な許婚も腹立たしい。
 もう、少しは素直に心配したからの一言くらい…と思ってあかねは考えをはたと止めた。
 深い溜息を一つ吐く。
言わせなかったのは…他ならぬ自分だ。自分の意地っ張りな言葉で乱馬の意固地を引き出した。
 「馬鹿みたい…」
 廊下を振り返って見たが乱馬が追って来る気配はない…
 あるのは静寂のみ。乱馬のバタバタとした足音も聞こえない。
 あかねはもう一度深い溜息を吐くと部屋へ向かった。忍び寄る危険な気配に気付かずに。

 …サアクルガヨイ…ソナタノソウギョク…モライウケヨウ…
 闇はすぐそこまで…迫っていた。


 「ちくしょー。とんでもねえじじいだ…」
 乱馬はぶるっと体を震わせ肌を摩った。まだ、鳥肌が立っている。乱馬はそのまま勢い良くどぶんと湯船につかって男に戻った。
 (今、あかねを追いかけたとしても更に喧嘩が激化するだけだな…)
 自分も熱くなった頭を冷やす必要がある。
 熱めの温泉はそれには最適だった。時々そよと吹く風も気持ちいい。
 (あれは…じじいの邪気だったのか?…)
 あの時。一瞬、乱馬は確かに何かを感じたのだ。微かにざわっと撫でるような感覚を。確信はない。けれど、乱馬のアンテナに引っかかるものがある。
 気は抜けねえ…と乱馬は思った。嫌な胸騒ぎがあの時以来、収まらない。格闘家として磨いてきた第六感が乱馬に危険を訴えている。小さい頃から武道家として玄馬と修行を兼ねて妖怪退治をしてきた乱馬もこんなことは初めてだった。
 「まいったな…・」
 夜空に瞬く星を見上げて呟く。
 若い仲のいい恋人同士の女性だけ襲われるか…よっぽど、自分が襲われた方が気が楽だと乱馬は思った。
 (藤の木の呪い…女の怨念でも絡んでいるのかもしれねえな・…女は怒ると恐いから。)
 先ほどの怒ったあかねの顔を思い浮かべて乱馬は苦笑した。あの様子じゃ当分は意地張って怒ったままだろう。
 妖怪退治の騒動が終ったら山の散策にでも誘うか…きっとこの素晴らしい匂い立つような新緑と花を見て過ごす時間は楽しい一時になるに違いない。そうすれば、少しは素直に打ち解けてくれるはずだ。
 (そのためにも早くこの騒動にケリをつけなきゃな…)
そう思いながら、乱馬は自分の考えに満足して急いで風呂を出た。

