◇I・L・B・E? 〜4
砂くじらさま作


…先生。先生は、神様って信じてます?
あたしは、神様を信じてますよ。そして、ちょっと憎んでます。
どうして「恋する」なんていう感情を作ったんだ、って。
…でも、ちょっとだけ感謝もしてるんですよ。
そして、神様が創ったモノに無駄なものなどないんですよね?って、いっつも聞いているんです…






長い、沈黙だった。先に口を開いたのは、東風だった。
 「…本気かい、と聞くまでもないね。君は…意志が強いから…」
まだ、驚きを隠せない表情の東風。
 「…でも、わけを聞かせてくれないか。君は、良く一人で全てを背負い込んで、その結果あまり良くない選択をしてしまいがちだ。医者としては、君が治療して欲しいと言った時点で何も言わずに治療を始めるべきなんだろうけれども…でも僕としては、その前に友人としてわけを聞きたい。…いいかい?」
こくっと強く、乱馬は頷いた。そして、自分の手を見つめて静かに語り出した。
 「…俺は、あいつを…あかねを泣かせてしまったんです」



 「…成る程。君は、君が恋した相手であるあかねちゃんを泣かせた自分に、あかねちゃんを好きでいる権利はない、と。そう…言いたいんだね?」
 「…はい」
 「…そして、それを自分で罰しようとして…こうして今、僕に恋わずらいの治療をして欲しいと言っている、と?」
 「…はい」

ギイ、と東風の座る椅子が鳴った。

 「…乱馬君。ひとつ…大馬鹿者の男の話をしてあげよう」
 「…は?」

窓の外を見ながら、東風は言った。
 「その、大馬鹿者の男はね。女神のような女性に恋をしていたんだ。優しくて、美しくて、本当に…女神のような人に」
 「…はあ」
 「しかし、ある日政府が恋愛禁止法を制定した。その日に、医者であった大馬鹿者の男の家に、その女性が来たんだ。“先生、わたしは先生に恋をしていました。しかし、今日恋愛禁止法が制定されてしまい、恋は病気になってしまいました。わたしはこの街にいると、先生を思い出してしまいそうなので、かねてから誘いがあった宇宙ステーション勤務の話を受けようと思っています。先生、お別れに…わたしに、強い抗恋愛薬を処方していただけませんか?”…って、ね」
 「…東風先生、それって…」
乱馬の言葉を遮るように、東風は続けた。
 「…男はね、その人に行って欲しくなかった。本当は、この街に、僕の傍に居て下さい。って言いたかったんだ。でも…政府が恋愛を禁じてしまったんだから仕方無いと自分に言い聞かせて、その人に一番強い抗恋愛薬を出したんだ。その人は、悲しそうに笑って…先生お元気で。って、言って帰っていった」
 「…」
 「男は本当に大馬鹿者だったから、しばらくは何故政府は恋愛を禁じたんだ。と、ただ怒りを覚えるだけだった。でもね、大馬鹿者の男はある日気付いたんだ。自分が、政府の政策なんか関係なく、その恋した気持ちを偽らずその女性に伝えていたなら、もっと違う結末を見れたのかも知れないと。自分は、全てを政府の所為にして逃げる臆病者だったんだと、やっと気付いたんだ。でも…それも、もう遅い。」
東風は立ち上がり、光の差し込む窓を背にして立った。逆光で、乱馬はその表情を窺い知ることは出来ない。
 「…乱馬君も気付いたろう。大馬鹿者の男とは、この僕だ…」
乱馬は、逆光に目を細めながら東風の顔を見た。
 「…僕はね、乱馬君にその大馬鹿者の男のようには、なって欲しくないんだ。だから…今から僕は、医者であることを忘れて、あくまで一人の友人として、君に忠告するよ。いいね?」
 「…はい」
東風はまた椅子に腰掛け、乱馬の方に向き直った。眼鏡の奥のその目は、痛いくらいに真剣だった。



 「君が今からしようとしている事は…僕から言わせれば、単なる“逃げ”でしかないよ」
 「…!!」
びく、と体を大きく震わせる乱馬。彼にとってそれは、心の何処かでそう思いつつも実際に実感したくは無かった言葉だったのだろう。しかし東風は、言葉の矢を次々と放っていく。
 「君の所為であかねちゃんが傷つき、その結果あかねちゃんは涙を流したと思うなら…どうしてその傷を、癒してあげなければと思わないんだい?どうして、あかねちゃんに自分の罪を詫びないんだい?」
 「…でも…」
 「良く、考えてご覧。君がその恋ごころを捨てたところで、君がこれ以上恋のことで悩まなくなる、位しかメリットは無いんだよ。傷ついたあかねちゃんはどうなる?放置されたままじゃないか。」
 「…」
 「それにね、乱馬君。罪人には…刑罰を決定する権利はないんだよ?」
 「…!」
東風は、優しく乱馬に微笑んだ。
 「…君は、あかねちゃんの涙を見て“混乱”し、とりあえず“責任を自分に転嫁”し、自分に対して“怒”り、でも…どうしていいかわからなくて、結局…“自分を罰する”という大義名分の下に、恋ごころを捨てるということで“逃げ”たんだ。…違うかい?」
乱馬は、俯いたまま答えた。
 「…違いません。きっと、その通りです…」

