◇I・L・B・E? 〜2
砂くじらさま作


ねえ先生。あたし、恋しちゃったみたいなんです。
あいつを見ると、ドキドキするのが止まらないんです。苦しいんです。
今は、そのドキドキを止める薬があるんですよね?
でもあたし、呑みたくないんです、その薬。
苦しいのが好きだなんて、あたしおかしいですよね?
…やっぱり、「恋」は治療しなきゃいけない病気なんですか?




コンコン、とあかねの部屋の扉がノックされた。
 「あかね…帰ってきたのかい?」
返事はない。
 「あかね。そろそろ…夕食の仕度をはじめないと、まずいんじゃないのかい?」
やはり、返事はない。
 「…あかね?お父さん、入るよ?」
ガチャリ、と扉が開く。父親である早雲があかねの部屋に入ると、その部屋の主であるあかねはベッドの上で眠りこけていた。枕を抱きしめて、手にはイチゴのアメの包み紙を握りしめて、幸せそうな顔をして。
 「…寝てたのか。仕方無い、いつもあかねには頑張ってもらっているし、今日は店屋物でもとるかな?―」

ふとあかねから視線をずらした早雲の目に、白い袋が飛び込んで来た。その袋に書かれた、「抗恋愛薬・天道あかね様 東風医院」という文字。
ふっ、と苦笑いを浮かべる早雲。刹那、あかねが寝言を言った。
 「…乱…馬ぁ…」
早雲は、愛しい娘を優しく見つめ、誰にともなくぽつりと呟いた。
 「…お前と乱馬君は、この国で最後の“恋愛の末に産まれた、正しい形としての子供”だから…惹かれあってしまうのかも知れない。嫌な時代に、お前達は生まれてしまったね…」
そう呟いて、早雲はあかねの部屋を出た。ぱたんと音を立てて扉は閉まり、幸せそうな寝顔のあかねがその部屋に一人残された。





あかねは、毎朝六時に起きる。そして手早くトレーニングウエアに着替え身支度を整えて、その後一時間近く外を走る。その後家に帰ってシャワーを浴び、また着替えた後に、父親と自分二人だけの為の朝食を作る。…作ると言っても、今は精神力を使用する全自動調理器があるので、実際にやることと言ったら「出来上がった料理を頭に思い浮かべ、念じる」ことぐらいなのだが。
この「朝食を作る」のも、三年前まではこの天道家の長女・かすみがやっていた。しかしかすみは、三年前にそのおっとりした外見からはとても想像がつかない程の強靭な精神力を買われ、現在は宇宙ステーションで働いている。帰るまでにはあと三年かかる、と言われていた。次女のなびきも先月会社を興し、現在は女社長として、世界に留まらずこの太陽系を文字通り「飛び回って」いるはずだ。天道家の家長である早雲の妻は、「恋愛禁止法」が制定されるだいぶ前から既にこの世にいなかった為、今現在天道家には早雲とあかねしか住んでいなかった。

あかねが朝に走る理由は二つあった。一つは、自分を鍛える為。精神力ばかりが何かと重視され、身体能力は軽視されがちな現代だが、あかねは身体を鍛えてこそ精神も鍛えられるのだ、と思っていた。父親が今時珍しく「道場」などというものを経営している為、なおさらそう思っていた。
…そして、もう一つ。もう一つの「理由」の広い背中が、だんだんと大きく見えてきた。意識していないにせよ、次第に上がるスピード。

 「…よ。今日も時間通りだなっ」
 「当たり前じゃない。あたしはあんたと違って時間には厳しいのよっ!」
 「おうおう、吹いてくれるじゃねーか。で、どーする?今日のルートは。」
 「そうねぇ…天気も良いし、H公園に向かうルートにしましょ。」
 「うしっ。じゃ…行くかっ!」


乱馬も、父親がある格闘流派の二代目だった為、幼い頃から身体を鍛えていた。例え誰かが無駄な行為だと言ってそれを笑っても、ただストイックに、黙々と己の身体を、そして精神を鍛えていた。
趣味とも言えるその行為が一致した十六の頃の二人は、父親が友人どうしだったこともあり、案外簡単に打ち解けていった。唯一格闘のことを話せる同年代の相手。趣味を共有する友人。二人がその関係を、「友人」から「恋人」に昇華させたいと、ほんのりと考えるようになった矢先。
―二人が十七の頃、恋愛禁止法が両院を通過し、法律として制定された。
二人の恋心は、実ることなく闇の中へと落とされた。しかし、それは確実に成長し続けていた。お互いが二十歳になった今でも、それは闇の中で今も強烈な光を放ち続けていたのだ。