 「あの…すみません…」
 「はい?何かご用でしょうか?」
 乱馬が廊下で女将に声を掛けると、女将は各部屋から下げてきた膳を手にしながら、立ち止まった。
 「さっき…聞いた妖怪についてなんですけど…もっと話を聞きたくて…」
 「ああ…早雲様の部屋の…お客様ですね…もしかされたら、娘さまの許婚の?」
 「まあ…////」
 「そうですか…では、こちらへ…」
 女将は頷いて乱馬を案内すると、部屋からある一冊の古い本を持ち出してきた。
 「さきほど、お話したことが、この古文書に書かれてあります。」
 手渡された古文書を開くとかなり年代物というのが虫食いだらけの文面から見て解った。
 (かな文字か…古典の授業もっと勉強しときゃよかったな…)
 みみずが這ったような典型的な文字を見て乱馬は頭を抱えた。少しは妖怪や、呪いについて解るかもしれないと思った乱馬だったがどうもそう簡単にはいかないらしい。
 「あの…私少しなら解りますが…」
 女将が乱馬の胸中を察したらしく、控えめに申し出た。
 「あっ。お願いします。」
 「妖怪については…さっきお話したさわりの処しか…これにも書かれていないんですが、ただ・…それに関係あると思われる事が少し…」
 「関係ある?」
 「はい…私の先祖は先ほど申し上げた通り、平家一門の末裔で、房姫という姫君だったそうです。この古文書はその姫に仕えていた老女が書いたものらしいのですが…姫にはこの時代では当たり前のことですが、許婚がいたそうです。お小さい頃からの幼馴染で、平輔盛様というりっぱな少将と書かれております。二人はそれはよく喧嘩をしたそうですが反面とても仲睦まじく過ごされていたらしく…けれども、知っての通り、平家一門は壇ノ浦の戦いで滅びました。その時に、どうやらその平輔盛さまも戦死したみたいです。
姫はその後、落ち延びて乳母の故郷であるここで暮らし始めたそうですが…気落ちしたらしく、病にかかり、ある日藤の木の処で倒れて伏して亡くなられたと書かれています。」
 「藤の木の処…それじゃ…最近襲われ始めた女性と同じ…」
 「はい。あの藤の木は姫さまが生前、輔盛さまと逢瀬を交わしたとされる木です。平輔盛さまはここに書かれてますが、武士でありながら笛の名手で…毎年、藤が咲く頃になると姫とここへ来られて笛を楽しまれてたそうです。房姫は二人にとって思い出の場所で最後を迎えたかったのかもしれません…」
 「ということは…それだけ思い入れが深い藤の木に姫の悲しみの怨念が篭って妖怪になってもおかしくない…ってことか」
 乱馬の言葉に女将が神妙な面持ちで頷いた。 
 「壊された祠から封印のお札に「我玉鎮めの封印成す」と書いてあったので…だからこれと一緒に姫の霊魂を慰めるために封印の術を施したのでしょう。」
 女将はそういって一つの古い絹袋を取り出した。
 「これは…」
 手渡された錦の絹袋。その中には…朱塗りの横笛が入っていた。
 「はい。おそらく平輔盛さまの横笛です。戦に赴く前に姫に託されたのでしょう。」
 横笛は長い年月を経た今でも美しい輝きを放っていた。質素な中に一筋の華やかさと温かみを伺わせる朱塗りの横笛。それは姫に笛を吹いて花を愛でて過ごすことが好きだった平輔盛の性格そのものを見るものに伝える。
 (本当に姫を愛していたんだな…)
 乱馬の胸に一人の男の熱い想いがひしひしと伝わってきた。源平の最後の戦いだったなら負けるとわかっていた戦だ。それに赴くのは死を意味する。だからこそこの笛を姫に託したに違いない。自分の代わりとして。愛する者を死してもなお、側で守ってやりたいと願いをこめて。
 (俺がもし、輔盛の立場だったら…同じことをあかねにしたかもしれねえ…)
 乱馬はそう思って手の中の笛をそっと握りしめた。変わらぬ想い。自分の生涯を通して貫くたった一つの偽りの無い熱い想いだからこそ…守ってやりたいという気持ち。
ひゅるるり…
 「え???」
 驚いて乱馬は自分の手の中の笛を見つめた。
 (なんだ…今…笛が答えた?)
 「あの…どうかなさいましたか?」
 怪訝な表情の女将が何事かと乱馬の顔を覗きこむ。
 「あっ別に…」
 (んなわけねえか…)
 どこか…微かに柔らかい音色が聞こえた気がした乱馬である。
 「ありがとうございました…」
 そう言って乱馬が笛を返そうと手を差し出した時…突然異変が生じた。

 ぞわり
 乱馬の背筋に言いようも無い寒気が走った。
 瞬間、乱馬の体が我知らず無意識に反応している。期せずして足の先まで緊張がみなぎり、とっさに身構えていた。
 何処からともなく吹きこんでくる甘い香りの風。それは低い唸り声を上げて一気に辺りを駆け抜けた。同時に乱馬の体に妖の気配を含んだ見えないベールに包み込まれる感覚が襲う。
 「あら…藤の花…の…香りが…窓が開いて…いた…か…しら」
 「あっ…危ねえ!」
 どさっ
 突然目の前で倒れこんできた女将を乱馬は慌てて支えた。
 「女将さん!」
 腕の中の女将に声を掛けてみるがまったく反応しない。顔が青ざめて、完全に気を失っている。
 乱馬は人を呼ぼうとして辺りを見まわした。が、目に入ってきたのは…薄紫の靄が立ち込める中、倒れこんでいる従業員達。
 「ちっ」
 乱馬は軽く舌打ちした。
 乱馬自身は普段の修行で身についた気の高まりで少し位の妖気は意識しなくても体が反応して跳ね返してしまう。しかし、普通の人間はそうはいかない。
 (待てよ…あの時の違和感……これと…)
 自分の考えにドキッとする。胸が早鐘のように打ち始めた。もし、あの時八宝菜の邪気に覆われて微かな妖気がかき消されたのだとしたら・…
 「やべえっ。あかねが危ねえっ!!」
 (ちくしょー。やっぱりあれはじじいの邪気じゃなかったんだ)
 ちょっとした隙が命取りになることを格闘家である乱馬は充分知っている。言い合った後で落ち着いて考えを巡らせるためとはいえ、あかねについて行かなかったのは油断だった。
 乱馬は女将を静かに横たえると急いで部屋へと向かった。額にじりじりとあぶら汗が滲み出る。込み上げる胸騒ぎと後悔の念。
 その時、乱馬のはっきりとあかねの声を聞いた気がした。
 (乱馬・…)
 「あかねっ!!」
 叫びながら全速力で走り抜ける。離れの部屋まで行きつく時間がもどかしい。廊下に立ち込める微かな甘い香が部屋に向かうにつれてきつくなっていくのも乱馬により一層焦燥感を募らせた。


