◇5月の3日間   the last Day
いなばRANAさま作


 既に時計は真夜中を過ぎ、最も闇が濃く集う時間を差していた。町を覆う夜の帳もしかしこの部屋にわだかまる気に比べれば、薄いものに感じられただろう。

「婿殿、準備は良いな。」
「ああ、いつでも構わないぜ。」
 不敵な輝きがともる目。明りを落とした部屋の中でも炯炯と光を放つかのよう。コロンはうなづいた。
「先程も言った通り、おぬしがどれだけ自らの気を集め、送り込めるかが勝負の分かれ目じゃ。生半可な集中ではとても対抗出来ぬ。下手をすれば文字通り命取りになる。」
「俺はもう迷わねえ・・・あかねを助けられるなら何でもやってみせる。」
 姿は少女でも、その心は愛する者を救うべく戦いに赴く戦士の獅子の心。それを見て取るコロンの目に複雑な思いがよぎる。
「この技は女にしか使えぬ・・・おぬしの変身体質もとんだところで役に立ったものじゃ。・・・さあ、集中せい!」
 らんまはあかねの傍らに置かれたベッドの上で座禅を組むと、静かに気を集中させた。
「もっとじゃ、婿殿・・・破尸気を行うには総身の生気を振り絞らねばならぬ。それが出来るまでは気の道を開けるわけにはいかぬ。」
 らんまの周囲の空気がかっと熱くなる。
「むううう〜っ」
 あかねとらんまの中間の位置で、コロンは鋭い気を一閃させた。


 階下の待合室でただ一人ひっそりと待っていたのどかは、はっと顔を上げた。
「乱馬、ここが男の正念場・・・必ずあかねちゃんを助けて、戻ってくるのですよ。」
 
 そして・・・
「お母さん、あかねを守ってください・・・」
 仏壇の前でかすみはそっと手を合わせた。


「始まった・・・この先は何が起こるかわからぬ。右京、お前は帰った方がいいだ。」
 らんまたちの隣の病室。ベッドの上のシャンプーは大理石の彫像のように、白く冷たく横たわっていた。
「構へん。うちは全てを見届けたる・・・そう決めたんや。」
「ならばもう何も言うまい。」
 ムースはシャンプーの手を両手でそっと包み込みながら、静かに応じた。
「それよりムース、お前こそしゃんとせんと。また尸気なんぞに取っ付かれるんやないで!」
「わかっておる。おらがもっと早く気づいておればシャンプーをこんなことには・・・止めるどころか、利用されてしまっただ。」
「ほら、それがあかん。クヨクヨはなしや、シャンプーをしっかり支えたり!ええな!」

 ムースにはっぱをかけながら、右京は自分の心にも言い聞かせていた。

 シャンプー、必ず戻って来るんやで・・・うちはこんな結末は嫌や。これはお前が一番嫌っとった負けやないか!うちは負けたとは思わへん、乱ちゃんがあかねを選んだからといって・・・そりゃごっつうキツいわ、苦しゅうてどうにかなってしまいそうや!・・・せやけど一時はへこんでも、へこみっ放しにはならへんで!それが負けないということやないのか、シャンプー・・・




 白とも無色ともつかぬ世界・・・一瞬の意識の暗転の後、らんまは自分がそんなところに立っているのに気づいた。今の自分が生身ではないこともわかっていた。総身の生気を集中させ、コロンの開いた気の道を通って来たのだ。一種の幽体離脱とも言えるかもしれない。

『ここは・・・あかねの気の中なのか?』

 らんまは探るように辺りを見回す。と・・・

『!!!』

 どっと押し寄せてきた霧状のもの・・・黒く冷たい禍禍しい気の大渦

『出たな、尸気め!』

 辺りは黒い闇に閉ざされる。らんまは気を集束させ、研ぎ澄ます。この闇と戦って打ち払わなければ、あかねに、そして自分にも未来は無いのだ。

『コロンは言った・・・夜闇がもっとも濃くなる時、尸気も増大する。だがそれと同時に尸気の根本、中心も現れる。取り付いた相手を一気に死の闇へと引きずり込むために。そこを狙って叩けば、尸気を破ることが出来る。』

