◇I・L・B・E? 〜3
砂くじらさま作


…ねえ先生。失恋って、やっぱり痛いんですか?
でも僕、未だ失恋してないのに…痛いんです。
この痛みと、失恋の痛みと。どう違うんですか?
恋愛を薬で治すのと、失恋して自然に治すのと。
ねえ先生、どっちのほうがいいんですかね。




家に帰ったあかねは、すぐに自分の部屋へと向かった。机の上に置きっ放しだった抗恋愛薬の包みを手にとり、本来一回二錠である筈の錠剤を、一度に四錠呑み込んだ。
胸がくるしい。目の奥と、頭と、心臓の近くが痛い。喉がひどく渇いている。涙が止まらない。自分が、嫌で嫌でたまらない。あんなことを考えてしまった自分を、早く外へと追い出してしまいたい。
薬が効くまでの間、あかねは机の上に置いてある辞書を手にとった。それは、自分の中にあったあのおぞましい感情に、何かしらの理由づけをして「それは何でもないことだ」と安心したい、という逃避のあらわれだったのかも知れない。だがあかねは、ただ無意識的に辞書を開いた。


【恋愛】 男女が互いに相手をこいしたうこと。日本では――年に恋愛禁止法が制定されてから、精神病の一種となっている。躁鬱病のような症状が特徴的。他にも、嫉妬などの症状を伴うこともある――

【嫉妬】 ―2.自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。――


嫉妬。
ああ、そうか。あのおぞましい感情は、多分嫉妬という名前なんだ。
そしてあたしは、やっぱり乱馬のことが好きなんだ。

即効性の抗恋愛薬が効き始め、徐々に冷たくなりゆく心を頭の隅で感じながら、あかねはやけに冷静にそんなことを考えた。
その日作った朝食は、何だか少し苦かった。




―追おうと思えば、後を追えた。鍛えに鍛えぬいた足だ、追いつくのも容易いだろう。しかし。
あかねは、泣いていた。はじめて、あかねの目に浮かぶ涙が流れるのを見た。目の前で。
 「乱ちゃんっ、まだ質問の半分も答えてへんでっ!」
ごめんなさい、と言っていた。その言い方は、まるで自分のしでかした事の罪深さに気付いた子供のようだった。
 「乱馬っ、早く答えるねっ!」
足が、一歩も動かなかった。
 「乱馬さまっ!」
声が、少しも出なかった。
 「乱ちゃんっ!」
頭が、回転を止めた。



 「――…五月蝿い」

ぴたっ。と、三人娘の口の回転が止まった。
 「…今日は精神状態が良くねえから、訓練は休むと…教官に伝えておいてくれ」
低く重い声で、誰にともなく呟く。そのまま、フラフラと東風医院へと歩き出す乱馬。
 「…せ、せやかて乱ちゃ…」
何かを言いかけた右京をぎろりと睨む。同じく乱馬を見ていたシャンプーと小太刀も、右京と同時にその鋭い目に射竦められてしまい、空気が一瞬にして真空状態になってしまったような息苦しさを覚えた。

 「…今日だけは、俺をほうっておいてくれ」

有無を言わせぬ、断罪者のような口調だった。その言霊に逆らうことは死を意味するかのような冷たい響きに、三人は揃って背筋に冷たいものを覚えた。
一言も発せぬまま。三人は、ただ乱馬が東風医院へと帰っていく様を見ていた。
重々しく閉まる扉。それは、三人の乱馬へのほのかな想いを嘲笑うかのように、三人の目の前で今、閉じられた。
音を立てて、ゆっくりと。



乱馬は混乱していた。しかし、心の底は奇妙なほどに冷静だった。もう一人の自分が、混乱している自分を笑って見ていた。

あかねは、泣いていた。―何故?
あかねが、謝っていた。―誰に?

ゆっくりと、二階へ続く階段を上っていく。まだ夢の中にいるであろう、自分の父親と東風を起こさないように静かに。

昨日まで笑っていた。
俺のからかいの言葉に頬を膨らませ、怒ったフリをしていた。
何故。今日は、泣いていた?

自分の部屋の扉のノブを回した。

何故、あかねは泣いた?
何故、俺を見て――泣いた?

後ろ手で、扉を閉めた。と同時に、乱馬の中の乱馬を嘲笑っていた「俺」が囁いた。


―何故泣いた、とか、ホントはそんなこと問題にしてねえんだろう?

ああ。

―結局お前は、理由が何にせよ導き出される結論を見たくねえだけだろ?

そうだよ。

―結論は、もう知っているんだろう?

