◇I・L・B・E? 〜5
砂くじらさま作


先生。僕の中に、今まで僕が知らなかった僕がいるんです。
そいつは僕より自分に正直で、僕よりもっと凶暴なんです。
そして、彼女を僕でいっぱいにしてしまえって。いっつも言うんです。
彼女は僕のものなんだって。他のやつが彼女に触れるなんて許せないって。
…先生。僕の中のこのモンスターを、退治する薬ってありますか?





涙が止まらなかった。今日言うつもりはなかったけれど、いつかは言わなくちゃ。と思っていた、四文字の「さよなら」という言葉。
こんなにも早く言う機会が訪れるなんて、思ってもいなかった。
目頭と顔はものすごく熱いのに、心だけが気持ち悪いくらいに冷え切っていた。
頭の中ではまるで呪文のように、これでいいんだ。という台詞を繰り返し唱えつづけていた。

これでいいんだ。
嫉妬なんていう醜い感情を抱いてしまったあたしは、乱馬の傍に居たらきっと乱馬まで汚してしまう。
乱馬には、綺麗なままで居て欲しいから。だから、これでいいんだ。
乱馬はもうすぐ、あの三人のうちの誰かと宇宙へ行ってしまうのだから。お姉ちゃんたちと同じように。
隔離病舎に行くまでもない。ここにいて、抗恋愛薬を呑み続けていれば、いつかこの苦しいのも消える。
これでいいんだ。
これでいいんだ。

何度も何度も繰り返し唱えた「これでいいんだ」という言葉は、いつしか意味すら無くしてしまった。しかしあかねは、意味を無くしたそれをただひたすらに唱えつづけた。
ずっと、ずっと。ただ、唱えつづけていた。





 「乱ちゃん、どうしたんや。そないにボーッとして。ん?」
 「…あ?あぁ…」
東風が往診先の家で夕飯をご馳走になるというので、その日の夕食は各自自由に、ということになった。そして乱馬は現在、幼馴染の右京がやっている「お好み焼き・うっちゃん」にて食事中。しかし、一向に箸は進んでいない。
 「…乱ちゃん。さては…あかねちゃんと何かあったん?」
乱馬の口の中で、ぼきっという箸の折れる嫌な音が響いた。
 「――〜〜〜〜〜っ、痛ぅぅ〜〜〜っ!!」
 「あああ乱馬さま、口から何やら出血してますっ」
 「ちょい待ち小夏っ、口ん中には消毒液をつけんでもええねんっ!」
消毒液(実は肩こり用の塗り薬)を慌てて持ってきた小夏を、右京はあわてて制止した。そして痛みで少し涙ぐむ乱馬に向き直り、言った。
 「…ホンマ、乱ちゃん…そのわかりやすい性格、何とかしいや。バレバレやん」
 「つつ…な、何でウッちゃんがあかねのことっ…まさか、シャンプーから聞いた…とかっ?1」
右京が差し出したおしぼりで口の外に出た血を拭い取りながら、乱馬は言った。
 「何のことや?」
何と無くその言葉が意味するものを感じ取りながらも、右京はしれっとそう言った。
 「う…まぁ…こっちの話…」
もごもごと言いにくそうに口を動かし、それきり乱馬は押し黙ってしまった。しかし、意を決したように突然口を開いた。
 「…俺…さ。あかねに謝ろうと思ってたんだよ。そしたら…『乱馬は悪くない』『全部あたしが悪い』って、一方的に言われて。また…あいつが泣いて。『さよなら』って言われて…」
もう正直、何していいのかわかんねぇよ。そう言って、乱馬は机に突っ伏した。

 「…どうしたんや乱ちゃん。いつもの乱ちゃんらしゅうないでっ!」
腰に手を当てそう強く言い放つ右京に、乱馬はゆっくりと俯いていた顔を上げた。
 「…いつもの…俺…?」
“いつもの俺”ならどうしてたっけ。乱馬は、そう言いたげな視線を右京に向けた。
捨てられた子犬のような目。