 一方、あかねは…乱馬の予想に違わず、窮地に立たされていた。
 部屋の襖を開けると同時に、あっという間に紫の霞に取り囲まれたあかねである。それはさながら生き物のようにあかねの周りを蠢いた。甘い妖艶な香りを発しながら、狙った獲物を追いつめるかのように。
 (…しまった。油断した…)
 …ニガサナイ…
 肌に波立つ寒気が走った。
 「誰っ?」
 ぎょっとして紫に霞む部屋を見まわした。声はするけれども、姿は見えない。その時、あかねは静まり返っている部屋の異常さに気がついた。ことりとも物音がしない。初めてあかねに不安が込み上げた。玄馬や早雲の気配が感じられないということは…
 (ここはなんとか凌がなくちゃ…乱馬が来るまで…)
 甘い藤の花の香りに頭の芯が痺れるような感覚を憶えながらも、気力を振り絞ってあかねは身構えた。まず、この花びらの束縛から脱出しなければならない。
 「はぁ――っ!」と鋭い気合を吐くと一気に闘気を高めていく。それに呼応するかのようにあかねを取り巻く紫の霞のベールがざーっと退いた。だがそれは周りに幾つかの人の形を作り出した。
 「たぁー!」
 あかねは畳を蹴って突き進んだ。鋭い左右の拳が一施、二施し、狙った獲物が瞬時に
 バシュッ
 と音を立てて吹き飛んだ。間髪を入れずに、背後の敵には振り向きざまの強烈なまわし蹴りを繰り出す。が、どれも実態がない。空中に藤の花が舞っただけだ。
 「幻影…?」
 (おかしい…本体がない)
 呟いて、油断なく身構えた時だった。
 ドビュッ
 いきなり花びらが舞い散る中から白い腕が現れた。まったく予想外の敵の現れ方だった。気配すら感じ取れなかった。
 「くっ。」
 首に巻きつく白い腕をあかねは必死になって外そうとした。足をバタつかせてみたが、無理だった。ほっそりとした腕のどこにこんな力が潜んでいるのかと思うほど容赦なくあかねを締め付けてくる。
 藤の香の匂いにむせかえりながら、あかねは意識が徐々に遠のいていくのを感じた。四肢の力が抜けてそのまま暗闇に引きずりこまれる。白濁した意識の中であかねは…微かに呟いた。
 「乱馬・…」

 がらっ
 息せき切って飛びこんだ部屋の光景に乱馬は絶句した。甘いきつい香が立ちこめて、藤の花びらがふわりと舞う中、玄馬や早雲達、全員が意識を失って倒れていた。
 「親父っ!お袋っ!」
 乱馬が声をかけても、ピクリとも反応しない。
 (藤の花の香りにやられたのか…)
 思わず、その強い香りに乱馬は眉をしかめた。意識が朦朧としてくるどこか艶めいたきつい香りが乱馬の鼻腔を擽る。先ほどの香りとは比べ物にならないくらいきつい香りだ。乱馬は腕で鼻を塞ぎながらあかねの姿を捜した。
 奥の部屋の襖を乱暴に開け放つ。
 「あかね!」
 そこにあかねはいた。豊な黒髪を風になびかせて立つ赤色に桜襲(さくらがさね)の唐衣を着た女に抱きかかえられて…



つづく




作者さまより

 あー。なんか間抜けな乱馬になってしまったような…次回、格闘シーンに挑戦です。でも、はたして桜月に書けるのか????不安。(お
 楽器を登場させたくて横笛を無理やり入れてみました。これは音楽好きの桜月の思い入れだったりします。


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