東風はにこっと乱馬に微笑みかけ、俯き加減の乱馬の目を覗き込んで、優しく言った。
 「君が、本当に自分の罪を償いたいと思うなら…あかねちゃんに言いなさい。泣かせてしまった罪を償いたい、と。償うためには、一体何をしたら良いのかと。そして、その言われたことが例え何であろうと実行しなさい。自分が傷つくことを怖れて、逃げてはいけないよ」
乱馬は、東風の目をまっすぐに見て言った。
 「…はい!」
東風はそれを見て、いつものような柔和な笑みを浮かべた。
 「うん、いい目だ。それでこそ乱馬君だ。…そうだ。だけれど、その前にきちんとあかねちゃんが何故泣いたのか、その理由を聞くんだよ。理由を知らないのに謝っても、それには誠意というものがこもらないからね。―ああ、随分と長いことお説教をしてしまったね。昼食を作らなくては…」
 「あ。先生、今日は俺が作りますよ。何がいいですか?」
椅子から立ち上がりながら、乱馬は言った。
 「おや、すいませんねぇ。そうですね…美味しければ何でも」
 「うしっ!わかりました、任して下さいよっ!今ならフランス料理のフルコースだって作れそーだぜっ!」
 「それはそれは…楽しみにしてますよ」
 「先生っ、ありがとな!」



ぱたぱたぱたっと台所へ掛けて行く乱馬の後姿を笑って見送りながら、東風は薬剤室に向かうもう一つのドアに目をやった。
 「…もういいですよ、早乙女さん。いつからそこに?」
ガチャッとドアノブが回り、玄馬がひょいっと顔を出した。
 「そうですな。“恋のレベル4をわずらってます”云々の所…らへんですかな?」
 「それじゃあ、ほとんど全部お聞きになっているじゃないですか。やだなぁ」
あはははは、という笑い声が二人分、診察室に響き渡った。

 「…まぁ、何にせよあかねくんとあの馬鹿息子には、幸せになって欲しいもんですな」
 「…我々の分まで、ですか?」
玄馬は苦笑いをして見せた。玄馬の妻であったのどかもまた、政府の恋愛禁止法によって抗恋愛薬を投与され、今はかすみと同じく宇宙ステーションで働く身だった。
 「…僕は、あの二人に“今の世界”を変えて欲しいと思っているんですよ。あの二人には、世界を変える力がある…そう思っているんです」
 「打倒リーベ論、愛は地球を救う…ですかな。とにかく、今は乱馬が作る昼食に期待しましょうか」
 「…そうですね」
診察室にまた、明るい笑い声が響いた。




次の日の朝、いつもの待ち合わせ場所にあかねは来なかった。
 「…やっぱ、来ないか。」
心がズキン、と痛んだ。しかし、乱馬はそれを振り切るように、一人走り出す。二人だと四十分かかったルートを、二十分で走りきってしまった。仕方なくもう一回走る。あまり息を切らしていないし、いつものように疲労感も感じてはいない。が、乱馬はいつも走り終えた後一休みする公園に行き、いつものベンチに腰を下ろした。
途中にあった自販機で買ったジュースを飲み、一息つく。天を仰いだ。
 「…お前の席は、いつだって空けてあんだからな。早く、また…一緒に走ろーぜ…」
ちょうど一人分あいたベンチの空席に、ヒラリヒラリと落ちる葉が積もっていった。



