◇ディスペル
いなばRANAさま作


 乱馬はアイボリーに塗られたドアの前で少々ためらうように、ノックしようとした手を止めた。

『生物学準備室』

 ドアプレートには素っ気無い文字でそう記されている。

トントン
 意を決して乱馬はノックした。
「はい、どうぞ」
 穏やかな声が応じる。
「失礼します。」
 乱馬が入っていくと、広いとはいえない準備室の本棚に囲まれた机から、まだ若いが、落ち着いた感じの男性が立ち上がった。今年度から風林館高校で生物と地学を担当することになった教諭。来生八雲(きすぎ やくも)という。一見して気のいいお兄さん、といった感じの風貌と穏やかで面倒見のいい人柄で、生徒たちの間では人気の高い先生である。
「わざわざすまないね、早乙女くん。狭っ苦しいところだけど、外に出ようか?」
「いえ、ここでいいです。」
「そう・・・じゃあそこに掛けて。積んである本に気をつけてね。」
 狭いスペースにやっと、という感じで置いてある丸椅子に乱馬が腰をかけると、ちょっと奥まったところで何やらカチャカチャやっていた来生が戻ってきて、乱馬の前にコーヒーカップを置いた。
「あ、どーも・・・」
「いーの、いーの・・・丁度僕が飲みたかったところだから。早乙女くんも付き合ってね。」
 そう言って穏やかに来生は微笑む。凡そ仲の良い先生など無かった乱馬だったが、授業中の居眠りにも「僕の教え方に問題あるのかな」と応じられ、出来の悪い課題を提出しても「ちょっと手を入れればいいよ」と辛抱強く手直しに付き合ってもらったりしているうちに、次第に来生に心を開くようになってきた。
 そうなると「世話になってるせんせーにめーわくはかけられないな」とばかりに授業中の態度も良くなり、来生の担当教科に関しては乱馬の成績は中の上。他の教師たちの度肝を抜いた。おかげで教師の間でも来生は一目置かれる存在である。

 しばし出されたコーヒーをすすった後、乱馬は重い口を開いた。
「先生、この前訊いたことだけど・・・」
「うん、僕なりに調べてみたよ。」
 来生はコーヒーカップを置くと、机の上のファイルを広げた。FAXの紙やら文献をコピーしたと思しき紙類がぎっしりはさんである。
「最初に言い訳させてもらおうかな。残念ながら専門外だし、事情をぼかして訊いたからね。決定的な手がかりはつかめなかったんだ。」
「そうですか・・・」
「いくつか仮説を立ててみたけど、仮説は仮説だからね。あまり迂闊なことは言いたくないんだ。君には大きな問題だからね・・・その、変身体質は。」
「ちゃんと考えてくれるだけマシですよ。面白がるやつや気味悪がるやつもいるし。」
「白状すると僕も興味津々だけど。でも、だからこそ正面からきちんと扱いたいんだ。曲がりなりにも生物学を修めてきた身としてはね。」
「少しでもわかったことがあるなら聞かせてくれ。些細なことでもいいんだ。何でもいい、手がかりになるようなことなら・・・」
「そうだね。ちょっと難しい話もあるけど、頑張って聞いてくれるかな。」
 ファイルからいくつか資料を取り出すと、来生は説明を始めた。
「まず君からもらった髪の毛を知り合いのつてでDNA鑑定に出してみたんだけど、これは失敗だったよ。作業工程で全部女の子のものに変化しちゃったから。でもこれでわかったよ。君の変身は遺伝子レベルにまで及んでいることがね。」
「遺伝子レベル・・・じゃあ俺のこの体質は・・・遺伝、するのか・・・」
 乱馬の顔から血の気が引く。自分の変身体質が遺伝するかどうか、以前から薄々恐れていたことだったが、生物の時間に様々な遺伝パターンを学ぶうちに、居ても立ってもいられずこっそり来生に自分の変身体質について相談したのだ。勿論あかねには内緒だ。来生にも他言無用と強く念を押している。信用してないわけではないが、来生はあかねや、その友人たちとも仲がいいのだ。