―ウチもお人よしやな。まぁ…こんな目ぇしてる「幼馴染」、ほっとけんしなぁ。―

右京はふうっと一つ息を吐いて、気持ちを切り替えてから言葉を紡ぎ始めた。
 「いつもの乱ちゃんなら、こんな風に立ち止まって迷ったりせえへん。ずうっと走っとるやんか。“壁があったらぶち壊しゃいい、行き止まりならいちから戻ってまた走ればいい”。いつか…そう言っとったやんか。」
それは、この店の開業を迷っていた右京に、乱馬が言った言葉だった。乱馬自身はそう感じていなかったかも知れないが、右京にとってはその後の自分の運命を大きく変える一言となったものだった。
 「…そうか…」
乱馬の顔が、見る間に明るくなっていく。自信に溢れたいつもの顔に戻りつつあった。がしっと右京の肩を力強く掴む。
 「…ウッちゃん、マジ…ありがとなっ!そうだよ、俺…うじうじ悩むなんて俺らしくねぇやっ!」
 「そうや。それでこそ…乱ちゃんやっ!」
にいっと笑って、右京は答えた。その横では小夏が、何ともいえない複雑な表情をしていた。


 「なんだか悩みが消えたら腹が減ってきちまったぜっ。ウッちゃん、豚玉っ!」
 「はいよっ!」
慣れた手つきであっという間に特製豚玉を焼き上げ、秘伝のソースをたっぷりと塗る右京。満面の笑みを浮かべながらそれを一口大に切り分け、口へと運ぼうとする乱馬。乱馬が大口を開けた、その時。
 「乱ちゃん。」
 「ふえ?」
 「…口の怪我、もう大丈夫なんか?」
 「!!」
哀れ、その手は急には止まれない。

ぱくっ。

 「〜〜〜〜っっ、いふぇ〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!!」
―どうやら「痛え」と言ったらしき乱馬の絶叫が、辺りにこだました。



くっくっくっ、と思い出し笑いをしながら、鉄板の掃除をする右京。床を掃く小夏は無言だ。
 「いやぁ…あん時の乱ちゃんの顔っ!今思い出しても笑えるわ。なぁ小夏?」
 「は?はぁ…」
ザッ、ザッという小夏が床を掃く音と、右京の思い出し笑いだけが店内に響く。思い出し笑いを不意に止めた右京は、流しの中の洗い物を片付けようと、腕まくりをしながら言った。
 「なぁ小夏。ウチな…あのパイロット訓練校、やめよう思てるんや。」
ザーという水音が響くのと、床を掃く音がぴたりと止まるのはほぼ同時だった。
 「う、右京さまっ!何故いきなり、そんな…!」
 「小夏、手がお留守や」
 「…」
ザッ、ザッと言う、ほうきの立てる音がまた響きだした。
 「…右京さま。何故ですか…?」
バシャバシャッという水音が響く。きゅっと蛇口をひねり、右京は水を止めた。
 「…この“お好み焼きうっちゃん”を、他の星にも出店する。その為に、ウチはパイロットの勉強をしとった。でもな、それは…タテマエの夢やったんや。本音は、他の星に行く乱ちゃんの傍にいて、ずっとその目を見てたい。ウチの作るお好み焼きを食べて、乱ちゃんが美味い。って言ってくれればええなぁ。って、ウチは思ってたんや。でもな…それは、あかねちゃんとかいう可愛いコの仕事やねん。ウチの仕事やのうて、そのコの仕事やった」
 「…」
食器と食器がぶつかりあう、カチャカチャという音が聞こえた。
 「そこで、や。ウチは考えた。じゃあウチの仕事は何か?ってな。」
音が止み、右京が顔を上げた。優しい微笑みを、小夏に向けた。
 「…ウチの仕事はな。未だに消毒液とアンメルツ間違ぉて持ってくるよーな間の抜けた居候を、いっぱしの仕事人にまで成長させることや。それで、いっぱしの仕事人になったそいつとウチで、いつか宇宙から帰って来る乱ちゃんとあかねちゃんを、お帰り。て、迎えてあげる事やねん。」
右京は、蛇口をひねり自分の手についた泡を洗い流した。
 「…右京さま…」
 「…ウチの夢は、地球で叶える夢や。宇宙に行く訓練は、もうせんでもええ。…小夏?」

小夏は、俯いた顔のその目から大粒の涙を流していた。右京は蛇口から流れつづける水を止め、静かな、そして穏やかな声で問い掛ける。
 「…何故…お前は泣いてるんや、小夏。」
 「…可哀想です」
小夏は、ゆっくりと俯いていた顔を上げた。
 「…このままでは、あんまりにも…右京さまが可哀想です」
右京はにこっと微笑み、少し背伸びをして小夏の頭を撫でた。二人が出会ったばかりの頃には右京より背の低かった小夏は、最近急に背が伸びて、どんどん男らしさを増していっている。
 「ええねん。今日の乱ちゃん見てたら、なんだかそれも面白そうやって思えてきたんや。…でも、でもな…」
そして、顔に笑顔を張り付かせたまま、ぽふっと小夏の胸に顔を埋めた。
 「…右京さま…?」
 「…お前は、ええコやな…小夏。」
 「…」
 「…ホンマに、ええ子ぉや…」
掠れたような声で、ぽつりと呟いた。
 「…ありがとうな、小夏…」