 「…乱馬。ちょっと、こっちに来るよろし。」
その日の講義と訓練メニューを一通りこなし、後は帰るだけという乱馬を、シャンプーが呼び止めた。
 「…シャンプー。あ、昨日の朝は…すまねえ。でも俺…」
 「下手な言い訳を聞きたいわけじゃないね。ただ、私の質問に答えるよろし」
シャンプーの目は真剣だ。
 「…乱馬。ズバリ、恋をわずらっているあるな?」
乱馬はぎくっとした。が、すぐに同じく真剣な目で、乱馬は答えを返した。
 「…ああ。しかも、レベル4だ。教官に報告するつもりだったら止めねえぜ。」
 「報告はしないね。私も…わずらっている。ただ、レベルは2だ。ここでも乱馬には敵わないね。」
何処か自嘲気味の笑みをシャンプーは浮かべた。
 「…乱馬のその相手は…あの、あかねという名の少女か?」
シャンプーのその言葉に、顔を赤くして力強く頷く乱馬。
 「そうか。ならば私は今日から薬を代える。“抗恋愛薬”から、“抗失恋薬”に」
 「…シャンプー、お前…?」
シャンプーは、にこっと乱馬に笑いかけた。自信家のシャンプーが良くする、不敵な笑み。
 「…黙って失恋する程、私心根が真っ直ぐでない。最後の意地悪ね!」
べしっと乱馬に抗恋愛薬の包みを投げつけ、シャンプーは笑って走り去った。
 「…あいつ、最後に告白…していきやがった…」
落ちた抗恋愛薬を拾い上げ、乱馬は少し頬を赤らめた。そして、シャンプーが去った方を眺め、ぼそっと呟く。
 「…ごめんな、シャンプー」

謝るな。謝られたら私、余計みじめでないか。
そういう声が、聞こえた気がした。



 「…あ。」
帰り道で乱馬は、いつものあのイチゴ味のアメが切れかけていることを思い出した。Uターンして、そのアメが安売りしているドラッグストアへと向かう。
 「そういや、歯ブラシもそろそろ換え時だったな…ついでに買っとくか。そうだシェービング・クリームも…」
ぽいぽいぽいっと、手際良く買う品を買い物篭に放り込んでいく。悲しいかな、東風医院はのどかが去ってから男所帯。診察であまり外に出られない東風、家事全般からなんだかんだと理由をつけ逃げ回る玄馬のかわりに、乱馬は時々こうして“主婦”をする。現代では特に珍しくもない光景であった。
 「…うし、こんなもんかっ。」
レジの前に立ち会計を済ませる乱馬。何とはなしに、店の奥の薬品コーナーを見た。
見覚えのある美しい後姿が、そこにいた。


 「…あかね」
 「!」

あかねが振り返ると、そこには乱馬がいた。嬉しそうとも悲しそうともとれる、複雑な表情をしていた。
 「…乱…馬…」
朝にめいっぱい呑んだ抗恋愛薬のせいで、鼓動は早まらない。だが、頭が一瞬にしてまっしろになり、手から力が抜け、手に持っていたものが落ちた。
 「…と。あかね、何か落としたぞ?」
乱馬が、あかねが落としたものを拾おうと屈み込んだ。その落としたモノに書かれている言葉を見て、乱馬は表情を変える。無言で立ち上がり、あかねの目の前までそれを持ち上げる。
 「…あかね…何故?」
それは、抗恋愛薬。良く効く、と評判のものだった。
 「…もう、東風医院には、通わないということか?」
あかねは俯いたまま、静かに頷いた。
 「…それは、東風医院に俺が居るからか?」
あかねは、答えない。ただ目に涙を溜めて俯いていた。
 「…俺は、お前がこの前泣いた理由を知りたい、と思ってる。俺に何か非があるのなら、それを謝りたいと思ってる。なぁあかね、俺は――」


 「…乱馬は悪くないの」
堪えきれなかった涙がひとつ、零れ落ちた。
 「…お、おいあかね…」
声からもその、乱馬が動揺している様が伝わってくる。ああ、またこの優しい人を困惑させてしまった。と、あかねは冷たい心のままぼんやりと考えた。
 「…あたしが、全部悪いの。わがままで、自分勝手で、醜いあたしが全部」
顔を上げた。涙は流していたけど、多分きちんと笑えていたと思う。
 「―だから。乱馬があたしと一緒にいると、乱馬まで汚れちゃうの。だから、もう…会わないの。」
ばさっ。と、乱馬が持っていた袋が落ちる音がした。乱馬の顔は見れなかった。
 「…さよなら。」
結局、抗恋愛薬を買えないまま、あかねは逃げるようにして店を出た。
もうあの店には行けないな。と、ぼんやり思った。



つづく




作者さまより

〈作者戯言。〉
乱馬を諭すことの出来る数少ない人物・東風先生。今回の話で早乙女一家が東風医院に居候している理由はこれです(苦笑)
東風先生とかすみお姉ちゃんのストーリーは個人的に気に入っています(笑)ああ、作者の気まぐれに翻弄されるかわいそうな東風先生とかすみお姉ちゃんのカップル…
でも、東風先生のやさしさって、辛さを味わった者のやさしさだと思うんですよね。勿論辛さを知らなくても人に優しくすることは可能なんですけど、辛さを知ってその上それを優しさに変換出来る人、というのは物凄い尊い存在だと思います。

砂くじら 拝。


Copyright c Jyusendo 2000-2005. All rights reserved.