 尸気の中心、最も暗い闇の集うところ・・・どこだ・・・

 らんまからきらめく光炎が立ち昇り、黒い闇の中で不敵な挑戦のように輝く。そしてそれに呼応するかのように、少し離れた場所に小昏い気が集まり始めた。

『来た・・・あれか!?』

 闇よりもなお濃い気。それは段々と密度を増し、一瞬人型に集束し、ざっと弾けた。

『うぐっ』

 思いもよらぬ光の一閃。咄嗟に目をかばったらんまの前に一つの人影が現れた。

『お前・・・シャンプーか!?』

 固い面持ちで立つ少女。その瞳には冷たく哀しい光があった。



「生気と尸気は表裏一体・・・婿殿、おぬしが向こうで見るものはシャンプーの救われぬ心かもしれん・・・じゃがそれを心を鬼にしてでもそれを打ち砕かぬ限り、あかねは助けられぬ。」
 コロンはうなだれた。
「コロンさん」
「東風殿か・・・」
「乱馬くんにはわかっていると思います。これは戦いであって戦いでない。いくらあかねちゃんを助けるためとはいえ、シャンプーちゃんの心を砕くなど・・・破るべきは彼女の心を縛る闇なのですから。」
「シャンプーが使ったのは女傑族に伝わる奥義の中でも最大の、そして許されざる禁断の技。大変な掟破りじゃ・・・命を落としても仕方あるまい。」
「心の問題に掟は関係ありませんよ。乱馬くんだってそう思っているでしょう。」
「・・・かもしれんな。婿殿はわしら一族の掟など、一顧だにせんかったからの。」
「ええ、何であれ、縛られるのはすごく嫌うようですからね・・・他の人が縛られているのも。」



『シャンプー、もうこんなことは止めろ。こんなの、お前らしくねえ・・・』

 目の前にいるのは尸気の塊ではなく、シャンプーの心だ。らんまはそう確信した。

『このままじゃお前自身も危ねえ、自分の体に戻るんだ、シャンプー!』
『なぜ戻る・・・戻ってどうなる・・・』
『どうなるって、ここで死んだらどーにもならねーだろうが!』
『戻ったところで、私の心は死んだも同然・・・掟を守れず、乱馬を婿にも出来ず、そして固く禁じられた技まで使った・・・』
『それはお前のせいじゃねえ、俺が原因なんだから・・・だから自分を追い詰めるなよ、あかねまで巻き添えにすることはないだろう、な。』
 シャンプーはいきなり笑った。白い喉をのけぞらせて。
『やっと本音が出たな、乱馬・・・お前が助けたいのはあかねだけ。違うか?・・・さあ、遠慮することはないね、私を打ち砕く・・・そうすればあかねは助かる。お前の力をもってすれば簡単なこと。』
『出来るかっ、そんなこと!』
『また私を拒絶するのか、乱馬・・・』
『シャンプー・・・俺はお前を嫌ったわけじゃないんだ。ただ・・・俺にはもう・・・』
 らんまは苦しい口を開く。シャンプーの望みを絶ちたくはない。しかしその思いを受け入れることは出来ない。
『そんなの、わかってた。でも諦めたくなかった、まだついてない勝負を投げ出したくはなかった。はっきりしない乱馬の気持ち、いつかつかめるかもしれないのに。でも乱馬はあかねにペンダントをやった。二つの石を分け合って・・・だから分かった、私の望みは絶たれた。死んだ私の心は尸気を呼んだ。自分でも止められなかった・・・』
『俺はお前を責めないよ、そんな権利なんかねえ・・・でもお前が自分の心を止められなかったように、俺も自分の気持ちはどうしようも出来なかった。親にあてがわれた相手なんか真っ平だと思っていたのにな・・・シャンプー、俺は一回聞いてみたかった。お前が俺のことを好きになったというのは、掟のためなのか?掟じゃなかったら俺のことなど・・・』
『女傑族の女は小さい頃から強いものにあこがれて育つね。婿にするなら自分よりも強い男じゃないと嫌だと・・・だから乱馬に負けた時嬉しかった、やっと私を勝ち取る人が現れたと。』
『俺はその前にお前を一度負かしているんだ、女の姿で・・・その時は殺されそうになった。』
『それは・・・てっきり女だと思ったから。もしあの時男だとわかっていたら・・・』
『好きになれたのか?やっぱりわからねえよ、他のことならともかく、誰を好きになるかまで掟で縛られるなんて・・・!』
『乱馬は違うのか?許婚だからあかねを好きになったのじゃないのか?』
『違うっ・・・理由なんてわからねえ、気がついたらあいつのことばっか考えていた。きっと理屈じゃないんだ、人を好きになるわけなんて。あかねだってきっとそうだ。』
『乱馬、それを聞けたらもういいね。あかねを好きなら、何より大事なら出来るはず・・・さあ、終わりにするよろし!』
『やめろっ、俺はそんなことしたくねえっ!』


 らんまの頬を涙が一筋流れた。
「乱馬くん!?」
 東風は意識の無いはずのらんまの顔を覗き込む。そしてふと思い付いたかのようにらんまの手に、傍らで眠り続けているあかねの手を重ねた。
「東風殿・・・なぜ?」
 コロンの問い掛けに東風は軽く首を振った。
「理由はありません。ただ教えてあげたくて・・・すぐ傍にあかねちゃんがいることを。二人とも苦しい戦いを戦っているのですから。」