あかねは、重い頭をやっとのことで枕から引き剥がした。いつ寝た、という意識が全く無い。しかし、きちんと六時前に目覚めてしまう自分の体内時計が恨めしかった。
――目を覚ませ。乱馬と共に走れる日々は、もう終わったのだ。
そう自分に言い聞かせて、あかねは規定量の二倍の抗恋愛薬を呑んで、着替えを始めた。鏡に映る自分の顔は虚ろな目をしていて、生気というものが全く感じられない。ばしん、と両手で頬を打った。
しっかりしろ。これからは、乱馬という存在が居ない世界で、生きていかなきゃいけないんだから。

 「――…!」


…ランマガ、イナイ、セカイデ。



あかねは物も言わずに、床に膝をつきがくんと崩れ落ちた。
もうとっくの昔に出尽くしたと思っていた涙は、たださらさらとあかねの頬をつたっていった。
冷たい心は、ああこの薬も効かなかったな。と、冷静に考えていた。
ゴミ箱の中には、ありとあらゆる抗恋愛薬の包みが、ただ乱雑に捨てられていた。



何処となく苦い朝食が終わり、あかねは何時にも増して家事に精を出した。体を動かせば余計なことを考えなくて済む、と思ったからだ。しかし、家事のあらゆるところに機械化が進んだこの時代、あかねは午前中のみでほとんどの家事を終えてしまった。
少し早めの昼食を、父である早雲ととる。矢張り、少し苦い。
 「…そうだ、あかね。お父さん、これからちょっと出かけなければならないんだ。夕飯までには帰ってくるから、留守番よろしく頼むよ。」
 「うん。…どこ行くの?」
ごく当たり前の質問。だが、早雲は少し言いにくそうに、数秒間の躊躇いの後答えを返した。
 「…今日はね、惑星探査パイロットの選考会、らしいんだ。かつての宇宙パイロットとして、候補者を見て欲しいって頼まれててね…」
ドクンッとあかねの心臓が鳴り、あかねは考えなしに早雲に行き先を尋ねた自分を責めた。無理やりに笑って、でも俯いてあかねは言った。
 「…行って、らっしゃい。」
そして、食器を手早く片付けると、足早に道場の方へと向かっていった。もう、余計なことは考えたくなかった。
早雲はそんなあかねの後姿を見送りながら、眉間に皺を寄せて深く溜息をついた。



 「せいやあっ!」

道着に着替えたあかねの凛々しい声が、広い道場に響き渡る。玉のような汗が飛んではじける。あかねは今、父から教わった無差別格闘天道流の「型」を全て入れた体操のようなものをやっていた。幼い頃のあかねに、父がこれなら入りやすいだろうかと必死で考え、教えてくれたものだった。
あかねはいつも、何をやるにしてもその体操からはじめることにしていた。軽いウォーミングアップには丁度良かったし、何よりこれをやることで常に初心を忘れずにいられるような気がしたのだ。
ふうっ、と鋭い息を吐き出して、徐々に筋肉の緊張を緩め、体操は終わった。さあ、何からはじめようかとあかねが道場をぐるりと見回すと、その隅には人影があった。その人物は壁に背をつけて腕組みし、あかねの一挙手一投足の全てを見ていた。

 「―――!!!」

同じく道着姿の、乱馬だった。



つづく




作者さまより

〈作者戯言。〉
エピソードが入らなかったのですが、実は早雲さんと玄馬さんは元・宇宙パイロットという設定です。二人共高い精神力が買われて、かつては星から星へと飛び回り、新しい発見を色々としていった人たちでした。
で、その時に築いた財産で、現在は二人共半分隠居の身。気楽でいいなあ。
右京のエピソードは、何だか浪花節ですね…似非関西弁については徹底無視の方向でお願いします(苦笑)
それにしても、最近聴いた曲の影響を其処此処に受けている文章だ…あうあう。

砂くじら 拝。


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