はじめからな。


床に膝をついた。天を仰いだ。涙は、出なかった。

―そうだ、自覚しろ。そして、自分の罪深さを思い知れ。
―さあ、言ってみろ。俺が…、誰を。どうしたんだ?…

 「―…俺が、あかねを…」




泣かせた。






右京は、じっと考えていた。手には、抗恋愛薬の包みと、コップ一杯の水。
いつも訓練となると、目を輝かせ子供のようにはしゃいでいた乱馬。講義中は殆ど寝ていたり聞いていなかったりなのに、飛行訓練やその他の実践的訓練の時にだけ、人が変わったように真剣に取り組んでいた乱馬。
その時の目が、右京は好きだった。
そして今日。その目は、敵意としか言えない感情を、右京に向けてきた。
人前では、滅多に感情を露にしない幼馴染が。自分達の目の前で、混乱して、怒って、そして。多分、泣いていた。
その目が追っていたものを、今日ついさっき、右京は知ってしまった。ちらりと見ただけの、可愛らしい少女。
―天道あかね、とか言っていた。その子のことを語る乱馬は、いつになく精神波が乱れていた。
幼馴染だから。右京には、わかっていた。

その子のことを語るあの時の目は。乱ちゃんが、心の底から好きなモノを語る時の目や。
ウチが一番好きな、乱ちゃんの目や。

 「…ホンマ、かなんなぁ…乱ちゃんには。」
薬を出して、口の中に含み水でそれを流し込む。ふう、と溜息をついた。
 「…あの、右京さま…そろそろお店、開けませんと。」
扉の陰に半分身を隠しながら、おずおずと小夏が言った。
 「…せやな。お客さん、待ってるしな。」
くん、とひとつ伸びをする右京。さあ仕事や、と呟いて、開店の準備を手際良くはじめる。そんな右京を見て、小夏は口を開いた。
 「…右京さま。」
 「何や?」
 「…泣いても、いいんですよ?」
右京は、持ちかけた重いソースの入った瓶をごとんと下に下ろした。
 「…ウチが泣いたところで、あのあかねっちゅう娘の涙には勝てへん。」
そう言って、右京は笑って見せた。そして、俯いた。
 「…右京さま…」
何か言いかけた小夏の口先を制し、右京は顔を上げた。笑っていた。
 「…小夏。この瓶重いわ。ちょっと…手伝ってぇな。」
 「…は、はいっ!」


午前の診察を終え、一息ついた東風の耳に、不意に遠慮がちなノックの音が飛び込んで来た。
 「…どうぞ?」
扉を開け入ってきたのは、乱馬だった。
 「乱馬君か。…心配したんだよ?三食欠かしたことのない君が、朝食に出てこないんだから…」
 「…すいません」
その声と表情に、力はなかった。
 「…何か、あったね?」
東風が勧めた椅子に腰掛け、乱馬は長いこと沈黙していた。が、突然意を決したように口を開いた。
 「…先生。俺、多分…いや、確実に…」
すうっ、と息を吸った。
 「恋の、レベル4をわずらってます」
東風は別段慌てず、ただいつものようににっこりと笑った。
 「…知ってるよ。その相手が、あかねちゃんだってこともね」
ぼっ、と乱馬の顔が赤くなった。
 「…そんなに、わかりやすかったですか?俺…」
一応ひた隠しにしていたつもりだったんですけど、と乱馬は言った。
 「うーん、まぁ伊達に君と四年も一緒に暮らしてないしねぇ。それに、僕は医者だよ?これでも。」
顔をますます赤くし俯く乱馬に、東風はくすくすと笑いながら、多分君のお父さんは僕よりももっと早くに気付いていたと思うよ、と言った。
 「…で。そんなに隠し続けていた事実を、乱馬君が急に公開する気になったのは何故だい?」
乱馬は、顔をまっすぐ東風に向けた。悲しげな目をしている、と東風は思った。

 「…治療、して欲しいんです。今すぐに」



つづく




作者さまより

〈作者戯言。〉
他の作品より明らかに短いんですが、作者の都合上ここらで切ります。この先の語り長いんだもん…
つくづく自分の作品には改行がやたらめったら多い、と思います。あと句読点も多いかも。どっちかというと小説書くより詩を書いていることの方が多かったことの副作用か、単に妙な癖なのか。
でもきちんと自分の中では確固としたルールに基づいてやってるらしく、時々句読点の位置とか改行の量とかに物凄く悩みます。
「頭ん中で朗読」(Not黙読)しながら書いてるから、きっとこーいう風になるんだろうなぁとか思います。もし大量の改行や句読点に不快感を覚える方がいらっしゃったら御免なさい。
とりあえず、行を稼いでるわけじゃないんです…(苦笑)
砂くじら 拝。


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