◆しなやかな腕の祈り
砂くじらさま作


びり。
あかねは、今千切ったばかりの日めくりカレンダーの一枚を見て、ふっと溜息をついた。
 「…今日で四年目突入、かぁ…」
許婚である乱馬が、水を被ると女になるという変態体質を直す、と言って天道道場を去ってから、もう四年の月日が経過していた。
そして、乱馬が「そろそろそっちに帰るから…逞しくなった俺見て、惚れ直すなよ?」と、少し低くなった声で電話をかけてきてから、今日で丸三日経つ。
 「…あんたの“そろそろ”は一体いつになんのよっ」
くしゃくしゃに丸めたカレンダーを、ゴミ箱に投げ入れながらあかねは呟いた。
 「時間にルーズなところはおじさまに似たのねぇ…」
テレビを見ながら呟くなびき。
 「道に迷ってたりとか、してないといいわねぇ」
お茶を淹れながら、のほほんとかすみが言う。
 「はやく帰ってきてくれないと、あかねがいき遅れてしまうよ。ねぇ早乙女君」
 「うむ。可愛い妻をほったらかしにするとは不届き千万」
 「あら、あなたに其れを言う資格はあるのかしら?」
のどかが日本刀をちらつかせながら言う。口調が穏やかなぶん、恐さは倍だ。
 「…」(ばっしゃ)
玄馬は何処からかバケツを取り出し、パンダになった。これで誤魔化したつもりらしい。
今さら「妻」と茶化されても、あかねは何の反応も示さない。こういった会話を目の前で四年間も続けられていたら、嫌でも慣れてしまう。それに、肝心の意地を張る相手がここにはいないのだ。今さら一人で意地を張る理由も無い。
さらに、すったもんだの末どうにか「恋人同士」と呼べる関係に二人が発展していることは周知の事実。今さら二人の関係や未来についてを冷やかされたところで、特にどうなることもないのだった。
 「…はぁ。」
あかねはもう一つ溜息をつくと、いつもの場所に座って、テレビの画面に目をやった。

 『――…只今入ったニュースです。先ほど、東京都練馬区谷原の交差点で、トラックの積荷の崩落事故がありました。下敷になった女の子が一人死亡し、その女の子を助けようとした若い男性が、足に怪我を負った模様です』
 「あら。ここの交差点…見覚えあるわ。恐いわねぇ」
画面に映ったそこは、家族の誰もが一度は見たことのある場所だった。鉄骨とおぼしきモノが散乱し、おびただしい血が道路に広がっている。
 『亡くなったのは、守屋みさきちゃん、四歳。この付近のマンションに住んでいて――』
 「この子、あかねの小さい頃にそっくりじゃない?」
 「本当…そっくり。他人の空似ってあるものなのねぇ。…何だか、不気味だわ」
画面に映し出されたその女の子の顔は、あかねが四・五歳の頃の顔に、驚くほどそっくりだった。あかねはぞく、と、背筋に冷たいものを感じた。
 『…怪我をした男性は、練馬区の早乙女乱馬さん、二十一歳で――』
 「「「「えぇ?!」」」」
皆が一斉にテレビ画面を見つめたその時、タイミング良く病院からの電話が鳴った。