「結論を急いじゃいけないよ、早乙女くん。まだ何もわかってないに等しいんだから。人の遺伝子の分析だってこれからの分野だからね。こちら側からのアプローチは時間がかかるだろうし。それで並行して呪泉郷の方も調べてみたけど・・・」
「え?そこまで・・・」乱馬ははっと顔を上げる。
「うん、だってこれも必要だろうと思って・・・いやぁ、こっちは参ったね。公式には呪泉郷なんて無いっていうんだから。逆に調べる理由を根掘り葉掘り・・・」
「そ、それで大丈夫なのかよ、先生は?」
「ちゃんとカバーストーリーは用意しておいたよ。それに調べているうちに、面白い知り合いもたくさん出来たしね。猫飯店のお婆さんやら呪泉郷のガイドさんやら・・・」
「せんせーって、案外しっかりしてんなあ。」
「伊達に君より長く生きてはいないよ。ともかくもう少し時間がもらえると有難いけどね。これでは問題の解決どころか、余計な心配ごとを君に植え付けそうで。」
「へーきへーき。いざとなれば中国行ってもう一回男溺泉に入ればいーんだからさ。」いつもの自信家ぶりが顔を覗かせる。
「その意気だよ。それでちょっと思い付いたことがあるんだけどね・・・といっても何の資料的裏づけもないんだけれど。」
「構わねーから聞かせてくれよ。意外にいいとこつくかもしれねーしさ。」
「どうかな?・・・君の話では呪泉郷は武道の修行場ということだったね。でもこれでは鍛錬どころか・・・確かにもっと危険な修行場はあるだろうけど。考えてみればみるほどおかしな修行場だと思えてね。」
「それは俺も・・・命がけの修行と意気込んでみれば、男を捨てる羽目になったし。いや、男どころか人間捨てかねないからな。」
「こう考えたらどうだろう。あそこは肉体的修行もさることなら、精神的修行の場ではないかとね。」
「精神的修行?いまいちピンとこねーなあ・・・」
「戦闘機のパイロットや特殊部隊などの訓練で、わざと精神的に高負担をかけてやるものもあるそうだ。呪泉に落ちたら変身してしまう・・・それだけでも大変なプレッシャーになるし、変身体質になったら・・・日常的に高いプレッシャーを抱え込むことになる。」
「・・・考えたこともなかった。スチャラカな修行場とばかり・・・言われてみれば確かにそうだ。」
 乱馬は思わぬ指摘に考え込む。もしそんな場所だと知っていたら、果たして自分は修行出来ただろうか。

「話ついでにもう少し考察を進めてみようか。呪いのせいだそうだね、変身するのは。」
「そう、だけど・・・確かに変な呪いだよな。ふつーは不幸になるとか・・・まあ、これも一種の災難だけど。」
「昔話にはよくある呪いだよ。解き方はあまり参考にならないけどね。呪いを病気に例えると、治すためには治療・・・薬を飲むとか・・・するか、自分の力で撃退するか・・・自己治癒能力だね。」
「この場合は男溺泉に入るっつーのが治療で、自力で何とか?・・・は思い付かねーなぁ」
「僕の意見だけどね、それは呪泉が課す精神的圧力に打ち勝つことではないかと思うんだ。そうすれば呪いは昇華される、あるいは制御出来るようになるのかもしれない。」
「精神力で乗り越えろってことか・・・んなこと出来るかって・・・ん、待てよ!」
「何か思い当たることでもあるのかい?早乙女くん」
「ああ・・・かなり前だが、呪泉郷の風紀委員なんて奴らが来て、根性で変身しないようになれってめちゃくちゃシゴかれたんだ。そん時は何をバカなことをって思ったんだけどよ、これは・・・ひょっとするかもしれねーぜ!」
「少しはお役に立てたかな」
「ああ、勿論だ!恩に着るぜ、先生。」
「それは良かった・・・後でもう少しきちんとまとめた資料あげるからね。何だか研究論文書いてるようでわくわくするよ。・・・ああ、これは失礼。きっと嫁さんにも呆れられるかな、こんなことじゃ。」
「てへっ、おのろけかい」
「おやおや・・・実を言うとね、呪い云々の話は彼女の発想なんだよ。君には悪いけど、学校以外のことで調べ物をしまくっていたら不信がられてね、白状させられたんだ。」来生は照れたように頭を掻く。
「ちぇっ、だらしねーなあ・・・いいさ、結果オーライってことで。奥さんにも礼言っといてくれよ。」
「喜ぶだろうなあ・・・世話好きだから。ところでね、嫁さんにこう聞いてみたんだ。もし僕が君のような変身体質だったらって。」
「へえ・・・で、何て答えたんだ?奥さん」
「ははは・・・変身してもあなたには変わり無いでしょうって。」
「・・・へーへー、ぐぉちすぉうさま!」
「まあ、そう言わないで。蛇や虫に変身するんだったら追い出す!とも言われたんだから。」
「女ってはっきりしてるよなー・・・じゃあ先生、俺はこれで。ありがとうございましたっ!」
 入ってきた時とはうって変わって元気に乱馬は飛び出して行った。その様子を来生は微笑ましげに見送る。


「やっぱあの先生、すっげーいいやつだぜ。思い切って相談して正解だったな。」
 人に弱味を見せたがらない乱馬としては、悩み事を他人に相談することなど空前絶後の決断だったが。
「変身してもあなたには変わり無い・・・か」
 変身した自分を見てそう思ってくれる人間がどれだけいるだろうか。