ガシャコンッ。ガシャコンッ。
 「…ほい。」
 「あ、ありがと。」
四十分ほどでそのルートを消化し、二人はいつも通りに東風医院の近くの公園のベンチで休む。今日は珍しく、乱馬があかねに自販機のスポーツドリンクを奢った。あかねにその缶を渡し、隣の席にどっかと腰を下ろす乱馬。
 「…あ。そういえば…昨日のアメ、ありがとね。」
あかねがスポーツドリンクを飲みながら言った。
 「…おう。」
ワンテンポ置いて、乱馬が答えた。
 「…そ、そういえばさ。なんで…イチゴ味のアメなの?」
 「…何で?」
 「だ、だってさ。乱馬ってそーゆーの買ってるってイメージ、ないもん。意外だよ。」
 「訓練中のお友達だぞ、あのアメは。たまーに仲間に分けてやったりもするけど、大体のヤツに同じ事言われるぜ。…そんなに意外か?」
 「意外。」
 「…」
乱馬はぐいっとスポーツドリンクを飲み干した。そして、遠くを見ながらぼそっと呟いた。

 「…そうだな。…好き…だから。」
あかねが。と続く言葉を遮るように、乱馬は音を立て、手にした缶を小さく潰した。

あかねは、自分の心拍数がどんどん上がっていくのを感じた。自分に向けられた台詞ではないと解っているのに、手が震えてしょうがない。自分を落ち着かせるように、スポーツドリンクを飲み干した。

さわさわさわ。と、ただ木々が葉を揺らす音だけが聞こえた。
あとは、静まらない自分の心臓の音ばかり。

さわさわさわ。
どきどきどき。

二人共、考えていることは同じ。
「帰ったら、すぐに抗恋愛薬呑まなきゃ」。それと、
「今のこの時間が、ずうっと続いたらいいのに」。



 「――…あ。」
あかねが声を上げた。
 「…もう七時だわ。帰ってご飯、作らなくちゃ…」
顔が赤いまま、あかねは立ち上がった。
 「…じゃあ、また…明日。」
 「…ああ。…また明日」
顔が赤いまま、乱馬は答えた。あかねはくるっと半回転して、平静を装って歩き出した。

 「…あ。」
突然、何かを思い出したように乱馬が呟く。あかねは、聞こえなかったふりをして歩きつづけた。
乱馬が立ち上がる音が後ろから聞こえる。公園に敷かれた細かな砂を踏みしめる音が、だんだんと大きくなっていく。しかしあかねは、振り返らずに歩きつづける。


静まれ、心臓。


 「あかね。」
目の前に乱馬がいた。ああ、やっぱり乱馬は男の子で、足の長さもあたしと全然違うから、簡単に追いつかれちゃうんだな。と、あかねは半分熱にうかされたような頭でそう思った。
 「!」
乱馬は、前触れもなくあかねの右手をとった。握りしめた乱馬の右手と、あかねの右手の下にぎこちなく添えられた乱馬の左手に挟まれて、あかねの右手はまるで乱馬の感触を出来るだけたくさん感じようとしているかのように、全ての意識を触れられている場所に集中させていた。
大きくて、ごつごつしていて、あたたかい乱馬の手。握りしめていた乱馬の右手が、そっとひらかれた。
手の中に何かが落ちた感じ。乱馬が右手をどけると、昨日貰ったイチゴ味のアメが三つ、あかねの手の中にあった。
 「あ…昨日の。」
 「…うまかったろ?また、やるよ。」
そう言って、乱馬はあかねの右手を両手で包み込み、アメを握らせた。
乱馬の手が離れる時、あかねは少し寂しく感じた。あかねは知らなかったが、それは乱馬も同じだった。まだ自分の手に残る感触を味わうように、二人は軽く自分の手を握る。

 「…じゃ、な。」
 「…ん。」

たっ、と駆け出す乱馬。立ち尽くしたまま、それを見送るあかね。きちんと笑えていたかどうか、それだけが気になった。
どうやって、どの道を通って帰ったか。そして、抗恋愛薬を呑むことすら、その日のあかねは忘れてしまった。


その日の朝食は散々なもので、一口食べた早雲は後に「あの時は死んだ母さんに出会えて、ちょっとラッキーだったよ」と苦笑しながら語った。
あかねは、その日は結局抗恋愛薬を呑まなかった。一日を殆ど自分の部屋の中で過ごした。ゆっくりと、慈しむようにアメを口の中で転がしながら、あかねはこの上ない幸せを感じていた。


一方、乱馬。
 「…やったぜっ!」
自分の部屋に駆け込んで、なるべく小さな声で。しかし、テンションはメーターを振り切った状態で、乱馬は小さくガッツポーズをした。心臓はエイト・ビートを叩いたまま静まろうとしない。顔はおそらく真っ赤だろう。しかし、どんなに普段通りに戻そうとしても、顔のにやけが止まらない。
ばふん、とベッドにあお向けに倒れこむ。自分の両手のひらをかざして見る。
アメを渡すことを口実に。ただ、あかねをもう一度きちんと見たかっただけ。ただ、あかねのその華奢で小さな手の感触を、もう一度きちんと感じたいと思っただけ。
あかねの手は小さく、白く、美しく、そしてすべすべしていて柔らかだった。
ぎゅっ、と自分の手を握る。この自分の武骨な手で、全て包み込んでしまえる程に小さいあかねの手。顔を両手でおおうと、まだその手の中にあかねの熱と感触とが残っている気がして、乱馬は目を瞑り、暫くの間そうしていた。
いきなり自分があかねの手をとった時の、あかねの驚いた顔。アメの存在をその手に感じたであろう時の、何とも言えないやわらかで、少しはにかんだ笑顔。