 「…大丈夫です。命に別状はありません。ただの骨折です」
 「…そうですか…」
乱馬が運び込まれた先の病院で、駆けつけた天道家+早乙女家の面々は、皆それぞれに安堵の溜息を漏らした。
 「ただ、何故か疲労が激しいようなので、今は眠っています。だから、ちょっと皆さんのご面会は出来ないのですが…」
それは当たり前であろう。つい昨日まで、四年間にも渡る修行の旅に出ていたのだから。
 「退院は、何時になりますかね?」
早雲が尋ねた。
 「そうですね…お若いですし、なかなか回復力もある方のようですので…明日の昼には。勿論松葉杖付きで、ですが」
 「そうですか。ありがとうございます。…ところで先生。ちょっとした相談ですが…一人ほどこの病院に泊めて頂けないでしょうかねぇ?彼が起きたら、真っ先に会わせたいので」
 「一名くらいなら、なんとかなりますよ。幸い今はあまり入院患者さんもいらっしゃいませんし」
それを聞くや否や、早雲はくるりとあかねの方に向き直った。
 「ようしあかね。今日はここに残って、明日乱馬君と一緒に帰ってきなさい。」
 「え…?う・うん…」
強い口調の早雲に気圧されたあかねは、思わず頷いていた。まぁ、乱馬の傍になるべくついていたいと思っていたから、好都合だが。
 「そうと決まればッ!」
おやじーずが手を取り合い、歌い上げるように叫んだ。
 「早乙女君、帰って祝言の準備だぁぁぁ〜〜〜ッッ!」
 「これで無差別格闘流も安泰だぁぁぁ〜〜〜〜ッッ!!」
 「あなた。病院の廊下では静かになさいッ」
のどかが日本刀をちらつかせながら諌める。
 「んふふ、あかねしっかりね♪」
 「あかねちゃん、後でお着替え持ってくるから。」
何処までもマイペースな姉二人。
それぞれに勝手なことを言い、家族はわいわいと帰っていった。あかねは一人、乱馬の病室の前に取り残される。
 「…あの。病室…入っていいですか?」
 「ええ。貴方一人なら構いませんよ。くれぐれも、彼を無理に起こさずに、そっとしておいてあげてくださいね」
医者はそう言って、静かに病室のドアを開けた。




聞こえるのはただ風の音だけ。テレビはあるが、ついていない。その灰色の画面は酷く物寂しかった。窓に掛かったカーテンが、風に吹かれてふわり、とふくらんだ。
落日の赤っぽい光をその身に受けながら、四年ぶりに見る乱馬は安らかに寝息をたてている。あかねは、高鳴る自らの鼓動を感じながら、そっとベッドに近づく。
手近にあった椅子を引き寄せて座り、乱馬の顔をじっと見つめた。
夢さえも見ない深い眠りに落ちているのだろう。乱馬は寝返りをうつこともなく、リズミカルな寝息をたてているだけだ。
浅黒く、日に焼けた顔。顔つきは、少年のそれから美しく逞しい青年のものへと、変化を遂げていた。
ますます伸びた背に、病院のベッドは少し窮屈そうだ。右足の白いギプスが、何とも痛々しい。
あかねは、ベッドから出ている乱馬の手をそっと握った。大きく、力強いその手。あかねの知らない四年間を物語るかのように、その手には至る所に傷がついていて、無骨だけれども美しい。
 (四年間、あたしも辛かったけど…あんたも辛かったのよね、きっと…)
 「…お帰りなさい、乱馬…」
あかねはその手を握り締めたまま、一頻り静かに泣いた。そして、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。




 『――昨日亡くなった守屋みさきちゃんのご両親は、法規定上の積載量を無視した量の積荷を乗せていたこの○×運輸に対し――』
 「…ん…」
何時の間にかテレビがついている。アナウンサーの無機質な声に気が付いて、あかねはゆっくりと目を開く。乱馬の方に目をやると、既に起きていてテレビをじっと見ていた。
 「…よぉ」
起きたあかねに気が付いた乱馬は、少し陰りの見える笑顔を見せた。
 「…乱――」
 「お前、そーとー眠れねぇ日々、送ってたんだな。もう昼だぞ?」
 「え゛?あぁあっ」
あかねが時計に目をやると、時間は既に昼の12時近く。曇り空だったから日も射さず、時計を見なければ今の時間が何時だかわからない。
あかねは乱馬に合えた安心感から、着替えを持ってやってきたかすみにも気付かず、夜が明けたのにも気付かず、スヤスヤと乱馬の手を握ったまま眠りこけていたのだった。
 「お前が起きたら退院します、って先生に言っといたからな。早いとこ着替えて来い。俺も松葉杖借りてくっから」
 「う、うん」
着替えをぽん、と渡して、乱馬は空いている隣のベッドを指差した。ベッドは一つ一つカーテンで仕切れるようになっているので、カーテンで仕切ってここで着替えろと言いたいのだろう。
あかねの着替えが終わりカーテンを開けると、乱馬はもう既にスタンバイ完了していた。
 「うし。じゃ帰ろっか」
 「あ、う、うん」