『私は敗者ね。乱馬が止めをさしてくれなくても、いずれ尸気が私を押し潰す。』
『そうじゃねえっ、掟ならそうかもしれんが、これは・・・気持ちの問題だろう、勝ち負けなんて無いんだ!』

 押し問答が続く。あかねを何としても助けたい、けれどもシャンプーを手にかける真似はしたくない。これは自分の蒔いてしまった種、そのために誰かを犠牲にするなど・・・
 尸気はその濃さを増す。残された時間がもう余り無いことを悟ったらんまは、焦りと自責の念の間で完全に行き詰まっていた。

『あかね・・・俺は・・・』
『さあ、乱馬・・・』

 苦い決断の時が近づく。


『シャンプー』

 さっと吹き抜ける風にも似た呼びかけ。

『誰?』
『あなたの本当の心を返しに来たわ。』

 穏やかな光が一人の少女を形作る。

『あかね・・・』


 あかねはそっとシャンプーに歩み寄る。
『シャンプー・・・あなたの尸気に囲まれているうちに見えたの。尸気はあなたの一部だから・・・生きる力を無理に闇に変えても、あなたの気持ちまでは変えられない。』
『何が見えたと言うの・・・』
『あなたは強くて誇り高い・・・でも本当は愛情深くてとても女の子らしい。心の奥底にいたあの娘を闇に閉じ込めないで。もう一度光の中に戻してあげて。』
『余計なお世話ね。それにもう戻せない・・・戻れない・・・』
 シャンプーは哀しげに首を振る。
『いいえ、その娘はまだ生きる望みを捨ててない。彼女は言ってたわ・・・強くて優しい乱馬が好きだって。力だけではなく心でも勝ち取ってくれたからって・・・掟だけで好きになったわけじゃないって。』
『それが・・・私の本当の気持ち・・・』
 シャンプーの顔に初めて哀しみ以外の表情が現れる。
『何かに強制されて人を好きになんかなれない、でしょう。それに誰も人を好きになるのは止められない。だって自分でもどうしようもないんだもの。』
『それは・・・でも』
『同じなの、誰の心でも・・・だから好きになった人に受け止めてもらえなくても、それは負けじゃない。それは苦しくてつらくて悲しい・・・でも誰が悪いわけではないの。』
『あかね・・・わかるのか?』
『ええ』
 あかねはきっぱりと言い切る。思いやりとも共感ともとれる柔らかな気が流れる。

『私を憎まないのか?死をもたらそうとした私に。』
『憎むなんて・・・あなたの本当の心に会えたのに。嫌いになれるわけが無い・・・もう一度あの娘に会いたいわ。だからもう闇を望まないで。』
『でも私にはもう何もない、掟も誇りも自分の手で・・・』
『勝負から降りるの、シャンプー?あなたなら戦い抜けるわ・・・そしてもう一度勝ち取ればいい。あなたを支えてくれる人はいる。コロンさんだって、ムースだって・・・あなたの本当の心を見せてあげて。あなたは強いんだもの、やれるわ。』
『あかね・・・お前も強くなった。尸気と戦いながら、私に希望を与えようとするなんて・・・自分が生き残りたいがために説得してるわけでないことくらい、わかる。お前は・・・そういう娘ね。』
 シャンプーはふっと目を閉じた。
『もうここにはいられない、理由がなくなってしまったから。本当に憎かったのは自分自身だったかもしれない・・・掟で心を縛ろうとしてきた自分の弱さに。私は戻る、そしてもっと強くなる。・・・あかね、私は勝ってみせる。そうしたらいずれまたお前と勝負したい。』
『勿論、受けるわ・・・あたしだって強くなって待ってるからね。』
 苦い憎しみは昇華された。二人の少女は互いを認め合った。弱さを含めて本当の自分を、本当の気持ちを見せ合ったことで。

 シャンプーはらんまの方を向いた。やや切なげな、しかしやっと何かから解放されたような静かな、まっすぐな瞳。
『乱馬・・・お前は最後まで優しかった・・・お前を好きになって良かった。』
『違う、俺は結局、お前を苦しめただけだった。』
『そうは思わない。最初に好きになったのが乱馬で、本当に良かった。』
 シャンプーは微笑んだ。虚空に向かって。やっとうたれた心の決着に満たされたように。

『再見、乱馬、あかね・・・』
 辺りを覆う尸気が闇の色を脱ぎ捨てていく。見えない光がそれに取って代わる。そしてシャンプーを慕うように集束し、その姿ごと静かに去った。