『乱馬は・・・変身したって乱馬だよ。』
 ふと耳の中を駆け抜けて行く澄んだ声。

 あかね・・・そうだな、お前がいるんだ。俺には・・・


「来生先生」
「ああ・・・天道さん、何かな?」
 準備室を出たところで、来生はあかねに声を掛けられた。
「乱馬が出て行くのを見かけたんですけど、またご迷惑を・・・」
 やや心配そうにたずねるあかねに、来生は穏やかな微笑を向けた。
「そうじゃないよ。ちょっと質問をね。」
「乱馬がですか?」あかねは目を丸くする。「珍しいこともあるんですね。」
「おやおや、それはちょっと・・・早乙女くん、最近はきちんと授業聞いてくれてるし、成績も上がっているよ。」
「それは先生の教科だけです。・・・それだけでも自分でやってくれてるのは助かりますけど。私、理数系って苦手で。」
「じゃあ早乙女くんに見てもらったら・・・しっかり教え込んでおくから。」
「先生ったら・・・そ、そこまでは困ってません!」
 きっぱりとした口ぶりとは裏腹に頬を染めるあかね。来生は勿論、乱馬とあかねをめぐる事情を知っていたが、求められない限り余計なことは言わず二人を静かに見守っている。
「天道さん、それは図書館で借りたの?ファンタジーだね。」
 あかねの抱えているずっしりした本に、来生は目を止めた。
「ええ・・・試験も終わったし、ゆっくり読もうかな、と思って。でも先生、よくご存知ですね。これがファンタジーだって。」
「嫁さんが好きでね。おかげで僕まで詳しくなったんだ。」
「まあ先生、仲がおよろしいことで。」
「あいた・・・そんなつもりはなかったんだけどね。」
 穏やかに笑う来生に、あかねはちょっとばかり羨ましさを感じる。人生の伴侶に対する深い愛情を、さりげなく言葉の端々にうかがわせる様子に。

「ファンタジーといえばね・・・早乙女くんはその中の登場人物みたいだね。」
「え?・・・先生、それは乱馬の変身・・・」
 あかねの笑顔は一瞬にして消える。
「呪い、だそうだね。変身を扱った物語は世界中にたくさんあるけど、その本も確か変身譚だね。」
「ええ・・・」
「天道さんは優しい人だ。」
「はい?」
「探しているんだね、呪いを解く方法を。悩んでいる人は放っておけないようだし。」
「へ、変身体質が治れば騒動になることも減ると思って。でも、物語は所詮、物語みたいで・・・悪い魔女もドラゴンも、呪いを解く魔法も現実にはあり得ないですから。」
「魔女やドラゴンはともかく、魔法は無くも無いよ。」
「まさか・・・理数系専門の先生が。」
「そう?・・・でも専門が専門だから生命の起源なんて考えることがよくあるけど、僕にはね、命が魔法のように思えるんだよ。」
「大胆だけど、素敵な意見ですね。」
「ここだけの話だよ。もっと身近なところでも魔法はあると思う。人と人が出会い、惹かれあうこと・・・僕にとってはまさに魔法だったね。」
「やだ、先生ったら」
 あかねはくすくす笑う。でもそうかもしれない、と心の中でそっとうなづく。乱馬に出会ったこと、そして猛反発しながら、それ以上の強さで彼に惹かれていること。確かに性質の悪い魔法だ。どんなにあがいても解ける見込みはない、というより解けてほしくない。
「ファンタジーでは呪いをかけられた人々はたくさん出てくるけど、呪いを解く方法も必ずある。きっと見つかるよ、早乙女くんのためのディスペルも。」
「ディスペル・・・解呪ですか。」
「さすがに詳しいね。」
「雲をつかむような話ですけど、あたし、もっと探してみます。・・・何だかあたしまでファンタジーの登場人物になったみたい。」
「それはいい・・・何か僕に手伝えることがあったら遠慮なく言ってね。」
「ええ、先生・・・それじゃ」
 軽やかな足取りで立ち去る春風のような少女。その瞳には希望の星を宿し、大切な人のために果てしない探索(クエスト)へと旅立つ。
「たまにはそんなお話があってもいい・・・お姫様が自分のナイトのために頑張るような、ね。」
 あるいは二人の力が合わさって、初めてディスペルは完成するのかもしれない。愛する人のためにも絶対に呪いを解こうとする強い意志と、呪いから大切な人を助けたいという深い愛情と・・・

「この世界が味気ないだなんて誰にも言わさないよ。だってこんなに素敵な物語が目の前で展開してるんだから。結末は・・・ありがちだけど、僕としてはやっぱりこれかな。」


 They lived happily ever after・・・



 end of the story

 written by "いなばRANA"


作者さまより

 拙筆者あとがき

 何だか久々の投稿のような・・・(汗)この話も突発ですが、何で浮かんだのやら(ぉ)考察系が入ってますが、はっきり言って消化不良もいいところです。生物って専門外ですから(滝汗)オリキャラが狂言回しのつもりで出したのがつい・・・ちょっとタイプなもので(ぉ)こーんな先生、いたらいいですね(いや全く)
 ファンタジーと広義で呼ばれるような話は学生時代に読み漁りました。まあ広く浅くで(笑)意外とめでたしめでたしで終わるものは少ないですね。でもらんま的ファンタジーの結末はきっと・・・

 生物学の先生って私の場合、本物の骸骨(人骨です、なんであんなものが学校にあったのか知りませんが)を嬉しそうに傍らに置いて講義していた今は亡きK先生のイメージが強いです。骸骨は西ドイツ産で軍人さんのものだという事でした。
 ディスペル。これも突き詰めてゆくととんでもない膨大な作品になりそうですね。(なんかこういう歯に衣着せた言い方って…。)
(一之瀬けいこ)

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