 「早乙女君、何かあったらまた来てね〜♪」
 「お大事に」
 「ああ、目の保養がぁ…」
たった一日の滞在で、乱馬はすっかり看護婦のアイドルと化してしまったらしい。四年の歳月は乱馬をすっかり大人にしており、乱馬は話し掛けてくる看護婦の一人一人にきちんと挨拶を返している。あかねはそんな乱馬を見て、胸の鼓動を早まらせながらも、漠然とした不安を覚えていた。
 (乱馬、さっきから全然嬉しそうじゃないよ…)
あかねは今日は一回も「乱馬の心からの笑顔」を見ていない。笑顔をすることはするが、どこか陰りの見える笑みばかりだ。最愛のひとである筈のあかねにすら、本当の笑みをまだ見せない。四年ぶりの再会、だというのに。
 (…あたしと会えたこと、あんまり嬉しくないのかなぁ…)
悶々とした思いを抱えたまま、あかねは乱馬に続いて病院の自動ドアをくぐった。



帰路。二人は無言だった。
乱馬は何かをじっと考え込んだような顔つきで黙って歩を進め、あかねはそんな乱馬に声をかけることが出来ずに、先程自分の心の中に生まれた疑問を、繰り返し悶々と考えていた。
ぽつ。
突然あかねの頬に水滴が当たった。空を見上げると、空には灰色というより黒に近い雨雲。
ぽつぽつぽつっ。
 「きゃっ、雨…!乱馬、どこかで雨宿りしないと――」
あかねが乱馬の方を見ると、さっきまでいた筈の乱馬はそこにはいない。
 「乱馬?」
あかねが辺りを見回すと、乱馬は少し離れたところにある空き地に佇んでいた。
雨を待ち望んでいたかのように、天を仰いでいる。呪泉郷帰りの為にその姿は男のままだが、あかねはわかりきったそんな事にも、少しドキッとする。
その表情からは、何の感情も見出すことは出来ない。ただ、天を仰ぎ雨に打たれている。
雨はどんどん勢いを増してきた。あかねは乱馬に駆け寄る。
 「乱馬、このままじゃあたし達、ずぶぬれになっちゃうわよ!早く、どこかの軒先にでも避難しないと…」
乱馬はまだ空を見つめている。
 「…俺は、水を被っても、もう女にはならねぇんだよな…」
掠れた声で突然、乱馬は呟いた。
 「…俺は、強くなる為に…四年間、ここを…あかねの傍を、離れたんだよな…」
 「…乱馬…?」
乱馬は、近寄ってきたあかねの目をじっと見据えた。その目には、いつもの勝気で自信に溢れた光は宿っていない。
 「…俺と一緒に事故に遭った女の子、知ってるか…?」
 「え、ええ。見たわ…ニュースで」
 「…そっくりだったんだ、あかねに…。泣いていたんだ、風船が…風に飛ばされて、木にひっかかった、って…」

――どうしたんだ?
――あ・あのね。おかあさんにもらったふーせん、かぜさんにとばされちゃってね。あそこ…
――あぁ、あの赤いヤツか。待ってな。…よッ、と。
――わぁ…!
――ほい。もう手ぇ、離すんじゃねーぞ?
――うん!ありがとう、おにーちゃん…!