 「…明日も、アメ持ってこー…」
乱馬もまた、その日はパイロット訓練校が休みなのをいいことに、一日中そんな調子だった。


しかし、幸せな気分はそう長くは続かなかったのである。



翌日。あかねがいつものように、東風医院の近くの乱馬との待ち合わせ場所に行くと、そこには既に“先客”がいた。
 「乱馬さまはこうしていつも心身を鍛えておいででしたのね!」
 「さすがね、乱馬。伊達にあの強者揃いのAクラスで、トップを守りつづけてないね。」
 「健全な精神は健全な肉体に宿る、って言うしな。乱ちゃんはまさにそれや。ほな、こうしてウチも一緒に毎朝走ったら乱ちゃんのパートナーになれる!…っちゅーワケか?」
 「何言うね右京!」
 「そうですわ!乱馬さまのパートナーになるのは、このわたくしですっ!」
 「違うね!乱馬のパートナーは、この私ね!」
朝っぱらからはた迷惑な小競り合いを展開しているのは、乱馬のパートナーとして名乗りをあげているという、シャンプー・右京そして小太刀の、このブロック-Nでは名物とも言える「美人で精神力も強いが我も強い三人娘」だった。
その三人娘に囲まれている乱馬が、うんざりといった表情で遠くを見ている。と、その目がただ立ち尽くすばかりのあかねの姿を捉えた。暗かった表情がぱあっと明るくなる。
 「…あかねっ!」
突然名を呼ばれたあかねは、まるで怯えた小動物のような反応を示した。乱馬が三人娘をかきわけ、あかねの元へと駆け寄ろうとする。しかしそれは数歩で止まった。否、正確に言えば「止められた」。

 「乱ちゃん。何やこの子?友達か?」
 「…見ない顔ね。パイロット訓練校には居ない」
 「あの女は一体誰ですのっ、乱馬さま!」
詰め寄る三人娘に行く手を阻まれた乱馬は、ただ冷や汗を浮かべている。
 「…だ、だからぁ。俺の親父の友達の娘でっ、趣味が合ってたから仲良くなって…」
 「いつ頃知り合ったねっ?!」
 「え…えっと…確か俺が十六の頃に…」
 「名前は何て言いますのっ?!」
 「天道あかねだっ。何で本人が目の前に居んのに俺に聞くんだよっ!」

あかねは、疎外感と孤独感を感じていた。最早、四人が目の前で繰り広げている会話も耳に入らない。
ただ、無音の世界の中で、乱馬と同年代くらいの、どこかで見たことがあるような女性三人とが会話している、ということを感じているだけだった。


…乱馬。その女の人たちは…誰なの?
どうして、そんなににぎやかに話をしているの?
どうして、乱馬の顔は赤くなっているの?

乱馬。他の女の人と、話なんかしないでよ。
あたしだけを見てよ。
あたしだけと話をしてよ。


 「――…あ…」
――アタシノ乱馬ヲ、盗ラナイデヨ――


 「!!」

ぱっ、と両手で口を押さえる。何?今の…おぞましい考えは。あたしは、何を、考えたの?
あかねは、今しがた無意識のうちに口の端に上った言葉に戦慄を覚えた。乱馬は誰のものでもないのに、「あたしの」と断定しているその傲慢さに吐き気を覚えた。
そんなことを考えてしまった自分がたまらなく嫌で、あかねは自分で自分を激しく憎んだ。ぽろぽろと、自然に流れていく涙。

あかねのただならぬ様子に気付いた乱馬は、あかねを見てその名を呼んだ。
 「―あかねっ?!」
がくがくと振るえているあかね。目を、これ以上ないというくらいに見開いている。その顔色は青く、口元を両手で覆っている。
 「―…ご、ごめん、なさ」
言葉にならない謝罪の言葉を残して、あかねはただがむしゃらに家へと走った。
 「あかねっ!」


―何時の間にか乱馬のポケットから落ちていたアメは、踏み潰されて跡形もなくなっていた。



つづく




作者さまより

〈作者戯言。〉
そういえば、あの三人娘を小説内にきちんと登場させたのは初めてでした。
私の中の乱あ小説時ポリシーとして、「あの三人娘を単なるジャマーとしてばかり扱わない」というのがありまして。
人を好きになるという行為自体に罪はないわけで、三者三様で誰もが乱馬を「自分なりの愛し方」で愛していたキャラなわけですから、例え乱あ視点から見れば彼女らが邪魔な存在でしかなくても、邪険にしか扱わないという扱い方をしない!というのを、実は密かに決心しておりました。
例え敗れることが前提付けられた彼女らでも、勝者にばかりスポットライトを当てる描き方だけはしないぞ!と、思ってはいるのですが…(汗)
今回のこの小説では、「愛すべきジャマー」として彼女らを描きたい、と切に思う次第で御座います。どうなることやら。

砂くじら 拝。


Copyright c Jyusendo 2000-2005. All rights reserved.