未だかつて誰にも告げたことのない夢がある。 俺は、空を飛んでみたいと思っていた。 幼い頃の俺は、大人になれば出来ないことなどないと思っていた。 大人になれば空を飛ぶ夢など、あっさりと叶ってしまうものなのだと思っていた。 だから大人は、「空を飛びたい」なんて言わないのだと。 俺が知らないところで密かに空を飛んで、その自由さを謳歌しているのだろう、と。 そして虹の下にあるという、幸せの国を探しに行っているのだろうと。 どんなに俺が早く走っても、幼い俺は虹の下にたどり着くことは出来なかった。 俺がたどり着く前に消えてしまう虹を見て、俺は「もっと修行すれば、もっと俺は早く走れるようになれて、そして幸せの国を見つけることが出来るようになるんだ」と、馬鹿みたいに信じこんでいた。 大人になればもっと身体は軽くなり、力は強くなり、 俺は地面を一蹴りしさえすれば、空へと飛んでいけるようになるのだと。 しかし俺の身体は、「大人」になるにつれどんどん重くなり、力がつくほどにどんどん堅さを増し、俺が夢見た「大人」からは、どんどんかけ離れていった。 俺の足は重力によって地面に固定され、どんなに強く地面を蹴っても、俺は数秒の後にまた大地へと引き戻されてしまう。 そして、さらに俺を苛んだ事実。 どんなに早く走れたとしても、俺は虹の下にたどり着くことは出来ないのだという、悲しい現実。 大人になればなる程、俺は夢から遠ざかっていった。 いつしか、俺はその夢を見なくなった。 雨上がり。 やっと晴れたか、という気分で、女の姿になった俺は歩いていた。 水たまりに映る青空。あまり綺麗とは言えないその青い色に、俺の気分もあまり良くないままでいる。 どうせならスカッと晴れてくれりゃ、俺の気分もまだマシになるのによ。と、どうしようもない八つ当たりを繰り返す。 「…ったく、ついてねーなぁー…」 そう言って見上げた空に架かる虹。 虹に向かって飛んでいく、名前も知らない二羽の鳥。 俺の足は水たまりの中で、ばしゃばしゃと水をかき回している。 どこか虹の向こう、空高く。 昔子守唄で聞いた、おとぎの国がある。 どこか虹の向こう、空は青く。 夢見たことが全て叶う、おとぎの国が。 幸せの青い鳥が、虹の向こうに行けるなら。 何故、僕は行けないんだろう? 突然頭の中に浮かんだ言葉に苦笑しながら、俺は水たまりを蹴散らして歩き出した。 水たまりに映っていた虹は、すぐに揺らめき不安定なヴィジョンとなって、俺の心をも揺らす。 …もう虹の下には、何もないのだと知っているのに。 俺は飛べないのだと、痛いほど知っている癖に。 でも何故だか、大地を蹴って飛びたくなった。 たん、と地を蹴る。 ふわっと浮き上がる身体は、男の時よりもやや軽く感じる。 最初に見た時よりも薄くなった虹の色を数えて、やっぱり7色だと納得してみる。 水たまりを避けながら虹へと向かう。 何度もハイ・ジャンプを繰り返す。 虹があと一息で消えそうになった頃。 俺は、虹の向こう側から歩いてくる人影に気が付いた。 「…あかね?」 「あーあ。やっぱりずぶ濡れだわ。だから、傘持ってった方がいいわよって言ったのに」 笑いながらあかねは、俺に傘を差し出した。 「今さら、もう遅いけどね。乱馬どこ居るかわかんなかったんだもん。でも…」 あかねは空を見上げた。 「…すごい、綺麗な虹よね。」 そう言って笑ったあかねの顔を見て、俺はさっきまでのモヤモヤしていた気分がゆっくりと抜けていくのを感じた。 「…ねえ乱馬、虹をくぐると男は女に、女は男になるって言い伝え、知ってる?」 「知らねえなぁ。そんな言い伝えあるのか?」 「うん。イギリスだったかなぁ、イタリアだったかなぁ。外国にある言い伝え」 あかねはくすっと笑い、「小さい頃はそれを試してみたくて、庭でおねえちゃんに虹をつくってもらって、何度も何度もくぐろうとしてたわ」と言った。 虹はいつの間にか消えていた。 「きっと、虹の真下にあたしたちが居るからだね」 あかねはそう言って、笑った。 「真下?」 「もう、習ったでしょっ。空気中にある水滴に光が当たって、その屈折と反射で虹が見えるんだから、角度の関係で“真下”に来ると虹は見えなくなっちゃうんだって」 そう言ってあかねは、俺の手をぎゅっと握った。眩しいばかりの笑顔を俺に向けて、言った。 「…だから、きっとここが幸せの国なのよ」 俺は、あかねの手をぎゅっと握り返した。 「…そうだな。きっと、ここが」 あかねの言葉は俺の背中に羽を生えさせ、俺はあかねを連れて大空へと羽ばたく。 「俺さ、ちっちぇー頃は空飛びてえって思ってたんだ」 きっと、今なら飛べると思った。 完
大人になると、空を見上げる時間が減ったような気がします。 子供の頃はいつも大空を見上げていたのに。 なかなか虹も見つけられなくなってしまったなあ。 主婦だから天気は気になるのに(笑 (一之瀬けいこ) Copyright c Jyusendo 2000-2005. All rights reserved.