 「…普段の俺なら、絶対に気付いていた…でも俺は、気が…緩んでいたんだ。もうすぐ、あかねに会える、って…」
乱馬は突然、あかねを抱きしめた。松葉杖がカラン、と乾いた音を立てて地面に転がる。
 「!」
 「…俺が、殺したも同じだ…俺なら、助けられた筈だった…っ」
あかねを抱きしめる乱馬の腕に、どんどん力がこもっていく。あかねは、雨粒とは違うあたたかな水滴が、身体に当たるのを感じた。
 「強くなる為に…四年もあかねの傍を離れたのに、目の前の命一つ助けられなくて…」
 「俺の何処が、強くなったって言うんだッ!!」
そう叫ぶと、乱馬はあかねを抱きしめていた腕をそっと剥がし、その場にうずくまった。雨に濡れていて良くはわからないが、その目は赤い。きっと、これ以上無いというくらいに涙を流しているのだろう。
乱馬の悲痛な叫びを聞きながら、あかねもいつしか涙を流していた。そして、目の前にいるこの男を、堪らなく愛しい、と感じた。
普段は強さしか周りに見せない男。だが、そのこころは今、ぼろぼろに傷ついて血のような涙を流している。

このひとは、強いひとだと思っていた。
あたしの力など、必要としないほど強いひとだと。
…でも、それはあたしの思い込みでしかなかったのだ。
このひとは、きっと誰よりも強い。
でも、きっと、誰よりも…弱いひとなのだ。

長い長い沈黙の後、乱馬が口を開いた。
 「…俺には、あかねの傍にいる資格なんて、無い」
あかねは乱馬を、ゆっくりと抱きしめた。その傷を癒すかのように。
 「…でも乱馬は、どんな時も…あたしを守ってくれたでしょ?」
乱馬の髪をゆっくりと撫でた。
 「…あたしには、乱馬が必要なの…それだけでいい。資格なんか…必要無いわ。ずっと、あたしの傍にいて…」
ぎゅ、と抱きしめた。
 「おかえりなさい、乱馬」
乱馬はその腕を、ゆっくりとあかねに回した。そのまま、徐々にその腕に力をこめていく。まるで、救いを求めるかのように。
 「…ただいま、あかね…」
乱馬は、まるで子供のように、声をあげて泣いた。


あなたはとても、強くて弱いひと。
だから、あたしはあなたを守ろう。
持てる力のすべてを使って。
あなたがあたしにしてくれたように、
あたしもあなたを、守り愛そう。
ぼろぼろの身体を、あたしに預けて。
あたしはその身体を抱きしめて、その傷を癒すから。
噛みしめるように、もう一度呟く。
 「おかえりなさい…」
あなたは、ここに、帰ってきたのよ。








作者さまより

私が愛してやまないCoccoさんの曲の一つ、「しなやかな腕の祈り」を聴いていたら思いついた話です。「激しすぎる故に歪んでしまう愛情」の歌を多く唄うCoccoさんですが、この曲は其れとは違った「優しい愛」を感じます。敢えて言葉を選ぶなら…「母性」というヤツ、なのでしょうか。
最初の作品では、まんま物語中に歌詞を引用していたのですが、さすがに其れは法律違反ということで(苦笑)改作の結果、こうなりました。でも、興味を持たれた方は原曲を聴きながらどうぞ。
「おかえりなさい」という言葉と「ただいま」という言葉。どちらも凄く、美しく優しい言葉だと思いませんか?

某美少女戦士(笑)を見て育った世代の者として、やはり乱馬にも「弱さ」はあり、「あかねが乱馬を守る」ことも無ければなぁ、と思うわけで。
ただ守られる者であるよりも、守る喜びを知るあかねであって欲しいと思ったのです。
で、乱馬の「強さ」はそのまま「弱さ」に変換されることもある、諸刃の剣であるということを描きたかったんです。
お互いに守り守られるイーブンな関係…素敵ですよね…(うっとり)

砂くじら 拝。


 実はこの作品、改訂版です。
 歌を最後にご紹介してくださったのですが・・・著作権法の関係でわざわざ書き直していただきました。
 ご存知の通り、著作権法では詩歌の引用は8小節以上はできないことになっているんです。
 お金を払えばいいのでしょうが、そういうわけにもいかず・・・。(結構高いらしい)
 でも、素敵に書き直していただいた次第です。埋もれなくてよかったと思っているのは私だけではないはずです。
 わざわざありがとうございました(ぺこ!)

 帰る場所があるのは幸せなことです。それが愛する人のもとであれば尚更に…。
(一之瀬けいこ)


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