『シャンプーは・・・戻っていったわ。もう大丈夫。』
 あかねは穏やかに微笑みかける。
『あかね・・・済まない、俺のせいなのにお前を巻き込んで・・・』
『自分を責めないで、誰のせいでもないの。そうじゃなければ、好きになったことが間違いだってことになるわ。』
『違う、俺の優柔不断がお前にこんな災難をもたらしてしまったんだ。』
『誰かが誰かを愛すれば・・・愛してもらえなかった人にとっては痛みとなるのよ。それは避けられないの。』
『あかね・・・お前を助けようとしたのに、結局お前に助けられてしまった。』
『知らなければ分かり合えない痛みもあるの。・・・ふふっ』
『ど、どうしたんだ、いきなり笑って・・・』
『だって・・・それがわからなかったってことは・・・これが初恋、なんでしょ。』
『え゛』
『じゃあ・・・一生・・・わからないかもね・・・』
 あかねはふっとよろけた。
『あかねっ、どうした!?』
 らんまはあわててあかねを抱きとめる。
『うん、ちょっと・・・疲れたのかな。眠くなって・・・きちゃった。』
『眠くって・・・まさか!!』
 冷たい恐れが再びらんまを走り抜ける。
『違う・・・大丈夫よ・・・でも、少し眠らせて・・・』
『あかね、あかね・・・お前にもしものことがあったら、俺はきっと耐えられねえ。だから・・』
『心配しないで・・・また必ず・・・会えるから・・・』
『あかね!!』
『さあ、乱馬も戻って・・・もう夜は終わったの・・・』
『また・・・会えるよな、絶対だぞ。』
『勿論よ・・・ピアスを・・・手放さないでね、約束よ・・・』
『わかった』
『おまじない、だよ・・・』
 実体はなくても、暖かで優しい気がその瞬間、唇を甘やかに包んだ。
『また会おうね・・・乱馬・・・』

 らんまの目に最後に映ったのは、柔らかな光の中で目を閉じたあかねの顔に浮かぶ安らかな微笑みだった。




「・・・終わったようじゃな。」

 コロンは肩の力を抜いた。凍れる炎のような気は今はもう感じられない。
「そうですね。」
 あかねとらんまをざっと診た東風もほっとした様子で応じた。座禅を組んだまま意識の無いらんまの手足をそっと伸ばし仰向けに寝かせると、東風はコロンの方へ振り返った。
「シャンプーちゃんの方を見てきます。強い気・・・生気の流れを感じましたから、きっと助かりますよ。乱馬くんはやり遂げたんです、闇の中から二人を連れ戻したんですよ。」
「そうじゃな。」
 東風は静かに部屋を出ていった。

「本当に大した男じゃ、婿殿・・・破尸気を使いこなしたばかりでなく、尸気を放ったシャンプーまで助けおるとはな。・・・じゃがもうおぬしを婿に迎えることは適わぬ望み。シャンプーは許されぬ掟破りをやってしまった・・・もはや日本に留まるわけにはいかぬ。」
 コロンは清浄な眠りの中にいるらんまとあかねに目をやった。二人の手はまだ重ねられたまま。
「女戦士が余所者に敗北した場合、相手が男ならば婿にすべし・・・それがわしらの掟じゃ。だがわしらの間ではこうも言われておる・・・運命の絆には逆らうなかれ、と。運命の見えざる手はおぬしの前にあかねを置いた、疑う余地もなく・・・」
 つと傍らのポットを取ると、コロンは用心深く中身をらんまに注いだ。たちまち少女は少年へと姿を変える。
「この方が気の回復は早かろう・・・わしからの餞別じゃ。さらばだ、婿殿・・・もうそう呼ぶこともあるまい。」

 扉が閉まる。後に残されたのは寄り添うように眠る少年と少女。


 夜明けはすぐそこまで来ていた。



 to the next・・・Epilogue

 written by "いなばRANA" 




作者さまより

Bitterです・・・誰にとっても。私の中ではシャンプーちゃんはこんな決着をつけるのではないかと、思ってきたところがありました。彼女の場合は単なる失恋では済まないので。表現力不足でうまく伝えられなかったのですが、強くあること、誇り高くあること、そして勝つことを至上としてきたシャンプーちゃんにとって、敗北感は堪え難いものでしょう。そこから何かを学ぶ間もなく絶望へと駆り立てられる・・・尸気というのはそこから発想を得ました。人の中には生きる力と死へ向かう力の両方が確かに存在するのですから。

 実はもっと苦く哀しい展開も考えていましたが、結局らんまキャラがみんな好きな私には出来ませんでした。あかねちゃんの優しさと包容力に助けられたのは私も一緒です。挫折から立ち直り、新たな拠りどころを得た人は本当の意味で強くなれるのかもしれません。


Copyright c Jyusendo 2000-2005. All rights reserved.